祝福の足跡に従って
ローマの信徒への手紙 第4章1-12節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第4章の最初の部分、1節から12節までを読みました。この部分を貫くひとつの主題は〈幸い〉ということです。「幸せな人、それはどういう人のことか」ということです。6節、また7節にも8節にも、また9節にも、繰り返し「幸い」という言葉が出てきます。
同じようにダビデも、行いがなくても神に義と認められた人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである。
主に罪をとがめられない人は/幸いである」。
では、この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか。
もともとの主題は、「信仰によって義とされる」ということです。その「義」という言葉、「義とされる」という言い方がどうも難しい、いつまでたってもよくわからないと、よく私も文句を言われます。もしかしたらこの手紙をパウロも、この「義」という言葉の難しさに気づいていたのかもしれません。それでここでは、「幸い」という観点から「義とされる」ということの内実を明らかにしようとしているのかもしれません。幸せな人、それは神に義とされた人である。そのことを、ここで改めて明らかにしようとするのです。
誰もが願っていることは、「幸せになりたい」ということです。そのことを、ここでパウロも心を込めて語ります。「幸せとは何か」。「幸せな人、それはどういう人のことか」。そのことを明らかにするために、ここでパウロはふたりの人物を紹介します。それがここに出てくる、アブラハムとダビデであります。
■アブラハムの話は、先週の礼拝でもわりと丁寧にしました。なぜここでアブラハムが引き合いに出されるかというと、3節にこう書いてあります。「聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』とあります」。神を信じて、それが義と認められた最初の人、それがアブラハムでした。先週の礼拝でお話ししたことを繰り返すつもりもありませんし、そんな時間もありませんが、アブラハムという人は、つくづく幸せな人であったと思います。その幸せとは、要するに、神を信じて生きることができた幸せであったのです。
そのアブラハムの幸いの中身をなお丁寧に説明しているのが2節です。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」。この言葉を、敢えてこう言い換えることも許されると思います。「もし、アブラハムが行いによって義とされたのであれば、人間の前では幸せになれたかもしれませんが、神の前では幸せになれません」。アブラハムは、自分の行いによって義とされたわけでもないし、自分の行いによって幸せになったわけでもない。人間の前での幸せをでっちあげることならできたかもしれませんが、神の前に立つ人間の幸せは、そんなものじゃない。
ところで、ここでまず確認すべきことがあります。この第4章のパウロの言葉は、非常に論争的です。事実パウロはここで、もっぱらユダヤ人を相手に議論をしているのです。そのユダヤ人との議論のために、どうしてもアブラハムを持ち出さなければならなかったのはなぜかというと、ユダヤ人たちがパウロの伝えているキリストの福音に激しく反対していた、その重要な根拠がアブラハムだったからです。ユダヤ人いわく、「アブラハムは行いによって義とされたのだ。創世記を読め。アブラハムが、どんなに立派な行いに生きたことか」。本当にまじめに創世記を読めば、むしろアブラハムがどんなにみじめな失敗を繰り返したか、簡単にわかるはずだろうと思うのですが、ユダヤ人にとってアブラハムは完璧なレジェンドですから、そんな読み方はできない。そんなユダヤ人たちに対して、パウロは言うのです。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』」。行いじゃない。信仰だけなんだ。
■このことをはっきりさせるために、パウロはもうひとり、ダビデの話を始めます。6節には「同じようにダビデも、行いがなくても神に義と認められた人の幸いを、こう言っています」とあります。つまり、アブラハムとダビデは、同じ幸いの中に生きた。どこが同じかというと、「行いがなくても神に義と認められた人の幸い」、そういう同じ幸せを、アブラハムとダビデはいただいていたのだ。そう言って、詩編第32篇の冒頭を引用します。
「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである。
主に罪をとがめられない人は/幸いである」。
このような詩編を歌ったダビデという人は、アブラハムと並んで、ユダヤの人びとにとっては国の英雄です。けれどもまた聖書は、このダビデがどんなに深刻な罪を犯したかを、赤裸々に伝えます。ダビデは、自分の部下の妻が裸で水浴びをしているのを見て、どうしてもこの女と寝たいと思い、この女の夫を戦場に送って、罠にかけて殺してしまい、遂にその女を自分の妻にすることに成功します。殺人と、姦通と、たとえば私のような人間がそんなことをしたら、たちまち首が飛ぶに違いない。しかしダビデは、幸か不幸か私なんかよりずっと力がありましたから、これをもみ消すことができました。しかし神の前ではもみ消すことができませんでした。ダビデは、ひとりのみじめな罪人として、神の前に立たされます。
そのようなダビデが神の前で祈った悔い改めの祈りが、まず何と言っても有名なのは詩編第51篇であり、この第32篇もそのような歌であると理解することができます。詩編第51篇についてここで話をする暇はありませんが、たいへん印象深い詩編です。それに比べて、第32篇は見劣りするかというと決してそんなことはなくて、この第32篇が本当に強烈だと思わされることは、ダビデはここで自分自身の罪を思いながら、その自分の罪に打ちひしがれながら、「わたしは何と幸せなのだろう」と歌っていることです。「わたしは何と幸せなのだろう。わたしは、何と幸いな罪人なのだろう」。
「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである」。幸せな人、それは、不法を赦された人である。罪を覆われた人である。その人こそ、いちばん幸せな人だ。繰り返しますが、ダビデは他人の話をしているのではありません。このわたしこそ、その幸せな罪人のかしらだと言っているのです。
■「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである」。これは正直に申しまして、私どもがいちばんわかりにくいこと、わかりにくいというよりも、わかりたくない、と言ったほうがいいかもしれません、いちばん受け入れたくない幸せが、この詩編に歌われているのではないかと思います。「幸せになりたい」と、誰もがそう願うのです。しかし、幸せとは何でしょうか。たとえば、逆に考えてみればよいと思います。私どもにとっての不幸とは何でしょうか。「お前が悪いんだ。お前は罪人だ。全部お前のせいだ」と、そんなことを言われたら、私どもは人生でいちばん不幸に感じるだろうと思います。逆に、皆が自分の正しさを認めてくれたら、どんなに幸せでしょう。「あなたは悪くないよ。あなたのせいじゃないよ」と、皆が認めてくれたら。そのついでに、「本当はあの人が悪いんだよね」と言ってくれたら、私どもはいちばん幸せを感じるのです。実に愚劣な話ですが、私ども罪人がいちばん願っている幸せは、結局そういうことでしょう。
ところがここで詩編第32篇が歌う人間の幸せはそうではなくて、「不法を赦され、罪を覆われたあなたは、幸いだ」。あなたの罪は赦された。あなたの罪は覆われた。それに答えて、「わたしは何と幸せなのだろう。わたしは、何と幸いな罪人なのだろう」と、そう歌うのです。
ここにまず、「不法を赦され」と書いてあります。これが既にとても興味深い言葉で、「放つ」「去らせる」という意味の言葉です。ミサイルを発射するというようなときにも、この言葉を使います。大砲のように、矢のように、自分がやってしまったはずの不法がどこかに飛んで行ってしまって、もうここにはない。だから、自分は責任を問われない、だから幸せだ、というのは、なんだかずいぶん図々しい話です。
そこにもうひとつ言葉が重ねられて、「罪を覆われた人は、幸いである」。覆われるというのは文字通りの意味で、しかしこれも輪をかけて図々しい言葉です。確かに自分は罪を犯した。その自分の罪はどこに行った。このあたりにあるはずだけど、覆われてしまって、もう見えません。だから、もう自分は責任を問われません。いやいや、いくら何でも、そんな無茶な話があるか。そんな図々しい話があるか。ところが聖書は、そんな図々しい話があるのだと言うのです。その図々しい話がなかったら、私どもは救われようがなかったのです。
それはもとより、「あなたは悪くないよ」という話でもないのです。ダビデは、取り返しのつかないことをしました。その取り返しのつかない罪を、自分で隠そうとしました。けれども、神の目には隠すことができませんでした。ところが、その神が、ダビデの罪を覆い隠し、これを赦してくださったというのです。
「わたしの罪は飛んで行ってしまったから、わたしの罪は誰かが覆ってくれたから、だからわたしは幸せだ」。繰り返しますが、図々しいにもほどがあります。けれども、取り返しのつかない罪を犯してしまったダビデにとって、図々しくない救いなど、どこにあり得るでしょうか。そして、ここでパウロが、こんなにも図々しい救いの道を説いているのはなぜかというと、私どもの罪を覆い隠してくださったのが、十字架につけられたキリストであられるからです。
■私どもの生まれつきの心に、自然と生まれてくる思いは、「わたしは悪くない。わたしのせいじゃない」、しかし、それだけではないと思います。本当に自分の罪に苦しむことがあるだろうと思います。人は自分に対していろんなことを言うかもしれません。自分のことをほめたりけなしたり、いろんな言葉が聞こえてくるかもしれません。けれども私どもが本当に自分の罪に苦しむときというのは、ほかの人の言葉なんかどうでもよくなるので、誰が何と言おうと苦しいんです。ほかの人の言葉に苦しんでいるときは、まだそんなに苦しんでいないことが多いと、私は思います。「なにくそ」と跳ね返せばいいんです。けれども、ほかの人の言葉なんか何の意味もない、本当に自分で自分の罪に苦しむとき、私どもは死にたくなるかもしれません。誰が何をどう慰めてくれたって、何の力にもならないのです。
ところがそういうときに、神の言葉が聞こえてきます。「あなたは、幸いである」。「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである」。ダビデもまた、この神の声を聴いたのです。神は、私どもの罪をお認めにならない。それはもう覆われてしまったから、神はもうあなたに罪を見出されない。なぜでしょうか。大した問題じゃないんだから気にするな、という話ではありません。大したことある私どもの罪のために、キリストが十字架につかれたのです。それ以上に罪を大きく問題にする方法はないでしょう。神は、世界の誰よりも、私どもの罪を大問題になさるのです。その上で、キリストの十字架によって、私どもの罪を赦し、これを覆い隠してくださったのです。私どもを、義となさるためです。
「義」という言葉については、最近、毎回のように説明しております。神との正しい関係のことです。神は、どんなことをしてでも、御子の命に替えてでも、私どもと一緒にいたいと願われたのです。あなたと一緒に生きていきたいんだ。
■この神の恵みに対する応答が、信仰であります。5節にこう書いてあります。「しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」。神は、私どもの罪をお認めにならない。その幸いの中に立つために、何の条件もありません。働きがなくてもよい。何の行いも求められない。ただ信じるだけだ。信じてください!
「不敬虔な者を義とされる方を信じる人は」と書いてあります。これは、不思議な言葉です。不敬虔な者でいい。神を信じない人間でもいい。ダビデのことを思い起こしてみてください。神を信じないで、その不敬虔のために、どんなにみじめな結果を見ることになったか。ところが神は、その不敬虔な者を義としてくださる。そのための条件は、ほかの何の条件もいらない、ただ信仰だけだと言うのです。
しかし、信仰というのは、果たして条件になるのでしょうか。たとえば、取り返しのつかない罪を犯したダビデのことを考えてみればよいのです。これだけのことをして、ただではすまないだろう。ところがその罪が赦されたというときに、そのダビデが、「神さま、そうなんですね。わたしの罪は、赦されたんですね」と答えたからって、「さすが、ダビデの信仰はすばらしい」などとほめる人はいないでしょう。「不敬虔な者を義とされる方を信じる人は」、もはや「働き」なんて、何もなしようがないのです。ただ、神が赦してくださるのです。そうであれば、ただ信じるしかないのです。それが、恵みを受けて生きるということです。ここに、人間の最高の幸せがあります。
■その関連で、とても興味深い言葉が4節にあります。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされます」。不思議な言葉ですが、落ち着いて読めば何も難しいことはありません。働く人が一所懸命働いて――もちろんこの場合、私ども人間が神の前で一所懸命働くのです――その働いた分の報酬をいただくという、もしもそういう話なのであれば、それは当然「恵みではなく、当然支払われるべきもの」ということになるでしょう。そして実際、世の中にはそういう救いの道を説く宗教が山ほどあります。「いいことをしていれば、きっと神さまは見ていてくださるはずだ」。「つらいことがあっても我慢していれば、必ず神さまは報いてくださるはずだ」。けれどもそれは、神さまに支払いの義務を押し付けているだけにならないか。「神さま、わたしはこんなに一所懸命やったんだから、神さまはわたしに報酬を支払う義務がありますよね」。それは、「罪を覆われた人は、幸いである」という聖書の教えと、何と隔たっていることでしょうか。神の側には、私どもに対する何の義務もありません。何の責任もありません。神の側にあるのは、ただ愛だけです。だから続けて5節では、「しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と言われるのです。私どもの側に何の働きがなくても、それどころかマイナスの価値しか持たない罪人を、神は義としてくださるのです。
■9節以下には、いきなり割礼の話が始まります。ここでもパウロは、もっぱらユダヤ人を相手に論争をしております。その論争の主題は、信仰が先か、割礼が先か、ということです。割礼というのは、ユダヤ人の男の子が生まれて八日目に必ず受けなければならない肉体の傷です。それが神の民イスラエルに属する者の大切なしるしとなったのです。それは、創世記第17章によれば、神とイスラエルとの間に結ばれた契約のしるしだと言われます。「わたしはあなたの神だ」。そのしるしとなる割礼が、ユダヤ人にとっては自分たちの救いを証しする何より大事な証拠でしたから、「この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか」という議論が始まるわけです。
割礼なんて、きっと皆さんは何の興味もないと思います。さりとて、割礼だって神がお定めになったものです。神さまの恵みのしるしなんだったら、大切にしたっていいじゃないかということにもなりそうですが、パウロはユダヤ人の問題を鋭く見抜いておりました。割礼を大事にしているユダヤ人の傲慢を、よく見抜いておりました。もしあなたがたの割礼が、罪を赦される幸いを見えにくくしているのであれば、もう一度割礼の意味をよく考え直してほしい。それで、10節以下でこう言うのです。
どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証印として、割礼の印を受けたのです。
アブラハムは信仰によって義とされた。それは割礼を受ける前か、割礼を受けた後か。先週の礼拝で、創世記の第15章を読みました。アブラハムが、ただ信仰によって義とされたということを伝える記事です。アブラハムが割礼を受けたのは、第17章だ。だから、割礼よりも信仰が先だ、という議論もまた、皆さんには何の興味もないものだろうと思うのですが、この第15章と第17章の間に、第16章があることを忘れてはならないでしょう。第15章において、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と言われるのですが、その次の第16章では、まるで信仰がなくなってしまったかのように、アブラハムは自分の妻以外の女と寝て、自分の子孫を作ろうとします。それがうまいこといって、さあ、これで神さまの約束通りになるぞ、と思ったのですが、そのことがアブラハムの家庭に、深刻な問題を呼び起こすことになります。その話は、先週の礼拝でも丁寧にしましたから、これ以上繰り返すことはしません。そんな経験をしながら、アブラハムもまた、自分の罪にどんなに苦しんだことでしょうか。そんなアブラハムに、第17章に至って、割礼が授けられたのです。「わたしはあなたの神である」という、契約のしるしであります。その割礼とは、アブラハムにとって、赦しのしるしでしかありませんでした。自分には、何の働きもない。ただ、神の恵みにのみ依存している人間のしるしが、割礼であります。
■それで最後に、11節以下であります。
アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証印として、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人(つまり、今この教会に生きる私ども)の父となり、彼らも義と認められました。また、彼は割礼の父ともなりました。割礼のある者にとってだけでなく、私たちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の足跡に従う者にとっても、父となったのです。
特に最後の12節の言葉は、パウロが特別な思いを込めて書いたものだと思います。私どものために、しかしまたユダヤ人のためにも、特別な思いを込めた言葉だと思います。「アブラハムの信仰の足跡に、あなたがたも従いなさい」。アブラハムも、そしてダビデも、赦された罪人でしかありませんでした。「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである」。どうかあなたがたも、同じ幸いの中に立ってほしい。「わたしは悪くない」ではありません。「わたしみたいな悪人、生きる資格もない」というのでもありません。「わたしは、何と幸いな罪人なのだろう」。アブラハム、そしてダビデの信仰の足跡を正確に踏む教会であらせていただきたいと、心から願います。お祈りをいたします。
罪を赦され、罪を覆われた私どもこそ、幸いな者です。この幸いに生かされたアブラハム、ダビデ、そして無数の信仰の先輩たちの足跡に従いながら、ひたすらにあなたの恵みの中に立ち続ける者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン











