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洗われ聖とされ義とされて

2020年12月27日

中村 慎太 牧師
コリントの信徒への手紙一 6:1-11

主日礼拝

 私たちは、主イエスの名による洗礼によって、洗われ、聖とされ、義とされた群れです。私たちはそのように新たにされて、歩む群れです。
 私たちが陥る罪の一つに、貪欲というものがあります。
 「誰かが持っている、あれが欲しい。あの人を、自分のものにしたい。金が欲しいから、誰かから儲けたい。」
 私たちそれぞれに与えられている物も、関係性も、金も、本当は、神さまから一人一人に与えられたものです。それによって神さまの栄光を表す、大切なものです。しかし、貪欲に陥ると、神さまが与えてくださる物だということも忘れ、互いに取り合ってしいます。
 コリント教会は、そういう罪によって、深く傷ついていました。それは裁判沙汰にまでなっていたそうです。
 今日私たちが向き合っている新約は、コリントの信徒への手紙一第6章です。その 1節をお聴きください。「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。」
 コリント教会の信徒たちの間で、どんな内容で裁判が起こったかは、今聖書を読む私たちには分からないことです。しかし、教会員同士のうちに貪欲が起き、裁判で何かを取り合ったのでは、ということは予測できます。
 現在でも、キリスト者がキリスト者を訴えることはあります。キリスト者が多い国、例えばアメリカなど、キリスト者同士で裁判をすることなど、たくさん起こっています。
 さらには、本来教会内で話し合って御心を求めるべきことなのに、この世の裁判に訴えざるを得ないことがらまで起こります。日本の教会でも、そのように裁判になってしまう事例が実際にあるのです。
 この後の箇所、7節などにはこうあります。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」
 ここを単純に読むと、この世の裁判に訴えることが悪い、さらには、裁判を起こすキリスト者が悪い、というように読めるかもしれません。しかし、単純にそうとは言えません。裁判を起こされた方もまた問題があることもあるはずです。
 キリスト者でありながら、貪欲で、貧しい者を搾取するものがいたかもしれません。教会を指導する立場にいながらそれをないがしろにし、教会の者たちが苦しみ、やむを得ず裁判に至ったこともあるかもしれません。
 どちらか一方だけの問題ではなく、裁判を起こす側にも、起こされる側にも、問題が見いだせると思います。そして、貪欲の罪が迫ってくる危険が、それに沈み込む危険があるはずです。
 この手紙を記した伝道者パウロが、何より言いたいことは、どうして教会の内にいるのに、教会内でそれを裁く力がないのか、ということです。教会を神さまの知恵に基づいて導く者はいないのか。教会内で仲裁が起こり、和解が起こることができないほど、教会が混乱し、腐敗していたのか、と問うているのです。
 パウロは言います。教会には、本来裁く権威があるはずだ、と。
 2節から、

「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。」

 教会の権威は、この世の権力にも縛られないものです。そうです、私たちが従うのは主イエスです。そして、主イエスの体なる教会にも、その主イエスにつながる権威があるのです。だからこそ、パウロは天使まで裁く、とまで言うのです。
 そして、パウロは7節において、大胆なことを言います。

「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」

 この言い方は、キリスト者はただ踏みつけにされ続ければいい、ということを伝えているのではないでしょう。キリスト者が、問題に対して敢然と立ち向かう必要も起こります。
 ただ、キリスト者は、忘れてはいけないことがあるのです。それは、「わたしは罪人だ」ということです。そして、「わたしは与えられた者」だ、ということです。そのことを忘れないならば、最終的に、不義、正しくないとされることも甘んじて受けられるのです。奪われることがあっても、信仰に立ち続けられるのです。
 そもそも、正しい者は一人もいません。誰にでも罪があります。例えば、貪欲の罪、誰かの物がほしくなることなど、子どもにでも起こることです。
 教会は、そのような正しくない者の群れです。例えば、私たちは、鎌倉の町ゆく人々に、「鎌倉雪ノ下教会は、清く正しい品行方正な人たちの集まりです。罪のない人、どうぞおいでなさい。」などと告げ知らせますか。そんなことはありません。私たちは罪人だった者たちです。
 私たちは伝えます。「私たちは罪人だったのに、イエスさまに救われました。みんなでこのイエスさまに立ち帰りましょう。このイエスさまの愛を、皆さんも一緒に知りましょう。」
 私たちが見つめるのは、私たちの正しさなどというありもしないものではないのです。私たちの見つめる正しさとは、神さまの正しさです。
 私たちは知っています。唯一正しいお方は、主なる神さまだけだと。その神さまは正しさをどのように私たちにお示しになったでしょうか。お前たちは正しくないと言って、私たちを断罪し、滅ぼされることか。そうではありませんでした。
 「あなたたちはどれだけ罪を犯し、わたしから離れようと、わたしはあなたたちを離さない。あなたたちを愛している。あなたたちが正しくない者でありながら、正しいものとされるように、わたしは独り子を遣わす」。これが父なる神さまの、メッセージです。
 正しくなかった私たちを正しいものとするために、イエスさまは十字架にお架かりになりました。その主イエスの十字架によって、私たちには信仰が与えられます。そして、私たちは洗礼を受け、教会の一員となります。
 11節。

「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」

 教会では、洗礼の時、父と子と聖霊の名によって洗礼が授けられます。それと同じように、この箇所でも主イエス・キリストの名が言われ、私たちの父なる神さまと聖霊のことが言われているのです。
 そして、キリスト者は、洗われ、聖なる者とされ、義とされた、というのです。これは、まさに洗礼というあの一点の時に起こった出来事として表されています。
 洗礼は、まさに洗うことでした。主イエスの十字架の血が、旧約の時代、生贄の血が清めに用いられたように、私たちを洗ったのです。洗礼に用いられる水に表されるように、水で洗われるように、私たちの罪がイエスさまの十字架によって洗われたのです。
 そのことによって、私たちは神さまの子とされました。神さまの民として、大切に聖別されました。その聖別こそが、聖とされとされたということです。
 そして、正しくない者であったのに、正しいものとされた。再臨のイエスさまの前に、救いの希望を持って立てるようにさせられた。滅びではなく、新しい命への希望が与えられたのです。
 洗礼を受けたキリスト者が、聖人のように、品行方正になって、もう罪を犯さなくなる、というわけではありません。私たちは罪を犯し続けます。
 しかし罪を犯すからといって、洗礼を軽んじることはありません。「わたしがキリスト者と呼ばれるのはとんでもない」などと、変な謙遜をすることはありません。「自分は罪人なのだからしょうがない」といって、罪にとどまってしまうこともありません。
 主によって、洗われ、聖とされ、義とされた、そのことは燦然と輝く光のような決定的な事実です。主によって成されたその御業を、私たちは決して小さくはしません。
 洗礼を受けてキリストの群れの一員になった、私たちはその事実に立って、あり方が変わるのです。
 「あなたがたの中にはかつてそのような者もいました。」とパウロは語っていました。つまりは、「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」といった者がいたのです。そういう者だったのです。それは私たちにも当てはまる。
 しかし、私たちはもう知っています。私たちが常に立ち帰るところを、知っています。私たちは、この教会という群れは、洗礼によって、洗われ、聖とさせられ、義とされた群れなのだと。それほどまでにイエスさまが愛してくださった群れなのだと。
 私たちは罪赦された罪びとです。そして、主イエスの十字架の前に悔い改めて、自分の正しさではなく、その主の正しさだけに立ちます。
 イエスさまが私たちを愛し、私たちと父なる神の関係を、仲裁し、和解に至らせるために力を尽くされた。命をささげられた。その喜びに立つのが、私たちです。
 この教会でも、日本の教会でも、人と人との関係が壊れることがあるかもしれません。しかし、その時私たちはイエスさまの十字架のもとにともに立ち帰ります。イエスさまによって、父なる神と私たちの関係が回復された喜びを思いつつ、教会でも、互いの関係を回復できるように祈り求めるのです。
 年の終わりです。一年の終わりの今こそ、私たちは貪欲に陥ることなく、主によって洗われ、聖とされ、義とされたことを感謝しましょう。思えば、今年はこれがなかった、これがほしかった、などと、たくさん思い至ることがあるでしょう。しかし、もともとは正しさがなく、滅びしかなかった私たちを、主は洗い、聖とし、義としてくださった。何もなかった私たちに、愛を、新しい命まで与えてくださった。
 この一年も、何があってもその主の慈しみと恵みがはっきりと表され続けた年でした。皆さんは神さまからどんな祝福をいただきましたか。この教会に、どれほど新しい方が来ましたか。どれほどの方が受洗、信仰告白をして、あらたに神さまに洗い、聖とされ、義とされて、教会の一員となりましたか。主の祝福がこの日本の教会に、世界の教会に与えられたことを感謝します。
 聖とされた私たちは、聖別された主の民として、新たな歩みを始めます。新しい年も、それほどに大きな主の愛を伝える群れとして、進みましょう。