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すべての民の祈りの家を

2024年2月25日

マルコによる福音書 第11章12-19節
川崎 公平

主日礼拝

■マルコによる福音書の第11章の12節から19節まで、ふたつの出来事を続けて読みました。ひとつは、葉を青々と茂らせていたけれども、実がなっていなかったために、主イエスに呪われて、翌朝には根まで枯れてしまったいちじくの木の物語と、もうひとつ〈宮きよめ〉と呼ばれる物語です。エルサレムの神殿にお入りになった主イエスが、たいへん腹を立てられて、神殿の境内で商売をしていた人たちを皆追い払ってしまわれたというのです。ついでに申しますと、今日は19節までを読みましたが、実はさらに20節以下を読まないと話は完結しません。そこまで読んで初めて、いちじくの木が枯れてしまったこと、そこからまた始まった新しい対話が記録されるのですが、その部分は来週の礼拝で読みたいと思います。

ふたつの出来事が、互いに絡み合うように、深い関連をもって記録されております。いずれの記事もたいへん印象深いものですが、それだけに私どもを当惑させるものがあるかもしれません。いったい、どういうことだろう。いちじくの木もかわいそうに。神殿で商売って、何となく悪いことのような気がするけれども、「強盗の巣」とまで言われなければならないのは、いったい具体的に何をやっていたんだろう。……いろいろわかりにくい、というだけでなく、いろんな意味で飲み込みにくいところがあり、少し正直なことを申しますと、私も説教の準備にいつになく苦労しました。けれども、その上で私どもがよくわきまえていなければならないことは、主イエスがエルサレムにおいでになって、最初にしなければならなかったこと、その意味で主イエスがいちばん大事にされたことが、このふたつのことであったということです。

これまで私どもは時間をかけて、礼拝の中でマルコによる福音書を順番に読み進めてまいりました。その中で繰り返し教えられてきたことは、主イエスのこれまでの歩みは、実はひたすらにエルサレムを目指したものであったということです。しかし、いったい何のために主はエルサレムにおいでになったのだろうか。それは、十字架につけられるためだ。三日目に復活なさるためだ。それがまず常識的な理解であると思いますし、それは何も間違っていないのですが、もしそれだけなら、主がエルサレムにおいでになったら何も余計なことをする必要はない、まっすぐに裁判所に行ってしかるべき主張をして、さっさと死刑の判決を受ければよいのです。ところが主イエスはそうはなさらずに、まるでエルサレムに来られた第一の目的は、神殿をきよめるためであったかと思われるような、そういう行動をなさったのです。なぜかというと、神殿が神殿の名に値しない、神の宮と呼ばれるに値しない有様だったからです。

その関連で、私どもが深く心に刻まなければならない言葉は、12節の「イエスは空腹を覚えられた」という、この一句であります。ここはもう少し強く「イエスは飢えた」と訳した方がよかったかもしれません。神の御子が長い長い旅をして、遂にエルサレムにお入りになった、そのときの御子イエスの思いは、激しい飢えであったというのです。その主イエスの飢え渇きが、宮きよめと呼ばれる、この出来事の動機ともなりました。それは、私どもにも深い恐れを呼び起こすはずの出来事であると思うのです。

■今日は礼拝の時間を変更して、この礼拝のあと午後1時終了を目指して教会総会を行います。牧師たち、長老たちは、それなりに深い思いを込めて、今回の総会に備えてきたつもりですし、皆さんにも、よく祈って備えてほしいと呼びかけてきました。本日の教会総会で、少し丁寧に時間を取って共に考えたいと思っていることは、鎌倉雪ノ下教会の将来のこと、しかもそれほど遠くない、近い将来の話であります。たとえば率直な問題として、10年後、この教会はどういう様相を呈しているか。20年先、果たしてその時までこの教会がもつか。そういうことを、本当は3年くらい前にきちんと問題提起するつもりで準備をしていたのですが、コロナが始まって完全に足踏みしてしまいました。教会員の人数がどうなるか、平均年齢はどうか、財政はどうなるか、もちろんそういうことを考えることは大切なことであるに違いありません。神さまから特別に多くのものをお預かりしている鎌倉雪ノ下教会ですから、皆さんひとりひとりが、具体的にこの鎌倉雪ノ下教会という教会の将来に責任を持たなければならないと思います。

けれどもそういう特別な日に、ある意味で本当にたまたまこのような聖書の言葉を与えられて、それはきっと神さまが、この教会総会の日にこの聖書の言葉を与えてくださったのだと私は信じておりますが、どうもうまく言葉では言い表せないほどの、恐れというか、しかしまた感謝に導かれる思いがいたします。

ますます伝道したいと思います。この3年間で、礼拝堂の席がすっかりスカスカになってしまいましたが、再びここが満員にならなければならないと思うのです。そしてそのために、一緒に知恵を集め、議論を重ね、一所懸命献金もして、何よりも祈りを集めて、と思うのですが、もしもそれが祈りの家ではなく、強盗の巣を栄えさせるようなものでしかなかったら、どうしようもないと思うのです。葉っぱだけは景気よく茂らせているけれども、本当に主イエスがお喜びになるような実はひとつも見つからないような教会が、もしかしたら、千人、二千人と人を集めることができてしまうかもしれない。そのことを、むしろ真剣に恐れなければならないと思うのです。

私どもが教会総会で議論することは、私どもが満足できる教会を作ることではありません。自分たちだけ居心地のいい教会では困るので、もっとたくさんの人が来やすい教会にしよう、誰にとっても居心地のいい教会にしよう、もちろんそれはものすごく大事なことであるに違いない。けれども私どもがいつも恐れをもって祈り求めなければならないことは、この教会が主イエスを喜ばせる教会であるように、主イエスが飢え渇いてしまうような教会ではなくて、この鎌倉雪ノ下教会のことを主がご覧になって、それだけで主の心も体も満たされるような、そういう教会を祈り求めなければならないと思うのですが、そのために何をどうすればよいのか、そこで私どもは途方に暮れるのではないかと思います。大事なことは、み言葉の前で途方に暮れることだと思うのです。事実また今日与えられた聖書の言葉は、ある意味で、私どもを途方に暮れさせるところがあると思うのです。

■ここに「両替人」とか「鳩を売る者」という言葉がありますが、これは一応の説明が必要だろうと思います。両替人というのは、要するに献金をするための両替人ということです。一万円札は献金するわけにいかないから小さいお金に替えてもらって、という意味の両替ではなくて、当時のユダヤの人びとが生活上使わされていたお金には、ローマ皇帝の像が刻まれていました。そのことがすぐに第12章13節以下で話題になります。その箇所についてお話しするときにも同じ説明を繰り返すことになると思いますが、ローマ皇帝は、自らを神の子・救い主と称した。そんなお金を神殿にささげるわけには絶対にいかないので、神殿奉献用の別の貨幣を用意して、その両替を請け負う人が必要になりました。しかしよく考えてみると、その両替人が受け取ったローマ帝国のお金も結局は神殿の収入になるわけで、そして人びとが実際に両替してささげた献金用の貨幣は、お賽銭箱の裏で誰かが回収して、また両替人のところに持ってきて、そして次の人の献金の両替のためにぐるぐる使い回すわけですから、まあ、なんとも、という話です。

鳩というのも神にささげるためのもので、その意味で礼拝に必要なものでした。本来は牛とか羊をささげなければならないのですが、貧しくてその余裕がなければ、代わりに鳩でもよろしいと旧約聖書にも書いてあります。それで実際には、大多数の人が鳩をささげたと考えられています。けれどもエルサレムの神殿で礼拝をする人というのは、皆が皆エルサレムに住んでいるわけではなく、むしろどんなに遠くに住んでいても、ユダヤ人である以上は定期的にエルサレムの神殿に来て礼拝することが求められていました。真面目な人であればあるほど、エルサレムへの巡礼を大事に守ったでしょう。家族を連れて、何日も、何週間もかけて旅をするというときに、ずっと鳩を連れてくるというのは難しいし、エルサレムに到着してから鳩を捕まえるというのは、さすがに心もとない。それで、神殿の前で鳩を売る商売人が必要になりました。それを主イエスは全部ひっくり返されたというのですが、そこでいちばん困るのは礼拝をする人たちです。「何ということをしてくれるんだ」。皆、困るどころか、血の気が引くほどの思いにさせられたと思いますし、その結果18節で、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」というのも、当然の帰結と言わなければなりません。

もしも今、主イエスが鎌倉雪ノ下教会においでになったら、どんな顔をなさるだろうか。あれもいかん、これもいかん、とあれこれひっくり返して、祈りの家を強盗の巣にするな、何だこの総会資料は、誰が書いた……などと想像してみることにも意味がないとは思いませんが、そんな想像をたくましくするよりも大切なことは、二千年前に、ただ一度限り主がなさった、この宮きよめの意味であります。なぜここまでしなければならなかったのでしょうか。しかも、言うまでもないことですが、主イエスが宮きよめをなさった次の日も、また次の日も、同じように神殿の営みは続けられたし、主イエスご本人とて、ただ鳩売りの椅子や机をひっくり返しただけで、さあこれで神殿がきよくなったなどとは、夢にも思わなかっただろうと思います。主イエスは神殿を壊すためではなく、真実の神の宮を作るために、都エルサレムにおいでになったのです。けれどもそのために、主イエスがどれほど激しい戦いをしなければならなかったか、どれほど飢えておられたか。しかし、いったい主イエスは、何に飢えておられたのでしょうか。

■「祈りの家を、強盗の巣にするな」と主イエスは言われました。ここで必ず聴き取らなければならないのは、「祈りの家」という、この言葉だと思います。「私の家は、すべての民の/祈りの家と呼ばれる」。ところが、その神の家で、祈りが聞こえないではないか。どうか、わたしの飢えを、あなたがたの祈りによって満たしてほしい。だからこそ、今日は読みませんでしたが、22節以下では改めて〈祈り〉についてお語りになるのです。根まで枯れてしまったいちじくの木を指差しながら、主はこう言われました。

「神を信じなさい。よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(22~25節)。

祈りなさい。神を信じて、祈りなさい。祈り求めたものは、既に与えられているのだから。しかし何よりも、敵を赦す祈りをしなさい。「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。あなたにいちばん必要な祈りは、これなんだから……。

祈りとは、ただそれらしい言葉をかっこよく口にしてみせることではありません。祈りとは、神と共に生きることです。神との交わりに生きることです。ところが主イエスは、その祈りに飢えておられた。神殿にごった返している人びとが、真実に神との交わりに生きていないことに、飢えておられたのです。それはもっとはっきり言えば、私どもの存在に飢えておられたということではないでしょうか。「わたしは、あなたと一緒にいたいのに、なぜあなたは祈らないんだ。わたしの家は、祈りの家ではないのか。その祈りの家で、祈りが聞かれないのは、どういうことだ」。そのために主イエスは、エルサレムにお入りになり、激しい飢えと戦わなければならなかったというのです。

■そのことを理解するために、「祈りの家」と対比させて、「強盗の巣」と主が言われたことをよく考えなければならないと思います。もしもこの教会が祈りの家でなかったら、鎌倉雪ノ下教会は強盗の巣でしかない。そのことについて私どもは、いつも健全な恐れの感覚を持っていないといけないと思うのです。

それにしても強盗とはずいぶん穏やかではありませんが、誰が誰のものを盗むというのでしょうか。両替人や鳩を売る人たちが、法外な商売をしていたということでしょうか。むしろここで多くの人が考察することは、ここでの強盗というのは、神のものを盗むことだということです。そのことについて、あるカトリックの神学者はこういうことを言っています。「神からできる限りのものを盗みたいというのは、人間の本能だ」と言います。かくして、世界中にあるほとんどの宗教は、神と取引関係を結ぶようなものでしかない。献金をすれば、神の恵みが与えられる。清く正しい生活をすれば、ますます神の祝福は確かになる。逆にささげ物を怠けたり、悪いことばかりしていると、罰が当たる。これが人間の作り出す宗教の本質であって、しかもこれほど重大な悪はない。そう言うのです。

そう言えば、そういう宗教は身の回りにいくらでもあるな、と思い当たるかもしれません。受験のシーズンです。○○八幡宮にでも行って、絵馬を奉納して……絵馬というのももともとは馬をささげたそうです。それは無理だから、代わりに鳩をささげたように、絵に描いた馬をささげる。しかも今はその馬の絵を自分で描く必要すらなく、神社が売ってくれる。人びとはそれを買って好きなことを書く。神社は儲かる。「これほど重大な悪はない」と先ほどのカトリックの神学者が言うのはなぜかというと、そこに愛がないからです。そこにあるのは取引関係だけで、利害関係があるだけで、愛はありません。

けれどもここで、ことさらに他宗教の批判をするのはあまり適当なことではないと思います。私どもが教会に生きるのは、信仰に生き、祈りに生きるのは、祈っていればいいことがあるからではありません。たくさん祈ればいいことがあるなどと聖書が教えたことは一度もありません。私どもは、利害関係で神さまを信じているのでもないし、この教会の勢いを守ったり増やしたり盛んにしたいからここにいるわけでもなく、ただ神さまと一緒にいたいから、私どもはここに教会を作らせていただいているのです。ただイエスさまと一緒にいたいんです。イエスさまのことが好きなんです。主イエス・キリストの父なる神が、私どもを愛しておられるからです。その神の恵みの言葉を、聞き漏らしたくないんです。それをひと言で言えば、「祈りの家」ということになるのでしょう。この鎌倉雪ノ下教会も、祈りの家です。神に愛され、だからこそひたすらに神を愛する群れです。けれども、もしもそこに祈りが聞こえなくなったとしたら、そのとき主イエスの飢えはどんなに深いかということを、特に教会総会のような大切な会議のときには、ますますよく考えなければならないと思うのです。

■今、私どもも静かに思い起こさなければなりません。いよいよエルサレムにお入りになった主イエスが、どんなに深い飢えに苦しんでおられたか。主イエスのまなざしには、かつて預言者エレミヤが痛烈に預言したように、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」という虚しい姿だけが見えるだけで、実のところひとつも食べられるような実りを見出すことができなかったのです。

そのことについてマルコによる福音書ははっきりと、「いちじくの季節ではなかったからである」と書いています。この言葉がまた多くの人を悩ませました。いちじくの季節ではないのに、実がなっていないことに腹を立てて、それでいちじくの木を枯れさせるなんて、いくらイエスさまといえども、横暴が過ぎると言うべきなのか、それとも無知が過ぎると言うべきなのか。けれども、ここで主イエスが本当にお求めになったのが文字通りの果物でないことを理解するならば、主イエスが言われたことは、横暴でも無知でもないことが容易に理解できると思います。

むしろ私は思うのですが、主イエスは、私どもに実がないことを知っておられたからこそ、実を求められたのではないでしょうか。今も主イエスは、皆さんに実りを求めておられるのです。皆さんの祈りを求めておられる。信仰を求めておられる。何よりも、私どもが神との確かな愛の絆に生きることを、飢え渇くように求めておられるのです。それなのに、私どもは実にしばしば季節外れなのです。いや、ちょっと待ってください、まだ今は私の季節ではありません、なぜ実りがないかと言われたって、それは難しいです。仕事が忙しいので。家計が苦しいんです。だって、家族がひどいんです。まだ私は若いですから。もう年を取り過ぎましたから。私どもは、祈りをしない言い訳を考えようと思ったら、どんな屁理屈だって簡単に思いつくのです。

聖書が語る罪とは、あれやこれやの悪いことをすることではありません。神との愛の絆を壊すことです。しかしそれが、ただいいとか悪いとかいう次元を超えて、ただほかの人に迷惑だ何だという次元をも超えて、神の御子キリストを飢えさせるようなことであったことに、私どもはどれだけ気づいているでしょうか。しかし私どもが気づいていなくても、神は気づいておられるし、そのために神の御子は飢えに苦しまなければなりませんでした。私どもの愛に飢えておられたのです。「なぜあなたがたは、そこまで実りがないのか」。だからこそ主イエスははっきりといちじくの木を呪われ、これを根っこから枯らしてしまわれた上で、さらに私どもを呪い殺すというようなことは決してなさらずに、主イエスご自身が十字架の木につけられたのであります。

このエルサレムにおいて主が十字架につけられる、そのための裁判が行われていたときに、こういう発言がありました。マルコによる福音書第14章58節。

「この男が、『私は人の手で造ったこの神殿を壊し、三日のうちに、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、私たちは聞きました」。

これは、主イエスを陥れるために、一所懸命偽証をしている人の発言でしかありませんが、だからこそ図らずも神のみ旨を見事に言い当ててしまっています。「三日のうちに」、すなわち三日目に死人の中からお甦りになることによって、「手で造らない別の神殿を建てる」。それは、皆さんの体、そのものです。皆さんの生きた体によって造られる教会が、主イエスの命によって造られた神殿、そのものなのです。伝道者パウロもまた、「あなたがたこそ、主の神殿」と言いました。あなたがたのからだは、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であると。それをもう一度、強盗の巣にするようなことをしてはならないと言われる主の熱心が、この教会を建てるのであって、この主イエスの愛と熱心に確信を持つことができるなら、この教会の将来についても明るい希望しか持ち得ないと思うのです。望みのうちに、共に教会の歌を歌いたいと思います。お祈りをいたします。

 

教会のかしら、主イエス・キリストの父なる御神、どうかご覧ください、ここにもあなたの教会が生きています。人の手の造った神殿ではありません。あなたの御子の血によってあなたご自身のものとされた、あなたの教会です。ここに生かされている幸いを知れば知るほど、私どももますます熱心に、礼拝に生き、伝道に生きることができますように。そのために、ここに立つ祈りの家・神の民の家を、あなたが豊かに用い尽くしてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン