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主イエスは帰ってこられる

2024年6月2日

マルコによる福音書 第13章14-27節
川崎 公平

主日礼拝

■毎月第一日曜日、聖餐を祝う主の日の礼拝の最後に、だいたい必ず「マラナ・タ」という讃美歌を歌います。「マラナ・タ」という外国語は、おそらく主イエスも地上で日常的にお使いになったアラム語という古い言語で、旧約聖書が書かれたヘブライ語とは少し違うようです。私どもが歌う讃美歌では、「マラナ・タ、マラナ・タ」と歌ったあとで、「主のみ国が来ますように」と言うのですが、本当はもう少し端的に、「主よ、来てください」という意味の言葉です。主イエスよ、どうか急いで来てください。私のところに、私どものところに……。それはいったい、どういう祈りの心を意味するのでしょうか。そのことを、よく考えたことがあるでしょうか。

「主よ、来てください」という祈りの前提になっていることは、今現在、主イエスは不在である、ここにはおられない、ということだと思います。こういうことを言いますと、ただちに反論が起こってくるかもしれません。とんでもない、いつも主イエスは私と共にいてくださる。私どもと共にいて、今この礼拝を受けていてくださる。それはもちろん、その通りです。しかしこういうところに私どもの信仰の難しさがあるかもしれません。主イエス・キリストは、今も私どもと共にいてくださいます。言い換えれば、〈既に〉主イエスは来てくださって、一時も私どもを離れられることはない。しかもそうでありながら、「主よ、来てください」、早く来てください、いつまで待たなければなりませんか、という、〈いまだ〉主イエスは不在であるという事実と、この〈既に〉と〈いまだ〉の信仰が矛盾なく生きているのが、教会の信仰の特質だと言わなければならないと思うのです。

先月この場所で洗礼をお受けになった方が、それに先立って長老会で面接を受けた際に、「あなたにとって、イエスさまはどういう存在ですか」と質問されて、「わたしのかけがえのない救い主です」とお答えになりました。こういう質問にはこう答えなさい、などというレクチャーを事前にしているわけではありません。その人のありのままの、自然な心から生まれた言葉だと思いました。それだけに心を打たれました。「わたしのかけがえのない救い主です」。ああ、本当にそうだ、イエスさまは、この人のためにも来てくださったのだ。〈既に〉来てくださって、かけがえのない救い主として、この人と共にいてくださるのだ。考えてみれば、このことが既にたいへん不思議なことです。二千年も昔に、中近東の片隅にお育ちになり、30歳そこらで処刑されたと言われるイエスというお方を、私どもは主と仰いでいるのです。世の人はこれを不思議がるかもしれませんが、しかし私どもにとっては、このお方こそが、かけがえのない救い主なのです。だからこそ、このお方が今は不在であるということが、私どもにとってはこの上ない試練となるのです。

主イエスはヨハネによる福音書第14章18節で、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われました。「主イエスよ、あなたは確かにそう約束してくださったではありませんか。それならばしかし、なぜ今、ここにいてくださらないのですか。いつまで待たなければなりませんか。主よ、来てください」。それがあの「マラナ・タ」という祈りの意味です。こういう祈りが切実になるのはどうしてかというと、もう一度申します、既に主イエスが来てくださったからでしかないのです。

■何だか話が堂々巡りになってきたようです。なぜ私がこのような話を始めたか、今日の聖書の箇所をよくお読みになった方はすぐにお気づきになったと思います。主イエスがここでお語りになったことも、「わたしは必ず帰って来るから」、それまでしっかり耐えるように、ということでしかないのです。そのことをいちばん明確に語っておられるのは26節以下でしょう。

「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める」。

今は不在の主イエスが、しかしいつか必ずもう一度来てくださる。帰って来られる。これを私どもの信仰の言葉で〈再臨〉と呼びます。先ほど唱えた使徒信条の中でも、キリストの再臨の信仰は明確に言い表されています。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と言うのです。このあたりがいちばんわかりにくい、と思われているかもしれません。クリスマスはわかる。神のみ子イエスがお生まれくださったんでしょう。不思議なことだけれども、もしそれが本当なら、こんなにすばらしいことはないじゃないか。十字架もわかる。復活もわかる。それも、まあ、人間の理性を越えたことだけれども、もしそのことを根拠に、わたしも復活するんだ、そしてわたしの愛するあの人も、この人も、必ず甦るんだ、と信じることができるなら、こんなにありがたいことはない。信じさせていただきたい。しかし、再臨という話になると、途端にわからなくなるという方がきっといらっしゃると思うのです。主イエス・キリストは、もう一度この世に来てくださる。そのとき、すべての歴史が終わる。これを〈終末〉、世の終わりと教会は呼ぶのですが、これがどうしてもわかりにくい。わかりにくいひとつの理由は、私どもの生きているこの世界で、再臨とか終末とかの気配すら感じることはないからです。

この一見理解が難しい教会の信仰を理解するためのひとつの急所は、やはり最初に申しましたように、今現在、主イエスは不在である、ここにはおられない、ということを正しく受け止めることだと思います。主イエスは不在だから、より正確に言えば、再臨の約束はしてくださったけれども、その時はまだ来ないから、だからこそ「主よ、来てください」という祈りが切実なものになるのです。皆さんの生活というのは、事実、そういうものになっているでしょう。別に私は、わざと皆さんを突き放そうとか冷たい言い方をしようとしているわけではありませんが、皆さんの生活だって、主イエスが不在の生活になっていると思います。いや、もちろん、〈既に〉主は来てくださったのです。〈既に〉主は、わたしのかけがえのない救い主でいてくださる。そのことを大前提としつつ、〈いまだ〉主イエスは不在である、そういう生活を私どもはしているのです。皆さんのふだんの生活の中で、主イエスの実在を感じることができない、信じることができないことは、いくらでもあるだろうと思います。それを不信仰だとか、祈りが足りないとか、自分を責める必要もないのです。主イエスがまだ来ておられないから、だから私どもは悩むのです。だからこの世界には恐れがあるのです。主イエスがいまだおいでにならないから、だから私どもは絶望することさえあるのです。けれどもその絶望が、完全なる絶望、死に至る絶望に陥らずにすんでいるのは、主イエスの約束があるからです。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。この約束を信じて、私どもは「マラナ・タ」、「主よ、来てください」と祈り続けるのです。

■今朝お読みしたマルコによる福音書第13章は、主が十字架につけられる僅か数日前に、弟子たちのためにお語りになった話です。もうしばらくすると、主イエスはそれこそ弟子たちにとっても不在となる。少なくとも目に見える姿ではおいでにならない。そういう時間を、既に教会は二千年も生きてきているわけですが、主イエスはそういう教会のために、「これだけは、よく覚えていてほしい」と、心を込めて最後の教えをお語りになるのです。その意味で、23節の区切りの言葉は、短いものですが、主が力を込められたところだろうと思います。「だから、気をつけていなさい。一切のことを、前もって言っておく」。これだけは、あなたがたに言っておく。わたしは必ず帰って来るから、だから、恐れるな。

そこで主がお語りになったことは、お読みになってすぐにお気づきになりますように、ずいぶんおどろおどろしい印象を与えます。たとえば19節には、「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」とまで言われます。どうしてここまで不安を煽るようなことを言われるんだろう、と思われるかもしれません。しかし、ここはよく考えていただきたい、主イエスの言葉をよく聞き取っていただきたいと思うのですが、主イエスの言葉の中には、ひとつも大げさなことはないと思います。むしろここで主イエスは非常に冷静に、この世の現実を見つめておられると思います。ここに書いてあるようなことは、実は私どもの身の回りにいくらでも起こっていることです。そういう、私どもがこの世界で味わうであろう悲しみを、主イエスはじっと見つめていてくださるのです。

先週の礼拝で読んだ7節以下にも既に、「戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない」と書いてありました。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。私どもの国はいつの間にか80年近く、戦争とはほとんど無縁の生活をすることができているわけですが、情報伝達が発達したおかげで、むしろ80年前よりも戦争の悲惨について、知識だけはついたかもしれません。「戦争のことや戦争の噂を聞いても」……今日読んだ14節以下は、きっとそのことを受けているのだろうと思います。

「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある」。

私どもは、特にこの2、3年の間に、このことをよく理解するようになったかもしれません。戦争が起こったら、山でも外国でも何でも、とにかく逃げられる場所に逃げなければならないのです。そしてそういうときにいちばんつらい思いをするのが、「身重の女と乳飲み子を持つ女」たちなのです。こういう細かい言葉遣いの中にも、私は主イエスの冷静さと、そしていちばん弱い者に対する主イエスの愛を感じます。こういう言葉を読みますと、戦争の何たるかを、主イエス以上によく知る人はいなかったのではないかとさえ思います。「身重の女と乳飲み子を持つ女」、そういういちばん弱い条件の人たちが、いちばんつらい思いをするようなこの世界は、絶対に間違っています。絶対に間違っているのですけれども、それが私どもの生きるこの世界の現実なのです。

そのような現実の中で、私ども教会が固く信じていることがあります。〈既に〉神は、世界を訪れてくださったのです。「身重の女と乳飲み子を持つ女」がいちばんつらい思いをするような世界は、絶対に間違っているのですけれども、だからこそ神のみ子イエスがおいでにならなければなりませんでした。主イエスご自身が馬小屋でお生まれになった、およそ人間が出産するような場所ではない場所で産み落とされたということは、この神の愛を端的に表しているのだと思います。ここに私どもは神の愛を知りました。この世界は、神に愛されている世界であることを知りました。聖餐を祝うときにほとんど必ず読む聖書の言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書第3章16節)。この神のひとり子イエスこそ、わたしのかけがえのない救い主であると信じるからこそ、だからこそ、私どもにとって切実な祈りになるのは、「主よ、来てください」という、このひとつの祈りなのです。

■なぜこの世界は、こんなに曲がっているのでしょうか。神に愛されているこの世界であるはずなのに、なぜ、「身重の女と乳飲み子を持つ女」が涙を流さなければならないのでしょうか。こういう現実の中で、いちばん大きな誘惑となるのは、「神なんかいないんじゃないか」という疑いです。少しでも真面目に人生を生きている人なら、必ずこういう誘惑を知っていると思いますし、こういう誘惑に勝つのは容易ではないと思います。神も仏もあるものか、もともと神なんかいないんだ、と考える人びとを、安易に責めたり裁いたりしてはならないと思います。それだけ、私どもの住む世界が病んでいるということですし、しかもそれは、私どもひとりひとりの罪のために病んでいるのだと言わなければならないと思うのです。

こういう世界の中にあって、それでも神の愛を信じるというのは、決して意固地になって、盲目的に神を信じなさい、神の愛を信じなさい、という話でもないのです。むしろ、主イエスは私どもよりもずっと冷静に、そしてこういう言い方を許していただきたいと思いますが、主イエスは私どもよりもずっと悲観的に、この世界の現実を見ておられました。そのことについて、今日読んだ箇所で何と言ってもいちばん強烈な表現は、「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら」、そう言うのです。

「荒廃をもたらす憎むべきもの」。いったい誰のことでしょうか。「立ってはならない所に立つ」というのは、本来神が立つべき場所ということでしょう。そこで多くの人は、これはまずエルサレム神殿のことであろうと考えました。この第13章を最初から読めばすぐにわかることで、もともとこれらの言葉は、神殿の崩壊を予言するという文脈の中で語られたのです。その上で、聖書の参考書をいろいろ調べると、この「荒廃をもたらす憎むべきもの」というのがいったい誰のことか、もともと福音書を書いたマルコはどういうことを考えていたか、いろいろ説明してくれます。エルサレム神殿については、先週の礼拝でも少し触れましたが、たいへん悲しい歴史を持っていました。外国の手によって侵略されて、神殿も思うままに蹂躙されて、そこに売春宿を立てられてしまったとか、ローマ皇帝が自分の偶像を神殿の中に立てようとしたとか、あるいは最後には、紀元70年、ローマの軍隊がエルサレムを滅ぼし、神殿も叩き潰してしまったとか……。その当時の人たちにとって、「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つ」というこの表現は、そういう悲しい歴史を一挙に思い起こさせるような具体性を持っていたのです。

けれどもまた、福音書はそれだけのことを書こうとしたのでもないと思います。ここに、「――読者は悟れ――」と、聖書の中では珍しい表現が出てきます。「読者は」、つまりこの福音書を読む者は、よく気をつけなければならない。悟るべきことを悟らないといけない。「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つ」。そういうことが、ここでもあそこでも起こっていないか。あるいは現代のいろんな国の、いろんな独裁者のことを思い浮かべるかもしれません。それも正しいことだと思います。けれどもここでマルコが「読者は」と言っているのは……このマルコによる福音書を読む者、最後まできちんと読んだ者は、どうしたってひとつのことを悟らざるを得ないのです。「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立」ったから、だから主イエスは十字架につけられたのです。いや、既に、だからこそ主イエスは馬小屋にお生まれにならなければならなかったのです。この世界がどんなに病んでいるか、どんなに曲がっているか、誰よりも深い痛みをもって知らなければならなかったのは、主イエスご自身であります。

■私ども教会は、このお方の痛みを知っているのです。このお方をかけがえのない救い主として信じ、このお方に従おうとするならば、どうしたって私どもも、あのお方の受けた苦しみの何分の一か、何百分の一か何万分の一か、とにかく何らかの苦しみを受けないわけにはいきません。主イエスがここまでこの世界について悲観的であられたのであれば、私どももこの世界に対して楽観的であるわけにはいきません。この世界は、神の子を殺すような世界なのです。

私は正直にこう思うのですが、弟子たちが最初こういう言葉を主イエスから聞かされたとき、ほとんど何もわからなかったと思います。そうでしょう、きっと皆さんも、何の説明もなしにこの第13章を読んだら、「何だかこの宗教、怪しいな」としか思わないだろうと思います。けれども、弟子たちはこの数日後、主イエスの言葉の意味を痛いほどに理解したと思います。この数日後、主イエスは十字架につけられる。「荒廃をもたらす憎むべきもの」の滅びの力を胸元に突き付けられて、弟子たちは全員例外なく逃げました。「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら……山に逃げなさい」。主がそう言われたから逃げたわけではないのです。誰が何と言おうと逃げたと思います。ところが、そのような弟子たちの姿を最初から見越していたように主イエスは言われました。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。その約束通り、主イエスはお甦りになり、弟子たちのところに帰って来てくださいました。

この弟子たちの中の誰も、主イエスとの再会を予想してはいませんでした。予想も期待もしていなかったのです。主が十字架につけられたとき、そのようにして「荒廃をもたらす憎むべきもの」の力を見せつけられたとき、もう二度とイエスさまの顔を見ることはないだろうと、誰もがそう思いました。ところが、主イエスは帰って来てくださいました。そういう経験をした弟子たちが、主イエスの約束に根ざして、「主は再び来てくださる」という信仰に立つことができたことは、むしろ当然のことだと思います。私どもも、同じ信仰に今立っているのです。

■既に最初のほうで読みましたが、26節以下にこういう主イエスの約束が書いてあります。

「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める」。

不思議な言葉だと思われるかもしれませんが、最初の弟子たちはまさしくこの経験をさせていただいたのです。人の子イエスが、大いなる力と栄光を帯びて、雲には乗っておられなかったかもしれませんが、雲なんかどうでもいいくらいの圧倒的な復活の力を帯びて、四方八方に散らされた弟子たちを呼び集めてくださったのです。

そこで私どもが最後に、注意深く読み取るべき言葉があります。「地の果てから天の果てまで、〈選ばれた者〉を四方から呼び集める」と書いてあります。そう言えば20節にも同じ表現がありました。「主がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、主はご自分のものとして〈選ばれた人たち〉のために、その期間を縮めてくださったのである」。期間を縮めてくださるとは不思議な言葉ですが、主イエスはそのような表現を用いて、本当の支配者が誰であるかを教えてくださったと思います。「荒廃をもたらす憎むべきもの」が世界を支配しているんじゃない。神がこの世界を支配しておられるのであって、時を縮めたり、伸ばしたりすることさえ、神はおできになるのだ。だから、恐れるな。あなたは神に選ばれた者。あなたがどこに逃げ惑うことがあったとしても、だいじょうぶ、わたしがあなたを選んだのだから、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。

この確かな約束のもとに立ちながら、聖餐を祝います。ここで私どもが知るのも、「わたしが神を選んだのではない。神が、私どもをここに集めてくださったのだ」という神の圧倒的な恵みであります。私どもがどんなに頼りない者であっても、今後この教会がどこにどのように迷い、逃げ惑うことがあったとしても、神の選びに揺らぐところはない。終わりの日に、必ず主がすべての選ばれた者、私どもを集めてくださる望みを、ここで新しくさせていただきたいと心から願います。そこに生まれる新しい祈りを、「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという新しい歌を、ひとつに集めたいと思うのです。お祈りをいたします。

 

天地の支配者でいてくださる御神、寄る辺ない私どもを憐れんでください。私どもの罪のために、こんなにも曲がってしまったこの世界を、どうか見捨てないでください。あなたは、そのひとり子をお与えになったほどに、この世界を愛してくださいました。この世界にどんなに絶望することがあったとしても、あなたのみ子は必ず帰って来てくださいます。その望みに固く立って、今既にここで、喜びの食卓を祝うことができます。神さま、ありがとうございます。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン