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赦す幸い、赦される幸い

2017年2月5日

マタイによる福音書第6章12節
川﨑 公平

主日礼拝


月の初めの日曜日ですから、いつものように、このあと聖餐を祝います。聖餐への招きの言葉として、ほとんど必ず読む主イエス・キリストの言葉があります。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

改めて気づかされます。「疲れた者、重荷を負う者」。わたしのことではないか。疲れてなんかいない、重荷なんかない、と強がっている人も、主の招きの声を聴きながら、気づかされるかもしれません。そうだ、主イエスは、わたしの重荷を知っていてくださる。そのことが既に大きな慰めでしょう。しかも主は言われるのです。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。ここは、もう少し原文のニュアンスを紹介したいところです。「休ませてあげよう」というよりは、「わたしがあなたを休ませるのだ」という感じの、断固たる宣言です。「あなたを休ませるのは、このわたしだ」と言ってもよいのです。このわたしイエスこそが、あなたを休ませる。だから、わたしのもとに来なさい。わたしは必ず、あなたに真実の安らぎを与える。そして続けて言われるのです。

 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

あなたが本当の休みを得るために。そのために、「わたしに学べ」と言われるのです。「わたしのもとに来て、わたしに学びなさい」。
皆さんひとりひとり、主イエスに招かれて、ここにまいりました。ほかの誰に呼ばれたのでもありません。そして私どもは、このお方から学ぶべきことを学ぶ。そこでこそ重荷から解き放たれるのです。しかし、重荷とは何でしょうか。いったい私どもは、いかなる重荷を負っているのでしょうか。
今日お読みしたのは、〈主の祈り〉の一部です。主イエスが、それこそ弟子たちに教えてくださった祈りです。「わたしに学びなさい」。あなたがたは、このように祈るのだ。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく われらの罪をも赦したまえ」。さまざまな思いを呼び起こす祈りの言葉だと思います。
ここでひとつ大切なことは、それこそこれを、主イエス・キリストから〈学ぶ〉ということだと思います。特に、この第六章の八節から九節にかけての言葉の流れが大切です。

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

「あなたがたに必要なもの」。それを本当に知っているのは、あなたではない。あなたがたの父である神が、あなたに何が必要かをご存じなのだ。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく われらの罪をも赦したまえ」。あなたに必要な祈りは、これだ。主イエスはそう言われるのです。

主イエスというお方は、本当によく私どものことを知っていてくださると、改めてそう思わされます。私どもは、疲れているのです。重荷を負っているのです。しかし私どもはしばしば、本当に疲れていても、かえって自分ではその疲れを自覚しないということがあるかもしれません。周りの人が先に気づいて、あなた、ちょっと休んだら、と助言したくなるということがあるかもしれない。主イエスというお方は、私どもの負っている重荷の真相を、よく見ておられたと思います。そこから解き放たれる道を、このように教えてくださるのです。「こう祈りなさい。『われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく われらの罪をも赦したまえ』」。これは、主イエスから〈学ぶ〉ことなのです。自然と身につくものではありません。私どもは、学ぶべきことを学ばなければ、自分の疲れに気づかないまま、死んでしまうかもしれません。

私は言ってみれば職業柄、いわゆる重荷を負っている人と話をすることがあります。重荷を負いながら、思いがけない導きがあって、できれば教会に通い始めたいと願っているような人が、たとえばこういうことをお尋ねになる。「先生、わたしは疲れているんです。重荷を負っているんです。教会に来れば、重荷から解放されますか」。私は当然こう答えます。「必ず解放されます。あなたは必ず、休むことができます」。もしもそういうときに私が、「うーん、もしかしたら、重荷が軽くなるように感じることも、あるかもしれませんね」などと言ったら、牧師として失格でしょう。私はどんな人にも明言するようにしています。「主イエスは必ず、あなたに本当の休みを与えてくださいます」。

ただし、あるときそういうやり取りをしながら、うーん、ちょっと待てよ、と思ったことがありました。「ぜひ今度の日曜日の礼拝に来てほしいけれども……いや、実は次の日曜日は具合が悪くて……。『われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく』というような話を聞かされますよ。だいじょうぶですか」。もちろん冗談半分で、「それが不安だったら次の次の日曜日からいらっしゃい。あ、でも、ちょっと待てよ……次の次の日曜日に来ても、今度はどうも、『敵を愛しなさい』というような話になりそうですね。じゃあ、次の次の次の日曜日からいらっしゃいますか」。もちろん、そんなことは考えられません。

私どもも、実は既に、学び始めていると思うのです。愛することができない悲しみ。赦すことができない苦しみ。赦せない、ということが、わたしの重荷になっているのです。もし、本当に、本当に赦すことができたなら。私どもは、そのとき初めて、重荷から解き放たれるのです。けれども、どうすれば本当に赦せるのでしょうか。そんなことが、死ぬまでにできるのでしょうか。

「赦す幸い、赦される幸い」という説教の題をつけてみました。「赦す幸い」。私どもは、赦すことによってしか、本当の自由解放を得ることはできない、という思いがあります。けれども私どもが日常的に知っている感覚から言えば、「罪を赦す」ということは、やっぱりつらいことです。罪というのは、本当に具体的に、人間を傷つけるものだからです。

しかし、そこで考えてみていただきたいのです。「赦される幸い」。どうでしょうか。誰かに自分の罪を赦してもらうというのも、考えてみれば、つらいことです。繰り返しますが、罪というのは、本当に具体的なことだからです。「悪いのはあなただ。でもあなたを赦してあげる」。誰かからそう言われることを、私どもは本当に願っているか。むしろ私どもがいつも、人から言われたいと思っていることは、「赦してあげるよ」ではなくて、「あなたは悪くない」ということなのです。けれども主の祈りを文字通りに祈るということは、ただちに、「悪いのは、わたしだ」という事実に直面させられるということを、意味します。「わたしの罪を赦してください」と言うのです。そんな祈りはしたくないと、私どもの誰もが、お互いに、そう思っているのです。そういう私どもが作っているこの世界が、どういう姿を見せてしまっているか。主イエスというお方は、私どもの負っている重荷を、その真相を、本当によく知っていてくださったのだ。私は本当に、そう思います。

その重荷から解き放たれるために、私どもは、主イエスのもとに行き、主イエスに学ぶのです。何をどう祈るべきかを、教えていただくのです。そこで主が私どもに丁寧に教えてくださったことは、「密室に入って祈れ」ということでありました。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)。なぜ隠れるのでしょうか。いろいろな意味があるかもしれませんが、ひとつには、他人に聞かれるわけにはいかない祈りを、神の前にはしなければならないということだと思います。

「神よ、あの人が、わたしに罪を犯しました。わたしがどんなに傷ついたか。あなたはご存じです。けれどもわたしは、もうその人を赦しました」。こういうことは、なるべく具体的に祈ることが大切だと思います。当然、密室に入らざるを得ません。改革者ルターは、主の祈りの中のひとつの祈りを祈るだけで四時間はかかると言ったそうです。そうすると、主の祈りを最後まで祈るためには少なくとも二四時間かかることになります。しかし丁寧に考えてみますと、こういう表現が決して大げさでないことに気づきます。「われらに罪を犯す者を」。私どもは、いくらでも祈りを広げていくことができるのです。しかもそこで祈るのです。「神よ、わたしはその人を赦しました」。四時間では全然足りないかもしれません。一生涯かけても間に合わないかもしれません。

けれどももうひとつ、この祈りが長くなる理由がある。「我らの罪をも赦したまえ」。自分の犯した罪を、なるべく具体的に神の前に言い表します。もちろん密室の祈りです。これも、いくらでも長くなるはずです。しかし、皆さんの中に、こういう祈りを毎日四時間なさる方が、実際にはどれだけいるでしょうか。もちろん、時間の長短だけを問うても意味はないでしょう。主イエスが端的に求めておられることは、隠れた場所で、本当に神に出会ってほしい、ということであります。

神の前にただひとりで立つとき、「わたしのもとに来なさい」と言われた主のお言葉の意味を、私どもは悟り始めます。ほかのところに行ってもだめだ。わたしのところに来るのだ。この「わたしが」と言われるお方、主イエス・キリストは、十字架につけられたお方です。ただひとりで、隠れた場所で神に祈るとき、神がみ子を私どもの罪のために十字架におつけになったことを忘れることはできません。私どもが聖餐の食卓を囲みながら思い起こすのは、いつもそのことです。なぜこのお方は、十字架につけられたのか。私どもの罪が赦されるためであったというのです。そして私どもは、このお方の十字架の前に立たなければ、自分の罪を正しく見つめることもできないと思うのです。

「われらに罪を犯す者を」という祈りをしながら、そのことについて本当に苦しんだことのある人なら、分かると思うのです。誰かが罪を犯す。そのために誰かが傷つく。他人事だったら、どうってことないのです。けれども自分がその当事者になったとき、私どもはどういうことを考えるか。確かに自分も悪い。申し訳なかった。できれば赦してほしい。けれどもこっちにもいろいろ言い分はある。一方的に自分だけが赦してもらうというのは、たぶん、違うと思う。相手も自分に赦しを乞うべきではないか。相手が謝るならこっちだって謝らないわけじゃない。自分も悪いが、相手も悪い。相手も傷ついたが、わたしも傷ついたのだ。……そういうとき、私どもは、主の十字架の前に立つことを忘れています。主の十字架の前でこそ見えてくる、自分の罪の真相を忘れているのです。

そういう私どもが、主イエスに招かれているのです。「疲れた者は、わたしのところに来なさい」。隠れた部屋に入りなさい。ひとりで、神の前に立ちなさい。そこに、どういう祈りが生まれるでしょうか。「神さま、疲れました。助けてください」。けれどもそこで祈りが終わるはずはない。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。主イエスのやさしさを学ぶのです。わたしの罪のために、十字架を負い抜いてくださった主の柔和と謙遜であります。そこでこそ知るのです。「ああ、ようやく気付きました。こういう重荷から、あなたはわたしを救い出してくださるのですね」。「わたしも、あの人を赦します」。この自由解放を私どもが知るために、主が教えてくださった〈主の祈り〉であります。

自分に罪を犯した人を、簡単には赦すことができない私どもであります。そのような私どもが、十字架につけられたお方の前に立たされるのです。主イエスが「赦しなさい」と言われたのは、「まあまあ、いいじゃないか、お互いさまだろう」という意味ではなかったことは明らかです。私どもの負った重荷も、私どもが他者に負わせた重荷も、小さくはないのです。そして主イエスこそ、私どもが負わせ合っている重荷の重さを、誰よりもよくご存じであったのです。その主イエスが、私どもの罪のために負ってくださった重荷の重さを、私どもは、忘れることはできません。主の十字架の痛みの深さは、私どもの罪の深さを表すものでもありますが、そのような私どもをなお愛し抜き、重荷から解き放ってくださった神の愛の深さでもあります。この神の愛の前に、今私どもも立つのです。

今、心新たに、主の招きの声を聴き取りたいと願います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私どもも、ここで真実の休みを得ることができる。私も今、そのことを、確信をもって告げます。