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主人を待つ人の心

2024年6月23日

マタイによる福音書 第13章33-37節
川崎 公平

主日礼拝

■マルコによる福音書を読み進めてまいりまして、今日、第13章を読み終えます。第14章からはいよいよ十字架に向かう、主イエスの地上での最後の歩みが始まります。その意味でこの第13章が比較的長く伝えている主イエスの言葉というのは、主が弟子たちのために最後に残された遺言であって、今朝はその結びの言葉を読んだということになります。そこで主イエスが繰り返し強調されたことは、「目を覚ましていなさい」ということです。33節、34節、35節、そして37節と、同じ言葉が4度も繰り返されますから、これが主イエスのいちばんおっしゃりたかったことだということは、すぐにわかります。しかし、「目を覚ます」とはどういう意味でしょうか。まさかずっと徹夜の生活を続けろという意味でないことは、誰だってわかると思います。

少し興味深いのは、「目を覚ます」という同じ言葉がこの段落に4回繰り返されているのですが、実は原文では、33節だけ違う言葉が使われています。34節、35節、37節の「目を覚ます」は、言ってみればふつうの言葉ですが、33節だけは少し珍しい言葉で、元の言葉をそのまま直訳すると、「眠気を捕らえる」という意味になります〔諸説あり〕。狩りをして獣を捕まえるように、眠気を捕まえてやっつけてしまう。確かに私どもの信仰生活において、最大の敵は眠気であるかもしれません。しかしその眠気とは何でしょうか。今、既に牧師の話を聴きながら眠気と戦っているという人もいるかもしれませんが、もちろんそんなつまらないレベルの話ではありません。

そのことを教えるために、主イエスはひとつの譬え話をされました。ある人が旅に出て、しばらく家を留守にすることになった。その間、自分の僕たちに責任を与えて、それぞれに仕事を託したというのですが、その主人とはわたしのことだと、主イエスが言っておられることは明らかです。主イエスは、これから十字架につけられる。そしてお甦りになり、天に昇られる。まさしく、旅に出るのです。そしてその間、仕事を任された僕たちというのは、もちろん私ども教会のことです。

この主人は、必ず帰って来る。つまり主イエスは、必ずもう一度この世に来られる。それがいつかは、誰も知りません。これまでいろんな人が、キリスト再臨の日付を知ろうとしました。いろんな人が、いろんな予言をしました。われこそが再臨のキリストであると言い張る人まで現れました。もちろんすべて間違いでした。32節にもありますように、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」。「子も知らない」というのはつまり、神の御子イエスご自身もご存じない、というのはずいぶん心もとない話のように思えますが、ここで主イエスが心配しておられることは、「それがいつか」ということではなくて、いつ主人が帰って来ても、僕たちがきちんと目を覚ましていられるかどうか、ということです。主人が突然帰って来たときに、ただ目を覚まして、徹夜でダラダラ飲んだくれていました、ずっと怠けていましたというのでは意味がないのです。目覚めた思いで、主人から託された仕事をしなさい、ということです。

私どもの教会には、主イエスが委ねてくださった務めがあります。「私は、私たちは、イエスさまから責任を与えられて、今この教会を造らせていただいているのだ」という明確な自覚。それが、「目を覚ましていなさい」という言葉の意味です。

■ただ、ひとつ翻訳に注文を付けたいところがあります。34節に「責任」という言葉があります。「家を後に旅に出る人が、僕たちに(つまり主イエス・キリストが教会に)責任を与えて」というのですが、この「責任」と訳されている言葉は、ふつうは「権威、権能」と訳されます。ある英語の翻訳ははっきりとオーソリティと訳しました。教会には、権能が与えられている。その権能とは、もともと神の御子キリストが持っておられた権能ですから、この権能に歯向かい得る力は、この世のどこにも存在しない。そういう力を教会は委ねられているという話です。そうするとこれは、少しの間主人が留守だけど、みんなで頑張ろうな、という話とはずいぶん違うということに気づかされます。主人の目がないからって怠けるなよ、という話でもないので、むしろこれからは、あなたがたが主人の代理人なんだ。あなたがたにすべての権限を委ねるから、あなたがたが、わたしの働きをしっかり担っていきなさい。「これは、たいへんなことになった」ということになるだろうと思います。

この関連で大切な意味を持つのが、31節です。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と主イエスは言われました。死に勝つ命の言葉、あらゆる滅びに勝つ言葉を、今教会は、主イエス・キリストからお預かりしています。それがまさしく、主人の権能をお預かりしているということの意味でしょう。

皆さんのお手元の週報の最後のところに、ほとんどいつものことですが、講壇の花を献げてくださった方のお名前が記されています。今月だけで、おふたりの方の葬儀をしなければなりませんでした。そのおふたりのご遺族が、今日の礼拝のために花を献げてくださいました。99歳で召された母を記念して。56歳で召された妻を記念して。いつも週報の最後には、ほとんど決まり文句のように「記念して」というこの言葉が使われるのですが、それはただ思い出にひたる、ただ懐かしむという意味ではありません。詳しい話は省略せざるを得ませんが、新約聖書の中で「記念する」という言葉が使われるとき、そこには必ずキリストの命の香りが漂っています。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。その命の言葉に、愛する者の命を委ねるのです。

教会は、この命の言葉のために生きています。キリストから権能を与えられて、「あなたがたは、わたしの仕事をするのだ。そのために、わたしの言葉をあなたがたに委ねる。天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びないのだから、あなたがたは、ただこの命の言葉を語り続ければよい」。ここに、キリストの教会のアイデンティティが定まるのです。

■先ほど、柳沼大輝伝道師の就任式をすることができました。牧師あるいは伝道師の就任式をするたびに、こちらの背筋も伸びるような思いがいたしますし、もっと言えば、教会員の皆さんにも背筋を伸ばしていただくことを期待しているのです。「背筋を伸ばす」というよりも、主イエスの言葉に即して言えば、「目を覚ます」と言ったほうがよいかもしれません。少しでも目を覚ましていただくために、先ほどの就任式でも教会員の皆さんには起立していただいたのです。目を覚ますとはどういうことかというと、「ああ、そうだ。われわれには大事な仕事があるんだった。イエス・キリストから権能を委ねられているんだ。寝ぼけてる場合じゃない」。私ども教会が、何のためにここに生かされているのかわからなくなったら、まさしくそれが「眠気に負けた」ということでしょう。そしてその誘惑は、案外大きいと思うのです。

私自身、説教者としての生活を始めて、いつの間にか20年以上たちました。20年も説教をしていると、もちろん一方では熟練してくるという面があります。10年前、20年前に比べれば、多少はましな説教をするようになったと、自分ではそう思っています。けれども他方で、自分が何をやっているのか、わからなくなってくることがあります。おかしな話をするようですが、私は本当に時々、説教をしている真っ最中に、そういう変な気分に捕らえられることがあるのです。毎週何百人という人がここに集まって、あるいはライブ配信を通して、ただ黙って私の話に耳を傾けている。話の途中で質問や意見を差しはさむことも、基本的には許されません。話をする側の人間としては、時々本当に怖くなります。「いったい、自分は何をやっているんだろう。何のために、誰のために、こんな長い話をしているんだろう。ここにいる人たちは、こんな話を聞かされて、本当におもしろいのかな。虚しくならないのかな。まだ話は途中だけど、もうやめようかな」。しかしそれはまた、もっぱら説教を聴く側の皆さんだって同じかもしれません。「いったい自分は、ここで何をやっているんだろう。結局のところ、何のためにこんな長い話を聞かされているんだろう」。もちろん私は、途中で説教をやめたことはありません。ありませんけれども、そこにまたもうひとつの誘惑が生まれてくると思います。

私どもの教会で長く牧師であった、加藤常昭先生の葬儀を4月にここでいたしました。私どもの教会にとっても大切な存在でしたが、たいへん多くの説教者を育てた、説教の教師でもありましたし、私自身、加藤先生から大きな恩恵を受けたひとりであります。加藤先生の葬儀のあとで、私と同じくらいの世代の牧師がこんな思い出を教えてくれました。かつて加藤先生に自分の説教を批評していただいたというのですが、開口一番、「うまいねえ。いい意味ではありません」。

この牧師は「うまいねえ」と言われたわけですが、しかし総じて牧師の説教というのは、話が下手だと思います。少なくとも世の中の、人前で話をするいろんな仕事の中で――たとえば芸人とか漫才師とか、ニュースキャスターとか政治家とか、人前で話をするいろんな仕事があるわけですが――牧師の話というのは、まあだいたいレベルが低い。しかしそれは、教会員にとってはやはり不幸なことですから、少しでも聞きやすいようにと努力することにもきっと意味があるでしょう。けれどもそれがまた、大きな誘惑にもなることがあると思います。何か〈いい話〉をしよう。感動する話をしよう。実生活に役立つ話をしよう。そうするとまた教会の人から、「先生、今日のお話は、たいへんためになりました」などと感謝されて、ますます調子に乗るということが起こるかもしれません。「うまいねえ。いい意味ではありません」。

「気をつけて、目を覚ましていなさい」。私ども教会は、いい話、ためになる話をするために生きているのではありません。主がゆだねてくださった権能に根ざす、命の言葉を語り続け、聴き続けるために、教会は生きているし、そのためにまた牧師・伝道師という職務を立てて、み言葉の奉仕のために専念してもらうのです。いつ主人が帰って来ても、とがめられることのないように。けれども教会にとってのいちばんの誘惑は、教会の主人でいてくださるお方のことを忘れること、主が委ねてくださった権能を忘れること、それがすなわち眠気に負けるということでしょう。眠気に負けて、教会が世間のどこにでもあるような慈善団体になってしまったり、そのためにお金を集め、人を集め、教会が大きくなったら喜んだり、小さくなったら思い煩ったり、せいぜい聖書を読みながら、いい話を聞いたり、ためになる話を聞いたり、けれどもそれだけなら、キリストの教会の名には値しない。

だからこそ、主イエスは今もこのように、私どものためにも呼びかけてくださるのです。「目を覚ましなさい。眠気に負けるな」。あなたがたは、わたしの権能によって、わたしの仕事をするのだ。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。その命の言葉を、あなたが語るのだ。すべての人のために、あなたがたが命の言葉を語るのだ。だから最後の37節には、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」と言われるのでしょう。「目を覚まして」、あなたはただ、わたしの命の言葉を語り続けなさい。

■このような主イエスの遺言をもって第13章が終わり、第14章が始まります。最初に申しましたように、そこからいよいよ、十字架と復活に向かう主イエスの最後の歩みが始まるのですが、ところがこの第14章以下の叙述で際立っていることは、この第13章の言葉を聞いた弟子たちが誰ひとり目覚めていることができなかったということです。

ある説教者が、35節についてたいへん興味深い考察をしています。「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたには分からないからである」。「夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か」と、少し言葉遣いが丁寧過ぎるようですが、まさにここに、第14章以下の弟子たちの物語が織り込まれているのではないか、とその説教者は言うのです。

「目を覚ましていなさい」。あなたがたの主人は、「夕方」に帰って来るかもしれない。第14章の17節にも、「夕方になると」と書いてあります。主が十字架につけられる前の日の夕方、主イエスは弟子たちと一緒に最後の晩餐を祝いながら、その席上ではっきりと、弟子たちの裏切りの予告をされました。「どうか、目を覚ましてほしい」。それは「夜中」のことかもしれないよ。その日の夜遅く、主イエスは三人の弟子たちを伴って、ゲツセマネという場所に行かれました。苦しみの叫びを上げて主が祈っておられるとき、弟子たちは三人ともぐうぐう眠ってしまったというのです。「目を覚ましなさい。なぜ僅か一時も目を覚ましていられなかったのか」。しかしまた、主人があなたのところに帰って来るのは、「鶏の鳴く頃」かもしれないよ。主イエスがまだ夜明け前に裁判を受け、死刑の判決を受けられたとき、一番弟子のペトロはこそこそ逃げ回っておりました。そんなところである人が突然、「あなたもナザレのイエスと一緒にいたでしょ」とペトロに言いました。ペトロは呪いの言葉を口にしながら、「そんな人は知らない」と、三度繰り返して主イエスとの関わりを否定しました。呪いの言葉を口にしたというのはつまり、もしあんな人と一緒にいたと言われるくらいなら、神に呪われた方がましだ、ということでしょう。まさにペトロがその呪いの言葉を口にしたとき、鶏が鳴きました。ルカによる福音書によれば、主イエスはその時、振り返ってペトロを見つめられました。「ペトロよ、目を覚ましなさい。どうしてそこまで、あなたの心は眠りこけてしまったのか」。

けれども、日曜日の「明け方」、既に主イエスの墓は空っぽになっていました。「明け方」には、遂に主人は帰って来てくださらなかったのでしょうか。とんでもない、まさに主の日の朝、弟子たちは主イエス・キリストが帰って来られたという決定的な経験をさせていただきました。復活された主イエスが、弟子たちを訪ねてくださって、「目を覚ましなさい。いつまで寝ているんだ。わたしだよ」。

■しかしなお主イエスと弟子たちの物語は続きます。そののち、復活のキリストと過ごした何十日間か、それは弟子たちにとって夢うつつのような日々であったと思います。いったい、これはどういうことだろう。なぜ十字架につけられたお方が、われわれの目の前におられるのだろう。ところがある日、主イエスは天に昇られ、弟子たちの前から姿を消されました。使徒言行録の最初のところに、その話が出てきます。私は思うのですが、弟子たちは、やっぱりわけがわからないままに、天に昇って雲の中に消えて行った主イエスをぼんやりと眺めていたのではないかと思います。「いったい、何だったんだろう。夢でも見ていたんじゃないか」。そうしたら、ぼんやり空を見つめていた弟子たちのそばにふたりの天使が現れて、弟子たちを励ましてくれました。「空をぼんやり眺めていることがあなたがたの仕事か。違うだろう」。「あなたがたの主は、必ずもう一度帰って来られる。そのときまで、あなたがたには、大事な務めがあるだろう」。

その務めのために、教会に神の霊が注がれました。そのとき初めて、弟子たちはこの第13章の言葉の意味を理解したと思います。そうだ、わたしたちには、主イエスが与えてくださった権能があり、務めがあるのだ。「天地は滅びるが、主イエス・キリストの言葉は決して滅びない」。そのキリストの言葉を信じて、教会は死に勝つ言葉、滅びに勝つ言葉を語り始めることができました。その歴史の中に、今朝また柳沼伝道師の就任式も行われたのです。

「天地は滅びるが」と、主イエスは言われました。さらりと口にすると何でもない言葉のようですが、よく考えるとずいぶん深刻な発言です。「たとえ天地が滅びても」というレトリックではありません。「天地は滅びる」。事実として、この天地は滅びるべきものだし、私どもの周りにも、いくらでも滅びの兆しを見出すことができるでしょう。どうしてこんなひどいことが起こるんだろう。どうしてこんなに悲しいことばかり起こるんだろう。なぜ神は、隠れておられるんだろう。けれども、そのような疑問に足を絡め取られそうになるときに、主イエスは私ども教会を励ましてくださっていると思います。「なぜ神は、隠れておられるんだろう」なんて、そんなばかなことを言うな。あなたがたがいるじゃないか。主イエスは、「僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託」されたのです。死に勝つ言葉を委ねてくださったのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉、主イエス・キリストの言葉は決して滅びない」。そうであれば、私どもはもはや、神の不在を嘆いている暇などないのであります。

主が再び来てくださるその日まで、望みを失わず、目覚めた思いで、この聖なる務めに立ち続けたいと願います。特に今朝、就任式を終えた柳沼大輝伝道師の上に、またこれからも共にみ言葉を聞き続けるこの鎌倉雪ノ下教会の上に、心より主イエス・キリストの祝福を祈ります。お祈りをいたします。

 

父なる御神、私どもの救い主なるイエス・キリストは、必ず帰って来られます。滅びの力だけが支配しているかに見えるこの世界にあって、あなたの教会が、確かな望みのともしびとなることができますように。御子キリストが委ねてくださった権能の大きさに恐れおののきつつ、しかしまたあなたの委ねてくださった命の言葉に慰められながら、伝道のわざに励むことができますように。私どもに語られた慰めの言葉は、すべての人が聞くべき命の言葉です。この務めに目覚めることにおいて、教会がひとつの思いになることができますように。私どもの罪のために、教会に生きるということ自体が、思い煩いになることも多いのです。それは、あなたに対して申し訳ないことであり、この世に対しても責任を果たしていないことになると思います。どうか今、み言葉によって、あなたの教会をひとつにしてください。そのためにまた、今朝伝道師の就任式を終えた柳沼先生の上に、あなたのみ霊の注ぎが豊かにありますように。教会の主、イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン