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この方こそ神の子である

2017年8月27日

ヨハネによる福音書 第1章29-34節
上野 峻一

主日礼拝説教

「この方こそ神の子である」と、主イエス・キリストを証しする信仰者の生き方や言葉が、教会に溢れる時、教会は教会として使命を果たしていることになります。この証しは、約2000年前、洗礼者ヨハネという人物によって始められました。その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。」そのように、福音書を記した者は、書き始めます。このようにあって、その後は引き続き、一日ヨハネの語りで終わります。一体、誰に対して、ヨハネは言っているのでしょうか。前日のユダヤ人たちがいたとも、翌日のヨハネの弟子たちがいたともありません。つまり、ヨハネという一人のキリストを証しする者が、今この時も、見て言い続けているのです。それも、その相手は、今この聖書を読んでいる私たちに対してです。それは、今すぐそこにイエスさまがおられて、まるで自分たちの方へ、イエスさまが来られるのを見て言われているかのようにです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」

ここでの「罪」とは、単数で表されています。世にあるたった一つの罪です。それを取り除くために、私たちのところへと、主イエス・キリストはやって来られます。一体どこに、そんな罪を見いだせるのでしょう。しかし、私たちは、この世の中に罪があることを知っています。テレビのニュースを見れば、悲しい、痛ましい出来事ばかりです。この世は、平和で幸せな世界で安心だなどと、そう簡単に言うことはできません。教会は、世界の現実を、人間が正しくあることができない理由を、敢えてはるか昔から聖書を通して知らされてきました。それが、人間という存在には、罪があるということです。この罪を、古代の神学者アウグスティヌスは、原罪と言いました。すべての罪の原因となる、罪の根っこのようなものです。この根っこがある限り、次から次に、様々な罪が芽生えてきます。

主イエス・キリストは、この根元にある罪を、世にある原罪という一つの罪を取り除くために来られました。そのために、支払う代価とは、「神の子羊」という言葉が示しています。旧約聖書の時代、子羊は、犠牲の供え物として、神にささげていました。それは、子羊の命を、贖いの代価としてささげることでもあります。神の独り子である主イエス・キリストは、十字架という最も苦渋に満ちた残酷な処刑によって殺されます。イエスさまが私たちになさったことは、神の言葉を伝え、私たちを愛することでした。けれども、世はそれを受け入れなかったのです。しかし、悔い改め、神の言葉と愛を受け入れた者は、主イエス・キリストの愛に触れたものは、決してそこに留まることはありません。最も大事なことは、このような私たちの罪を、どうにもならない人間の根っこにあるものを、確かに取り除く方が、その方の方から、自分たちの方へ来られているということです。それが、何よりもまず、洗礼者ヨハネが、今この時も、私たちに言い続ける証しです。この罪を取り除く方が、神の子羊として、私たちのために命さえ惜しまず、愛してくださる方が、私たちのところにおられると伝えられます。

洗礼者ヨハネが、証しする主イエス・キリストは、彼がこれまでも、繰り返し語り続けてきた方です。「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。」この最後の「先」という言葉は、先や前という意味と共に、地位が高いということを含みます。ほとんど年の差があったわけではありませんが、洗礼者ヨハネよりもイエスさまの方が歳は若く、また当時、明らかに指導者として先に活躍していたのは、洗礼者ヨハネでした。その彼が、後から来られたイエスさまを、わたしより先におられた方、特別な存在として指し示すのには、確固たる根拠がありました。それが、ヨハネ自身が、知らなかったけれど、「見た」と言い続ける出来事でした。

太古の昔から、聖書が記された当時であっても「神の子」と言われた人は、歴史の舞台に度々登場しました。エジプトのファラオがそうでしょう。ローマの皇帝だったそうです。しかしながら、洗礼者ヨハネは、「この方こそ神のである」と、自分が見た確かな出来事によって、主イエス・キリストを証しします。それは、今を生きる私たちも同じです。神だと呼ばれるものが周りには溢れています。物も、人間も、何でも神になり、そもそも「神」とは何かがわからなくなってしまう世の中です。ヨハネによる福音書は、神とは何か、その語りを実に豊かにもっている書であると言えます。

神は、光です。神は、私たちを照らす光であって、その輝きは、いつも、いつまでも、私たちを照らし続けます。神が、光として、私たちを温め、どのような深い暗闇であっても、確かな道へとの導くのです。神は、愛です。愛は優しさだけではありません。時に厳しく導くことだってあります。けれども、愛は、私たち一人ひとりを包み込み、決して孤独のまま、独りぼっちで放っておかれません。どのような時であってもすぐそばにいて、どのような過ちをも、痛みをもって赦されます。私たちは、光ではありません。私たちには、愛はありません。私たちは、そのことを知りませんでした。しかし、それを知らないと知った時、向こうからやって来た光があり、私たちに与えられた愛があります。それが、主イエス・キリストです。この方こそ神の子です。洗礼者ヨハネの証しは、今この時も、教会の証しとして、そこに生きる者の喜びの言葉として、語り続けられています。

本日の説教のまとめ

主イエス・キリストこそ神の子であるという洗礼者ヨハネの証しは、今も教会に生きる人たちが証し続けていることであり、その内容の中心には、世の罪を除く神の子羊として、主イエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪を赦された出来事がある。