生きた水が与えられると
ヨハネによる福音書 第4章1-15節
上野 峻一
主日礼拝説教
聖書で「サマリア」と聞いて、今日の箇所を読む上で、やはり知っていて欲しい背景知識があります。当時ユダヤ人たちが、ユダヤから北に位置するガリラヤへ向かうには、パレスチナを東西に分けるヨルダンの谷を、数日かけて通っていたと言われます。けれども、「急ぐ者はサマリアを横切る道を取る。そうすると、エルサレムから三日でガリラヤに着くことが可能である」と、歴史家ヨセフスが記録するように、サマリアの地域を横断する山の尾根伝いの最短のルートもありました。ところが、こちらの道は、サマリアを横断しなければなりません。余程の急ぎの用事がない限りは、ユダヤ人たちがサマリアを通るルートを使うことはありませんでした。なぜなら、ユダヤ人とサマリア人は交際しない、つまり、互いに、いがみ合うような、犬猿の中とも言える関係にあったからです。しかし、イエスさまと弟子たちは、後者であるサマリアを通る道を進み、ガリラヤへと向かわれました。サマリアを通らねばならなかったからです。
サマリア人と呼ばれる人たちは、元をたどればユダヤ人です。紀元前722年、アッシリア帝国が、サマリアを首都とする北イスラエルを滅ぼしました。北イスラエルにいた一部のユダヤ人たちは捕まり、アッシリアへと連れていかれます。けれども、サマリアには、捕囚の民とされなかった残ったユダヤ人がいました。そのユダヤ人と、サマリアに入植した民族とが入り混じり、宗教や文化が混在していきます。年月が経って、捕囚の民であったユダヤ人たちが帰って来た後も、彼らは純粋なユダヤ民族として生きることをしませんでした。ここに、ユダヤ人とサマリア人との決別があります。元々同じユダヤ人であったからこそ、かえって嫌悪感や憎悪が激しくなっていたのかもしれません。ユダヤ人からすれば、サマリア人は異邦人です。神さまとの約束を破り、救いから外れた者たちとして考えられていました。
ところが、主イエス・キリストは、そうではありませんでした。ルカによる福音書にある有名な「善きサマリア人のたとえ」のように、むしろ、サマリア人に対して非常に積極的な見方をします。サマリア人に対して、これまでとは、まったく違う見方をしたのです。聖書は、「サマリアにいかねばならなかった」と記しています。この「ねばならない」という言葉は、二つの意味を持ちます。一つは、やはりファリサイ派の人々のことを心配して、少しでも早くガリラヤへと向かう必要があり、サマリアを通る道を使うほどに急いでいたということです。もう一つは、サマリアを通って、出会わなければならない人、やらなければならないことがあったということです。聖書が元々記されたギリシャ語で「ねばならない」という単語は、神の必然、救いの計画と関わりをもつ言葉です。確かに、イエスさまたちは急いでおられた。しかし、そのことをも用いて、神の計画の中で起こるべき出来事がありました。このような背景をもって、主イエスとサマリアの女との対話があります。「サマリア」というユダヤ人にとっては、特別な場所に「いかなければならない」主イエス・キリストによってなされる神のご計画があったのです。
イエスさまが、正午頃、疲れて井戸のそばに座っていると、サマリアの女が水を組みに来ます。この箇所で誰しもが指摘するのは、こんな真昼間に、女性が一人で水をくみに来るのは変だということです。水くみは、中東のカンカン照りの気候や習慣として、日が昇る前か、日が沈む後に、複数の女性たちで行うようです。気候や文化からしても不思議な状況が描かれています。きっと、このサマリアの女は、何かしらの問題を抱えている、他の人たちとは一緒にいられない事情や、真昼間にわざわざ水くみに行かなければならないような特別な理由があると想像できます。
主イエスは、彼女に「水を飲ませてください」と話しかけられました。女は当然のごとく「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と答えます。ユダヤ人とサマリア人との敵対関係からすれば、ごく自然な返答です。あるいは、この言葉は、ちょっとした意地悪な言い草だったかもしれません。イエスさまは、明らかに疲れておられます。井戸から水をくむための道具も持っていないし、ユダヤ人の男性が、サマリア人の女性に頼むほどに弱っていると思われて不思議ではないでしょう。しかし、それでも、主イエスは、このサマリアの女に伝え、与えなければならないものがありました。それが、主イエスが与える「生きた水」です。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが、誰であるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」サマリアの女は、勘違いをします。イエスさまが語られた生きた水は、今、目の前にある井戸から、くむことができる普通の水であると思ったのです。それも仕方がないはずです。私たちは、水が人間の命にとっていかに大切かを知っています。ところが、喉が渇いたら飲む水が、主イエスが言われた生きた水ではないのです。生きた水とは、どのようなものでしょうか。主イエスは言われます。「この(井戸の)水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」生きた水とは、イエスさまが与える水です。その水は渇くことなく、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出ます。すごい水です。そんな水が、本当にあるのでしょうか。そんな水はないと考えても仕方ありません。女は、このユダヤ人は、やはり変わった人だったのだと、イエスさまの話を聞き流すこともできました。しかし、このサマリアの女は、違いました。イエスさまの言葉を無視することも、嘘だと疑うこともなく、彼女は言います。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」このようにして、彼女に生きた水が与えられたのです。それゆえに、この後に続いていく記事において、実はもう彼女が生きた水を求めることも、主イエスが生きた水について語ることもなくなります。
生きた水とは、一体何でしょうか。それは、主ご自身とも言えますが、聖霊でしょう。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。私たちを信仰告白へと導く神ご自身が聖霊です。それが、このサマリアの女に与えられました。女は、確かに目の前のイエスさまを「主」と呼び、ここから少しずつ彼女に変化が起こっていきます。彼女と主イエスとのチグハグとした会話も、この後からは、スッカリなくなります。むしろ、主イエスの言葉に真剣に耳を傾け、主が何を語られようとしているのかを、理解しようと彼女自身が変わっていきます。彼女には、神の賜物、神から与えられる贈り物が与えられたのです。ただし、彼女が生きた水を与えられていることは、彼女自身さえ知る由もないことでした。それは、今を生きる私自身も同じことかもしれません。聖霊が与えられますように、聖霊で満たされますようにと祈ります。しかし、本当に自分に聖霊が与えられているのか、生きた水が泉となって永遠の命に至る水がわき出ているのか、そのことが、わからなくなってしまうことがあります
しかし、だからこそ「生きた水を与えられると」どうなるかと問います。それは、何よりもまず、信仰が生まれることです。教会に行ってみたい、聖書を読みたい、讃美歌を歌いたい、イエスさまを知りたい、伝道したい…。サマリアの女は、聖霊を与えられたからこそ、イエスさまを主と呼び、食い入るように主イエスの御言葉に耳を傾けました。神の業を知り、御言葉を求め、やがて、主イエス・キリストを宣べ伝える者になりました。聖霊は、私たちに本当の自由を与えます。サマリアの女は、この後、その場に水がめを置いて、町へ行って主イエス・キリストを証しします。彼女を縛っていた水くみから、あらゆるものから解放されて、喜びのうちに福音を宣べ伝えます。主イエス・キリストを、驚きの出来事を、喜びの知らせを伝えたいと、その人の内で泉となって、次々と水がわき出て溢れています。
父なる神と子なる神から発出される聖霊なる神とは、私たちを虜にする罪と死からの自由を与えてくださいます。死さえも恐れず、永遠の命のうちに生きていくのです。死すべき私たちに、十字架と復活の主イエスを信じる命を与えてくださいます。他の何ものでもなく、イエスさまを「主」とする新しい生き方を始めさせてくださるのです。主が与えてくださる神の賜物は、実に豊かに与えられています。「その水をください」と求める者に、主は必ず「生きた水」を与えてくださるのです。そして、今日も、生きた水が与られます。私たちに生きた水が与えられると、一体どうなるのでしょうか。