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涙ぬぐわれる日

2021年11月21日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第21章1-8節

主日礼拝

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった(1節)。

ヨハネの黙示録、すなわち、伝道者ヨハネがパトモスという小島にいたときに神に見せていただいた幻の記録を、礼拝の中で読み続けています。その終わり近くにおいて、ヨハネはこのような不思議な情景を見せていただくことができました。しかもそこに、天からの声が聞こえます。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(3、4節)。

ヨハネ自身、涙を流したことのある人間でありました。何よりも牧師として、教会の仲間の涙に思いを寄せないわけにはいかなかっただろうと思います。そのヨハネが、このような神ご自身の声を、直接聞かせていただいたのです。さらに5節以下です。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(5~7節)。

私どもが「黙示録」と日本語で呼んでいる言葉について、既に何度か説明をしたことがあると思います。「黙示」というのはもともと「隠れているものをあらわにする」という意味の言葉です。ですからしばしば「啓示」と訳されることもあります。神が啓いてくださらなければ、永遠に隠されたまま。しかし、何が隠されているのでしょうか。私どもに隠されていたもの、けれども神が啓いてくださったもの、それはいったい何なのでしょうか。こう言い換えてもいい。私どもが悩んでいること、「これが隠されているから、このことが見えないから、だからわたしは苦しんでいるのだ」ということがあるとするならば、それはいったい何でしょうか。「神さま、いつまで隠しておられるのですか。どうか、これ以上われわれを苦しめないでください。望みを見せてください」。いったい、私どもは、何を見たいと願っているのでしょうか。

ここでヨハネは、神ご自身の声を聞くことができました。「見よ、わたしは万物を新しくする」。「わたしが、アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。「わたしは、渇いている者に飲ませる」。「わたしは、あなたの神になる。あなたの涙を、わたしがぬぐい取る」。わたしだよ。わたしがここにいるよ。ヨハネはここで、自分たちの涙をぬぐい取る、神の手の感触すら思い浮かべたのではないでしょうか。神が、私どものために啓き、示してくださったもの、それは結局、神ご自身であったのです。「そうだ、本当に、神は生きておられるのだ。神は、わたしの神なのだ」。たったひとつ、そのことさえ分かれば、私どもは望みを持って立つことができるのです。そうではないでしょうか。

■教会員の皆さんには、その都度ご報告をしておりますが、この秋は、特に多くの方の葬りというか、正確には納骨のための祈りをしなければなりませんでした。昨年新しく改装工事を終えた教会墓地の前に、私も何度となく立ちました。礼拝堂でする葬儀と違って、納骨の祈りはたいてい少ない人数で行われます。それだけに、残された者の表情には、葬儀の時とはまた違った姿が読み取れることがあります。とりわけ私どもが辛い思いをするのは、自分の子の葬りをしなければならないことであります。先週も、そういう方の納骨の祈りをしました。正確には、別のお墓から私どもの教会の墓地にご遺骨を移すということでしたが、ご主人と、さらに三人のお子さんたちの骨壺を前にして、私が聖書を読み、祈りをし、さあ納骨というときに、改めてひとつひとつ、ひとりひとりの骨壺にぎゅっと手を添えて静かに祈る母の姿というのは、その側らに立つ者たちにとっても、涙を禁じ得ないものがあります。

そのようなときに、いつも私が静かな感動を覚えるのは、私どもの教会の墓地に刻まれている、主イエスの言葉であります。改装工事前と変わらず、松尾造酒蔵牧師の筆による文字で刻まれています。「イエス言ひ給ふ。我は復活(よみがへり)なり、生命(いのち)なり」と、ヨハネによる福音書第11章25節が文語訳で書いてあります。「わたしが復活である。このわたしが命なのだ。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。あなたを生かすのは、このわたしなのだ」。このようなみ言葉を信じさせていただきながら、教会の仲間の納骨をすることができるということは、たいへん幸いなことだと思います。

しかもそこで忘れてはならないことは、「わたしは復活であり、命である」というこのみ言葉を、主イエスもまた涙を流されながらお語りになったということです。黙示録を書いたヨハネは、もちろん福音書を書いたヨハネとは別人であると考えられておりますが、「神がわれわれの涙をことごとくぬぐってくださる」と書いたときに、その神ご自身に他ならないイエスが涙を流されたという事実を忘れてはいなかったと、私は信じております。

そのヨハネによる福音書第11章が伝えることは、主イエスが愛しておられたラザロという人が病気で死んだということです。主がその家をお訪ねになったのは、既にラザロが葬られてから4日もたってからであった。ラザロの姉妹たちマルタもマリアも、ずっと涙が止まらなかったというところに主が来てくださって、そこでヨハネによる福音書がはっきりと記録していることは、主もまた涙を流されたということであったのです。そのお方が、ラザロを墓の中から呼び戻してくださった。涙を流しながら、であります。「わたしが甦りなのだ。わたしが、命なのだ。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。わたしが生かす」。それは決して、悟りきった者の言葉ではなかったのであります。

私どもの信じる主イエスというお方は、このお方ご自身が、実は誰よりも、死の恐れを知っておられました。愛する者を喪い、墓の前で涙を流す悲しみをこのお方は知っておられたし、それどころではありません、ヘブライ人への手紙第5章7節は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ……」と書いています。十字架につけられたそのお方を、父なる神は死人の中から甦らせてくださいました。それは言い換えれば、主イエスご自身が、父なる神に涙をぬぐっていただいたということでしかなかったのです。その意味において、主イエスの復活というのは、永遠の重みを持つ出来事であると言わなければなりません。私どもすべての者の涙をことごとくぬぐい取る、そういう力を持つ出来事であったのです。

■今年もクリスマスに向けて、数名の方たちが洗礼入会、信仰告白の準備をしています。来週と再来週の長老会において、その志願者たちの信仰の言い表しを聞くための試問会を行います。試問会などと言われると、いったい何を試問されるんだろうか、どんなことを聞かれるんだろうかと、不安になる人もいるだろうということは私もよく理解しているつもりですが、結局のところ聞かれることはたったひとつ、主イエスを信じるか、ということでしかありません。「はい、信じます」と明確に答えることができれば、試問会について何も心配することはありません。ナザレのイエスを、永遠の神の子と信じるのか。私どもの信仰、教会を生かしてきた信仰というのは、この一点に尽きるのであります。

考えてみればしかし、本当に不思議なことだと思います。あのラザロを墓から呼び起こし、マルタとマリアの涙をぬぐい取ってくださったあのお方は、永遠の神と等しい方だったのだと言うのです。その神と等しいお方の頬を濡らしたあの涙は、わたしのための涙であったと信じるのです。もしもそうでなかったとしたら、あのマルタとマリアの涙をぬぐってくださった主イエスのわざは、たまたま一度だけ起こった、単なるかりそめの出来事でしかなかったということになります。昔々、ひとりの人が死刑にされて、けれども墓の中から復活したという、不思議なことが起こったらしいということだけを信じてみたとしても、今ここで流れるわたしの涙をぬぐってくださるお方がいなければ、何の救いにもならない、何の慰めにもならないのであります。

けれども、それこそ洗礼入会を決断し、信仰を言い表す人の言葉を聞きながら、私どもが思わされることは……ああ、神さまは、この人のためにも、隠れていたものを開いてくださった。「わたしはあなたの神になり、あなたはわたしの子となる」と、神がそのことを、この人のためにも啓き示してくださったのだということです。

6節に、「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」という印象深い神の言葉がありました。神を信じるということは、言い換えれば、過去のことも現在のことも、そして将来のことも永遠にわたって、神がすべての支配者でいてくださるということを信じることです。しかも、その神の永遠のご支配が、あのイエスというひとりのお方によって、啓き示されたと信じるのです。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。あのイエスさまの姿を見れば、分かるだろう? 神は、このようなお方なのだ。悪魔が世界を支配しているのではない。黙示録の表現で言うならば、獣の支配がどんなに力を持っているように見えたとしても、「アルファであり、オメガである、初めであり、かつ終わりである」神のご支配だけが、最初から最後まで、永遠にわたって貫かれるのだ。

望みを失っている世界であると思うのです。毎日の生活を、何となく平気な顔をしてやりすごしながら、しかも心の深いところには、将来に対する根源的な不安が渦巻いています。私どもの国が、そこかしこで荒廃を見せているのも、「わたしが初めであり、終わりである」という神の声を聞きそこなっているから、拒んでいるからではないでしょうか。この世界をお造りになったのは神であり、歴史の真実の支配者も神であり、その神が世界を完成させてくださる。そのことを拒んでいるから、私どもの生きる世界は、根源的に望みを失っているのではないでしょうか。けれども神はヨハネのために、また私どものためにも、新しい幻を啓き示してくださいました。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節)。海というのは、滅びの象徴です。だから4節では重ねて「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言われるのです。最後の最後に、すべてを完成させてくださる神を信じるなら、たとえどんな涙を流すことがあったとしても、望みをもって待つことができます。

■そのために神は、今ここでも、私どものために、見るべきものを見せてくださいます。教会は、そのために生きています。今日の説教の最初のところで、黙示というのは「隠れたものをあらわにする」ことだ、その隠れたものとは、結局のところ神ご自身のことだと申しましたが、実はその発言には、どうしても重大な補足をしなければならないところがあります。2節には、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」と書いてあります。それは要するに、自分たちの生きる教会の姿が、このように描かれているのです。お手元の週報にも予告がありますが、来週の説教の題を「キリストの花嫁の輝き」といたしました。それが既にこの2節にもはっきりと描かれています。神に愛されている教会の輝きです。キリストに愛されている花嫁の輝く姿です。すべての涙をぬぐい取っていただいている教会の姿が、ここに鮮やかに啓き示されているのです。

当時の教会も、悩みに悩んでいたと思うのです。神の愛とか、神の支配とか、そんなこと言われても、どこにも証拠がないじゃないかと嘆きたくなることは、いくらでもあったのであります。前回読みました第20章の4節には、「わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった」と書いてあります。当時の教会は、殉教者を出していたのです。獣の像、つまり現人神たるローマ皇帝を拝まなかったからです。そんな教会が、最後には涙ぬぐわれる日が来るんだから、今は我慢しようなんて言われたって、絵に描いた餅を眺めるようなものだ。もしも私どもが、そのようにしか黙示録を読めないとするならば、こんなにつまらないことはないだろうと思います。

だがしかし、ここで既に明らかにされることは、教会はキリストに愛された花嫁である。その愛の中で、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」と言われるのです。わたしが今、教会に生きているということは、こんなにも慰めに満ちたことである。こんなにも輝かしいことである。その輝きはしかし、今はまだ、ほとんど隠されているのかもしれません。隠されているけれども、しかし確かな事実に慰められて、私どもは今既にここで、花婿キリストの愛を信じることはできるのです。そのとき、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と、その望みに立つことができるのであります。その花嫁のために、神がしてくださることがあります。

「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(6、7節)。

「花嫁」というイメージと並んで私どもの心を打つもうひとつのイメージは、「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」という表現です。確かに、神の御子キリストの花嫁になるということは、教会は神から見ると義理の娘、つまり子となる、という理解もありかもしれませんが、「義理の娘」という日本語にまとわりつくややこしいニュアンスはもちろんありません。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」とあります。お気づきになった方もあるかもしれませんが、先週の木曜日、11月18日のローズンゲン・日々の聖句には、「命の水の泉から無料で飲ませよう」という翻訳でこの聖句が書いてありました。「無料で」という表現に驚いた方もあったかもしれませんし、それだけ心に残ったかもしれません。自分の子どもに何かあげるというときに、いちいち代金を請求する親はいないでしょう。自分の子どもには、当然無料であげる。そして子どもの方も、何のわだかまりもなく、親の愛を受けるのであります。

■それに続けて8節では、「しかし、おくびょうな者は。不信仰な者は。……」と続きます。だがしかし、もし私どもが、花婿キリストの到来を待つ、その望みに生きることができるならば。もしも私どもが、今既にここで、神に愛された神の子として立つことができるならば、私どもはもう、「おくびょうな者、不信仰な者」であるはずがありません。「忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者」。こういう言葉のひとつひとつの意味を丁寧に調べる必要もないでしょうが、たとえば、なぜうそを言わないのでしょうか。うそを言う人は、怖いからうそを言うのです。うそを言わないと、自分を守れないと思うから、人間はうそをつくのであります。けれども、キリストに愛された花嫁は、もう臆病になることはない。ただ神を信頼して、うそをつくことからも人を殺したり害したりすることからも解き放たれて、生きることができます。今、私どもの教会がそのような望みに生き、そのような輝きに生き始めることができるならば、それはこの世界にとってもまた、大きな望みの光となるに違いありません。お祈りをいたします。

 

私どもの愛する主、イエス・キリストの父なる御神、あなたの子として、キリストの花嫁として立つあなたの教会を、今朝もみ言葉をもってもてなし、慰めてくださり、ありがとうございます。私どもの知る恐れを、悲しみを、あなたはすべてご存じです。涙さえ流れるときも、既にその涙をぬぐってくださるあなたの愛を、信じ抜くことができますように。おくびょうを捨てて、不信仰を捨てて、み子イエスが再び来てくださるその日まで、この教会に与えられた確かな命の光を、輝かし続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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