主の言葉を信じて生きる
ヨハネによる福音書 第4章47-52節
出エジプト記 第19章1-9節
上野 峻一
主日礼拝説教
今日という、一生に一度きりの特別な日、今ここに、主なる神さまによって、呼び集められた私たちに、与えられた聖書の言葉があります。その始めには、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」とありました。約2000年前、現在のイスラエルの北部に位置するガリラヤ、その小さな村で起こった奇跡、二回目の「しるし」が起こります。そこには、一人の「王の役人」が出てきました。彼は、カファルナウムというところの人です。ここで、「王」と言われる人物は、恐らく、当時のユダヤの領主であった「ヘロデ・アンティパス」であったとされます。その役人は、王の家臣として、財産などの管理をするもの、あるいは、身分の高い貴族としても考えられています。それになりに、地位がある人です。そのような人が、イエスさまのもとへとやってきます。理由は、とてもシンプルです。ただし、イエスさまのところへと来た理由は、非常に深刻でもありました。自分の大切な幼い一人息子が、今にも死んでしまいそうな重い病気であったからです。
聖書には、この王の役人は、「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て、息子をいやしてくださるようにと頼んだ」とあります。既に、ユダヤ地方でも行われていたイエスさまの奇跡の御業を知って、その噂を聞いて、もしかすると「藁にもすがる思い」でやってきたのかもしれません。この箇所にある「イエスのもとに行き」という言葉を、「イエスのところに去って行き」と、翻訳しているものがあります。そこから、この王の役人は、自分の仕えていた王様ではなく、イエスさまのところに来たのだと言います。仮に、王様と呼ばれる人でも、今にも死にそうな息子には何もできずに、イエスさまのもとへと来たのです。
もしかすると、それは、彼にとって最後の望みであったかもしれません。愛する息子が、今にも死にそうだと、イエスさまに、カファルナウムまで下って来て、癒して欲しいと頼んだのです。彼は、愛する幼い一人息子のために、イエスさまに頼み込みました。この父親は、本当に必死だったはずです。もう今にも、自分のたった一人の息子が死にそうなのです。主イエスは、その役人に言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」ここで語られた主イエスの言葉は、私たちの現実を映し出しています。イエスさまは、「あなたがたは」と言われました。目の前にいる「役人」だけではなくて、すべての人、私たちへと語りかけます。「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」つまり、目に見える証拠がなければ、決して信じることはなく、疑い続けるのです。信仰が与えられているにも関わらず、信じていたはずなのにと、神さまが見えないことをいいことに、繰り返し、罪を犯し続けます。いや、神さまが、見えたとしたとしても、そこから逃げ出して、自分のしたいようにするのが人間です。それが、神に背く罪ある人間の姿です。しかし、決して忘れてならないのは、イエスさまは、そのことをすべて知った上で、役人の言葉に耳を傾けられます。
「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください。」彼は、イエスさまの少し冷たいとも思われる言葉に対して食い下がります。どうしても、何としても、イエスさまに来て欲しい。愛するたった一人の幼い息子が、死なないうちに、何としても、イエスさまに来て頂いて癒して欲しい。父親の切なる想いがにじみ出るような一言です。主イエスは、言われます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」そう言われました。私たちが思うのは、ここまで粘った父親ですから、さらに「イエスさま、来てください」と頼み込んでもいいはずです。けれども、決して、そうではありませんでした。この父親がしたことは、たった一つのことでした。「その人は、イエスの言葉を信じて帰って行った。」
イエスさまは、この役人に「帰りなさい」と言われました。しかし、この言葉は、直訳すると、本当は「GO・行きなさい」ということです。その先に何があるのか。どういうことが起こるのか。まったくわからないけれども、主の言葉に信じて、新しく歩み出すのです。そして、何より、この王の役人の父親は、イエスさまが言われた「あなたの息子は生きる」という言葉を、しっかりと受け止めました。主の言葉に信頼して、出て行ったのです。彼が、下って行く途中に、僕たちが迎えに来ました。その報告は、その子が生きていることでした。イエスさまがおられた「カナ」という村から、カファルナウムまでは約30キロ、急いで歩いても8時間はかかります。ユダヤ教では、日没で翌日となるので、午後1時に出発したとしたら、やがて日も落ちて、日付も変わっていた頃でしょうか。カファルナウムから慌ててやって来る僕たちから、愛する息子が生きていると知らされます。それは、イエスさまが、あの言葉を語られた時刻と、ちょうど同じ頃でした。息子の熱が下がり、もう命の危険にはないことを知らされる出来事でした。これが、命の危機にあった幼い一人息子をもつ父親が、ただ主の言葉を信じて、出て行った先にあった主イエス・キリストの「二回目のしるし」です。
この父親のことを思うと、数十キロの道を、急ぎ歩きながら、一体何を思っていたのでしょうか。それは、想像するに難しくないことです。自分の愛する息子のこと、そして、イエスさまの言われた言葉です。「行きなさい。あなたの息子は生きる。」「行きなさい。あなたの息子は生きる。」繰り返し、繰り返し、思い起こしたはずです。この主の言葉には、力がありました。それは、もしかしたら、もう息子が死んでいるかもしれないと、頭を過りそうになる度に、その思いを払い退け、疲れて痛み止まりそうになる足を、もう一歩前へと力づける命の御言葉でした。
また、よく考えると、不思議なことに気づきます。主イエスは、「あなたの息子は生きる」と言われました。イエスさまが、「あなたの息子は生きる」と言われた時、まだ、恐らく、病気の息子は生きていました。だから、言葉の意味としては、「助かる」「治る」ということです。しかし、イエスさまは、「生きる」と言われます。なぜでしょうか。それは、単純に、「病気から回復すること」以上の出来事が起こるからです。この話の最後には、「そして、彼も、その家族もこぞって信じた」と結ばれています。主イエス・キリストの言葉を信じて出て行った父親が、目の当たりにした「しるし」によって、彼も家族も皆、主イエス・キリストを信じる者となったのです。「主の言葉を信じて生きる」者とされました。主イエス・キリストを信じて、永遠の命が与えられ、新しい命に生きる歩みが示されています。その主の言葉が語られた時、息子の病気が癒されるという神の業、しるしが起こっていました。しかし、父親が、息子が癒されたのを知るのは、翌日、もっと後のことです。主の言葉の実現は、父親が知るよりも前に、「既に」起こっていたのです。実は、このことこそ、私たちが神の御業を知る前に、私たちの気づきに先立って起こっている神の御業のあり方です。
神さまの御業は、既に行われています。私たちの救いの出来事は、2000年前、主イエスの十字架と復活によって、既になされたことなのです。けれども、私たちが、そのことを知り、そのことに気づくまでには、時差があります。だからこそ、不安になることもあります。大丈夫だろうかと心配にもなります。しかし、あの父親のように、今はまだ見えなくても、主の言葉を信じるのです。主イエスは、私たちに、確かな「しるし」を通して、ご自分が、どなたであるかを示されました。カナという小さな村で起こった二つの「しるし」。それは、主イエスが、どなたであるのか明らかにする出来事でした。水をぶどう酒に変える奇跡によって、神の栄光を表し、遠方にいる役人の息子の病が癒された奇跡によって、神が命を与える方であることを示されました。そして、王の役人である父親、またその家族は、主イエスの言葉を信じて生きる本当の意味へと辿り着きました。命は、決して自分のものでも、まして自分の仕える王のものでもなく、主なる神のものであったのです。主イエス・キリストは、その言葉によって、死を越える、永遠の命への道を示されたのです。