片手、片足を失ってでも
マルコによる福音書 第9章42-50節
川崎 公平
主日礼拝
■マルコによる福音書第9章の最後の部分を読みました。ここをお読みになって、とても感動した、すばらしい御言葉だという感想を持った人は少数派ではないかと思います。どちらかと言えば、「何だ、これは?」と消極的な印象を持った方のほうが多かったかもしれません。たとえば最初の42節に、「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」と、ぞっとするようなことが書いてあります。しかしまず、ぞっとする以前に、あまりに唐突すぎて意味がわからん、という印象のほうが強かったかもしれません。「私を信じるこれらの小さな者の一人を」といきなりそんなことを言われても、いったいそれは誰のことを言っているんだろう。
私どもの使っている聖書では段落が分けられ、小見出しがつけられ、しかもその間を一行空けたりするものですから、まるでここから新しい主イエスの言葉が始まっているかのように勘違いしそうになりますが、このような段落分けというのはのちの時代の人が勝手に考えたものにすぎません。特にここは、区切り方が難しかったかもしれません。この部分は少なくとも33節までさかのぼって考えないと、話を理解することができないと思います。
■もともとのきっかけは、本当にささいなことでした。弟子たちが主イエスに隠れて、「いちばん偉いのは誰か」と言い合っていたというのですが、すぐに主イエスに見抜かれてしまいました。「道々、あなたがたは何を論じ合っていたのか」と問われて、弟子たちはただ黙っていることしかできませんでした。そこで主イエスは、弟子たちの無言の答えに答えるように、ひとりの小さな子どもをそばに呼び寄せ、その子をぎゅっと抱き寄せて、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われました。
既に先週の礼拝でも丁寧に説明しましたが、主イエスは「子どもはかわいいね」なんてことをおっしゃったのではありません。子どもというのは、少なくともこの文脈では、価値のない者という意味です。ひとりでは何もできない。誰かに助けてもらわないと、人に迷惑をかけないと生きていけない。その意味で、いちばん偉くない人。それを今日読んだ42節の言い方で言えば、いちばん〈小さな者〉を「受け入れなさい」。そして、このいちばん小さな者を受け入れる者は、私を受け入れることになるのだと、主イエスは仰せになりました。
主イエスはそのようにして、弟子たちの訓練をなさったのだと思います。ここに出てくる弟子たちは、のちに教会の指導者になります。その教会を、まさしくキリストの教会として立てていくために、主イエスはまずこの12人の弟子たちを訓練しなければなりませんでした。「誰がいちばん偉いか」。「俺がいちばん偉い」。「いや、俺はもっと偉い」。そんなことを言っていたら、教会は立たないよ。そうではなくて、いちばん偉くない人を、私の名のゆえに受け入れなさい。
■興味深いのは、これも先週の礼拝で読みましたが、38節以下です。イエスのお名前を使って悪霊を追い出している人がいたというのです。ところがその人は、われわれの言うことを聞かない。われわれの仲間にはなろうとしない。だから、無理やりやめさせました、とヨハネが申しましたところ、主イエスははっきりと、「やめさせてはならない」と言われました。「ええ? やめさせただと? どうしてそんなことをするんだ」。
ここでヨハネが、無理やりイエスの名を使うのをやめさせた人というのが、いったいどういうことをしていたのかわかりませんが、想像するに、本当に素朴にイエスさまのお名前を使っていたのだと思います。「わ、すごい! イエスさまのお名前を使うと、本当に悪霊が逃げて行く!」 もしも身近にそんな人がいたら、われわれだって文句を言いたくなるかもしれません。「いやいや、そんなの本当の信仰じゃないですよ。今すぐやめなさい。そして私たちに従いなさい。このカテキズムを勉強しなさい」。ところが主イエスは言われるのです。「やめさせてはならない」。「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」。なぜ、そこまで言われるのでしょうか。
■そこで改めて考えてみたいのですが、ここで主が「小さな者をつまずかせるな」と言われた、その「小さな者」とは誰のことでしょうか。たとえば子どものことかもしれませんし、信仰が未熟であったり、何の役にも立たなかったり、人に迷惑をかけたり、いろんなことを考えることができるかもしれませんが、ある人ははっきりと、「この小さな者とは、われわれが小さく見下している者のことだ」と説明しました。つまり、客観的に見て小さな者がいるわけではないのです。神さまからご覧になったら、皆等しく神さまの大事な子どもだし、しかもまた皆等しく罪人でしかないのです。そうですよね? にもかかわらず、私どもは絶えず「誰がいちばん偉いか」「自分は偉いか、偉くないか」、そんなことばかり考えて生きていますから、そういう私どもが、だからこそ誰かを小さく見下すとき、その人を「小さな者」にしてしまうのです。「はあ~、ほんとだめな人だな。困った人だな」。そのように、自分が大きくなったつもり、偉くなったつもりで、小さく見下している人について、主イエスはここで、「小さな者をつまずかせるな」と言われるのです。
「つまずかせる」とはどういうことでしょうか。この「つまずく」という言葉は、教会のいわば業界用語になっているかもしれません。歩いている人が段差にけつまずいて転んでしまうように、信仰をもって歩いていた人が何かのきっかけでけつまずいて、転んでしまって、それ以上信仰をもって歩いていくことができなくなってしまう。それを教会業界用語で「つまずく」と言います。「牧師につまずく」とか「教会につまずく」とか、いろんな使い方があるわけです。しかしこの「つまずく」という言葉の意味をもう少し深く読み取るために、こういうのは反則技かもしれませんが、私どもが用いている聖書には42節以下に「罪への誘惑」という小見出しが付いています。ここの小見出しはよく工夫されていると思います。この段落の中のどこにも「罪」という言葉も「誘惑」という言葉もないのですが、まさしくこの「つまずかせる」というのが、「誰かを罪に誘惑する」という意味なのです。「私を信じるこれらの小さな者の一人に、罪を犯させてはならない」。いやいや、そんなことを言われても、その人が罪を犯すか犯さないか、それはその人自身の責任で、他人がどうこうできる話ではないだろうと思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。そこで大切な意味を持つのが、今日何度もお話ししていることで、「小さな者を受け入れなさい」という、このことだと思うのです。
■「小さな者を受け入れる」ことと、「小さな者を罪に誘わない」こととは、ひとつのことです。なぜ小さな者が罪に誘われるかというと、その人をまさしく小さな者として軽んじ、誰もその人のことを受け入れてくれないから、だから人は罪に誘われるのです。これは、ただ聖書がそう言っているからそういうものなのだ、というだけではなくて、私どもの経験もまたこのことを教えてくれるのではないかと思います。
先ほど、「牧師につまずく」とか「教会につまずく」とか申しましたが、きっと皆さんもいろんなことを考えるだろうと思うのです。何とかして信仰のない家族に伝道したいと思うけれども、われわれの言葉も行いも実にいい加減で、「おいおい、それでもクリスチャンかよ」と言われる体たらくで……などということを冗談半分で言ったり聞いたりすることがありますが、そういうことが本当のつまずきになることはほとんどないと思います。仮に皆さんが本当に品行方正になったら、皆さんの家族や友人が喜んで教会に来て洗礼を受けるでしょうか。主イエスがそんなレベルの話をしておられるのではないことは明らかです。私どもが最も決定的に人をつまずかせしまう場面というのがあるのであって、それは、私どもがその人を受け入れていないときです。その人を〈小さな者〉として軽んじているときです。そこに、決定的なつまずきが生まれます。
それは、罪を犯す側の立場に立ってみれば、なおよくわかるかもしれません。私ども人間というのは、自分は誰からも受け入れられていないと思ったとき、実に簡単に罪に誘惑されるものです。そしてそのようにして犯す自分の罪を、堂々と正当化します。そうではないでしょうか。十戒の後半に、「殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ」と教えられるわけですが、人を殺したり、自分の妻をほっといて他の女性のところに走ったり、そういうことをする人の心の深いところにはきっと必ず、「自分は受け入れられていない」、「自分を受け入れてほしい」という悲しみがあるに違いないのです。「ああ、確かに人を殺したのは悪かった。でも、こっちにだって言い分がある。あいつが俺のことを軽んじたから。社会が俺のことを受け入れなかったから。だから、こっちがつまずかされたんだ」。殺人なんて極端な話でなくても、「偽証してはならない」という戒めに背いて、あいつはこんな悪いやつだと、あることないことネットに書き込んだり、「隣人のものを欲しがるな」という第十の戒めを忘れて、自分よりも恵まれていると思う人を妬んだり、そういう罪を犯す人の心の中には必ず、「自分を受け入れてほしい」という切実な渇きがあるはずなのです。
誤解のないように申しますが、罪は罪です。その罪を正当化することは絶対にできません。ここに教会が立っているのは、罪を正当化するためではなく、むしろ罪と戦うために立っているので、けれどもその罪との戦いというのは、小さな者の犯す罪を裁いて切り捨てる戦いでは決してありません。何度でも主イエスのお姿を思い起こせばよいのです。主イエスは小さな子どもをそばに呼び寄せ、その子をぎゅっと抱き寄せて、「私の名のために、このいちばん小さな者を受け入れる者は、私を受け入れるのである」。この主のみ旨に生きるために、ここにもキリストの名による教会が建てられているのです。
■さて、まだ最初の42節しか読んでいないわけですが、43節から急に話が変わっているように思えます。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入るほうがよい」。「ゲヘナ」という聖書協会共同訳の翻訳は少し不親切だと思います。多少不正確でも新共同訳のように「地獄」と訳したほうがよかったと思います。片手、片足、あるいは片目を失ってでも、あなた自身が丸ごと地獄に落ちるよりはずっといいではないか。しかしここでわかりにくいのは、ゲヘナとか地獄とかいう次元の話ではないと思います。42節では「小さな者をつまずかせるな」という話であったはずなのに、急に43節からは「あなた自身をつまずかせるな」と、話が変わっているようです。けれども本当は、何も話は変わっていないのです。「小さな者の一人をつまずかせる者は」、「ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」と言われるほどの大きな罪を犯しているのですから、小さな者をつまずかせたけれども、自分自身はひとつもつまずいていない、まったく罪を犯していない、ということはあり得ません。むしろ小さな者をつまずかせるとき――言い換えれば、小さな者を受け入れようとしないとき――いちばん大きな危険にさらされているのは、あなた自身だ。そう言われるのです。
そのために、片手、片足を失ってでも、つまずきを取り去りなさいと言われるのですが、いくら何でも厳しすぎるようです。しかし、何が厳しいのでしょうか。なぜ私どもは片手、片足を失いたくないと思うのでしょうか。横浜指路教会の藤掛順一牧師が、この箇所の説教の中でこういうことを言っておられます。「手や足や目を切り捨てたら、私たちは不自由な体になります。バリバリと人一倍働くことができない、弱い者となります。人の世話にならなければ生きていけない者になるのです。しかし主は、敢えてその道をこそ歩めと言っておられます。そのような弱さに生きよとおっしゃっているのです」。
誰がいちばん偉いか、自分は偉いか、偉くないか。そんなことばかり考えている私どもなのであります。自分より偉い人がいれば悔しいし、自分より偉くない人がいればそれだけで何だか得意になるし、ところが自分よりも偉くないはずの人が、自分よりもいいポジションにいたりすると、もう我慢がなりません。それで私どもは、もっと偉くなりたい、もっと大きくなりたいと、そのために手を鍛え、足を磨き、目がいくつあっても足りないような思いでギョロギョロしながら生きているのですが、実はまさにそのような生き方こそが、自分自身を罪に誘惑することでしかないのです。それは、小さな子どもをそばに呼び、抱き寄せてくださった主イエスの御心からはいちばん遠い生き方なのです。そのような私どもが、少しでも主イエスのみ旨に近づくために、必要と思うなら片手を捨ててごらん。片足を捨ててごらん。藤掛先生の言い方を借りれば「そのような弱さに生きよ」と、主イエスは言っておられるのです。
■この「弱さに生きる」ために、しかし私どもは、本当に片手を切り捨てる必要はありません。もしも今日の説教を聴いて、「よし、自分の片手を切り捨てよう」と決心する人がいたら、その人は主イエスのことが何もわかっていないと言わざるを得ません。なぜ私どもが片手を切り捨てなくてもよいかというと、ひとつの理由は意味がないからです。もし本当に片手を切り捨てても、「偉くなりたい、小さな者にはなりたくない」という根本的な罪の心が癒されない限りは、何の意味もないのです。たとえば、もし本当に私が片手を切り捨てて、その片手の私が両目の見えない人を見下すような生き方しかできなかったとしたら、「お前、何のために片手を切り落としたんだ」ということにしかならないでしょう。
私どもがここで本当にすべきことは、自分の手を切り落とすことではなくて、主の十字架の前に立つことです。先ほど紹介した藤掛先生が、「手や足や目を切り捨てたら、私たちは不自由な体になります。バリバリと人一倍働くことができない、弱い者となります。……そのような弱さに生きよ」と言っておられるのも、まさにそのことなのです。キリストの十字架の前に立つときにこそ、私どもは本当の意味で自分の弱さを知ります。このお方が十字架の上で、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、私どもの代わりに叫ばれたのであって、その場所で私どもは知るのです。本当は、わたしが捨てられなければならなかったのだ。このわたしこそが、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれなければならない罪人であったのだ。
小さな子どもが親に見捨てられたら生きていくことができないように、私どもも神に見捨てられたらどうしようもない〈小さな者〉であったのです。そんな私どもが、それでも神に愛されていることを十字架の前で知るならば、私どももまた他者を小さな者と見ることをやめて、共に神に赦された罪人として、互いに受け入れることができるようになるでしょう。教会はそのために生かされているのです。
■さて最後に49節以下であります。なぜここでまた唐突に塩の話が始まるのか、ちょっと読んだだけではわかりにくいかもしれません。「人は皆、火で塩気を付けられねばならない」。塩気のある人って、どんな人なんだろうか。どうも最近の日本語で「塩対応」なんて言い方があるものですから、正反対の意味を想像してしまう人もいるかもしれませんが、最後のところに「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」とあります。いわゆる「塩対応」とは正反対の振る舞いが勧められています。これといちばん深い関連を持つのはコロサイの信徒への手紙第4章6節です。「いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい」(「塩味の効いた言葉」って、どうしても塩対応な感じに聞こえてしまいますが……)。直訳すれば、「あなたがたの言葉はいつも恵みの内に、塩で味付けられたものであるように」。誰に何を語るときにも、その言葉が神の恵みの内にあるように。そう言うのです。
ただ神の恵みによって生かされている私どもです。私どもが偉いから、大きいから、何か取り柄があったから救われたのではないのです。ただ神の恵みによって、わたしはここに立つ。その事実にふさわしく、あなたがたの言葉がいつも神の恵みの中にあるように。それをコロサイの信徒への手紙は「塩味の効いた快い言葉で」と言うのです。マルコ福音書も同じように、「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と言うのです。
そのことに関連して、またもや藤掛先生の説き明かしがいちばん優れていると思いましたので、そのまま紹介したいと思います。「……恵みによって味付けられた言葉を語る者となりなさい、と主イエスは言っておられるのです。ところが私たちは、その塩とは別のものによって、自分の働き、業績、立派な奉仕などによって自分の人生を味付けようとしているのではないでしょうか。しかしそのような人生には、一番大切な味が欠けています」。そのいちばん大切な味とは、神の恵みの塩味だと言うのです。そのような意味での塩味を失った人生は「不味くて食べられたものではない。いやそれだけでなく、それは人をつまずかせる歩みです。お互いの間の平和を損ない、妬みや争いを引き起こしていくような歩みです」。この藤掛先生の言葉に、これ以上何か言葉を加える必要もないだろうと思います。
ただ最後にもうひとつ、49節の言葉がわかりにくいかもしれません。「人は皆、火で塩気を付けられねばならない」。なぜここで火が出てくるのでしょうか。それは明らかに、直前の箇所に出てきた「ゲヘナの消えない火」、地獄の火と関係があります。地獄の火と、私どもの言葉を快くする火と何の関係があるかと思われるかもしれません。関係があるとすれば、それは主イエスの十字架以外にあり得ません。主イエスが十字架につけられて、「神よ、なぜわたしをお見捨てになったか」と叫びながら、そのまま主イエスは地獄に落ちたのだと使徒信条は告白します。私どもの唱える使徒信条では「陰府」という言い方をしますが、外国語では陰府も地獄も同じです。キリストご自身が、まず地獄の火で焼かれる経験をなさったのです。このお方の十字架の前に立ちながら、私どもの言葉もまた、火で焼かれなければなりません。偉くなりたい、小さい者になりたくないと、絶えずそんなことしか考えていない私どもの言葉は、一度火に焼かれない限り、快いものにはなり得ないでしょう。
今、聖餐を共にいただきます。私どもが口にするのは、私どものために十字架につけられ、お甦りになったお方の体と、その流された血であります。それほどのものを口にしながら、今私どもの罪を火で焼いていただいて、恵みの塩味を帯びた平和の存在として、新しく立ち上がることができますように。お祈りをいたします。
父なる御神、今ここに立つ私どもは、等しくあなたの恵みを受けた者です。あなたのみ子キリストの執り成しと贖いなしには、み前に立ち得ない者です。今、罪の思いを焼き捨てて、私どもの全存在からあなたの恵みの塩味がにじみ出て来るような人間として立ち上がることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン