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ほら、天から声が聞こえるよ

2022年9月11日

川崎 公平
マルコによる福音書 第1章9-11節

主日礼拝

■主の日の礼拝において、マルコによる福音書を読み始めました。福音書が語ることというのは、実は結局はたったひとつのことでしかないので、特にこのマルコによる福音書は、そのことを冒頭の言葉で明らかにしています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これは、先週の礼拝でも申しましたが、本文と言うよりは、福音書全体に先立つタイトル、表題のようなものです。ここに、福音が始まったのだ。神の喜びの知らせが、ここに始まるのだ。そこで福音書が伝えることは、「神の子イエス・キリスト」のことでしかない。けれども、このイエス・キリストという人がどういうお方なのかということは、考えれば考えるほど不思議なものがあると思います。

ガリラヤ地方のナザレという村にお育ちになって、そこで父親のヨセフの家業を継ぐような形で、大工の仕事をなさったようです。およそ30歳になるまで、そのような生活をなさったのです。しかもそのナザレの大工としての生活は、神の子キリストの生活として、ひとつも矛盾のない生活であったのです。誰にも知られることなく、主はナザレの村で、他の家族たちや村人たちと一緒にそのような30年間を過ごされました。そのことひとつとっても、たいへんに不思議なことです。

ところが、今申しましたように主が30歳になるころ、遠くの荒れ野から不思議な声が聞こえてきました。洗礼者ヨハネと呼ばれる人が現れて、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)というのです。それを聞いて、主は立ち上がり、9節に書いてあるようにガリラヤのナザレから出て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになりました。なぜそんなことをなさったのでしょうか。そもそも、なぜマルコ福音書は、主の洗礼のことから話を始めるのでしょうか。今朝は特にこの9節から11節まで、主イエスの洗礼の記事について、たいへん短い箇所ですが、聞き取るべきことを聞き取っていきたいと思うのです。

■何と言ってもここで不思議なことは、ここで主イエスが洗礼をお受けになったという、その事柄自体がいちばん不思議なのであります。なぜかと言うと、ここでヨハネが宣べ伝えていた洗礼とは、罪の赦しを得させる、悔い改めの洗礼であります。主イエスにも、悔い改めなければならない罪があったのでしょうか。30年間も世俗の生活をしていれば、いくら神の子でも罪深いことをしたり言ったり考えたりしたということでしょうか。もちろんそんなことではありません。このお方には、ひとつも罪がありませんでした。ですから、マタイによる福音書の方で同じ主イエスの受洗の記事を読みますと、主イエスのお姿を認めたヨハネがたいへん慌てまして、とんでもない、あなたはわたしの洗礼なんか受けるべきではありません、わたしはあなたさまの履物のひもを解く値打ちもありません、わたしの方こそあなたから洗礼を受けなければならないんじゃないですか、と一度は洗礼を断っています。そういう経緯を伝えないマルコの書き方は、だからと言ってその出来事の不思議さにおいて、何も変わることはありません。洗礼を受けるはずのないお方が、ヨハネから洗礼をお受けになった。しかもマルコは、まさしくここから、神の福音が始まるのだと信じてこのことを伝えるのです。

この不思議さを、もう少し別の面から見てみると、こういうことにもなると思います。先ほども申しましたように、それまでは、田舎の村のしがない大工であったのです。別に大工を馬鹿にするつもりはありません。実は私の弟も地元の工務店で大工をしております。牧師と大工という、変に聖書的な兄弟なんですが……。主イエスもまた、もちろんユダヤ人としての宗教教育のようなものは受けておられたでしょうが、片田舎に育ったふつうの肉体労働者です。それまで、他の村人たちと何ら変わるところのない生活をなさっていたナザレのイエスが、洗礼者ヨハネの声を聴いて、突然、「おれ、神の子だから、行かなくちゃ」というようなことを、どこでお考えになったのでしょうか。主イエスと父なる神との間に、誰も知ることのできないやり取りがあったに違いないのです。「わが子イエスよ、ヨルダン川でヨハネという人が洗礼を授けているのを知っているだろう。お前も行って洗礼を受けなさい」。「お父さん、分かりました。でも、なぜですか」。「お前は、あの人たちの仲間になるのだ」。

繰り返しますが、罪のないお方であります。ヘブライ人への手紙第4章の最後のところを読みますと、このお方はわたしたちと同じように、ありとあらゆる試練を受けた。罪は犯されなかったが、ありとあらゆる罪の誘惑を受けたのだ。だからこそ、わたしたちのどんな弱さにも同情してくださることができるお方なのだ、ということが書いてあります。そういう神の子イエスが、ヨハネのもとで、罪のない方が罪人の群れの中に立ち交じって、洗礼を受けたのです。そこから、神の子イエス・キリストの歩みが、本格的に始まったのです。それは、確かな神のご計画に根ざすことでした。

この神の確かなみ旨、つまり神の主イエスに対するご委託の確かさを示す言葉が、10節にはこう書いてあります。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(10節)。ここは注意深く読んでいただきたいと思いますが、そういう不思議な光景を、ヨハネや、周りにいた人びとが見てびっくりしたというのではないのです。「御覧になった」と書いてありますように、これを見たのは主イエスただおひとりです。さらに11節には、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と書いてありますが、これも誰もが聞こえるような大音響でそういう声が響き渡ったというのではないでしょう。こういう声を聴いた群衆が皆圧倒されてしまって、皆びっくりして主イエスの前にひれ伏した、なんてことはひとつも書いてない。主イエスがただひとりで、静かに聞き取ってくださった天の声です。

そして、これは想像でしかありませんけれども、のちに主イエスが弟子たちをお招きになり、一緒に生活をなさりながら、いくつも大切なことをお話しになったに違いないのですが、その中でもいちばん大切なことのひとつが、主イエスご自身が洗礼をお受けになったことであったと思います。言ってみれば、弟子たちは、天の裂け目から垣間見えた神の秘密を、主イエスを通して共有させていただいたのです。そこから神の喜びの知らせが始まったのだと信じて、マルコもこれを書き記すのです。

■さてそこで、福音書が私どもに伝えてくれる天の声は、このように書いてあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この天の声がいったいどういう意味を持つのかということを考えるときに、どうしてもいくつかの旧約聖書の言葉にさかのぼらないわけにはいきません。なるべく簡潔にお話ししたいと思いますが、ひとつは先ほど皆さんとご一緒に読みました詩編第二篇です。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」と書いてありました。少し批判的というか、客観的に聖書を読もうとする人は、別に天から声が聞こえるわけがない、主イエスが洗礼の時にふとこの詩編の言葉を思い出されただけだ、と言うかもしれません。けれども本当はそうではないのであって、主イエスは、この詩編の言葉を、真実に神からの語りかけとして受け止めておられたのです。「あなたはわたしの愛する子」。この詩編はもともと、王の即位の歌と呼ばれることもあるもので、イスラエルに新しい王が立てられるときに、この歌が歌われました。ここでは、神ご自身が地上でみわざを行うために、新しい王をお立てになって、その新しい王に対する神の喜びの言葉が、「あなたはわたしの愛する子」と、このように語られているのです。

こののち主イエスが神の子として、神のご支配を地上に打ち立てるためにさまざまな戦いをしなければなりませんけれども、その主イエスの働きを支え続けたものは、「あなたはわたしの愛する子」という、この神の愛の言葉でしかなかったのであります。詩編第二篇をよく読んでみますと、なかなか激しいことも書いてあります。「お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」。しかしこれも王の仕事なのでしょう。ところが主イエスというお方は、もちろん神の子として激しい戦いをなさったわけですが、結局は一度も鉄の杖を振り回すようなことはなさいませんでした。よくご存じの方も多いように、最後にエルサレムにお入りになったときにも、馬に乗る代わりに、小さなろばの子にまたがりながら、人びとに迎えられたのです。そのような主イエスの武器となったのは、もう一度申します、「あなたはわたしの愛する子」という、この神の愛でしかなかったのです。どんな武力にも頼らない。どんな暴力にも訴えない。神の子イエスの支えとなったのは、神の愛だけ。そのような主イエスの戦いというのは、それが実は最後には、どんな鉄の杖も打ち勝つことのできなかった、死の力を打ち砕くという勝利に終わったのであって、それもすべて、神の愛だけを支えにした戦いであったのです。その主の勝利が、今私どもをも生かすのです。

■しかし、もうひとつ、この主イエスの洗礼の出来事の背景にある旧約聖書の言葉があります。それが先ほど朗読したイザヤ書の第42章です。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」(1節)。ここは少し言葉の説明が必要なのですが、聖書の原文では、「(愛する)子」と、イザヤ書に出てくる「僕」という言葉が、たいへん深く重なるのです。神の子であり、神の支配をゆだねられた王であり、しかもだからこそ、神に対して僕として仕え抜く者、このわたしの僕を見よ、と言うのです。神の僕、神の奴隷ですから、ただ神のご計画に従い、まるでご自分の意志などはないかのようにこれに服従するのです。

私どもはこれから2、3年かけてこの福音書を読んでいくわけですが、もしかしたら何度でも、このイザヤ書の言葉に戻って行かなければならないかもしれません。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」。主が十字架につけられる前の晩、ゲツセマネという場所で祈りをなさいましたときに、弟子たちがいぶかるほどにこのお方は恐れ、もだえながら、「何とかしてこの苦しみを逃れさせてください、けれどもわたしの願いではなくて、ただ御心のままに」と祈られたのですが、まさしくそこには、神に愛された神の子が、神のご支配を打ち立てるために、だからこそ、徹底的に神の僕として、神のみ旨に従うための悲痛な戦いをしておられる姿が描かれているのです。罪のないお方が、罪人の真ん中に立ちながら、たったひとりですべての人の罪を背負って苦しみ、もだえておられる。主イエスの洗礼の出来事は、遂にここまで行き着かなければならなかったのであります。そのお方を見よ、とイザヤは言うのです。

ヨハネが罪の悔い改めを求めて洗礼活動を始めたとき、無数の人びとがユダヤ全土から、まるで何かの熱に浮かされたようにぞくぞくと集まってきたというのですが、その人たちの悔い改めというのが、果たしてどれほど真実なものであったか、疑おうと思えばいくらでも疑えるのであります。なぜなら、私どももやはり同じように悔い改めて、洗礼を受けたにもかかわらず、結局少しも神のみ旨に従おうとはしないからです。けれども大切なことは、そんな私どもの中に立ち交じるようにして、主イエスが神の僕として洗礼を受けてくださって、最後まで僕としての歩みを貫いてくださったという、この事実であります。

■このお方の歩みを預言して、イザヤはこう書くのです。

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
(2、3節)

葦とか灯心とか、もはや私どもの日常生活からは消えてしまったものですが、それでも意味はよく分かると思います。ぼろぼろに折れてしまった水草のような、今にも消えかかりそうなろうそくの芯のような、誰が見たって何の価値もない、いっそのこと捨ててしまえ、消してしまえ、というのは実は私ども自身のことでしかないのです。ところがこの神の僕は、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく」。そのような救い主が与えられているということこそ、私どもに無限の勇気を与えることではないでしょうか。

ふだんは偉そうな顔をしている私どもですが、本当は誰もが、親にも兄弟にも言えないような罪の闇を抱えているものです。ヨハネのもとに無数の人が押しかけたというのは、そのひとつの証拠であるのかもしれません。実は、皆どこかでヨハネのような人を待ち望んでいたのです。自分は、悔い改めなければならないとどこかで気づいているのに、何をどうしたらいいのか、さっぱり分からなかったのではないかと思うのです。ヨハネが申しましたことはただひとつ、「悔い改めなさい」ということでした。これは先週の礼拝でもお話ししましたが、「帰って来い」ということです。しかも帰って行った先に待っておられる神の僕のことを、イザヤはこのように証しするのです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」。「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく……」。

何年か前に、大嶋重德先生という方をここに招いて、説教と講演をしていただいたことがありました。特に若い人たちに福音を伝えるために、という明確な志をもって献身しておられる先生ですが、ある書物の中で、こういうことを書いておられます。特に若い人たちを相手にした話ですが、結婚とか恋愛とか、あるいはその根本にある性欲の悩みというのは、実はなかなかに深いものがある。そこで大切なことは、絶対に自分のことを裁かない同性の友に祈ってもらうことだ。大嶋先生自身が、そういう友に支えられたからこそ、祈ってもらったからこそ、過ちを犯さずにすんだと書いておられます。絶対に自分のことを裁かない同性の友というのはつまり、自分と同じ悩みを一緒に悩むことができるということでしょう。その弱さに心から同情することができる友を見つけて、祈ってもらいなさい。

私はその大嶋先生の文章を読みましたときに、改めて感じ入ったことがあります。「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく」。なぜ主イエスはそうなさったのでしょうか。こんな罪人は捨ててしまえと、なぜおっしゃらないのでしょうか。私はこう思うのですが、主イエスというお方は、絶対に私どものことを裁かないで、私どもの罪の悩みを、誰よりも真剣に悩んでくださる。というよりも、私どもが自分の罪について悩むよりも、主はもっとずっと深く、私どもの罪のために悩んでおられるのです。私自身が実は悩んでもいないような罪のために、主イエスは悩んでくださって、しかもその悩みは、他人事としての悩みではないのです。私どもがしばしば他人の罪を裁くのは、それが他人事だからでしょう。「ええ? 信じられない! 考えられない!」 そう言って、自分では一度も罪を犯したことがないかのごとく、人を裁くのです。けれども、主イエスは決してそんなことをなさらない。最初の方で紹介した、ヘブライ人への手紙第4章が書いている通り、このお方は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。そのお方を見よ、とマルコによる福音書は、罪人のただ中で洗礼をお受けになった主イエスの姿を証しするのです。

■最後に、もうひとつのことに触れたいと思います。主イエスが洗礼をお受けになると、「天が裂けて」と、考えてみると非常に不思議なことが書いてあります。そこで多くの人が思い起こすのは、やはり旧約聖書イザヤ書の第63章の最後の言葉です(19節)。

どうか、天を裂いて降ってください。
御前に山々が揺れ動くように。

「どうか、天を裂いて」というのは、明らかに嘆きの祈りです。天が見えないのです。天が閉じられていて、神が見えないのです。そこで呻くように、預言者は祈る。「どうか、天を裂いて降ってください」。この言葉は、おそらく少なくとも15節から読むべきものです。このような嘆きの言葉が綴られていくのです。

どうか、天から見下ろし
輝かしく聖なる宮から御覧ください。
どこにあるのですか
あなたの熱情と力強い御業は。
あなたのたぎる思いと憐れみは
抑えられていて、わたしに示されません。

このような言葉について、もういちいち説明する時間もありませんし、その必要もないと思います。神よ、あなたの思いはどこにあるのですか。どこを見たら、あなたの憐れみが見えるのですか。どこにも見えやしないじゃないですか。ヨハネのもとで無数の人が洗礼を受けた、その背後にも、実はこのような人びとの嘆きがあったかもしれません。「神よ、どうかわたしたちを憐れんでください。天を裂いて、罪によって敗れ果ててしまったこの世界を、どうか顧みてください」。その祈りが聞かれた。天が裂けて、そこから確かな神の愛の言葉が聞こえたのです。

多くの人が、この「天が裂ける」という言葉と、主イエスの十字架の記事を重ね合わせています。主イエスが最後に、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声でお叫びになった。まさしく主イエスこそが、天が見えない、神の憐れみが見えない暗黒の中で息を引き取られたのです。ところがその時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書いてあります。主イエスの洗礼の時には天が裂け、遂に十字架につけられたときには神殿の垂れ幕が裂けて……それはもう、神と人間とを隔てるものが何もなくなってしまったということです。

だからこそ、すぐにこういう出来事が続きます。主イエスの十字架のそばに立っていたローマの百人隊長の口から、「本当に、この人は神の子だった」という、信仰の言葉が生まれるのです。その百人隊長のためにも、天が開いていたことは明らかです。私どものためにも、既に天は開かれ、しかもそこから神の霊が注がれているのですから、私どもも今、悔い改めて信仰を言い表すほかありません。「イエスよ、あなたこそ本当に神の子です」。主イエスが天から聞き取ってくださった神の声に相応ずる、地上からの信仰の言葉を、今心から御前にささげたいと願います。お祈りをいたします。

 

今、私ども罪人の仲間になってくださった神の子をたたえつつ、私どものためにも、天が開かれていることを、望みをもって仰ぐことができますように。私ども自身のためにも、この国のためにも、この世界のためにも、確かな望みを抱かせてください。神の子イエスが共にいてくださるのですから、何も恐れることはありません。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン

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