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極みまで

2024年6月16日

ヨハネによる福音書 第13章1-11節
嶋貫佐地子

主日礼拝

 

このあいだ葬儀がありました。その時も感慨深く思いましたのは、この方は「愛されたなぁ」ということでした。この方は主に愛されたなぁ。

それはもちろんご家族はじめ周りにも、愛されましたけれども、生涯の中でたくさんの愛をお受けになったけれども、それは棺の中をみれば、その周りの愛がわかりましたし、お花でいっぱいになってゆくこの方が、それで溢れてゆくものがありましたけれども、でも本当に、眠るこの人を見ればわかることは、私は主に愛されました、ということではないかと思いました。私は主に愛されました。それが私のすべてを支えたのです。

私どもも、いつかその日を迎えますけれども、私どももまた、同じように思うことが、許されるのではないかと思いました。
「私は主に愛されました。」

こんな自分であったのに。過ちも多かったのに。ずいぶん人も傷つけたのに。そうして、主よ、あなたをも、傷つけましたのに。その自分さえも、その負の功績をも、ご自分の命で帳消しにされる、主よ、あなたはどれほど私を愛してくださったことか。
その事実を、私どもの生涯の終わりにも、主がこの自分にくださいます。

今日はヨハネ福音書第13章の初めを読みましたが、ここを愛しておられる方はとても多いと思います。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった、というところです。主が弟子たちの前に屈み込み、その足を洗ってくださいました。

水の音だけがするような時間でした。
でもそれがどういう意味なのか、この時はまだ弟子たちにはわかりませんでした。ただ、自分たちの主が、そうなさるのを、驚いて見つめるしかなかったのです。でもそこにあったのは、主の愛でした。
そして福音書の中でもこんなにまっすぐに、主の愛が語られているところは、他に見当たらないくらいなのです。

時は過越祭の前で、献げ物の小羊が屠られる、前夜でした。場所は主の最後の晩餐の席です。主イエスはその時、すべてのものがご自分の手に与えられたことを知られました。こうあります。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」(13:1)

主はご自分の時が来たことを悟り、「父がすべてをご自分の手に委ねられたこと」(13:3)を悟り、ご自分が屠られる時が来たことを悟り、そして父のところにお帰りになる、その時が、父から下ったことを悟られた時、でもその瞬間に主が自覚なさったのは「世にいるご自分の者たちを愛して」、そして、いま、その愛が「最後まで」、極まった、ということでした。

 

このあいだ、ある教会の近隣の方から、教会の外の掲示板に、聖書の言葉があったらありがたい、というお申し出をいただきました。それをこちらもありがたくお受けして、それで急遽、試しになりますが、とりあえず私の下手な字で、この聖書の言葉を毛筆で書くことになりました。今日の説教題は「極みまで」ということでしたけれども、その説教題の毛筆奉仕の方のおじゃまにならないように、と思いながら、小さくこの言葉を書きました。

「イエスは世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」

主は愛し抜かれた。最後まで、最後まで、と何度も書きながら、少しこみ上げるものがありました。最後まで、とは何なんだ。主の、最後まで、とは何なんだろう。

この言葉は前の新共同訳では「この上なく」と訳されておりました。私もそれに親しんでおりました。「この上なく」というのは、言うまでもなく「これ以上なく」「最上の」という意味なので。それは究極まで、極みまで、という内容なのですけれども、しかしそれが聖書協会共同訳では「最後まで」となりました。

「最後まで」というこの訳はギリシャ語でも、むしろそのほうが適切で、その前の口語訳でもそうでした。だからその言葉に帰ったと言ってもいいかもしれません。でも、そう言われてみれば、「この上なく」というのは、最上ということですから、上を指し、それは、主というお方を考えますと、最上の愛で、真理ですけれども、でもその愛が、弟子たちの足下に下ったのです。その愛が屈みこんだのです。そのことを思いますと、「この上ない愛」は、足元に下るほどの愛だった。最も低く、最後の低さまで、降った愛だった、と言えると思うのです。

そしてそれは時間的にも、主はご自分の時を知られましたので、その最後まで、地上のご生涯の最後まで、世にいる「ご自分の者たちを」愛された、ともいえると思うのです。

そしてこの「ご自分の者たち」という表現もまた、新共同訳から変わったところです。前は「世にいる弟子たちを愛して」ということでしたが、それが、「世にいるご自分の者たちを愛して」、となりました。

主イエスの「ご自分の者たち」、であります。
このヨハネ福音書の第1章では、こんなふうにありました。主である「言」は「自分のところに来たが、民は言を受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(1:11-12)。

主イエスにとって「自分を受け入れた人たち、その名を信じる人たち」が生まれて来て、でもその者たちとの別れを、主が知られた時に、主が、彼らを「自分の者たち」と思われた。そして主が「自分の者たち」と思われたことに、愛が極まり。その愛がご自身を死に至らせたのです。

 

それで、静かな時間が始まりました。
主は夕食の席から立ち上がり、上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰に巻き、それからたらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い始め、腰に巻いた手拭いで拭き始められました(13:4-5)。そうして主が弟子のペトロのところ来られた時、ペトロは、誰もが驚いているのと同じように驚いて、言いました。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」(13:6)

すると、主はペトロの下から言われました。「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる。」(13:7)

それはほんとうに、後で、わかることでした。主の十字架と復活の後で、主がどなたで、ここで何をなさったのかは、その時に初めて、本当の意味で驚くことになるのでしょうけれども、でも、ペトロはいま、主がなぜそうなさるのか、わからなかったのです。それで自分がわからないことを、主にしていただくことが許せなかったのです。まして自分の足にまで、身を屈めておられる主を見ることが、耐えられなかったのです。それでペトロは言いました。「私の足など」「決して洗わないでください。」(13:8)

「決して」というのは、絶対にあってはなりません。ということです。そんなことは、決してあってはなりません。そんなことは受け入れられません。そんなことは耐えられません。そんなことは許すことはできません。ということでした。

すると主イエスは、ペトロの、そういう危うさに気づかれて、その抵抗にむしろ驚かれて、言われました。
「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる。」(13:8)

「もし私があなたを洗わないなら」、それはもし私があなたの罪を洗わないなら。あなたは私と何の関わりもなくなる。ということでした。

でもそう言われたペトロは、それがわからなくて、今度は自分の申し出を主が断られたことにもっと驚いて、狼狽して言いました。それなら、足だけでなく手も頭も。私のぜんぶをおねがいします。すると主は言われました。「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(13:10)

足だけ洗えば、全身が清いというしるしになるということかもしれません。ここは洗礼を表すとも言われますが、確かに洗礼は、全身が洗い清められることです。でもそれでも、私どもは日々汚れてしまいます。

私はこの箇所を思いますと、足に意識が行くようになるのです。特に自分が、自分でも何か嫌なことを考えてると、そうすると、足を見てしまうのです。歩きながらでも、意識が足に行くようになるのです。おかしなことだと思うかもしれませんが、嫌なことを考えている時、罪の思いを持つ時に、自分の足が汚れてるなぁと思うのです。いくらそれは自分で洗ってもだめで、ああ、汚れてる。清められた自分なのに、どうして歩く度に罪を犯すのか。
でもその足に主が屈んでくださった、と思うと、ほんとうに日々、主に洗われていると思うのです。そしてもし、あなたがこれを拒むなら、と、主は厳しくおっしゃるのです。あなたは私と何のかかわりもなくなると。

でももし、このかかわりが、むしろ主にとって、この愛のかかわりが抵抗されて、その足が引っ込められたなら、この愛はどうなるのでしょう。「最後まで」、愛した愛は、どうなるのでしょう。「最後までの愛」はどうなるのでしょう。

アウグスティヌスという人はこの「最後まで」ということについて、「最後まで」とは「キリストに至るまで」と言いました。

「最後まで」とはキリストに至るまで。

キリストに至るまで。ご自分に至るまで。キリストは、滅び去ってしまわない「完成」だから。贖いと命の完成だから。そこに至るまで、主は私どもを愛されたのだ。

思うに、罪の贖いも、永遠の命も、そのキリストの手の中に、入ってゆくということなのです。滅び去ってしまわない、命の中に入れていただくことなのです。

だからほんとうは、主は、私どもを死ぬまで愛されたのではなくて、死によっても終わることがない、その極みまで、私どもを愛し抜いてくださったのです。

でも、その席で、主はこう言われなくてはなりませんでした。
「皆が清いわけではない」(13:10)。
先に言われていました。「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。」(13:2)ユダはもう裏切ろうとしていた。時は過越で、明くる日は小羊が屠られる日でした。

でもそのすぐあとに、こうありました。「イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられた」(13:3)、ということを、「悟られた」。

主が悟られた。
ユダに、悪魔が裏切る思いを入れていた。
でも、そのユダも、父なる神が、主イエスの手の中に入れられた。主の手の中に、父がすべてを入れられたのです。

そのことを、主が悟り。
清くない(13:10)。
その愛を拒む人を、ご自分の手の中に、
入れた主イエスの、
私どもへの愛の極みを思うのです。

「後で、わかるようになる」(13:7)と主は約束してくださいましたが、「後で」とは、十字架と復活のあと。その後を、ユダも待てばよかった。後でわかるとの主の言葉が聴こえていればよかった。そしてこの声が聴こえていればよかった。
愛している。
最後まで。

私どもも、この愛を最後まで、信じてゆきたいと思うのです。

 

天の父なる神様、
キリストに至るまで。その愛の中にずっといさせてください。主の御名によって祈ります。
アーメン

 

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