神の救いとは何か
川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第2章12-18節
主日礼拝
■礼拝の中で、伝道者パウロがフィリピの教会に宛てて書いた手紙を読み続けておりますが、今日はそれに加えて、出エジプト記第16章を読みました。もちろん、フィリピの信徒への手紙を理解するための近道だと信じてのことです。
〈出エジプト〉、つまり神の民イスラエルがエジプトの奴隷であったところから救い出されたという出来事は、ただイスラエルというひとつの小さな民族の歴史にとどまらず、今教会に生きる私どもにとっても、大切な意義を持ち続けています。私ども教会の原点が、あそこにある。わたしがわたしであるという、そのアイデンティティの原点は、あの出エジプトにあると言っても言い過ぎではないのです。
そのことを示すひとつのしるしは、私どもの礼拝において〈十戒〉を唱えるということです。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」という神の言葉を、毎週私どもはここで唱え直すのですが、まさにそのことによって、私どもは自分が何者であるかを思い起こすのです。わたしはあの奴隷の家から救われたのだ。なぜわたしが今ここにいるのか。神がわたしを救い出してくださったのだ。だから、わたしは二度と神ならざるものを神としない。偶像を造ってこれを拝んだりしない。人を殺したり、人のものを盗んだりほしがったりしない。なぜならば、神はわたしの神だから。毎週ここで十戒を唱え直すたびに、私どもは神の民としての姿勢を整え直すのです。
神の民イスラエルはエジプトを出てから40年間、〈約束の地〉を目指して荒れ野の旅を続けたといいます。ひと口に〈荒れ野の40年〉と呼びますけれども、並大抵の生活ではなかったと思います。荒れ野というのはつまり、人間の生活には適さない場所です。食料も水も、容易には手に入りません。猛獣とか蛇とかさそりとか、さまざまな危険に満ちています。けれどもイスラエルは、40年の荒れ野での生活を続けながら、「わたしを養ってくださるのは神だ」。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」という神の言葉に支えられて、何度もつまずきながらも、約束の地を目指すことができたのです。
この荒れ野での生活というのは、まさしく私ども自身の生活でもあると思うのです。私どもも今同じように〈荒れ野の40年〉を過ごしている。そのように私が比喩的に申しましても、きっと皆さんの多くは、確かにそうだと頷いてくださると思います。そうだ、われわれも荒れ野に生きている。ただし、そのことを惨めな思いで振り返るのではありません。神に救われた者として、既にエジプトから導き出された、その意味で既に完全に救われた者として、今私どもも、荒れ野に立つのです。私どもは、あてどもない旅をしているのではありません。終わりの約束の日を目指しつつ、このように礼拝の生活を作りながら、「神よ、あなたはわたしをエジプトの奴隷の家から救い出してくださった神です」と信仰を言い表し続けながら、望みをもって荒れ野の旅を続けるのです。
■フィリピの信徒への手紙は、そんな私どもに語りかけるのです。先ほど聖書朗読を聞きながら、きっといろんな言葉が皆さんの心に留まったと思います。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。しかし、自分の救いを達成するって、何をどのように努力したらよいのでしょうか。しかも「恐れおののきつつ」と書いてあります。それは、いったいどういう生活態度を意味するのでしょうか。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)。その神の働きを、今私どもはどのように感じ取っているのでしょうか。しかもそこで、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)と言われると、なるほど確かに、われわれもいろんなことで不平を言ったり屁理屈を言ったりするなあ、しかしそれが「自分の救いを達成する」ということとどういう関わりを持つのだろうか。それこそ理屈を言い出したら、謎は無限に深まっていくかもしれません。
そこでもう一度最初に戻って、まず多くの人が引っかかってしまうのが、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と言われていることだと思います。自分の救いを達成するなんて、そんなことできるのでしょうか。私どもの救いは、神が達成してくださるのではないでしょうか。神がイスラエルをエジプトから救い出してくださったときにも、一から十まで、みんな神がしてくださったのです。それこそ「十戒」というタイトルの、4時間に及ぶ映画を思い出しておられる方もあるかもしれませんが、それはもう目を見張るような驚くべきみわざを、神が見せてくださいました。私どもを救ってくださるのは神です。けれども、その神の救いによって本当にわたしが救われるためには、戦いが必要なのです。なぜかと言うと、私どものいる荒れ野の生活というのは、決して私どもの救いに都合よくできていないからです。神の救いを信じさせないようにするいろんな誘惑が渦巻く中で、それこそ、あの十戒にしがみつくようにして、「神よ、あなたはわたしの神です」と告白し続ける生活というのは、どうしても戦いを意味しないわけにはいきません。
「恐れおののきつつ」というのも、私どもの心を揺さぶる言葉です。誤解してはならないのは、びくびく怯えながら神を信じるということではないということです。せっかくエジプトの奴隷状態から救われたのに、そのあと待っていたのは、もっと恐ろしい生活でしかないというのは、どう考えてもおかしなことです。13節には、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」とも書いてあります。神がすべてやってくださる。イスラエルがエジプトから出たときにも、一から十まで全部神がしてくださったし、エジプトから出たいという願いさえも、もとはと言えば神が起こしてくださったものだ。神は強いから、わたしは弱いから、神がすべてをしてくださるから、わたしには何もできないから、だからこそ恐れおののいて、神により頼むのです。臆病な子どもが、ぶるぶる震えながら、お父さんの首っ玉にかじりついているようなものです。そういう「恐れおののき」がないと、救いは達成し得ないのです。
■けれども、何かのはずみで神を信じることができなくなると、「不平と理屈」が噴き出してきます。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)。救いの達成を妨げるいちばんの原因は、不平と理屈なのです。このふたつの言葉についてほとんどすべての学者が賛成していることは、明らかに出エジプトの出来事を念頭に置いた表現だということです。イスラエルの民がエジプトを出たあと、けれども荒れ野での生活が始まったとたん、たちまち不平と理屈を言い出した。不平はともかく理屈というのは面白い表現ですが、出エジプト記第16章3節にはこういう不平と理屈が書いてあります。
イスラエルの人々は彼ら(モーセとアロン)に言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。
気持ちはよく分かります。イスラエルも、最初は喜び勇んでエジプトを出たのです。この直前の出エジプト記第15章にあるように、神に対する感謝と讃美にあふれて、だからこそ少しくらい苦しいことがあっても、「あのエジプトから救われたんだから」と、そのことを思えば、どんな不満も吹き飛んでしまったのです。けれども、時がたつにつれて、不平が育ってきました。それにもっともらしい理屈が添えられました。その不平と理屈はまず、モーセとアロンというふたりの指導者に向けられました。なぜわれわれをこんな荒れ野に連れてきたか。エジプトにいたときには、いっぱい肉が入った鍋をみんなで囲んだじゃないか。こんな荒れ野で飢え死にするくらいなら、エジプトでごちそうを食べながら奴隷として死んだ方がよっぽどましだった。モーセよ、アロンよ、いったいどう責任を取るつもりなんだ?
私どもの荒れ野の生活にも、いろんなことが起こります。そういう生活の中で、私どもの心をいちばん深くむしばんでしまうことは、「こうであればよかったのに」「こうすればよかったのに」「エジプトにいればよかったのに」という、後悔の思いです。後悔と、悔い改めとは全然違います。私どものする後悔のおそらく99パーセント以上は、神に対する悔い改めを伴わない、ただの後悔だろうと思います。どうしてエジプトから出てきたのか。なぜわたしをこんな不幸なところに連れてきたか。こうすればよかったじゃないか、ああすればよかったじゃないか。でもモーセがこう言ったから、アロンがこんなことをしたから。お前のせいだ、あの人のせいだ、神さまのせいだ。なぜか自分のせいだとは少しも思わないのです。まさにそのようにして、私どもの心はどんどん腐っていくのです。そのことを、イスラエルの不平と理屈の姿は、実に分かりやすく教えてくれます。
■ところが興味深いのは、この不平と理屈に対する神の答えであります。モーセはこう言うのです。
「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)。
イスラエルは、神に向かって不平を言ったつもりはなかったかもしれません。ただ、モーセとアロンという指導者の責任を追及しただけだ。別に神さまのことを悪く言ったつもりはない。けれどもそれは違う、と言うのです。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」。しかもその上に驚くべきことは、神はその不平と理屈に答えて、イスラエルに罰を与えたというのではなくて、お腹いっぱい肉を食べさせてくださった。パンを食べさせてくださった。なぜでしょうか。神が、イスラエルを愛しておられたからです。他の何の理由もないのです。
そんな神の思いにはひとつも気づかないで、私どもも知ってか知らずか、神さまに不平と理屈を垂れ流すことがあるでしょう。〈親の心子知らず〉であります。神さま、あなたはわたしの幸せなんか、ひとつも考えておられませんね。わたしをこんなひどい荒れ野に連れ出して、飢え死にさせようだなんて。ですよね、だって神さまは、わたしのことなんか、どうでもいいんですからね。
不平と理屈を言う人間というのは、言い換えれば、後悔はするが悔い改めはしない人間というのは、実は、いちばん不幸なのだと思います。神がわたしを救ってくださるのに、神がわたしのことをこんなに愛してくださるのに、その神の愛を信じ切ることができないからです。この神の愛を、どうしても伝えたくて、パウロもまたこう書いたのです。
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい(12~14節)。
もし不平と理屈を言い続けるならば、私どもの救いも達成されないのです。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。その恐れおののきとは、神に対する信頼とひとつのものです。
■神がイスラエルを養ってくださったパンは、のちに「マナ」と呼ばれるようになりました。それは今申しましたように、神の愛のしるしそのものでした。第16章の最後には、神はこのマナによって、40年間、イスラエルの命を養ってくださったと書いてあります。そのような荒れ野の40年の生活はしかし、決して平坦なものではありませんでした。民数記第11章4節以下には、こんな民の言葉が書いてあります。
「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(4~6節)。
いつの間にか、イスラエルにとってマナは神の愛のしるしではなく、神の意地悪のしるしでしかなくなっていました。このようなイスラエルの声を聴いた主なる神の思いは、いかばかりであったかと思いますが、それでも神は忍耐強く、イスラエルを最後まで、約束の地へと導いてくださいました。
しかし、その途上で、いくら何でも厳しすぎると思う出来事が起こります。さらに同じ民数記の第20章に進みますと、「メリバの水」という名でよく知られる出来事が記録されています。荒れ野でのどの渇きに耐えかねて、またもや不平を言い始めたイスラエルのために、神がモーセに命じられたことは、「岩に向かって、水を出せと命じなさい」ということだったのですが、モーセはその神の命令を少しだけ間違えて、自分の杖で岩を二度打ったというのです。岩に言葉で命じるのではなくて、杖で岩を打った。なぜそういう間違いが生じたかというと、これはモーセにも同情したくなる面があって、出エジプト記の第17章にも同じような出来事があったのです。ただしそこでは「杖で岩を打て」と神に言われて、それで水が出たという経験をしていたのです。その経験に惑わされたのかもしれません、民数記第20章のところでも同じように岩を打ったら、「そんなことしろとは言ってないぞ、岩に命じなさいと言ったんだ」と神に怒られてしまい、しかもその罰として、「お前は約束の地に入ることはできない。その前に、お前は死ぬ」と言われるのです。いくら何でも厳しすぎるようです。
しかし私は、そのときのモーセの気持ちが分かるような気がするのです。モーセが、神の命令に反して杖で岩をバシン、バシンと二度打ったとき、こういうことを言っています。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(民数記第20章10節)。さすがのモーセも遂にキレてしまったのかもしれません。何かというと不平と理屈を押しつけてくるイスラエルに、ほとほと疲れ果てていたのかもしれません。「反逆する者らよ、聞け」。何度言ったら分かるんだ、こんちくしょう、このばかやろう、と一度ならず二度、杖も折れんばかりに思いっ切り岩を打ったのかもしれません。けれども本当は、キレる必要なんかなかったのです。事実神は、それでもその岩から豊かな水を出してくださいました。神は愛だからです。けれども、モーセ自身が自分自身のいらだちに負けてしまいました。たった一回のその過ちが理由で、モーセは遂に約束の地に入ることができなかったのです。その意味では、モーセは「恐れおののきつつ自分の救いを達成する」ということに失敗したのだと言わなければならないのかもしれません。
けれども、さらに申命記第31章を読みますと、モーセは自分の死が近いことを悟り、そのことを民に告げながら、何ひとつ不平を言いません。何の理屈も言いません。「強く、また雄々しくあれ。あなたの神、主があなたと共におられる」と、イスラエルと自分の後継者であるヨシュアを励ましています。そのときモーセは、神のみ旨に対して徹底的に従順になっています。神に従順になることによって、モーセは見事に立ち直っております。
■パウロが書いたこともまったく同じなのです。
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
自分の救いを達成するというのは、決して難しいことではありません。神が私どもを愛してくださるのですから、ただその神の愛の中に立てばよいのです。有名な子どもの讃美歌を思い起こしてもよいかもしれません。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」(讃美歌461番)。いや、実際にはいろいろ恐ろしいものがあるのです。私どもが荒れ野にいる以上は、それは避けることができない現実です。けれども、だからこそ、ぶるぶる震えながらも、神さまの首っ玉にかじりつくようにして、「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」と歌い続けるのです。しかもパウロは、さらに15節以下でこう続けるのです。
そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。
ただ神の救いを信じて生きる神の民、すなわち教会が、今ここに生かされている。そのこと自体が既に、この世界にあって星のような輝きを意味すると言うのです。「あなたがたは世の光である」と、主イエスも言われました(マタイ福音書第5章14節)。そのような私どもの生活の中心に立つのが、16節の最初にある「命の言葉をしっかり保つ」ということです。闇のような、荒れ野のようなこの世界で、命の言葉をともしびのように掲げて、私どもはなお、旅を続けます。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」という命の言葉に支えられて歩む教会の存在は、神にとっても、またこの世界にとっても、かけがえのない価値を持つものなのです。お祈りをいたします。
主なる御神、あなたは強いから、そして私どもは弱いから、だからこそますます恐れおののいて、ただあなただけを信じ抜くことができますように。不平と理屈ばかり申しておりました日々を悔い改めつつ、今、あなたの愛の中にまっすぐに立たせてください。今、聖餐をいただきます。あなたが私どもを愛し、その命を守り、養ってくださる確かなしるしを、感謝と悔い改めの中で噛みしめることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン