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命の秘義

2023年4月9日

川崎 公平
マルコによる福音書 第4章26-34節

復活主日礼拝

主イエス・キリストが地上においでになって、最初にお語りになったことは、「神の国は近づいた」ということであったと、マルコによる福音書は告げています。「時は満ち、神の国は近づいた」と、第1章15節に書いてあります。神の支配が来たのだ、と言われるのです。もっと平たく言えば、「神は生きておられるのだ」ということでしょう。ただ漠然と、神はいるのかいないのか、いやどうも神は存在するらしい、というような頼りない話ではなくて、現実にその神のご支配が、今近づいたのだ。そう言われるのです。

「時は満ち、神の国は近づいた」。主イエスがあるとき、たまたま一度か二度、そういうことをおっしゃったということではなくて、むしろ主イエスが地上のご生涯においてお語りになったことは、結局のところ、このひとつのことであったと言ってもよいと思うのです。「神は生きておられるのだ。あなたのために、神が近づいてくださるのだ」。だから、「悔い改めて、福音を信じなさい」とも言われるのです。

それから今に至るまで、二千年が経過しました。「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの言葉を、今も私どもは聞き続けているわけですが、一方から言えば、なかなか素直には受け入れかねる言葉だと思います。神の国は近づいたと言われたって、いったい誰がそんなことを鵜吞みにするでしょうか。何だか夢物語を聞かされているようで、いや人間というのは、霞だけ食って生きていくわけにはいかないんだから、できればもうちょっと現実的な話をしてほしいと、誰もがそう思うのです。

しかし現実的な話と言えば、私どもは誰もがどこかで、何かを何とかしなければいけないと思っているのです。このままではいけない。それで、何をどう何とかしなければならないのか、それは人によって、その立場によって違うでしょうけれども、まじめな人であればあるほど、何とかしなければならない、そしてそのために、もっと大きな力を得なければならないと、いろんな考えをそれぞれに持っているだろうと思うのです。

それでたとえば政治家のような人たちが、この社会を何とかしなければならないと言って、そのために制度を整えなきゃいかん、あるいは法律を新しくし、憲法も新しくしなきゃいかんと言ったり、そんな大きな話でなくても、私どもはそれぞれの立場で、自分の家族を何とかしないといけない。何とか子どもを立派に育てないといけない。あるいは自分の会社を守らないといけない。私のような者であれば、この鎌倉雪ノ下教会をどうしたって潰すわけにはいかない。そしてそのために、いつも何か自分の力を超える、もっと大きな力を得たいと願っているのです。いや本当は、私どもは誰かのために、というよりも、まず自分自身の命ひとつを生かすことだけで精一杯で、ひいひい言っているのが現実なのかもしれません。

そしてその背後には、今のままではだめなんじゃないか、もっと大きな力を得ないことにはどうしようもないじゃないかという、漠然とした不安があると思うのです。この世界は、今のままではだめだ。もっと根本的に新しくされないと、もうどうしようもないのではないか。誰もが漠然と、そういうことを考えることがあるだろうと思うのです。

ところがそういうときに、実はどんなときにも私どもが真剣に考えなければならないことは、「神の国は近づいた」という、このことであります。しかし私どもは、「神は生きておられるのだ」という主イエス・キリストの福音に触れたときに、なぜそれに飛びつくように、これを信じようとしないのでしょうか。少なくとも、なぜ「神は生きておられるのだ」ということを、本気で考えようとしないのでしょうか。本当は、すべての人が求めているもの、飢え渇くように渇望しているもの、それが結局のところ、「神の国は近づいた」という、このひとつの言葉に集約されるのだと思うのです。

「神さま、本当にいるんですか?」 政治家のような人たちが明日の社会のことについて悩むときにも、あるいは若い父親、母親たちが子育てのことで悩むときにも、あるいは親もいない、子もいないという人が、得体の知れない不安に襲われるときにも、最後に行きつくところは、「神さま、本当にいるんですか?」という、この単純なひとつのことであるに違いないのです。「神さま、いるなら、助けてくださいよ」。それが実は、すべての人間の根源的な思いだと、そう思うのですけれども、いざ主イエスというお方が現れて、「そうだ、神は生きておられるのだ。あなたのために、神のご支配がこんなにも近くに及んでいるんだ」と聞かされると、やっぱりそれは夢物語のようで、「えーと、神の国ですか……もっと腹の足しになる話はないですか?」などと傲慢なことを考えるのです。しかしこのことが分からないと、私どもは肝心なところで何の希望もないままに生きているということになると思うのです。

■こういう私どもの根本的な不信仰には、しかしそれなりの理由があると思います。そして主イエスもまた、そのあたりのことをよく理解してくださった上で、このようなたとえ話をなさったのだと思います。神の国をどのようにたとえようか。それは種を畑に蒔くようなものだと言われました。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。神の国、神の支配というものは、そのようにあなたがたのところに及んでくるのだと言われるのです。ことに印象深いのは、31節に出てくる「からし種」という言葉です。「地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが」と書いてあります。私もからし種の実物を見たことがありますが、細かい砂粒のような小さな種です。神の国は、神の支配は、そのように静かに始まるのだと言われるのです。

主イエス・キリストの地上での活動も、実際のところ、本当に小さな、ささやかなものでした。せいぜい1年か2年か3年か、ガリラヤの片田舎で活動なさっただけです。最後には都エルサレムに行かれましたが、それで弟子たちはすっかり浮足立って、いよいよイエスさまがエルサレムにお入りになった、遂に神の国が実現するのだと期待した者もいたようですが、実際にはわずか数日のうちに捕らえられ、十字架で殺され、そして復活なさったという言い伝えが弟子たちの間で広まりました。キリストの復活というのは、私どもの信仰に従えば、これは宇宙の歴史上最大の出来事だと、言えるかもしれません。けれども別の見方をすれば、復活というのは、砂粒サイズの小さな種がたったひと粒蒔かれただけだと見ることもできるのです。そうでしょう。キリストがお甦りになったからって、世界はひとつも新しくなっていないじゃないですか。そしてキリストが地上においでになる前も、そのあとも、何ら世界は変わることなく、いろんな人たちが、このままではいけないんだ、何かを何とかしなければならないんだと、いろんなことをしてきたわけですが、そのときに、「神の国は近づいた」なんていうことを、いったい誰が本気で考えるでしょうか。

もちろんそこで、いろんな反論を考えることもできるだろうと思います。いや、キリスト教のおかげでこの世界はずいぶんよくなったんだ。近代的な民主主義とか、人権とか福祉とか、どれをとってもキリスト教の存在を抜きにしては考えられないではないか、と言おうと思えば言えるのでしょうけれども、むしろ主イエスが、神の国はからし種のようなものだと言われたことを、忘れてはならないと思うのです。神の国は、言い換えれば神のお働きというのは、からし種のようなものだ。地上のどんな種よりも小さい。誰もが無視してしまうほどに小さいのだ。ところがそれを蒔くと、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」という、たいへん大きな望みをお語りになりました。

■今日読みましたふたつの主イエスのたとえ話は、たいへん簡潔で、それだけにその中心的なメッセージも明確であると思います。ここで主イエスが語っておられることのひとつは、大きな木が育つ、その最初の種がどんなに小さいかということであり、そしてもっと大切なことは、その小さな種がどうやって大きくなるのか、人はそれを知らない、ということであります。「人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」。神の国、神の支配というのは、そのようにどんどん広がっていくのだけれども、ところがそれがどこでどのように起こるのか、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」。その人が知らないままに、「地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる」。これはある意味で、たいへん平凡な話です。そして、見る人によっては実にまどろっこしい話であります。

最初に申しましたように、国の責任を負っているような人であっても、あるいはただ小さな家庭の中でひとり、ふたりという家族のためだけに仕え抜いているような人であっても、本当はいちばんほしいもの、いちばん必要なものは、神の力なのです。ところが問題は、その神の力がどういうふうに及んでくるか、どういうふうに成長していくかというと、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」というのです。夜が来て、朝が来て、昼が来て、寝たり起きたりしているうちに、神の国は着実に成長していく。何も特別なことはないのです。「夜昼、寝起きしているうちに」と書いてあります。夜寝ていたって、種は芽を出して成長するのです。それはおそらく、昼間遊んでいたっていいということでしょう。そうしているうちに「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。人間には知り得ない。したがって、人間の手を必要ともしないということでしょう。手の貸しようがないのです。だから、心配するな、と主イエスは言われるのです。

「お前たちの中に、種ひと粒でも作ることができる者はいるか。いないだろう」。まるでそういうことをおっしゃったかのようです。そしてこれは、二千年たった今でも変わることのない真理であります。全人類のすべての知識と知恵を集めたって、どんな簡単なものでもいいんです、スイカの種でも柿の種でも何でもいい、〈種〉と呼び得るものを、人間の手でひと粒でも作ることができたとしたら、それはたいへんな奇跡だと思いますが、そんな奇跡は一度も起こっていないのです。そういう小さな種ひと粒をお造りになることができるのは、ただ神おひとりであります。種を見れば分かるだろう。種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、誰も知らないじゃないか。それなのに、「地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる」。それと同じように、神の支配は、人間の手を必要としないんだ。これは、たいへん大きな望みを私どもに与えてくれる話だと思います。しかしまた、複雑な思いを呼び起こすものでもあるかもしれません。

■主イエスがこういうたとえ話をお語りになったとき、その時代にも、さまざまな考え方をする人たちがいました。たとえば、熱心党と呼ばれる人びとがいました。主イエスの十二弟子の中にも、熱心党のシモンという人がいます。この人たちは、場合によっては暴力を用いてでも、新しい社会を作らなければならないと考えました。そのためには、人を殺すことだってやむを得ないと考えたのです。ところが主イエスは、そういう人たちもいることを思いながら、神の国というのは、あなたがたが寝起きしている間にいつの間にか成長するものなのだ、と言われました。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」。知ることなんかできないし、知らなくていい。しかしそれは、熱心党のような人びとにとっては我慢できないほどまどろっこしい話であったに違いありません。

あるいはサドカイ派と呼ばれる人たちがいました。イスラエルの社会の政治的、宗教的権力を握っていた、一種の貴族階級です。この人たちの考え方のひとつの特色は、現実主義と呼ぶことができると思います。ローマ帝国の支配とうまく妥協しながら、それでもとにかく自分たちの生活、宗教的な生活も含めて自分たちの生活が守られているんだから、それでいいじゃないか。しかしこの人たちは、自分たちが貴族階級であり、生活が守られているからこそますますそういう考え方に傾いたのかもしれませんが、この世を越えたところにある望みを信じようとはしませんでした。たとえば、死人の復活はない、聖書(つまり旧約聖書)のどこを読んでも復活なんて教えられていないではないかと主張し、そういう論争を主イエスにふっかけたことがありました。

また福音書の中によく出てくるファリサイ派と呼ばれる人びとがいます。神の国を来たらせるために、神の掟を一所懸命守らなければならないと考えました。水も漏らさぬ厳密さで、神の掟を守らないといけない。しかし、もしもそういう生活が、完璧にできたとしても、だから神は報いてくださると、どうして言えるのでしょうか。ファリサイ派の人びとは、そういうことにはちっとも気づかないで、皆がまじめにやっていさえすれば必ず神は応えてくださると考えたのです。ところが主イエスの言われることは、ほとんどファリサイ派の神経を逆なでするようなもので、「夜寝てたっていい。昼間遊んでいてもかまわん。夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。神の国とは、そういうものだ。

二千年たった今も、同じような種類の人間を見つけることは、実に容易だと思うのです。われわれの手で革命を起こすのだと言ってみたり、この世と妥協しながら、この世を超えた希望なんてことはちっとも考えようとしなかったり、われわれが一所懸命やってれば必ず神は報いてくださると考えたり、逆に神の掟を守らないときっと罰が当たると考えたり、そういう人は昔も今も、いくらでもいるのです。ところがそういう人びとの中で、私どもはただ、夜昼寝起きしている間に、小さな種を成長させてくださる神の支配を信じているのです。

■神は、生きておられるのです。ただ、そのことを信じるのです。そのために大事なことは、ひとつは忍耐です。種を蒔いたはずなのに、どうして全然実がならないんだと腹を立てないのです。やっと最初の穂が出たと言って、その穂をはさみで切り開いて、なんだ、まだ実はないかと言わないのです。それは確かに、忍耐を要する生活です。しかしその忍耐の深いところには、神に対する信頼があるはずです。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」。知らないからこそ、神がすべてをなしたもうことを知って、信頼するのです。信頼しているうちに、「初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる」。その間、夜寝てたっていい、昼間遊んでたっていいと言いましたが、その私どもの姿は、はたから見れば実に平凡な、見方によってはだらしないとさえ思われるかもしれません。ところがその内実はまったく違うので、私どもは、神を信じているのです。ただぼんやり生きているのではなくて、神を信頼しているのです。そこにこそ、確かな平安も与えられるのでしょう。

この確かな平安を私どもが知るために、主イエスは、種のことを考えてごらん、と言われました。先ほど申しましたように、人間には小さな種ひと粒さえも作ることができないのです。そのくせ、自分たちには何でもできるかのようにいばりながら、心配事が絶えないのです。けれども主イエスは、そういう私どもを励ますために、慰めるために、「この小さな種を見てごらん」と言われるのです。あなたが寝たり起きたり、遊んだり酔っぱらったりしている間に種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、あなたは知らないだろう?

そのような小さな種をお造りになることができるのは、ただ神おひとりであります。そして、そういう力を持つ神の手が働くなら、十字架につけられたイエスが復活なさったというのは、むしろ当然のことだと言わなければなりません。その神の力をわれわれは信じているのです。神が生きておられることを、神がすべてを支配しておられることを信じるのです。したがって、イースターというのは、死んだ人が生き返るなんて、そんなことが科学的にあり得るのだろうかとか、そんなつまらない次元の話ではないのです。もともと種ひと粒さえ作ることのできない人間が、神のわざを云々しようなんてのは、分際をわきまえない話でしかありません。私どもはただ、神の力を信じるのです。「初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる」という、神にしかできない出来事を信じながら、われわれが夜昼寝起きしているときにも、神はお休みにならないことを知るのです。そこに真実の平安も生まれるのでしょう。

■伝道者パウロという人が、コリントの信徒への手紙一第15章20節にこう書きました。

しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。

パウロは、この主イエスのたとえ話を知ってか知らずか、キリストの復活のことを、「初穂」と呼びました。私どもはひとりの例外もなく、死ぬのです。そして主イエスもまた、私どもと同じように死なれました。そして三日目にお甦りになったのは、たったひとりですごい芸当をやってみせたというのではなくて、「眠りに就いた人たちの初穂となられました」。それは、この地上に蒔かれた神の命の種、しかもたったひと粒の種が、ようやく最初の穂を出したということであったと言うのです。世の人がその初穂に誰も気づかなかったとしても、「初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる」。そして私どもも、いつか必ず甦りの朝を迎えるのです。そのキリストの復活という初穂を見て、その穂をはさみで切り開いて、なんだ、まだ全然実りがないじゃないかと思い煩うのは、実に愚かな話であります。今私どもも、いのちの初穂であるキリストを見つめながら、もう思い煩うことなく、ただ神の国が近づいたことを信じてここに立つのです。

第4章の最初から始まる主イエスのたとえ話は、ここで終わるのですが、さらにその先を読み進めると、たいへん心を撃たれることがあります。35節に、「さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、『向こう岸へ渡ろう』と言われた」と書いてあります。その言葉に促されるままに、弟子たちが舟に乗って湖に漕ぎ出すと、激しい嵐に遭って舟が沈みそうになったというのです。水を飲んで死ぬというのは、いちばん苦しい死に方かもしれません。弟子たちが、もうだめだと思っていたら、なんと主イエスはその舟の中でぐうぐう眠っておられたというのです。嵐の中で、絶望の中で、まさしく主イエスご自身が、神の支配を信じ切っておられたのでしょう。

私どもも、いろんな嵐に遭うのであります。そしてそこで、恐れたり、思い煩ったり、何とかしなければといきりたったり、あるいは改めて信仰らしきものに目覚めて、イエスさま、起きてください、何とかしてくださいと叫んでみたり。しかしそういうときに、もしもその主イエスがぐうぐう眠っておられたら、どうでしょうか。しかし、むしろ私どもがいつも静かに見つめているべきものは、この主イエスの寝顔ではないかとさえ思うのです。夜寝てたっていい。嵐の中で、ただ神の働きを信じていればいい。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。そうだろう? 神の国は近づいたのだから、あなたのためにも近づいたのだから、思い煩うことなく、ただそのことだけを信じればよい。キリストの復活こそ、その確かな保証なのであります。お祈りをいたします。

 

すべての支配者でいてくださる父なる御神、私どもはまだあなたの支配を、完全には見ておりません。だからこそ、思い煩うことはたくさんあるのです。あなたの蒔かれた命の種はあまりに小さすぎて、その初穂であるキリストの復活も、私ども罪人の目にはあまりにも貧しすぎて、私どもは心配事の山に押しつぶされそうです。どうか、あなたが生きておられることを、あなたが神でいてくださることを、信じさせてください。私どもが夜昼寝起きしているうちに、どうしてそうなるのか知らないうちに、あなたはみわざをなさいます。最後の収穫の時を、信仰をもって待つ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン