望みに逆らって望む
ローマの信徒への手紙 第4章13-25節
川崎 公平

主日礼拝
■日曜日の朝、私どもは毎週このように礼拝をしているわけですが、いったい私どもは、ここで何をしているのでしょうか。何のために、このような礼拝をしているのでしょうか。それはきっと、いろんな言い方が可能だろうと思います。神の前に立ちたい。神が生きておられることを知りたい。実際のところ、神さまなんているのか、いないのか、実はよくわからないのだけれども、もし神さまが本当にいるのなら、その力に触れたい。そうして、わたしも神さまから力を与えられたい。……もちろん、それは間違っていません。神は生きておられます。神さまがいたとしても、ただいるだけじゃあしょうがないのですが、神は力です。どんなものよりも、力を持ったお方です。けれども問題は、その神の力がどこに見えるか、ということです。もしこの日曜日の礼拝が、力ある神のみ前に立つ出来事であるとするならば、私どものしているこの礼拝のどこに、神の力が見えるかということです。
礼拝なんて、いったい、こんなことをしていて何になるんだろうと、ふと疑いの心に誘われることは、私にだってあります。牧師のくせに、と言われてしまうかもしれませんが、むしろ牧師だからこそ、そういう疑いに誘われやすいのではないかと、自分ではそう思っています。なぜかというと、私どもがこの礼拝でしていることと言えば、要するに言葉を聴いているだけだからです。私のような者の立場から言えば、自分の言葉を聞いてもらっているだけ。特に今日は、声の調子がひどく悪くて、こんな聞き苦しい声を何十分も聞いていただいて、その上で、これが真実の礼拝です、神の力を受けて、さあ、ここから出発しましょう、とか何とか言われたって……いったい自分は、自分たちは、何をやっているんだろう、と、ふと疑いの心に誘われることがあったとしても、それは不思議でも何でもないし、むしろそれは、私どもの信仰生活の本質に関わることでさえあると思うのです。
■こういう私どもの信仰生活の特質、あるいは本質と深く関わるのが、「約束」という言葉です。今日はローマの信徒への手紙第4章13節以下を読みました。この手紙において、ここで初めて出てくる大切な言葉が「約束」です。13節、14節、16節、そして特に際立っているのは何と言っても20節、21節でしょう。
彼〔アブラハム〕は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。
私どもが毎週礼拝においてしていることも基本的には同じことで、私どもは神の約束を信じて、ここに集まるのです。神の約束を、何度でも聴かせていただくために、礼拝をしているのです。私どもだって、「不信仰に陥って神の約束を疑うようなこと」がいくらでもあるかもしれない。けれども礼拝のたびに、「むしろ信仰によって強められ、神を賛美し」、それはなぜかと言うと、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信してい」るからです。
奇跡的なことばかり追いかけている教会もないわけではありません。奇跡なんて大げさなことでなくても、こんなことがあった、あんなことがあった、わたしはこんなすばらしい体験をした、そうしてわたしは神の力を確信することができたと、そういう話を〈証し〉と称して、大事にする教会がないわけではありません。けれども、少なくとも私どもの教会では、そういうことが礼拝の中心に立つことはありません。私どもの信仰は、約束を信じる信仰です。その約束がまだ成就していないからこそ、約束を信じるのです。既に見ていること、既に起こったことを信じるのであれば、それは約束でも何でもありません。まだ見ていないこと、まだ成就していないことを信じるからこそ、それは〈約束〉なのです。
そのために教会は生きています。そのために教会は〈み言葉〉を聴きます。そういう、ただ〈言葉〉を聞いているだけの礼拝というのは、決して人目を引くような行為ではないかもしれません。いったいこの人たちは何をしているんだろうと、いぶかる人がいたとしても当然かもしれません。私どもは、約束を信じているのです。
■その信仰者の歴史の先頭に立つのが、ここに出てくるアブラハムという人です。もう一度20節以下を読みます。
彼〔アブラハム〕は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。
アブラハムもまた、何か目覚ましい出来事があったから信じたわけではありません。ただ神の約束を信じたのです。奇跡を見て信じたのではありません。見ないで信じた。ただ神の言葉を信じたのです。しかもそのアブラハムの信仰の歩みというのは、決して平坦なものではありませんでした。
先ほど、ローマの信徒への手紙と合わせて創世記第18章を読みました。アブラハムが100歳、妻のサラが90歳のときに、既に何度も聞かされてきた神の約束を、もう一度聞かせていただきました。「来年の今頃、あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」。それを聞いて、アブラハムもサラも、心の中で笑った、というのです(アブラハムが笑ったということは第17章に書いてあります)。神の約束を聞いて笑うなんてけしからん、などと言える人は、おそらくひとりもいないと思います。何をどう考えても、前向きな条件はひとつも見つからないのです。「神さま、よりによって100歳と90歳の夫婦にそんなことをおっしゃらなくても。ほかにも若くてピチピチした、しかも信仰深い夫婦はたくさんいますよ」。冗談半分で、言ってみれば神さまをせせら笑うというよりは、自分たちの老いぼれぶりを笑うような気持ちで、内心そんなことを考えたのではないかと思います。
ところがこの夫婦は、神さまから思いがけない追撃を食らうことになります。「なぜ笑うのか」。びっくりしてサラは答えます。「いえ、わたし、笑ってません」。「いいや、あなたは笑った」。この夫婦は、神を信じるということの厳しさとすばらしさを、改めて思わされたのではないかと思います。
なぜ神の約束を笑ってはいけないのでしょうか。神の約束を信じる、ただひとつの根拠は、それを言われたのが神であるということだけだったのです。私どもの信仰生活、礼拝生活も、まったく同じだと思うのです。なぜ私どもは毎週礼拝をするのか。いったいそこで、何をしているのか。神の約束を聞かせていただくのです。人の目には、なぜそんなつまらないことに時間を費やすか、ということにしかならないかもしれない。いくら何でもそんなばかげた話があるか、ということでしかないかもしれない。その約束を語られるのが神だから。だから、私どもは神の約束を聞くために、ここに集まるのです。それ以外に、理由はないのです。
■その関連で(一見、何の関連もなさそうに思えるのですが)、ここでもうひとつの大切な主題は〈律法〉です。13節、14節、15節、16節に「律法」という言葉が出てきますし、それはさかのぼれば第3章の28節の繰り返しです。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」。この場合の律法の行いというのは、何となくよい行いをするとか、愛のわざに生きるとか、ひと様に恥ずかしくない立派な生活をするというような話ではありません。この文脈における〈律法の行い〉の典型的なものは、ちょっと意外な話かもしれませんが、〈割礼〉であります。12節までのところを読む限り、それは明らかです。なぜそんなことが問題になるのでしょうか。
割礼については、先週の礼拝でも少し触れました。ユダヤ人の男の子が生まれて八日目に必ず受けなければならない、男性器の包皮の手術の跡が、自分は神の民に属する者であるということのしるしとなったのです。そういう意味で、「もし律法に頼る者が(言い換えれば「割礼に頼る者が」)相続人であるとするなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます」(14節)。15節では、「律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません」とまで言われます。なぜそこまで言うのでしょうか。
割礼などと言われても、私どもにとってはあまりにも遠い世界の話のようで、ちょっと意味がわかりません。しかし当時のユダヤ人にとっては、いちばん大事な話だったのです。なぜ割礼がそんなに大事になったかと言えば、今申しました通り、それが自分の救いを確かめるしるしになったからです。
聖書学者の説明によれば、割礼がユダヤ人の間にきちんと定着したのはバビロン捕囚のあとだと言われます。割礼がユダヤ人のアイデンティティとして確立したのは、アブラハムの時代よりも千年以上あとの話だ。意外と新しいな、と思われるかもしれませんが、これは歴史における常套であるとも言えます。バビロン捕囚、国の最大の危機です。国が丸ごと滅ぼされたのです。そういう国家の危機を経験した人たちが、何か昔からの大事そうなものを持ち出してきて、これがわれわれのアイデンティティであると言い始めるというのは、よくある話です。明治以降の日本における天皇制なんてものは、その典型だろうと思います。割礼こそが、われわれが神の民である証しである。律法を行うことによってのみ、われわれは神の民たり得るのだ。割礼と並んで、安息日を徹底的に重んじるということもまた、同じくバビロン捕囚のあとに起こってきたことです。一面から言えば、この割礼厳守、安息日厳守ということによって、イスラエルは神の民としてのアイデンティティを失うことなく、バビロン捕囚という国難をも乗り越えることができたことも事実です。しかしまたその律法主義が間違った誇りとなり、こだわりとなり、それがのちに主イエスによって厳しく攻撃されることとなりました。
割礼の何が問題なのでしょうか。もう一度14節を読みます。「もし律法に頼る者が相続人であるとするなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます」。割礼そのものが間違っているという話ではありません。問題は、「もし律法に頼る」なら、「割礼に頼る」なら、約束はどうなるかと言っているのです。約束だけでは、不安なのです。ただ言葉を聞いているだけでは、満足できないのです。何か目に見えるしるしに頼りたい。それで、わたしにはこれがあるから、このしるしがあるから、こんな証拠があるから、たとえばわたしは割礼を受けているから、だからだいじょうぶなんだ。――その信仰の姿勢は、約束を無効にすることになってはいませんか。アブラハムのことを考えてごらんなさい、とパウロは言うのです。
■アブラハムには、何のしるしもありませんでした。何の証拠もありませんでした。何の証拠もないけれども、ただ神の約束を信じたのです。その約束をしてくださったのが神だったからです。いや、アブラハムだって割礼を受けました。割礼はアブラハムから始まった。ちなみにそれは創世記第17章の話です。けれどもそのあと、第17章の後半でアブラハムは神の約束を笑った。今日読んだ第18章では、今度は妻のサラが神の約束を笑った。少なくともアブラハムにとっては、割礼は何の支えにもならなかったのです。けれども笑いたくなろうが何だろうが、アブラハムにとっての唯一の支えは、神の約束以外になかったのです。
考えてみますと、神さまもずいぶん酷なことをなさいます。アブラハムが最初に「あなたの子孫は数えきれないほどになるだろう」との約束を聞かせていただいたとき、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳であったといいます。そのくらいの年齢なら、まだ子どもを産む可能性が僅かに残っていたんだけど……とは誰も考えないでしょう。それでもアブラハムは信じたのです。神の約束だから。ただそのことだけをよりどころとして、これを信じたのです。ところがこの夫婦は、その約束が成就する時まで、25年間も待たなければなりませんでした。アブラハムが100歳になるまで、サラが90歳になるまで、人間の側の可能性が本当に完全に消滅するまで、神はその約束の成就を待たれたのであります。19節にこう書いてある通りです。
およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。
ここに「死んだ」「死んでいる」という言葉が繰り返されます。「自分の体がすでに死んだも同然であり」というのは、若干意訳しております。直訳すれば、「自分の身体がすでに死んでいる」という言葉です。いや、別にアブラハムの体は死んでないじゃないか、と言われるかもしれませんが、少なくとも子を産むという意味では、アブラハムの肉体は既に完全に死んでいた。だから妻サラについても、「サラの胎も死んでいることを知りながらも」と言うのです。そのアブラハムの信仰が、私どもの信仰の始まりとなりました。17節の後半から、こう書いてある通りです。
彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。
アブラハムが信じたのは、死者を生かす神です。無から有を呼び出される神です。その場合の「死者」とは他人のことではありません。死んでいた人間、それは自分のことだ。わたしの体は死んでいた。妻サラの胎も死んでいた。だからこそ「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです」。「彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました」。信仰における、私どもの父となったのです。
■先が見えないこの世界なのであります。「アブラハムは、望みえないのに望みを抱いて」と言うのですが、望みがどこにも見えないということにおいても、まさしくアブラハムは私どもの信仰の父です。5年後、10年後、世界はどうなっているのだろう。誰もが言いにくいと思っていること、けれども多くの人が予感していることは、このままこの世界は本当に滅びてしまうのではないかということです。8月6日、9日、そして15日という、この国に生きる私どもにとっては忘れることのできない日付を経て、しかしあれから80年経って、人間はひとつも利口になっていないということを、深い痛みをもって思わずにおれないのです。
そのような世界の中にあって、「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じ」る教会が生きているということは、小さなことでしょうか。ただ神の約束だけを信じて、礼拝の生活を続けているこの教会の存在には、何の意味もないのでしょうか。私はそうは思わない。どこにも望みが見えないからこそ、「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じ」て、「望みえないのに望みを抱いて信じ」て、そんな教会がこの世界で神を礼拝し続けているということは、そのこと自体が、どんなに尊いことかと思うのです。ただ神の約束だけを頼りに、私どもは礼拝の生活を続けます。その信仰の先頭に立つのがアブラハムなのです。
■アブラハムもまた、決して信仰の偉人ではありませんでした。いろんな失敗を繰り返しながら、それでも神の約束だけがアブラハムの支えであり続けました。19節の最後には、「その信仰は弱まりませんでした」と書いてありますが、それだってアブラハムの手柄には決してなりません。実際には、神の約束を笑ったり、これを侮ってとんでもないことをしたり、たとえば妻のサラよりもずっと若い女奴隷と寝て神の約束の子孫をこしらえようとしたり。けれども、アブラハムがどんなに揺らいでも、神の約束に揺らぐところはひとつもありませんでした。その揺らぐことのない神の約束に、繰り返し引き戻されながらの歩みでした。
そんなアブラハムの歩みの中で、おそらく最大の危機となったことが、創世記第22章に伝えられています。創世記第21章で、ようやく約束の子イサクが生まれる。アブラハムは、イサクのことをどんなに喜んだか、どんなにかわいがったかと思うのですが、そのイサクがある程度大きくなってからでしょう、創世記第22章において、突然神の声が聞こえます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを、焼き尽くすいけにえとして献げなさい」。それを聞いたとき、アブラハムは、もちろん笑いませんでした。笑うことなんかできませんでした。アブラハムは、どんなにうろたえたことでしょうか。どんなに悲しんだでしょうか。あるいは、どんなに苦しんだでしょうか。けれども不思議なことに、この創世記第22章においては、聖書はアブラハムの心の動きをまったく伝えません。驚くほどに沈黙しています。書いてあることはただ、アブラハムが神の命じられた通りにした、ということだけです。
アブラハムは、奇跡を信じたのでしょうか。自分の子どもの代わりになる供え物が既に準備されていることを、あらかじめ知っていたのでしょうか。そうではなかったと思います。アブラハムの目に見えるところには、ただ絶望しかなかったのです。けれどもその絶望の中で、その絶望に逆らって、アブラハムは「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました」。「死者を生かし、無から有を呼び出される神」というのは、アブラハムが自分自身の身をもって経験したことでもあります。今自分の目の前に生きているイサクは、死んでいたはずの自分から生まれた子ではないか。「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じ」よう。信じるしか、ないじゃないか。ほかに何も頼るものを持たない。ただ、神の約束にすがるほかない自分であることを、改めて思ったのではないかと思います。
■このようなアブラハムの信仰に証しされるようにして、最後に起こされた神の出来事が、キリストの死と復活です。最後の24節以下にこう書いてあります。
私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、義と認められるのです。イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。
アブラハムを信仰の父とする私どもは、このキリストの十字架と復活を信じます。「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じ」、それゆえに、キリストの死と復活を信じるのです。そのために、教会は生きています。そのために、今このように礼拝をしているのです。たとえ、この世界のどこにも望みが見えなくなったとしても、それでも、この世界は、神の約束のもとに置かれております。神の愛の中に守られている、この世界なのです。なぜそんなことを言えるのか。根拠を見せろと言われたら、その根拠は、神の約束だけだと言うほかありません。主イエス・キリストの死と復活だけが、この神の約束の証しなのです。お祈りをいたします。
死んだ者に命を与え、無から有を呼び出してくださる父なる御神、あなたの力を、あなたの約束を、ただ信じさせてください。あなたの約束以外に、何の望みも持たず、事実何の望みも見えないこの世界なのです。世界の滅亡さえ予感させるこの世界にあって、それでもあなたの約束を信じて礼拝を続けるあなたの民を、どうかあなたのみ言葉によって励まし、生かしてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン











