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究極の祈り

2024年10月13日

マルコによる福音書 第15章33−41節
川崎 公平

主日礼拝

 

■先ほど、ふたつの聖書の言葉を読みました。詩編第22篇の最初の部分と、それからマルコによる福音書第15章の一部であります。このふたつの聖書の言葉に基づいて、今日私がお話しさせていただきたいことは、かねてより題を予告していました通り、「究極の祈り」ということです。何だか、自分でもちょっと大げさな題をつけてしまったな、という思いがなくもないですが、今日は伝道のための礼拝をしております。伝道というのは、私どもの教会の業界用語で恐縮なのですが、平たく言えば、まだイエス・キリストを信じていない方たち、具体的にはまだ洗礼を受けて教会員になっていない方たち、そういう人たちに呼びかけて、どうかあなたも神を信じてみませんか、という話をしたいわけです。

神を信じて生きるということと、神に祈る生活をするというのは、まったく同じことです。神は信じているけれども祈ってはいない、ということは考えられません。そして、少し語弊があるかもしれませんが、信じなければ、祈ることもできません。信じてもいない神に祈るって、やっぱり難しくないですか? 私どもが神に祈るのは、信じているから神に祈るのであって、その意味でも、信じることと祈ることは同じことだと、そう言うことができるだろうと思います。

祈りって何だろう。祈るって、どういうことだろう。難しく考える必要はありません。神を呼べばよいのです。そして、少なくとも今ここに集まっておられる皆さんは、まだ洗礼を受けていなくても、まだクリスチャンになっていなくても、神に祈ってみたいな、本当に神さまがいるんなら、神を呼んでみたいな、と考えたことがきっとあるのではないかと思います。

こういうところで自分の宣伝をするようで申し訳ないのですが、昨年、祈りについての本を書きました。『聖書の祈り31』というタイトルの書物で、1階のカウンターで買えるはずです。本を書きますと、編集担当の方が勝手に帯を作ってくれる。もちろん私も確認はするわけですが、基本的に帯にどういうことを書くかは、編集の方が決めてくれます。その書物の中から、こういう文章を引用してくれました。

祈りは〈魂の呼吸〉であると言われます。決して難しいことではありません。小さな子どもでもできます。ひと言「神さま」と呼べばよいのです。……「神さま、神さま」。しかし、そのひと言が言えるか言えないかで、その人の人生の色合いが大きく違ってくるかもしれません。

ああ、この編集担当の方は、いちばん私が言いたかったことを、ぐっと捕らえてくださったんだなと、本当にうれしかったことをよく覚えています。今朝私がここでお話ししたいこともそのことで、「祈りは……決して難しいことではありません。小さな子どもでもできます。ひと言『神さま』と呼べばよいのです」。神はいます。そして神は、あなたの神ですから、あなたに呼ばれることを待っておられます。だからどうか、「わたしの神よ、わたしの神よ」と、神を呼んでみてください。

■けれども問題は、いったいいかなる神を信じるのでしょうか。どういう神を呼ぶのでしょうか。神に祈ろう、あるは神を呼ぼうと、そんなことをいきなり言われても、その神さまというのがいったいどんな存在なのか、さっぱり見当がつかなかったら、いくら祈ってみたって、その祈りはただの独り言にしかならないだろうと思います。独り言でしかない祈りに一生を費やすなんて、そんな愚かなことをしたいとは誰も思わないでしょう。しかし、他方から言いますと、これは私の予測なのですが、きっと皆さんは……この場合の皆さんというのは、特にまだ洗礼を受けていない、キリスト者になっていない人たちのことですが、きっと何らかの神のイメージというのがあるのではないでしょうか。

ところが、今日読んだふたつの聖書の言葉は、そういうわれわれの神のイメージをぶっ壊してしまうというか、ここでほとんど言葉を失うほどのものがあると思います。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。先ほども読みましたように、まずは旧約聖書の詩編の中にこのような歌がある。詩編というのは、いわゆる讃美歌集です。楽譜が残っているわけではありませんが。すべての人の祈りが、この詩編の中に詰め込まれていると考えてもよい。しかもその祈りを詩編から引用しながら、ほかでもない神の子イエス・キリストが、これをご自分の祈りとして祈っておられるのです。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。皆さんは、こういう祈りをしたことがあるでしょうか。このような言葉で、神に呼びかけたことがあるでしょうか。「ええ? わたしを見捨てる神を呼ぶなんて、そんな馬鹿な話があるか」という感想だってあり得るかもしれませんが、もう少し違った感想を持つ方もあるかもしれません。

3、4か月くらい前から、私どもの教会で始めた新しい試みがあって、教会堂の前の掲示板に、短い聖書の言葉を墨字で書いて貼り出しています。毎週とはいきませんが、月に2、3回のペースで貼り替えています。今は別の聖書の言葉が貼り出されているはずですが、数日前までこの言葉を掲示していました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。皆さんの中にも、既にこの言葉を掲示板で目にされた方がいらっしゃるかもしれません。どういう印象をお持ちになったでしょうか。私は、ひそかな祈りを込めておりました。何気なくこの建物の前を通る人がこの言葉を目にして、「自分も、こういうふうに祈ってみたいな」と思ってくださるか、どうか。「神さま、どうしてわたしを見捨てるんですか? 神さま、本当にいるんですか。いるなら、助けてくださいよ。どうしてわたしを見捨てるんですか」。そんなふうに祈りたい。神を呼びたい。叫びたい。そういう人がいるんじゃないか。そういう祈りを込めて、聖書の言葉を掲示し続けました。あなたも、こういうふうに祈ってみたいのではないですか。

■キリスト教会というのは、しばしば葬儀をします。この教会の教会員になると、原則として最後には必ずこの場所で葬儀をします。しかしまた、教会員でない方の葬儀も引き受けます。洗礼を受けていなくても、キリスト者でなくても、皆さんも万一のことがありましたらぜひうちでどうぞ、という話をしてもよいかもしれませんが、それは話の本題ではありません。私は、教会にとって葬りをするというのは、決して副業ではないと考えています。それが本業かと言えば、それも違うかもしれませんが、神がキリスト教会に委ねてくださった大切な仕事のひとつであると言うことはできると思います。教会は、死人の中からお甦りになったイエス・キリストを信じて、だからこそ教会は教会としての営みをしているので、教会は神さまから死に立ち向かう力をお預かりしている。そう考えています。

私自身、もう20年以上牧師をしています。200人以上の死に向かい合ってきました。人間は、誰もが必ず死にます。しかも決して同じ死はありません。皆、その人だけの死に方が、(こういう言い方を許していただきたいと思いますが)神から与えられます。そして率直に申しますが、受け入れやすい死もありますが、とうてい受け入れることのできない死に方もあります。「神さま、わたしの神さま」。「なぜこの人が、こんな場所で死ななければなりませんか。こんなときに死ななければなりませんか。こんな年齢で死ななければなりませんか。神さま、どうしてこの人をお見捨てになったのですか。なぜ、そうやってわたしをお見捨てになるのですか」。

そしてそういうとき、私は本当にひとりの人間として思わされるのですが、人間は無力です。牧師とか何とか偉そうな顔していたって、何もできることはありません。ところが、牧師というのはそういうときにも、一種の職業病ですかね、うまいことを言って見せたくなることがあるのです。「これが神のみ旨なんです」なんてことは、さすがに言いませんが、「この人は、もう十分頑張ったんですよ」とか、「この人と出会えたことを、神に感謝しましょう」とか、けれどもそんな言葉がとうてい通用しない場面に、しばしば直面させられます。しかし、これは牧師だけの話ではないでしょう。ただ一緒に泣くしかない。いや、一緒に泣くことすらできないことだって、実際にはいくらでもあると思うのです。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。「神さま、本当にいるんですか? いるなら、見捨てないでくださいよ」。そのときに、一緒に泣いてくれる友がいるなら、こんなに幸いなことはないかもしれません。けれども、誰にもわかってもらえない痛みだってあるかもしれません。そういうときに、もしも主イエス・キリストが一緒に泣いてくださるのだとしたら、どういうことになるでしょうか。

■主イエス・キリストというお方は、十字架につけられました。金曜日の午前9時に十字架につけられ、12時になると、どういうわけだか太陽は光を失い、全地は真っ暗になって、3時に及んだと書いてあります。この6時間、ひとつ際立っていることは、主イエスが完全に沈黙を貫かれたということです。周りの人びとは、この直前の箇所に書いてあることですが、ありとあらゆる悪口を言ってあざ笑い、はやし立てました。けれども主イエスはひと言も悪口を言い返すことなく、神の子の立場を利用して「お前ら、地獄に落ちるぞ」などと脅すようなこともなさらず、もちろん命乞いをされることもなく、ただ沈黙を貫かれました。なぜ主イエスは、黙っておられたのでしょうか。その6時間、主イエスは神だけを相手にしておられたのだと思います。なぜならば、私ども教会はこう信じているのですが、キリストを十字架につけたのは神ご自身だからです。6時間の苦しみの中、キリストはただ神の前に立ち続けた。神だけを相手にされた。それゆえの、6時間の沈黙であります。

その6時間の沈黙を破った言葉がこれです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。ところが多くの人はこの言葉に疑いを抱きました。なぜ神の子キリストともあろうお方が、こんなかっこ悪い死に様を晒したか。もっと神の子らしい、立派な死に方をしてくれたら、キリスト教を信じてやってもよかったのに。ところが聖書というのは本当に不思議な書物で、「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのか」という叫びを聞いて、そのような死に方を見て、百人隊長というひとりの軍人が信仰を言い表したというのです。「まことに、この人は神の子だった」。こんなに不思議な話はないだろうと思います。そうでしょう。神に見捨てられて死んだ人を指差して、「ああ、あの人は神に見捨てられて死んだんだ。だから、あの人は本物の神の子だ」って、それはいくら何でも話としておかしいと、誰だってそう感じるだろうと思うのですが、福音書を書いたマルコは平気でこういう物語を書いてみせるのです。

しかも、マルコ福音書を研究する聖書の学者たちは皆口をそろえて申します。「まことに、この人は神の子だ」という百人隊長の言葉こそ、この福音書のクライマックスだ。最高潮地点だ。それはまた言うまでもなく、皆さんもまたこの百人隊長と同じ信仰に導かれてほしい、ということでもあるのです。しかし、不思議な話だと思います。なぜ、「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という叫びが、「この人は本当に神の子だ」という信仰に結び付くのでしょうか。

■そこでもうひとつ、改めて丁寧に考察しなければならないことは、これが実は旧約聖書の詩編の引用であったということです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、旧約聖書の言葉がそのまま翻訳されずに伝えられていますが、これが詩編第22篇の冒頭の文字通りの引用であったのです。

イエス・キリストは、いつも神に祈っておられました。ユダヤ人としてお育ちになりましたから、その祈りはいつも、幼い頃から習い覚えた詩編の言葉と深く結びついておりました。これは歴史的に考えても間違いないことです。そのようにいつも祈っておられた詩編が、十字架の上でも口をついて出てきた、ということになりそうですが、それにしても、「神よ、なぜわたしを見捨てるのか」というのが最後の祈りだったということは、どう理解したらよいのでしょうか。

この主イエスの最後の叫びが、多くの人を躓かせたと先ほど申しましたが、その躓きを回避したいという目的で詩編第22篇を思い出そうとする人がいないわけではありません。つまり、「ここでキリストは、絶望したのではない、詩編第22篇の後半を読むと、むしろそこには神への信頼があり、賛美があり、それを言い表そうとしたけれども、最初の言葉だけで力尽きてしまったために、このような謎の言葉だけが残ってしまったのだ」と解釈をしてみせる人もいるのです。しかしそれはあまりに安直な読み方だと思います。もしそういうことなら、嘘でもいいから、最初から神への賛美の歌を歌えばいいのです。そういう話をでっち上げればいいのです。けれども事実、主イエスは神に見捨てられたから、その嘆きを詩編の言葉に託して口になさったのです。

けれども、まさにそこで大切なことは、これが詩編の言葉であったということです。この主イエスの最後の叫びは、実は既に無数の人びとが口にした祈りであったのです。主イエスに先立って既に何百年と、どんなに多くの人がこの詩編を歌ったことでしょうか。数えきれないほどの人が、数え切れないほどの嘆きを、この詩編に託し、涙を流した、その人びとの歴史が、既にあったし、「歴史」なんてそんなかっこつけた言い方をする必要もないので、これは、わたしの祈りなのです。あなたの祈りなのです。そのことに気づかされます。

■「神よ、見捨てないでください」。多くの人の共感を呼ぶ歌だとも言えるかもしれませんが、私どもは本当にこの歌を歌えるでしょうか。最後の最後まで、この歌を歌い抜くことができるでしょうか。わたしを見捨てる神なんて、そんな神はこっちからお断りだと思われる方だって、きっとあるだろうと思います。

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。この言い方は、たいていは悪い意味で用いられますが、むしろ「苦しい時こそ神により頼んでほしい」と申し上げたいと思います。実際には、「苦しい時の神離れ」になることのほうがずっと多いのではないでしょうか。自分が苦しいとき、つらいとき、誰も自分の味方になってくれないと思うとき、神もまたわたしの味方なんかしてくれないんだ。いや、そもそも神なんかいないんだ。けれども、特に今朝は伝道のための礼拝ですから、なるべく簡単に、そしてなるべく大事なことを声を大にして申し上げたいと思いますが、神はいます。わたしの神、あなたの神がおられるのですから、苦しい時にこそ神を呼んでください。

「神よ、あなたはわたしの神ではありませんか。どうしてわたしをお見捨てになるのですか」。詩編を読みながら、気づかされます。これは、わたしの祈りではないか。わたしがとうの昔に忘れていた、あるいは投げ捨てていた本物の祈り、まさしく究極の祈りが、こんなところに書いてある。しかもその祈りを、主イエス・キリストが叫ぶようにして祈っていてくださるのです。「神よ、わたしを見捨てないでください」。なぜならば、この方こそまことの神の子だったからです。こんな深い絶望の中で、こんなに深く神を信頼して神を呼び続けた方は、ほかにいないのです。このお方が、わたしと共に祈っていてくださる。いやむしろ、私どもよりも一歩先んじて、私どもが経験したこともないほどの絶望の中に、主が先に足を踏み入れていてくださるのです。

その主イエスを、神は死人の中からお甦らせになりました。そこでこそ、私どもは神の語りかけを聴くのです。もう、私どもの誰も、神から見捨てられてはいない。

■最初に紹介した、昨年私の書いた祈りの本の中で、こういうことを書きました。私がまだ駆け出しの牧師であったころ、教会員の中に、なかなか重篤な闘病生活に耐えなければならない方がいました。若い頃から健康だったことは一度もなく、しかも息子さんをはじめ、何度も大切な人との悲しい別れを経験しなければなりませんでした。ある時から脳にも障害が出始めて、ということであったと思いますが、「わたしは地獄に落ちるんだ」と言い始めるようになりました。念のために申しますが、最後まで、イエス・キリストに対する信仰を全うされた方であります。その方が、少なくともある時期、口を開けば「わたしは地獄に落ちる、わたしは地獄に落ちるんだ」と言って家族を困らせた。最後は、肝臓がんで亡くなられました。

その方の葬儀を行った翌年、お嬢さんが洗礼を受けられました。洗礼を受けるためには、この鎌倉雪ノ下教会でも同じことですが、長老会という教会の代表者たちの会議で面接をします。そこでこういうことを言われました。「かつて私の母がこの教会でたいへんお世話になりました。しかし私は、なぜ母があそこまで苦しまなければならなかったか、今でも納得できていません」。その言葉を聞いたとき、私は結局あの人の苦しみをきちんと理解していなかったのかもしれないと思いました。けれどもそのお嬢さんが言うには、「けれども母は、それでも祈っていました。自分は地獄に落ちるんだとか何とか言いながら、それでも最後まで祈っていました」。そうであるに違いないと思いました。「神さま、わたしは地獄に落ちるんですか。どうか見捨てないでください」。主イエス・キリストが、その方とも一緒に祈ってくださった祈りであります。

どうかここに集められた皆さんひとりひとりが、神を呼ぶ幸いを知ることがおできになりますように。お祈りをいたします。

 

神さま、あなたはわたしの神です。たとえわたしがあなたを忘れ、見捨てるようなことがあっても、それでもどうか、あなたはわたしの神ですから、わたしを見捨てないでください。本当に図々しい願いでしかありませんが、十字架につけられた主イエス・キリストのみ言葉を聴き、私どももまた神の子として、み子イエスに似た者として神を呼び続けることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン