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主よ、見えるようになりたいのです

2024年2月4日

マルコによる福音書 第10章46-52節
川崎 公平

主日礼拝

■バルティマイという名の盲人が、主イエスに目を開いていただいて、見えなかった目が見えるようになったという福音書の記事を読みました。いきなり個人的な感想で恐縮ですが、私の大好きな聖書の記事のひとつです。バルティマイのことを思うと、本当によかったなあと思いますし、天国で会いたい人というのは、もちろんたくさんいるわけですが、バルティマイとは絶対に会ってお話ししたいと思っています。

「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と、目が見えないままに叫び続けたというのですが、いったいどんな気持ちだったでしょうか。何しろ目が見えないわけですから、イエスさまがどこにいるのか、近くにいるのか遠くにいるのか……もちろん目の見えない人というのは、それでも別の感覚が研ぎ澄まされているのかもしれませんが、それにしても何も見えないままに主イエスの名を呼び続けるというのは、どんなに心もとないことだったかと思います。その上に周りの人からも「うるさい、黙れ」と叱りつけられて――いやね、バルティマイさん、でも、ひとつ聞きたいんですけど、どうして「この人なら」って思ったんですか? 「この人なら、何とかしてくれるかもしれない」って、そりゃあ、今振り返ってみれば納得できますけど、でもあの時は、目も見えないのに、ただ「ナザレのイエス」という名前が聞こえてきただけなのに、「この人なら」って、どうしてわかったんですか?

ところが、奇跡が起こりました。バルティマイが必死で叫び続けていたら、主イエスが立ち止まってくださって、そして「あの人を呼んで来なさい」と言われるので、このバルティマイはイエスさまに呼ばれるや否や、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」。――いやいや、ちょっと待って。バルティマイさん、まだ目は見えていなかったじゃないですか。どうしてそんなにうれしかったんですか。目が見えるようになったから躍り上がった、というのならわかりますけど。あと、目が見えないのに、よくイエスさまのところに行けましたね。……いや、でも、わかりますよ。そう言えば私だって、イエスさまに呼ばれたら、それだけで躍り上がったことが、何度かあったような気がします。イエスさまに呼ばれたら、そりゃあ躍り上がりますよね?――皆さんは、どうでしょうか。

■この福音書の記事においてひとつ興味深いことは、バルティマイという名がきちんと残っているということです。皆さんの中にも、既にこのバルティマイという名前を記憶しておられる方は決して少なくないと思います。実はこれと同じ出来事が、マタイによる福音書にもルカによる福音書にも伝えられていて、それぞれ少しずつ内容というか強調点が変わっているのですが、いちばん違うところは、バルティマイという名前が消えてしまっているということです。マルコによる福音書は、歴史上最初に書かれた福音書です。マタイ福音書もルカ福音書も、マルコを下敷きにして書かれました。そこで多くの人が推測することは、マルコによる福音書の最初の読者たちにとっては、バルティマイと言えば、「はいはい、あのエリコの盲人だったバルティマイじいさんね」というように、顔を知っていた。声を知っていた。少なくともマルコの時代にはまだ、鮮明な記憶が残っていたということではないか。そうでなくても間違いないことは、バルティマイ自身が教会に生きたということです。

今日読んだ箇所の最後のところに、「なお道を進まれるイエスに従った」と書いてあります。その主イエスに従う歩みが、ひと月やふた月で途切れたなんてことは考えられません。わざわざ実名が記されているということは、このバルティマイという人は、その主イエスに従う歩みを、なお教会の生活の中で貫いたのです。主の日ごとに、教会の仲間と一緒に礼拝の生活をしたでしょう。そしてそこでバルティマイは、自分が主イエスに呼ばれた出来事を、喜んで語り続けたと思います。自分があのとき叫んだ言葉、そして自分が聞いた言葉を、バルティマイは決して忘れなかったでしょう。――「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、真っ暗闇の中で、一所懸命叫んだんだ。そうしたら、イエスさまがわたしを呼んでくださって、「安心しなさい。立ちなさい。イエスさまが呼んでおられるよ」と、誰かが声をかけてくれて、それで躍り上がってイエスさまのところに行って、今は、ほら、このように目が見えるようになったんだ。

教会の歴史は、そのようにして始まりました。たとえば、このバルティマイの語る言葉を、教会に集まる人びとは喜んで聞いたし、それをまた喜んで次の人に語り伝えました。私どもが今読んでいる福音書の記事というのも、もともとは何よりも教会の礼拝の中で語られ、それがいつしか紙の上に書き留められ、それがまた書き写されて、ほかの土地の教会でも朗読されて……そのような教会の歴史の中に、今私どもも生かされているのです。

そうして今朝もこのように、私どもは日曜日の朝の礼拝をしています。日曜日の礼拝、私どもはむしろこれを「主の日の礼拝」と呼びますが、なぜ「主の日」と呼ぶのかというと、日曜日の朝に主イエス・キリストがお甦りになったからです。お甦りになって、今も私どもと共にいてくださる。今も私どもを新しく呼んでくださる。私どもの目を開いてくださる。そのようなお甦りの主の証しとして最もふさわしい物語のひとつとして、バルティマイは自分が闇の中から光へと立ち上がった物語を語り続けたし、今ここでも私どもは、主の甦りの光の中でこの物語を読むことが許されているのです。

■この物語の中で、特にバルティマイが心をこめて語ったに違いないと思うのは、49節の最後の言葉です。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。目が見えないバルティマイの闇の中に、光そのものであるような言葉が降り注ぎました。「安心しなさい」と言われます。深い闇の中で、不安しかなかったのです。だからこそ、力の限り叫び続けたのでしょう。周りの人からも「うるさい、黙れ」なんて言われたら、ますます不安になって、ますます大きな声で叫び続けていたら突然、「安心しなさい」。そして、「立ちなさい」。もうだいじょうぶ、あなたは立てる。しかし、立ち上がって、どうするのでしょうか。どこに行くのでしょうか。バルティマイは、依然として目が見えないままなのです。ただ口先だけで、「安心しなさい、立ちなさい」と言われたって……たとえば今ここで私が皆さんに、「安心しなさい、立ちなさい」と言って見せたって、立ったあとどうしたいいのかわからなかったら、何の意味もないでしょう。

ところがここでは安心して立てる。なぜかと言うと、「お呼びだ」と最後に書いてあります。「あのお方が、あなたを呼んでおられる」。主イエスは、あなたの叫びを全部聞いてくださった。そのお方が、今あなたを呼んでくださるんだから、安心して立ちなさい。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。ここはどうも、原文のギリシア語をそのまま朗読したくなります。“Tharsei, egeire, phōnei se” と、この三つの言葉がマルコの教会で朗々と朗読されたときにも、それを聞いた教会の仲間たちは、今自分たちを呼んでいてくださるキリストのご臨在をしみじみと感じ取ったに違いないと思いますし、今この場所にも、同じ恵みの言葉が響いているのですから、それを聴き取らなければならないと思うのです。「安心しなさい。立ちなさい。主イエスがあなたを呼んでおられる」。主イエスに呼ばれたなら、立たないわけにはいきません。そして立ったとき、既に私どもは不安の中にはおりません。

今、この礼拝においても、主イエスは私どもを呼んでいてくださるし、礼拝が終わって家に帰って行くときにも、いつも主イエスは皆さんと共におられます。そこでも、いつも、私どもはこの言葉を聴き続けるのです。「安心しなさい。立ちなさい。主イエスがあなたを呼んでおられるのだから」。その主イエスの呼び声を信じて、ただこのお方に従って行けばよいのです。

■ここで「呼ぶ」と訳されている言葉もたいへん興味深いものです。49節に3回も「呼ぶ」という動詞が繰り返されます。「あの人を呼んで来なさい」。「人々は盲人を呼んで言った」。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。新約聖書において、「呼ぶ」とか「招く」という意味を持ついちばん普通の表現というのがあって、たとえばマルコによる福音書第2章17節に、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という、たいへん有名な言葉があります。私どもも、主イエスに招かれた。主イエスに呼ばれた。それはその通りなのですが、この第10章49節で3回繰り返される「呼ぶ」という言葉は、それとは違う、もう少し強い言葉が使われています。ギリシア語をそのまま発音すると「フォーネオー」と言います。騒音のレベルを示す「フォン」という単位がここから生まれたわけで、テレフォンとかインターフォンの「フォン」です。ただ招き寄せるというよりも、呼ぶ声が聞こえる。「大きな声で」というニュアンスを持つこともあります。

今、受難週祈祷会の準備をしております。今年も何人かの教会の方が奨励の奉仕を引き受けてくださって、牧師たちもその準備のお手伝いをしておりますが、先週私もある方と一緒に奨励の準備をしながら、「あ、そうか」と気づかされたことがあります。主イエスが十字架につけられる前の晩、弟子たちにある意味でたいへん厳しいことを言われた。「あなたがたは皆、私につまずく。/『私は羊飼いを打つ。/すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ」(第14章27節)。ことにペトロよ、あなたはずいぶん勇ましいことを言っているけれども、「今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。そこで鶏が「鳴く」というのも、この「フォーネオー」です。主イエスが裁判を受けておられるそのすぐ近くで、ペトロは三度、主イエスのことを知らないと言い張りました。「いいや、わたしはあんな人のことは知らない、一緒にいたことなんか一度もない」と言っているときに、コケコッコー、という鶏の鳴き声が、ペトロの魂を鋭く突き刺した、それにも勝るとも劣らぬ大きな呼び声が、バルティマイの魂を突き刺したということでしょう。

もうひとつ印象深い用例を紹介すると、ヨハネによる福音書第11章に、ラザロという人が死んで墓に葬られたという記事があります。しかし主イエスは、ラザロを愛しておられました。その愛するラザロの葬られた墓の中に向かって、主イエスは大声で、「ラザロ、出て来なさい」とお呼びになった。「フォーネオー」なさった。死者を墓の中から奪い戻すような力ある声、命の声、愛の声、そのような主イエスの呼び声が、バルティマイの魂を捕らえました。「安心しなさい。立ちなさい。主イエスの呼び声が、聞こえないか」。深い闇の中に、光そのものである呼び声が聞こえました。聞こえたら、立たないわけにはいきません。私どもも、立てるのです。主イエスが呼んでいてくださるからです。

主イエスに呼ばれたバルティマイは、死んだラザロが墓の中から出てきたように、闇の中から立ち上がって、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」と書いてあります。目が見えないのに、どうしてバルティマイはイエスさまのところに行けたのだろうか、しかも躍り上がりながら、よくすっ転ばなかったな、などと余計なことを考える必要はありません。バルティマイの物語は、私どもの物語です。そして、なぜバルティマイがイエスさまのところに行けたかというと……いや、回りくどい言い方はやめましょう、なぜ今私どもが主イエスのもとに来ることができたかというと、主イエスに呼ばれたからです。命の呼び声が、私どもを捕らえたからです。それ以外に、私どもが今ここにいる理由はありません。

■バルティマイが躍り上がって主イエスのもとに行くと、バルティマイは改めてひとつの問いの前に立たされました。「あなたは、何をしてほしいのか」。ある人は、ここでバルティマイは答えに詰まったのではないかと想像しています。「何をしてほしいのか。あなたは、わたしに、何を望むのか」。あれ、そう言えば、自分は何のために躍り上がってここに来たんだろう……。そんなばかな、とお考えになるでしょうか。「何が願いか」って、そんなことはわかりきっているではないかとお考えになるでしょうか。しかしそれならば皆さんだって、今主イエスに呼ばれて、躍り上がったかどうだかわかりませんが、み前に立たされて、「何が望みか」と改まって聞かれたら、どう答えるでしょうか。バルティマイは、そうでなくても、これまで無数の人から同じようなことを聞かれてきたのであります。「何をしてほしいですか」、「何かできることはありますか」と声をかけてもらって、そして実際にいろんな願いを口にしてきたと思います。

けれども、今バルティマイは、イエス・キリストのみ前に立っているのです。私どもも、呼ばれたから、ここに立っているのです。そこでバルティマイは主イエスに問われる。「何をしてほしいのか」。物乞いをしながら生活をつないでいたバルティマイです。いちばん欲しいのはお金であったかもしれません。自分の生活を支えてくれる結婚相手が欲しいと、実は飢え渇くようにそのことを求め続けていたかもしれません。今私の話を聞きながら「何よ、それ」と心の中で笑っている方もあるかもしれませんが、私どもだって突然主イエスに「何をしてほしいのか。あなたはわたしに、何を望むのか」と問われたら、答えに詰まりながら、実に低レベルな願いを口にしてしまうかもしれません。

けれども主イエスが敢えてバルティマイに、「あなたは、何を願っているのか。このわたしに」とお尋ねになったのは、先に結論を申し上げるようなことになりますが、要するに〈信仰〉をお求めになったのだと思います。「あなたは、わたしを信じるのか。もしわたしを本当に信じているのなら、あなたはわたしに何を求めるのか」。

そこでバルティマイは、万感の思いを込めて申しました。「主よ、見えるようになりたいのです」。言葉に詰まりながらであったかもしれない。その声は震えていたかもしれない。けれども、自分はイエスさまに呼ばれたのだ。このお方の命の呼び声に、わたしは捕らえられたのだ。その事実にも励まされて、バルティマイは、遂にこれまで誰にも言ったことのない願いを、生まれて初めて口にしました。「主よ、見えるようになりたいのです」。「ダビデの子イエスよ、他の誰にも、こんなことは言ったことがありません。けれども、あなただからこそ、わたしは願います。わたしの目を開いてください。見えるようにしてください」。

これが〈信仰〉だと思うのです。もしこれが信仰でなかったら、ほかの何が信仰の名に値するでしょうか。「このお方にならできる。このお方だからこそ、わたしは願う」。それが〈信仰〉です。ですから52節では改めて「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。

すると、バルティマイはすぐ見えるようになりました。バルティマイの信仰がバルティマイの目を開いたのですから、バルティマイは当然、自分の目で見たお方を信じました。主イエスもまた、バルティマイのことをじっと見つめてくださったでしょう。それで「なお道を進まれるイエスに従った」。私どもにも、同じ道が与えられていると信じます。

■この物語をもって、第10章が終わります。来週の礼拝では、いよいよ第11章を読みます。なぜ「いよいよ」なのかというと、遂に主イエスがエルサレムにお入りになるからです。その数日後には、十字架につけられるためです。バルティマイは、主イエスに開いていただいた目で、十字架につけられた主イエスを見たでしょう。こんなつらいものを見させられるくらいなら、目が見えなかった昔に戻りたいとさえ思ったかもしれません。けれどもお甦りになった主は、きっとバルティマイのところにももう一度来てくださったと思います。そして、もしかしたらもう一度、「安心しなさい、立ちなさい、わたしがあなたを呼ぶ」と、バルティマイのためにも声をかけてくださったのではないかと、私はそんな想像をいたします。

しかし肝心なことは、私ども自身のことであります。今私どもも、主イエスに呼ばれたから、ここに立つのです。主イエスに呼ばれた者として、だからこそひたすらに主イエスを愛し、主イエスを見つめてここに立つのです。

そこにまた、私どもの使命も明らかになると思います。バルティマイもまた、その使命に忠実に生きることができたと思います。「わたしはイエスさまに呼ばれたんだ、だから安心して立てる。今、このように、わたしは立っている」と、自分の物語を喜んで何度でも語りました。だからこそ、この福音書の記事が私どものために残されているのです。私どもも、主イエスに呼ばれたのですから、バルティマイと同じように、自分の話をすることができると思います。私どもの隣人のためにも、「安心しなさい、立ちなさい、命の主が、あなたを呼んでおられる。わたしと一緒に、あのお方のそばに行こう」と、伝道の言葉をも語ることができると思うのです。そのような力ある言葉を、既に今も主イエスご自身がこの教会のために語っていてくださるし、だからこそ今私ども自身、目を開かれて、安心して立てるのです。主の日の朝にふさわしい望みを新しくしながら、主の食卓を祝いたいと願います。お祈りをいたします。

 

お甦りの主が一緒に歩いていてくださいます。教会堂を去ったあとにも、ひとりひとりと共に歩いてくださいます。「安心しなさい、立ちなさい」と呼びかけていてくださいます。その祝福の道をただひとすじに歩み続ける者であることができますように。
このような祝福を知らない人びとが、私どもの周りにもたくさんいます。どうかひとりでも多くの者をこの群れに加えてください。不安と恐れがこの世を支配しています。憎しみに勝つことができなくなっています。み言葉をもう一度はっきり聞かせてください。はっきり語らせてください。見るべきものをはっきりと見ることができるように、今新しく私どもの目を開いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン