1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. この光は消せない

この光は消せない

2023年4月2日

川崎 公平
マルコによる福音書 第4章21-25節

棕櫚の主日礼拝

■既に予告しておりました通り、今月から礼拝・諸集会で用いる聖書が新しくなります。『聖書協会共同訳』という、実は刊行されたのはもう5年も昔のことになりますが、新型コロナ感染症に紛れて、導入が遅れました。既に本日の礼拝の最初に招きの言葉を聞き、詩編交読をし、また聖書朗読をお聞きになりながら、いろいろお気づきになったこと、あるいは気になったことがあるかもしれません。

もう半年くらい前にこの新しい聖書翻訳を用いることを正式に決めて、わりとすぐに私が気づいたこと、というよりも気になったことは、礼拝の最後の祝福の言葉にもいくつか変化があるということです。皆さんも、礼拝の最後の祝福の言葉は、何となくであっても覚えておられると思います。「主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主が御顔を向けてあなたがたを照らし あなたがたに恵みを与えられるように」という祝福の言葉、これは旧約聖書の民数記第6章24節以下ですが、本日からその祝福の2番目の文章が「主が御顔の光であなたがたを照らし」と変わります。

それこそ半年くらい前の雪ノ下通信の牧師室だよりに、この祝福の言葉について書いたことがありました。ようやく感染状況も落ち着いてきて、ふだん教会堂に来ることのできない教会の仲間のための訪問を重ねながら、施設に入っておられるご夫妻を訪ねて小さな礼拝をしました。その施設ではそれでも感染対策が厳重で、ガラスのドア越しにしかお会いすることができなかったんですね。それでも、本当に数年ぶりにお目にかかれて、本当に嬉しかった。しかしそのガラスのドアには鍵がかかっていて、当然パンと杯を渡すこともできませんから、聖餐を祝うことは諦めました。それだけに、礼拝の最後の祝福には思いを込めました。ガラス越しに、そのご夫妻の顔をしっかりと見つめながら、「主が御顔を向けてあなたがたを照らし」。数年ぶりにお顔を見ることができて、それは嬉しいことであるに違いないのですが、もっと大切なことは、神が御顔を向けていてくださるということです。いつどんなところにいても、われわれはガラス越しにしか顔を見ることができなかったとしても、主がそのご夫妻を、いつも御顔の光で照らしていてくださる。

私どもの信仰というのは、結局のところ、このひとつのことに尽きるのだと思うのです。いつも神の御顔の光がわたしに向けられている。わたしを照らしている。寝ても覚めても、どこに行くときも、喜びの日にも悲しみの日にも、あるいはわたしが罪を犯すときにも、いつも神の御顔の光がわたしを照らしている。そのことを信じて、私どもはいつも礼拝をするたびに、この祝福のもとに立つのです。

それにしても、「御顔の光で」というこの表現は、本当に印象深いものがあると思います。この光を、私どもは今も見ているでしょうか。しかし私どもが見ていなくても、今、現に、神の御顔の光が私どもを照らしているのです。この光のもとに立つための、主の日の礼拝であります。

■先週からマルコによる福音書の第4章に入りまして、今日は21節以下を読みました。先週の礼拝でもお話ししたことですが、この第4章においてひたすらに主イエスが語っておられることは、「神の国は近づいた」ということです。マルコによる福音書は既に第1章15節で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの最初の言葉を伝えています。主イエスが地上においでになってひたすらにお語りになったことは「神の国が来た」ということであったのです。神の国。「神の支配」と言ってもよいのです。「神は生きておられる」ということです。「神の国は近づいた」。こんなにも近くに、あなたのために、神の支配が近づいたのだから……。けれどもこの主イエスの言葉を聞いた人びとは、いぶかりながら周囲を見回したかもしれません。「神の国は近づいた」と言われても、「え? どこに?」ということにしかならないからです。たとえが悪いかもしれませんが、Aという国に住んでいる人たちのところに、突然隣りのBという国の人が乗り込んできて、「今日からここはB連邦が支配するからな」と言われても、戸惑うしかないのです。今の話はもののたとえとして不適切かもしれませんが、主イエスの言葉には、もしかしたらそれ以上の驚きがあったのではないかと思うのです。

したがって、主イエスは「神の国は近づいた」ということを説明するために、たいへん丁寧な話をしなければなりませんでした。そのためにこの第4章では、いくつものたとえ話が語られるのですが、これらはすべて〈神の国〉、〈神の支配〉の現実を明らかにするための話です。今日読んだところには「神の国」という言葉は出てきませんが、すぐあとの26節にも「神の国は次のようなものである」とありますし、30節にも「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と、いくつものたとえ話をしながら、神の国の何たるかを教えてくださるのです。

そこで、この21節以下のたとえ話で主が語っておられることは、「神の国の近づきというのは、光が来たということだ」。そう言われるのです。「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない」。そうしたら当然、また新しい問いが生まれるのです。「『灯を持って来るのは』と言われても……。その灯って、何の話? どこにあるの? 何も見えませんが……?」 もちろん主イエスはここで、ご自身のことを話しておられるのです。

その関連で、少し細かい話になりますが、21節に「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」とありますが、ここは原文を直訳すると、「灯が来るのは、升の下や寝台の下に置かれるためか」という文章なのです。誰かが灯を持って来てくれるというのではなくて、おや、向こうから灯がやって来た。まるで灯に足でも生えていて、自分で歩いてくるかのようです。そしてその灯の到来にはきちんとした目的があるのであって、その目的とは、「升の下や寝台の下に置かれるためだろうか」。繰り返しますが、ここで主イエスはご自身の話をしておられるのです。わたしは光としてこの世に来た。それは何のためか。升の下に隠すためか。そうではなくて、燭台の上に置いて、家中を照らすためではないか。あなたを照らすためではないか。

ここでも主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)と強調しておられます。「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)と言われるのです。あなたが今、何を聞いているかを理解しているか。わたしがここに、いるではないか。あなたの前に、わたしが立っているではないか。わたしがここにいるのは、升の下に隠すためか。ベッドの下にしまいこむためか。違うだろう。……その主イエスの言葉を聞いていた人びとは、既に神の御顔の光の前に立たせていただいていたし、今私どもも同じ光の前に立つのです。そのための礼拝であります。

■けれども問題は、この21節の言い回しです。「灯が来るのは、升の下や寝台の下に置かれるためだろうか」という持って回った言い方には、もちろん理由があります。光が世に来たのに、世は光を理解しなかった。人びとがよってたかってこの光を隠した。この光を無視した。事実、そういうことが起こりました。

今日から受難週が始まります。主イエスが十字架につけられたことを特別に覚えるための一週間です。そのために、今年も月曜日から金曜日まで、受難週祈祷会を行います。教会の仲間たちの聖書の説き明かしに導かれて、主の十字架のもとに祈りの集まりを作ります。そのために、今年は特にイザヤ書第53章(正確には第52章13節から)を毎日少しずつ読んでいくということをいたします。

彼には見るべき麗しさも輝きもなく
望ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
痛みの人で、病を知っていた。
人々から顔を背けられるほど軽蔑され
私たちも彼を尊ばなかった。 (2c~3節)

「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」。けれども事実、この灯が世に来たとき、誰もがこのお方から顔を背けるほどに、このお方を軽蔑したというのです。灯が来たのに、誰も彼を尊ばなかった。これを升の下に隠すということが、事実起こりました。だがしかし、今は私どもも知りました。私どもがこのお方に何の麗しさも認めない、望ましい容姿も輝きもない、こんなところに光はない、そう思ったとしても、このお方の苦しみの御顔は、まさにそれこそが、私どもに向けられた神の祝福の御顔の輝きであったのです。このお方の光の前に、今私どもも立たせていただくのです。

ある人が、「灯が来るのは、燭台のために置かれるためだ」という主イエスの言葉を説き明かして、「十字架こそが、その燭台だ」と言いました。そうかもしれません。22節で、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない」と主が言われたのは、まさしくそのことでしょう。この神の光を消し去ることは、絶対にできない。人間がどんな手段を用いても、この光を消すことは、絶対にできないんだ。そう言われるのです。

福音書を最後まで読み進めていくと、誰もが心を打たれるところがあります。主イエスが死刑の判決を受けておられたとき、とっくに主イエスを見捨てて逃げ出したはずの一番弟子のペトロが、それでも未練がましく、主イエスの様子を遠くから窺っていると、ふとそばにいた人から、「あれ、お前、あのイエスって奴の仲間だね」と言われて、大いに慌てふためいて、「わたしはあんな人のことは知らない、何の関係もない」と、三度繰り返して言い続けたというのです。なぜペトロはそんなばかなことを言ってしまったんだろうか。ペトロには勇気がなかったんだ。弱虫だったんだ。そういう感想もあり得るかもしれませんが、聖書の語るところは、少し違うと思います。ペトロが弱虫だったというよりも、主イエスのお姿が、あまりにも弱すぎて、だからペトロは、何の迷いもなく、主イエスとの関係を断ち切ったのです。そこにも預言者イザヤの言葉が、見事に成就しております。

彼には見るべき麗しさも輝きもなく
望ましい容姿もない。……
人々から顔を背けられるほど軽蔑され
私たちも彼を尊ばなかった。

けれども、ペトロが主イエスから顔を背けても、主イエスがペトロから顔を背けるようなことは決してありませんでした。「あんな人、わたしは何の関係もない」と言い続けたペトロを、主イエスは振り返って見つめられたと福音書には書いてあります(ルカによる福音書第22章61節)。主イエスから顔を背けたペトロを、けれども、主イエスは振り返って見つめられたというのです。「主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように」という祝福の言葉は、ペトロのための祝福でもありました。だから、ペトロも立つことができました。私どもも、同じ御顔の光のもとに立つのです。

■ところで、礼拝の最後の祝福の言葉の中で、もうひとつ変わるところがあります。やはり民数記第6章24節以下の、3番目の文章ですが、これまでは「主が御顔をあなたがたに向けて/あなたがたに平安を賜るように」と言っていたのですが、今日からは聖書協会共同訳にのっとって、「あなたがたに平和を賜るように」と言います。神が私どもにくださるのは、果たして「平安」と言った方がよいのか、「平和」と言った方がよいのか。語学的にはどちらに訳してもよいだろうと思いますし、信仰の感覚から言えば、絶対「平安」の方がよかった、という方がもしもいらっしゃったら、申し訳ないような気もしますが、この「あなたに平和を賜るように」という新しい翻訳を読んで私がはっとさせられたことは、この平安、あるいは平和は、神が御顔を向けていてくださらなければ、決して得ることのできないものだということです。神が御顔を向けてくだされば、それが即わたしにとっての平安になるし、神がもしもわたしから御顔を背けるようなことがあれば――もしも、万が一、そんなことがあったとしたならば――ほかの何がどんなに満たされていても、私どもは根本的に平安を失う。平和を失うのです。

今日も私どもは礼拝の最後に神の祝福を受けて、礼拝を終えて、それぞれの生活に帰って行きます。そしてそこで、私どもはいろんな人の顔に出会うのです。優しい顔もあれば、冷たい顔もある。いろんな人の顔色をうかがいながら、始終疲れ果てるような生活をしているかもしれないし、まさにそのようなところで、私どもは平気で神の恵みから顔を背けるのです。神の御顔なんて、神の恵みなんて、屁の突っ張りにもならん、と言いながら、何の力もない人間の顔をむやみに恐れるのです。だからこそペトロも、何の迷いもなく、主イエスから顔を背けたのかもしれません。

けれども、ペトロが主イエスから顔を背けても、主イエスがペトロに御顔を向けて、ペトロを見つめてくださるなら……。「お前、覚えてろよ」という御顔であったはずがないのです。主イエスは私どものためにも御顔を向けて、そこに確かな平和を与えてくださる。その平和というのは、ただ何となく心が平安で、穏やかで、という話ではないのです。私どもと神との関係がどうなっているか、という話です。

伝道者パウロはローマの信徒への手紙第5章において、「わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ている」と言いました。その平和とは、繰り返しますが、「あ~、なんだか今日は気分が穏やかだなあ」というような平安ではなくて、パウロは同じローマ書第5章において、神の敵でしかなかった私どもが、けれども御子の十字架の死によって、神と和解させていただいたのだと言います。私どもは、神の敵であったのだという、この言葉はあまりに強烈で、実は私どもはいつになってもなかなかその真意を理解しないところがあるのではないかと思うのですが、イザヤ書第53章を読んでいると、だんだん分かってくるような気もするのです。私どもは彼を軽蔑し、誰も彼を尊ばなかったのですから、私どもが同じように神から軽蔑されたとしても、神から尊ばれなかったとしても、当然であったかもしれない。ところが、私どもがいつも礼拝の最後に聞くことは、神が私どもに御顔を向けていてくださるということで、その神の御顔の光を私どもも仰ぎながら、わたしは神との間に平和を得ているとの確信に立って、ここから出て行くことができるのです。

■そこで最後に24節以下です。「何を聞いているかに注意しなさい」と主は言われます。「注意しなさい」と言われるのは、たいへんよく分かります。本来燭台の上に置かれるべき光なんです。ところがそれが私ども罪人の目には「見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない」ので、よほど注意して聞いていないと、私どもがどれほどのものを神からいただいているか、それが分からなくなるのです。けれども主イエスは、私どもの信仰を励ますように言われるのです。「何を聞いているかに注意しなさい」。あなたはすばらしいものをいただいているんだから。自分が何を聞いているのか、よく注意してごらん。

そこで面白いのは最後の言葉です。「あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。問題は、私どもがどのくらいの秤を持っているかということです。神がその御顔の光でわたしを照らし、わたしに平和をくださるというときに、「何を聞いているかに注意しなさい」。小さな紙コップしか持っていかないと、その紙コップに入るくらいの恵みしかいただくことができないし、逆に東京ドーム100個分の倉庫を用意して、神さま、ここに入るだけ全部くださいと言えば、さらにそこからあふれ出すものをいくらでもいただけるのだ。「あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる」。しかしそのために、その前提として、私どもが何を聞いているか、私どもが神さまから何をいただいているか、よく注意していなければならないのです。私どもは、何を聞いているのでしょうか。

ある聖書学者がこの箇所を説き明かしながら、こんなエピソードを紹介していました。ひとりのアメリカ・インディアンが、大都会に住む一人の白人を訪ねて、一緒に騒がしい都会の街を歩いていると、そのインディアンがふと、「おや、コオロギが鳴いているね」。そうしたら一緒にいた白人は、「そんなばかな。こんな都会にコオロギなんて」。けれどもそのインディアンは2、3歩進んで建物の壁にかかっていた野ぶどうの葉っぱをひっくり返すと、ちゃんとそこにコオロギがいて、白人はびっくりして、「本当だ。インディアンはよほど耳がいいんだね」。「いいえ、そんなことはありませんよ」。そのインディアンが一枚のコインを道に放り投げると、「チャリーン」。道を歩いていた人たちが、全員振り返った。「ほら、問題は、〈何を聞いているか〉ということですよ」。

「何を聞いているかに注意しなさい」。「聞く耳のある者は聞きなさい」。私どもは、自分でも気づいていないほどに、たいへん偏ったものしか聞き取っていないのかもしれません。自分の聞きたいことだけしか耳に入ってこないのかもしれません。それをこの主イエスのたとえで言い直すなら、実に小さな秤しか用意しないで、その秤に入るものだけを聞き取りながら、恐れたり思い煩ったり、ねたんだり争ったりしているだけなのかもしれません。考えてみれば、私どもがたとえば道に落ちる100円玉の音には鋭く反応するくせに、神の祝福の言葉にはそれほど鋭く反応しないのは、そういう種類の心の秤を持っているからだと言うほかないのです。

けれども主イエスは、そんな私どもを励ますように、こう言われるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」。「何を聞いているかに注意しなさい」。神の御顔の光が、今あなたを照らしているではないか。この光があなたを生かす。聞く耳を与えていただくための受難週となりますように。お祈りをいたします。

 

私どもの小さな器、罪の器を、今あなたがあふれるほどに満たしてください。そこで私どもの、わがままな、小さな秤もまた、あなたの恵みによって新しく、大きくしてくださいますように。今主の食卓にあずかります。私どもが尊ばなかったあなたの僕、主イエス・キリストを、しかしあなたは私どもの光としてくださいました。あなたの御顔の光を仰ぎつつ、今私どもも光の存在として立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン