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その愛は我らを捕らえ離さない

2024年2月18日

コリントの信徒への手紙二 第5章11-21節
中村 慎太

主日礼拝

 

「キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。」

神さまはどのように私たちをお考えになっているか。そして、教会に集まる私たちはどのように神さまとの間柄を持っているのか、それをよく伝える言葉です。

前まで使っていた聖書では、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」と訳していました。

駆り立てている、という言葉は何だかこちらにストレスやプレッシャーを与える言葉です。あまりいい意味で用いられることはありません。

しかし、その主語は、キリストの愛、なのです。だからこそ、私たちは少し安心できる言葉としても読めるでしょう。

実は、私が線を引くようにしていた聖書には、この箇所に線が引いてあることを、改めて気づかされました。

今の訳では、「捕えて離さない」、という語に変わりました。

これも、何か恐ろしいものが、私たちを捕らえて離さないなら、それは嫌で恐ろしいことです。しかし、キリストの愛が、そのように私たちをしてくれているということは、私たちにとって喜ばしい知らせなのです。

聖書のもとの言葉から考えれば、共に持つ、しっかり持つ、という意味です。

だからそれは、意味が拡がり、挟む、とか、迫る、そして、専念する、とかにもなりました。

フィリピの手紙には、パウロが板挟みになっている、とまで言い表しているところまであります。

そんな中、この箇所は、もしかしたら元の言葉をシンプルに訳しているかもしれません。

捕えて離さない。

神さまの愛とはそういう者です。

私たちを捕らえて離さない。

神さまの愛を伝えるやり方があります。

腕をつかむしぐさ。

神さまの愛とは、そのようなものだと、私たちは教わってきました。

青年の修養会でも、教わっていました。

私も教わったことで、それが私より若い人たちにも伝えられていた。

神さまの愛とはそのように、私たちを捕らえて離さないこと。

自分で歩んでいる、と思ってしまう私たち。神さまなどいらないと思い、神さまが親しくその手で私たちを捕らえて離さないでいて下さることを忘れてしまう私たちです。

それこそが、もっとも神さまを寂しがらせること、悲しませることだと知らずに。

偶像を思ってしまうこと。

この手紙が書かれた経緯は、そのように歩んでしまう教会の者を、神さまの愛はこういうものだと、示すために、パウロが書いたものでした。

伝道者パウロは、コリント教会の仲間たちに、神さまとの関係を回復させることを伝える。には、パウロに対する批判もありました。また、対立も起こり、混乱が生じていました。

その教会の仲間を、原点に戻すためのパウロの言葉だった。

14節から。

イエスさまは、私たちのために死んでくださった。そもそもは、私たちが死に、そして死のまま終わってしまう、破滅してしまうはずだった。私たちをお造りになり、私たちの神さまである主なる神さまから離れてしまい、命ではなく、滅びの方へと知らず知らずのうちに進んでしまう私たち。

その私たちを、キリストは愛してくださった。どれほど私たちが、そのイエスさまを否定しようとも、イエスさまは私たちを離そうとはなさらなかった。

和解を与えてくださった。

その大きな愛の内にいれてくださった。

17節にも、そのイエスさまの大きな愛が伝えられています。

神さまとはそのようなお方なのです。

そして、私たちはその愛に捕らえられて、その愛の中で生かされている者なのです。

それは、ただ安穏とし、怠惰に過ごす歩みではありません。

その主が与えてくださった、和解を、今度は人々に伝えていく役目を、使命を私たちは与えられました。

教会の、宣教の使命です。

コリント教会の人々に伝えられたように、私たちもその使命が与えられています。