思い煩いのしるしを捨てて
川崎 公平
マルコによる福音書 第6章7-13節
主日礼拝
■「イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた」(7節)。主イエス・キリストに12人の弟子がいたということは、ある程度聖書に親しむようになると、すぐに覚えることです。ここでは、その12人の名前をいちいち書くことはせず、ただ「12人」とだけ書きます。考えてみれば不思議なことで、その後今に至るまでの二千年にも及ぶ教会の歴史は、あの12人から始まったのです。主イエスがあの12人をお集めになり、そしてこの12人をお遣わしになって、あれから何千年たっても、12人というこの数字が忘れられることはありません。なぜでしょうか。
旧約聖書を最初から読んでまいりますと、神の民イスラエルが12部族をもって構成されていく歴史を学ぶことができます。その神の民イスラエルが、今主イエスによって選ばれた12人によって、新しい出発を始める。ですからしばしば新約聖書は、自分たち教会のことを「新しいイスラエル」と呼びました。「神の民・教会」。それはあの12人から始まったのだ。その12人が集められ、遣わされる。その出来事を、福音書を書いたマルコも、心を込めて書いたと思います。
今も、私どもはこの場所に集まって、ひとつの教会を造っています。この場所で私どもが何度も教えられることは、この教会は、私どもが自発的に集まって作っているわけではないということです。牧師や長老会が一所懸命知恵を絞って、いろいろ伝道のための手立てを考えて、ここにたくさん人を集めよう、という工夫が無意味だということはもちろんありませんが、そうであっても、ここに私どもを集めてくださるのは主イエスである。しかもその私どもが、また主イエスによって遣わされるのです。何度も教えられていることですが、それを何度でも心に刻まなければならないと思うのです。
誰がこの教会を集めたのか。何のために、集められたのか。今日読みました福音書の記事は、教会の主でいてくださるお方の思いが鮮明に表れているところだと思います。私どもも主イエスによって集められ、そしてまたここから遣わされて出て行きます。遣わされて何をするのでしょうか。12節には「十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた」と書いてあります。「悔い改めなさい」と、つまりひとりでも多くの人が、まことの父である神のもとに帰って来ることができるように、心を尽くして福音を宣べ伝えるのです。13節には、「また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした」。神ならざる力に苦しんでいる人、病気に悩んでいる人が、私どものまわりにもどんなにたくさんいることでしょうか。その人たちに救いを告げるのです。「神のもとに帰ろう」。
■ところでこの箇所を読みますときに、ひとつ不思議なことがあります。12人が主イエスに遣わされて、伝道に出て行ったというのですが、その弟子たちがどこで何をしたか、福音書はそのことをほとんどまったく伝えてくれないのです。これは少し残念なことかもしれません。この12人が主イエスに遣わされて、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と」、こんな強烈なことを言われた弟子たちは、当然戸惑ったと思います。「ええ? かばんもお金も持ってっちゃだめって、どういうことですか? 着替えとか持ってっちゃだめなんですか?」 戸惑いながら、それでも主イエスに背中を押されて、ほとんど手ぶらで伝道の旅に出て行った弟子たちが、実際にどこでどういうことをしたのか、私どもはむしろそのあたりにいちばん関心があるのですが、この先マルコによる福音書を読み進めても、そういう話はどこにもないのです。
けれども、福音書のその先にある使徒言行録に、たいへん興味深い記事があります。主イエスがお甦りになって、天に昇られたのちに聖霊が注がれて、新しい教会の歩みが始まりました。そこで教会の先頭に立って伝道を始めた弟子たちは、かつて主イエスに教えられたことを、決して忘れていなかったと思います。「旅には杖一本のほか何も持たず」と、確かにイエスさまはそうおっしゃったよな。
そのことがよく分かる記事が、使徒言行録第3章1節以下に出てきます。エルサレムの神殿の近くに、物乞いをしていた足の不自由な人がいた。この人がペトロとヨハネというふたりの使徒に施しを乞うたとき、ペトロはこの足の不自由な人に言いました。「私たちを見なさい」。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そうしたらこの人は立ち上がって、神を賛美しながら神殿に入っていって、そしてもちろんこの人も、洗礼を受けて教会に加わったと思います。ここで何と言っても興味深いのは、このペトロの言葉です。「私たちを見なさい」。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう」。ペトロがこう言ったときにも、かつて主イエスに教えられたことを鮮明に思い出していたに違いないと思うのです。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」。確かに、主イエスはそうおっしゃった。その通りだ。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう」。
■今、私どもも主イエスに集められ、そして主イエスによって遣わされて、ここに生きております。それがこの鎌倉雪ノ下教会です。そして、今こそ声を大にして申し上げたいと思いますが、私ども鎌倉雪ノ下教会にも、金や銀はありません。金や銀ではないものを神さまからお預かりして、「持っているものをあげよう」と、私どももペトロと同じように、そう言えるはずなのです。「わたしたち鎌倉雪ノ下教会には、金や銀はありません」。そんなことを言うと、「でたらめ言うな」と文句を言われるかもしれませんが、もちろんそれは、文字通りお金を持っていないという意味ではありません。それを言ったら、ペトロだって多少のお金は持っていたはずですし、事実、同じ使徒言行録の第2章や第4章を読むと、教会に集められた人たちが財産を共有して、必要に応じて分け合って、その結果教会の仲間の中にはひとりも貧乏な人がいなくなった、と書いてあります。豊かな金や銀を与えられ、それを分け合ったのです。けれどもペトロがあの足の不自由なの人の前で「私には金や銀はないが」と言ったのは、もっと別の話です。
「私たちを見なさい!」とペトロは言いました。よく見なさい、私たちを。私たちは、金や銀によって生きているのではない。まったく違った力によって、私たちは生きている。生かされている。その力は、あなたに差し上げるために、神からお預かりしているものだ。それを、今あなたにあげよう。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。その言葉の通り、この足の不自由な人が立ち上がり、歩き出したとき、ペトロはそこでも、かつて主イエスから言われた言葉を思い出していたと思います。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」。そんなものは持って行かなくていい。何の役にも立たないから。そのような主のご委託に応えて、ペトロは言ったのです。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう」。キリスト教会の歴史は、そのように始まりました。あの12人から、始まったのです。その歴史が、今、ここでも、このように継承されているし、それがどんなに尊いことか、それがどんなに確かな主のみ旨に根差すことか、そのことを私どもは何度でも心に刻み直さなければならないと思うのです。
そのためにいちばん大事なことが、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」ということだと思うのです。「私には金や銀はないが」と言えない教会は、教会ではありません。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう」、そう言えなければ、教会は主イエス・キリストが委ねてくださった使命に生きることはできないのです。
■この12人の弟子たちだって、最初は戸惑ったと思います。「ええ? 本当に杖と履物だけで大丈夫ですか? お金はともかく、袋くらいは許してもらえませんか?」 たとえば、ここに出てくる「ただ履物は履くように」という「履物」というギリシア語から「サンダル」という言葉が生まれました。何も持って行ってはならない、と言っても、いくら何でもサンダルくらいは履いていけよ。「下着は二枚着てはならない」とも言われます。一枚ならいいようです。いくら何でもパンツくらい履いていけよ、でも重ね履きとか余計なことはするなよ。もしかして、これはジョークなのか? とも思いますが、12人の弟子たちはまったく笑えなかったと思います。初めてイエスさまのもとを離れて、自分たちだけで伝道に出かけなければならない。不安であったに違いないのです。その不安の現れ、そのものであるかのように、大きなスーツケースからはみ出るような大荷物をこしらえた弟子がいたのかもしれません。それを主イエスは見とがめて、おいおい、そんなもの持って行くな、持って行っていいのは杖一本だけだ、と注意なさったのかもしれません。そんな大荷物は、全部置いていきなさい。その大きな荷物は、お前の不安のしるしでしかないだろう。「これがないと怖い、あれもないと不安」。お前の思い煩いのしるしでしかないだろう。そんな大荷物は、わたしの福音を裏切るものでしかないから、置いていきなさい。
「思い煩い」と申しました。今日の説教の題にも、この「思い煩い」という言葉を用いてみました。私どもも、いつも思い煩っています。あれも必要、これもほしい、あれがないと不安……。「明日のことを思い煩うな」という主イエスの有名な言葉があります。おそらく主イエスのお語りになった言葉の中でいちばん有名なものではないかと思います。「何を着ようか、何を食べようかと思い煩うな」。「野の花を見なさい。神があんなに美しく、装ってくださるではないか」。「空の鳥を見なさい。神が、あんな鳥でさえ、きちんと養ってくださるではないか。だから、思い煩うな」。4月から聖書協会共同訳という新しい翻訳を用いるようになって、私がひとつ喜んでいることは、「思い煩うな」という言葉が復活したことです。新共同訳では「思い悩むな」と訳されましたが、30数年ぶりに「思い煩うな」という言葉が戻ってきました。思いがわずらうのです。心が病気になるのです。あれも必要、あれもほしい、これもないと不安……。そうやって、どんどん荷物が増えていく。主イエスは、まさにそこに、私どもが抱えている病、それどころか世界中を蝕んでしまっている病を見ておられたと思うのです。そこから救われないといけない。
そのために、まず主イエスは野の花を見なさい、空の鳥を見なさい、と言われました。なぜ野の花があんなに美しいか、考えたことがあるか。そう言われる主イエスの言葉を聞いていると、まるで野の花がわたしに語りかけてくるようにさえ思えてきます。道端に咲いているような小さな花が、ふとわたしの魂に語りかけてくるかのように思えるのです。「私たちを見なさい」。「私たち花は、金も銀も持っていませんが、でも私たちは、あなたの持っていないものを持っていますよ」。「それを、あなたにあげましょう」と、花がしゃべり出すことはないだろうと思いますが、ところがここでは、主イエスは12人の弟子たちを、空の鳥、野の花にもまさる、魅力ある存在として遣わそうとされるのです。金も銀も持たない12人の弟子たちです。けれども、この12人は、神に愛されています。神のご支配のもとに生かされております。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神がこんなにも美しく装ってくださるのにも似て、金や銀を持たない弟子たちが、だからこそ、神のご支配の美しさを担う者として遣わされていくのです。
この12人が遣わされてしたことの第一は、「悔い改めを宣べ伝え」ることであったと12節に書いてあります。「悔い改めなさい」。それは聖書の理解に従えば、ただ自分の罪を悔やんで、自分の至らなさを恥じて、落ち込んで、立ち直れなくなることではありません。端的に言って、神のもとに帰るという意味です。特にこのマルコによる福音書は、その最初のところ、第1章15節で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉を伝えています。「神の国は近づいた」。言い換えれば神の支配です。神は生きておられる、ということです。その神の支配は、野の花を見れば分かるのです。空の鳥を見れば分かるのです。神は生きておられるのだから、悔い改めて、神のもとに帰りなさい。
その福音を宣べ伝えるために、この12人もまた、野の花、空の鳥に似た姿で遣わされるのです。思い煩いを捨てて、不信仰も捨てて。その12人のひとりであったペトロもまた、確信をもって、「私たちを見なさい」と言うことができました。わたしなんか見てもらっても困るけど、野の花を見なさい、という言い方は、少なくともそのときには絶対にできなかったでしょう。「このわたしを見てください」。わたしには金もないし、銀もないし、学問もない、教養もない、何もないけれども、わたしの持っているものをあなたにあげよう。イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。私どもも同じように言うことができるのです。
■最初の方で、福音書のどこを読んでも、ここで遣わされた12人の伝道の様子は書いていないと申しましたが、ひとつたいへん興味深い記事があります。それはルカによる福音書第22章の35節以下で、主イエスが十字架につけられる前の晩、主イエスは弟子たちに、初めて伝道に遣わされたときのことを思い出させておられます。「財布も袋も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か足りないものはあったか」。弟子たちは、「いいえ、何も困ったことはありませんでした」と答えることができました。ところが主イエスはさらに、弟子たちにこう言われたのです。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、衣を売って剣を買いなさい」。なぜかと言うと、このあと主イエスが十字架につけられるからです。そのとき、弟子たちは主イエスを見捨てて、ひとりの例外もなく逃げ出してしまうのですが、そのとき弟子たちがしがみ付いていなければならなかったものが、財布であり、鞄であり、何よりも剣であったというのです。まさしくそれこそ、人間の不安と思い煩いのしるし、そのものではありませんか。神を信じない人間が、それゆえに思い煩いの奴隷になり、不安と恐れの奴隷になった人間が、最後に握りしめるのはお金と武器なのです。私どもは、そのことを、日に日に新しく学習しているのではないでしょうか。
戦争がやみません。不安だからです。争いをやめる勇気がありません。恐れがあるからです。分断が分断を生み続けているような、そのような世界を、高みに立って裁いたり批評したりする資格のある人間は、本当はひとりもいないと思います。しかしキリストの教会は、そのような世界に向かって遣わされています。杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、財布も、剣も持たずに、ただキリストの福音だけを語り続けるのです。そしてそのときに、私どももペトロと同じように言うのです。いちばん肝心なところで主イエスを裏切ったペトロでしたが、お甦りの主に出会って立ち直って、もう一度、「私たちを見なさい」と言うことができるようになりました。私どもも言うのです。「私たちを見なさい。私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。私たちも、世界に向かって語り続けるのです。
■先日、朝日新聞の夕刊に英国国教会の牧師になった日本人女性のことが紹介されました。実はその日本人女性というのは私の従姉妹で、幼い頃から親しくしていましたので、少しびっくりしました。身内のことだから、ということを越えて、大切な働きだと思いましたので、教会のメーリングリストでも紹介させていただいたら、多くの方から反応をいただいて、そのことも喜んでおります。
その新聞記事にも書いてあったことですが、この私の従姉妹の、ひとつの人生の転機となったことは、日本に研究に来ていたイギリス人男性と結婚し、その後夫の仕事の都合で英国に渡った。その渡英の日付というのが1989年1月7日、昭和天皇逝去の日であったということでした。英国に行ってびっくりしたことは、イギリス人が日本を、あるいは日本人のことを、どんなに憎んでいるかということでした。タブロイド新聞の類は「地獄が天皇を待っている」とまで書いたとか。それでこの私の従姉妹は、自分の無知を恥じ、また自分の母国が犯してしまった過ちを恥じながら、もちろんさらにいろんな導きがあったのですが、英国国教会の牧師になってしまいました。
その牧師としての働きの中で、ひとつの出会いがありました。あるクリスマス、牧師として年老いた男性の病室を訪ねたというのですが、実はその男性こそかつての戦争で日本人の捕虜であったと言います。ビルマ戦線で日本軍の残虐行為を目の当たりにしたそのイギリス人男性は、一生、日本人だけは赦すまい。どんなことがあっても、日本人とだけは口をきくまいと、心に決めていた。ところが、そんな男性の病室に日本人女性の牧師がやってきて……その新聞記事では、ベッドサイドでその私の従姉妹がお祈りすると、男性はだんだん安らかな表情になってきた、絶対赦せないという気持ちがなくなってきたと書いてありますが、この点はちょっと朝日新聞に注文をつけたい。本当は、ただお祈りをしたとか、丁寧に話を聞いてあげたというのではなくて、聖餐を祝ったのです。パンと杯をいただきながら、主イエス・キリストご自身をいただく、主がお定めになった食卓であります。しかし聖餐とか言われても、一般の新聞の読者にはさっぱり意味が分からないと判断したのでしょう。けれどもそこで私の従姉妹が思い切ってしたことは、そのイギリス人男性と一緒に、病室で聖餐を祝った。「イエス・キリストを、一緒にいただきましょう」。そうしたら、そこに奇跡のような和解の出来事が起こった、という話は、これ以上は改めて6月1日の朝日新聞の夕刊を読んでいただければ幸いです。
私は思うのです。そのとき、私の従姉妹がしたこともまた、「私には金や銀はないが、私の持っているものをあげよう」ということでしかなかったと思うのです。彼女の人柄がすばらしかったとか、丁寧に話を聞いてあげるのが大事だとか、そんな話じゃないんです。そんなことで人間が救われるほど、世界はおめでたくできていないのです。「私には金や銀はない」。私があなたにあげられるものは、イエスさま以外にないから。だから、一緒に聖餐を祝いましょう。そこで私の従姉妹が経験した和解の出来事というのは、世界全体から見れば、大きな海の中のひとしずくでしかないかもしれませんが、まさにそれこそが、この世界がいちばん欲しがっているものだと思うのです。
そのために、主イエスはまずあの12人をお遣わしになり、「悔い改めだけを語りなさい」とお命じになりました。主は、その12人のすることが、大海の中の一滴だとは考えておられなかったと思います。この12人が世界を救うのだと、たいへん大きな、したたかな望みを抱いておられたと思うのです。その主イエスの大きな志の中に、私どもも生かされています。今ここに私どもも集められ、そして主イエスによって遣わされていきます。金も銀もありませんが、私どもには主イエスからお預かりしたものがあります。この主イエスの大きな望みの中に生かされていることを、私どもの望みとし、また誇りとしたいと思うのです。お祈りをいたします。
あなたに救っていただかなければ、どうしようもないこの世界なのです。野の花や空の鳥に、教えを乞わなければならないほどに病んでいる私どもなのです。そのような私どもをお救いになるために、あなたはあの12人をお選びになりました。何も持たずに、ただあなたの恵みだけを携えて出て行くようにとお命じになりました。望みに満ちた御子イエスの派遣の言葉を、今私どもも確信をもって聞き取ることができますように。私ども教会の告げる福音を待っている人が、きっと私どもの周りにもいると思います。ふさわしい時に、ふさわしい言葉で、これを語ることができますように、どうかあなたの教会を励ましてください。教会の主、イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン