はじまりの時
ルカによる福音書 第3章21-38節
柳沼 大輝
主日礼拝
近年、「シンプルに生きる」という言葉がよく聞かれるようになりました。身の回りの余計なものを手放してスマートに生きる、余計なものに心惑わされずに賢く生きていく。家具や衣類も最低限のものしか所有しない、そういった人々のことを指したミニマリストという言葉も一時期、大変、流行いたしました。
私も先月末にようやく教師住宅への引っ越しが完了したのですが、思い出が詰まっているものの、もう何年間も着ていない衣服やいつか使うかもしれないと捨てずに取っておきながら、結局、一度も手に取ることのなかった過去の書類や資料などをこの際、一気に処分いたしました。
こういった生き方には、余計なものに心を奪われることなく、あるいは、そのために多くの時間を費やすのではなく、本当に大切なものだけに思いを向けたい、時間を有効に使いたいといった人々の願いが込められているように思います。自分の周りには、無駄とは言わないが、たくさんのものが溢れている、てんこ盛りになっている。そのせいで自分にとって本当に必要なものとは、いったい何かが見えなくなっている。
だからこそ、いわば、生け花のように、そんな周りの枝葉に、はさみを入れて、ここというところで余計な枝葉を落として、軽くしていく。そうやって枝葉を削り取ったところに、本当に大切なものだけが残されて、本質が見えてくると、私たちはそう考えるのかもしれません。
本日、私たちに与えられているルカによる福音書の記述もこのことをよく表しているように思います。この主イエスの洗礼の記事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、4つの福音書にそれぞれ記されている物語であります。しかし、そのなかでもマルコとルカは、実に、簡潔にこの出来事を書き記しています。互いに書かれている内容も類似しています。けれども、この二つの福音書を丁寧に読み比べてみますと、あることに気付かされます。それは、このルカによる福音書の記述の方がマルコに比べて、より「シンプル」にこの出来事を描いているということです。
そこで、福音記者ルカが、切り取っていった、落としていったものを拾い上げて、それらを見てみますと、次のような記述を上げることができます。例えば、主イエスがガリラヤから来たということとか、洗礼の場所がヨルダン川であるとか、洗礼を授けていた洗礼者ヨハネとの対話。ルカによる福音書では、これらの記述が見事に切り取られ、削り取られているのであります。もちろんこれらの情報が必要のないものであるといったわけではけっしてありませんが、ルカは大胆にこれらの記述を削り取り、省略しているのです。
それでは、ルカによって、枝葉が切り取られ、最後に残ったものとはいったい何であったのでしょうか。削られずに残ったもの、それが、ルカが読者に一番、伝えたい大切なメッセージであります。最後に残ったものをよく見てみますと、そこには、主イエスが洗礼を受けようとされたときは、いったいいつであったのか、まさに主イエスがヨハネから洗礼を受け、宣教を開始された「はじまりの時」がいかなるときであったのかということが明確に記されています。
本日の箇所の冒頭にはこうあります。「さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」。ここから主イエスが洗礼を受けようとされたのは、民衆が皆、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けたときであったことがわかります。
ここで「皆」と書かれていて、本当に洗礼を受けたのが、民の全員であったのかと疑問を抱く方もいるかもしれません。もしかしたら民のなかにも動かなかった、洗礼を受けなかった者が少なからずいたのではないかと思うかもしれない。しかし、ここで重要なことは一部ではなく、それほどまでに多くの民衆が今までの自分の生き方を変えようと、罪を悔い改めようと心動かれて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきていたという事実であります。主イエスは、その民衆に連なるかのようにして、ヨハネから洗礼を受けられました。そして、そこで祈りを捧げられたのであります。
ここで、主イエスが具体的に何を祈られたのか、聖書はその内容について、明確に言及しません。しかし、ルカによる福音書は、重要な場面ごとに民衆のために、あるいは、弟子たちのために父なる神に祈る主イエスの姿を鮮明に描き出します。例えば、重い皮膚病を負った者を癒した直後に、十二人の弟子たちを選び出す直前に、ペトロの信仰告白の前に、十字架へと向かわれる前に、そして、十字架で息を引き取られる直前に、主イエスは祈りを捧げられました。
そのなかでも、主イエスの十字架上での祈りは、主イエスの十字架上の7つの言葉の一つとして数えられ、私たちに深い感銘を与えます。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(23:34)
このように、大切な場面ごとに、主イエスは父なる神に祈りを捧げられたのであります。
私たちは、洗礼を受けて祈る主イエスの姿にも、民のために祈る主イエスの御心を見ることができるのではないでしょうか。主イエスの前に、ヨハネから洗礼を受けた大勢の民は、罪を悔い改めて、生き方を変えようと、そう心で決意しながらも、結局は、誰一人として、自分の力で変わることのできなかった者たちでありました。最後には、彼らは皆「十字架につけろ、十字架につけろ」と言って、主イエスを兵に引き渡し、十字架につけて殺したのであります。
主イエスは、そのような変わることのできない大勢の民のために祈ったのではないかと思うのです。彼らの罪を赦し給えと。そして、主イエスは、彼らを救うために十字架へと向かう旅路を歩み出していく。そのように民のために祈る主イエスの姿をご覧になって、父なる神は宣言します。「あなたは私の愛する子、私の心に敵う者」。
主イエスが洗礼を受けられたとき、「はじまりの時」はまさにこのようなときでありました。それではなぜ主イエスはこのときを自分が洗礼を受け、宣教を開始する「はじまりの時」とされたのでしょうか。本日の箇所は、その後半で主イエスが宣教を始められたのがおおよそ三十歳であったことを記します。
主イエスはクリスマスの夜に馬小屋で生まれてから、三十歳になるまで大工として家計を支えました。いわば普通の人として、まるで一般人であるかのように民衆のなかで生活をしてきたのであります。それでは、いまさら、なぜ三十歳になったときに主イエスは、洗礼を受けて、宣教を開始されたのでしょうか。
主イエスは、何もこのときはじめて自分が神の子であることを知ったわけではありません。ルカによる福音書は、その2章で主イエスの幼少期を描き、エルサレムからナザレへと帰る途中で迷子になった主イエスが神殿にいたという物語を記します。そこで、少年イエスは自分を捜しに来た、マリアとヨセフに向かって、次のように言い放ちました。
「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」(2:49)
主イエスは、はじめから自分が神の子であるということをはっきりと知っていました。自分が神の子であるという自覚を持っていました。それでは、どうして、主イエスは三十歳になるまで大工として生活し、わざわざ、このときを「はじまりの時」と見定めたのでしょうか。それはまさにこのとき、大勢の民衆が、聖書の言葉を直接、受け取るのであれば、民が皆、心動かされて、罪を悔い改めようと、自分の生き方を変えようと、洗礼者ヨハネのもとへとその場に集まってきていたからであります。
主イエスは、自分の力ではどうしても変わることのできない、罪を悔い改めることのできない、後に主を捨てて、裏切っていく、どうしようもない大勢の民衆の目の前で、ヨハネから洗礼を受けられ、御自分が神の子であることをはじめて公けにしたのです。彼らの面前で自分の存在を明らかにしたのです。そして、この者たちをどうかお赦しくださいと、父なる神に祈り、彼らを救うために、彼らを生かすために、主イエスはまさにこの時を「はじまりの時」として、宣教の旅を始められたのでありました。
私たちは、この主イエスのように「時」を見定めることができません。過去を振り返って、あのときが私の人生を変えた、歴史が動いた「ターニングポイント」であったと思いを巡らすことはできるかもしれませんが、まさにいま生きているこのときが自分にとって重要な時であると見定めることは、実に難しい。残念ながら、私たちには、到底、できないのであります。
先ほど、洗礼入会式が行われましたが、キリスト教学校に入学した、家族が洗礼を受けた、あの出来事が自分にとって洗礼を受けるきっかけとなった、あのとき、自分は主によって導かれていたのだと後になって思い返すことはできますが、まさにその瞬間、自分にとって、いまこのときが重要な時であるということに気付くことはなかなかできないものであります。
皆さんにとっても、あのときが、自分にとってかけがえのない瞬間であったと、思い返すことはできるかもしれませんが、それに気付くのは、何年か後、あるいは、何十年か後になってからだったいうことは少なくないのではないでしょうか。だからこそ、私たちは、様々なものに目を向けて、様々なものに手を出して、いざという「時」を見逃さないために、必死になって、自分の人生を様々な要素でてんこ盛りに飾り付けていくのではないでしょうか。
最初に「シンプル」な生き方が人々の間で注目を集めるようになってきたとお話しましたが、そこには、やはり、いま、生きている自分の人生をより有意義なものにしようと様々なものに心を奪われ、時間を奪われ、かえって、窒息しそうになっている現代人の心の反動があるように思います。
しかし、現実は、どうでしょうか。いくら物理的にいらないものを捨ててみたとしても、手放してみたとしても、私たちの心のなかには手放さないものがまだたくさんあるのではないか。
自分は必要とされているのか。あの人よりも自分は価値のある人間か。自分は本当に愛されているのか。そのような雑多な感情が複雑に絡み合って、自分の首を締め付けている。窒息しそうなっている。それで、いざというときに大切なときを見定めことができればよいのでありますが、それができない。だから、私たちはさらに不安になって、いらない感情でまた自分の心を着飾っていく。本当の気持ちにまた蓋をする。
洗礼者ヨハネのもとにやってきたあの民と同じように、生き方を変えたいと、もっと素直に神様を見つめたいと、もっとシンプルにイエス様を愛したいと、そう心から願いながらも、自分がいま握り占めているものをなかなか手放せない、そうやって知らず知らずのうちに、本当に大切なものを見失っている私たちがいま、まさにここに集まってきているのではないか。
本日の箇所の後半に記された、主イエスの系図は、人間とは何かをはっきりと証しします。聖書を初めて手に取った者が新約聖書の1頁を捲ってみて、たちまち困惑する、あのマタイによる福音書の冒頭に記された系図と似たようなものがここにも記されています。
しかし、このルカの系図は、マタイとは、反対に主イエスから始まって徐々に祖先へと遡っていくように記録されています。それはユダヤ民族の父祖であるアブラハムに留まらず、最初の人間であるアダムまで遡っています。ここに人間は皆、アダムと同じ、罪人であり、先ほど、新約聖書と共にお読みいたしました、創世記第3章に記されているように、神から、お前はいったいどこにいるのかと尋ねられたら、恐ろしくなって、身を隠してしまう、神様に正面から向き合って応えることのできない、自分の力では、自分の罪を認めて、自分の存在の位置さえはっきりと証言できない、私たちの罪の現実の姿が示されています。
しかし、この系図は、そこで終わりではありません。最後、この系図は、神にまで遡っていくのであります。つまり、すべての人間が罪人であると同時に神が創造した、神が愛する存在であることをこの系図は、証明しているのです。
教会は、この真実を古くから「神の創造性」という言葉を用いて説明してきました。しかし、いきなり神があなたを造ったと言われても、そんなこと、なかなか素直に受け取ることはできないでしょう。ついついそんなことがあるものかと心のどこかで疑ってしまうことでしょう。けれども、そこに委ねてみなければ、そこに自らの存在のすべてをかけてみなければ、私たちは誰も自分がいま生きている意味を知ることなんかできない。自分の生き方を変えることなんかできないのであります。
ここで、この主イエスの系図が、前半の主イエスの洗礼の記事に結び付いていきます。罪を悔い改めようとヨハネから洗礼を受けた民の皆も、やはりこの系図が示すようにアダムと同じで罪人であることに変わりはありません。結局は、誰一人として自分を変えることなんかできない。自分が一番大切で、すぐに神のことなんて捨てて裏切ってしまう。しかし、その一人ひとりも神が創造した大切な神の民であるという事実はけっして変わらないのであります。
だからこそ、父なる神は、彼らのことを見捨てない。諦めない。彼らの罪を赦すために、御自分の愛する子である主イエスを十字架へと向かわせる。心に敵う者を十字架で死なせるのであります。
そして、この悔い改めることのできない罪人である神の民を救うために、彼らを生かすために、主イエスは十字架へと歩み出していく。主イエスがヨハネから洗礼を受け、宣教を開始された「はじまりの時」は、まさにこのたしかな神の救いの計画を差し示すものでありました。
私たちも様々なものを手放せず、すぐに神を見失ってしまう罪人であります。しかし、私たちもけっして失われてはならない一人ひとりが大切な神の民であります。主イエスは、私たちのためにも祈ってくださっている。私たちを救うために十字架へと歩み出していく。「時」を見定めたいのであれば、「時」を見定めることのできる方に聞くしかない。
生きていれば、何のためにこんな辛いことを経験しなければならないのかと人生の空しさを嘆かざるを得ない時があるでしょう。他人の愛情を信じることができず、孤独を感じる時があるでしょう。誰かと自分を比べてみて、自分よりも幸せそうに見えるあの人の姿に思わず涙を流す時があるでしょう。だから様々なもので人生の破れを必死に繕って、自分の心を守ろうとしたくなるような時があるでしょう。
しかし、生きる意味を見失いそうな、この世界に絶望しそうな、自分を諦めたくなるような、そんな辛い時にも、あなたのために十字架で死に、死に勝利し、甦られた復活の主があなたと共にいて、その一つ一つの「時」にたしかな意味を与えてくださる。
私たちが生きる今日、このときもたしかな神の救いの計画のなかにあります。たとえ、あなたがいま神の救いを信じることができなくても、主の十字架と復活による救いの現実は変らずここにある。いかなるものであっても、たとえ病いや死であったとしても、それを奪い去ることはできない。そして、その真実が今日、「洗礼」という神のみわざによって、たしかに私たちの目の前に鮮やかに示されました。
今日も主イエスの救いの日です。涙を拭いて、今日の日を喜び祝おう。不安になって、必死にいろいろなものをかき集めて、そこにしがみつく必要はもうない。自分の心を様々な感情で塗りつぶして本当の思いを隠す必要なんてもうない。私たちの足に複雑に絡みついた罪の縄目を解き放って、もっと自由に、もっとシンプルに十字架へと歩み出していく主イエスの御姿をその目で見つめよう。
この人を見よ。そこに、私たちの人生に、一秒一秒に、あなたが生きるこのときにまことに生きる意味を与える、罪の赦しというたしかな救いがある。いまこそ重い腰を上げて、真理を探究する旅路へと主イエスと共に歩み出していこう。恐れなくてよい。大丈夫、主イエスがいまもあなたと共にいる。
我らの主イエス・キリストの父なる御神、
今日も、あなたが私たちのことを諦めず、救いの御手を差し伸べ、失われたものを救い出してくださる恵みに感謝いたします。
すぐに様々なものに心惑わされ、自らで多くのものを握り占めている私たちです。
どうかいまそれらを手放し、あなたの御手を握り返すことのできる勇気をお与えください。
十字架へと歩まれる主イエスの御姿を仰ぎ見ながら、その御跡に従っていくことができる柔和な心をお与えください。
今日という日も、神の救いの計画のなかにあることを覚えつつ、感謝を持って、喜んで生きていくことができますように。
この祈りを我らの救い主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたいたします。アーメン