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すべてにおいてすべてのお方

2023年2月19日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第15章12-34節

主日礼拝

コリント教会の者たちのうちに、「死者の復活はない」と言う者たちがいたようです。

イエス・キリストの弟子であるパウロたちは、コリント教会に向けて、厳しい言い方で追及をします。

今日一緒に聞いた聖書の、新約のみ言葉、コリントの信徒への手紙一の第15章12節です。

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」

そもそも教会という群れは、イエスさまのご復活によって立てられました。「十字架にお架かりになり死なれたイエスさまが、復活なさったぞ、救い主は今も生きていてくださる」という喜びの知らせから、教会は始まったのです。イエスさまがご復活なさったのは日曜の朝です。だからこそ、私たちはその時に主の日の礼拝をささげるようにまでなったのです。

復活を信じることそれが教会の根底であったのに、コリント教会の一部の者たちは、「死者の復活はない」と言っていた、どういうことでしょう。

どうやら、コリント教会の一部の者たちは、復活ということを、霊や魂だけが蘇るものだと考えたようです。肉体という物が蘇る、ということは、自分たちの理解ではありえない、と考えた。

この手紙が書かれた頃、コリントの地、ギリシアの文化では、人間の知性や知識を重んじる考え方が生まれつつありました。コリント教会においても、そういった自分の知識や理解を重んじて、新たに聴いたイエスさまの出来事を自分の形で理解しようとした人がいたのです。その人たちにとっては、死者が復活する、ということが、ありえないことに思えた。朽ちてしまう肉体が、また蘇るなど、ありえない。だから、復活というのは、霊魂のことだけだ、といったように、何とか復活を自分の理解に押し込めようとしたようです。

このような考え方はどの時代にも、教会を襲います。学問や科学が発展するなかで、私たちは自分の理解や知識を誇るようになる。プライドを持ってしまう、と言っていいでしょう。そして、イエスさまによって成し遂げられた出来事まで、自分が考えやすい形にあてはめてしまう。教会の歴史では、そのような知識を重んじる考え方と、向き合わなければならない時代がありました。

また、今の教会でも、イエスさまの言われたことを、成されたことを、自分の都合のいいところだけに切り取りってしまうことがあります。聖書の言葉を、自分の理解に押し込めようとしてしまうことが、私たちのうちにも起こります。さらに言えば、復活を、どこか限定して考えてしまうことは、私たちにもあるのです。

しかし、この手紙を記したイエスさまの伝道者パウロたちは、復活の否定がどれほど私たちに問題なのか、はっきりと伝えます。コリント教会の一部の者たちに、そして、私たちにむけて、力強い言葉が連ねられているのです。

13節から。

 「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

イエスさまがご復活なさったこと、つまり死者の復活がイエスさまによって起こったことは、教会の伝えること、信仰の根幹にある。それをなくしたら、私たちの信仰はむなしい、とはっきりと言うのです。

この手紙の中でも、特に伝道者パウロたちの熱い思いが伝わる箇所だと、私は思います。特に、繰り返し語られる、否定的な言葉が私たちの心に刻まれます。「イエスさまの復活がなければ、私たちの宣教は無駄。信仰も無駄。私たちの信仰はむなしい。この世のことだけでししかキリストに望みを抱かないなら、わたくしたちはすべての人の中で最も惨めだ」とパウロたちは言い切るのです。

イエスさまの復活を、ゆがめて考えることは、私たちの信仰を無駄に、空っぽにしてしまうことだ、とパウロたちは伝えます。また、それは私たちの信仰をむなしくしてしまう、とも言います。このむなしい、という語に目を留めたいと思います。この「空しい」という語は、聖書で何度も出てくる語です。旧約でも、この語があてはめられる言い方が何度も出てきます。そしてそれは「偶像」という語とつなげて使われることも多いのです。ただの木や石の像なのに、拝む対象となってしまうものを偶像といいます。そして旧約では、むなしい偶像に、信頼してはならない、それを拝むようなことがあってはならない、と繰り返し伝えられているのです。

もし復活をなかったことにしてしまうなら、それはまさに、むなしい偶像に頼むような考え方なのです。そのような考え方は、私たちに襲い掛かる力に、私たちを滅ぼす死の力に、何の力も持たない。それに頼ることは、どれほどむなしいことか、とこの手紙は、私たちに伝えているのです。

しかし、私たちが頼るのは、信頼するのは、ひれ伏すのは、主なる神さまです。この方こそ、私たちに襲い掛かる死の力に、滅びの力に、打ち勝ってくださる方です。それを実現する出来事が、イエスさまの復活だったのです。教会は、私たちは、この方の復活に希望を持ち、そこに立ちます。パウロたちは、そのイエスさまの復活を、この手紙でも改めて宣言します。

18節。

 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

初穂という言い方がありました。今日一緒に聞いた旧約でも、その言葉が出てきました。収穫の初めのものを、まず主なる神さまにささげる、その約束が、規定が記されていました。

イエスさまは私たちを生かす収穫の初めとなってくださった。私たちのささげものの、初めとなってくださった。

初め、ということは、それ以外は後から起こるということです。そして、まだイエスさまの後の復活は起こっていないのです。だからこそ、コリント教会の一部の人々も、また私たちも、復活を自分の力では理解できないのです。「だってこの世で蘇った人の話などないではないか」と。それは当然なのです。イエスさま以外に、復活した者はこの世界に一人としていない。

その一方、その父なる神さまが、み子であるイエスさまを復活してくださったのは、それに続けて、私たちが、復活させられるということの始まりだった。初穂ということは、初めの収穫に続けて、実りがあるということです。イエスさまは、一人で復活なさって、それで終わりではありませんでした。主イエスに続けて、私たちイエスさまを信じ、主のものとされた者たちが、復活させられる。世界が完成させられる時、私たちもまたイエスさまに続けて復活させられる、この希望の始まりが、イエスさまという初穂だったのです。

復活という、ほかに事例のない、神秘ともいえる出来事を、イエスさまは成し遂げてくださいました。私たちはその復活を、どこか遠いことのように感じてしまうことがあるかもしれません。さらに言えば、ご復活のイエスさまが、どれほど私たちにとって、本当に近しい方か、なかなか考えることができないものです。しかし、イエスさまの復活は、私たちに繋がることなのです。初穂の先に、私たちの復活もある。

イエスさまの復活について何度も記されるコリントの信徒への手紙のこの箇所ですが、実は言葉の細かいに目を留めることもできます。キリストが復活した、と訳されるこの語ですが、新約のもとの言葉では、復活した結果が今にも影響している、という意味となる言葉となっています。つまりは、復活して、今もその状態にある、という意味を持ちます。復活のイエスさまは、今の私たちにも影響をもつ、繋がりをもつのです。

私たちは、その復活のイエスさまに従う群れです。どこか、遠くの、過去の数十年だけ存在していたような偉人の言葉を、教訓のように聞く集団ではない。今生きて、私たちと共にいてくださる主に、希望を持ち、従うのです。

この手紙では、その主なる神のご支配を、私たちに伝えています。それは、この地上の世界が終わり、この世界が完成させられる将来のことを伝えることで私たちに知らされます。すべてのものが、主なる神さまの支配に置かれるということ、その主に服従する、ということです。

24節から。

「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」

父なる神のみ子であるイエスさまが、この世界を支配してくださる。そして、その支配を、父なる神さまに引き渡されるということです。

ここで、興味深いことは、イエスさまご自身も、父なる神さまに服従してくださる、ということが伝えられていることです。イエスさまは、父なる神と等しいお方であるにも関わらず、父なる神に服従するのです。

ここに、私たちの生き方が新しく示されています。イエスさまでさえ父なる神に服従するように、私たちも、父なる神さまに、イエスさまに、服従するのです。

服従する、という言い方は、決していい意味ばかりで用いられるものではありません。人に対して服従する時、そこには、時に恐ろしい支配が起こったりするのです。

しかし、私たちは主なる神に服従します。この方にこそひれ伏すのです。むしろ、人に服従することも、人々の考え方に染まることも、自分の考えに固執することも、私たちは手放します。私たちが服従し、降伏し、信頼するのは、主なる神さまのみです。

この手紙を記した伝道者パウロも、イエスさまに降伏し、服従した者でした。復活のイエスさまにであい、うちのめされた。そして、そのイエスさまのために、この地上の生涯を新たに差し出した伝道者です。

彼は、29節から、自身の伝道の日々のことを言い表しています。それによりながら、コリント教会の人々の、この地上での生涯を正すようにと伝えています。コリント教会には、復活を否定し、この地上の生き方のみに目を向けて、その先の希望を否定した人たちがいたのでしょう。目の前の快楽だけに心をむけ、乱れた生活をしてしまった者たちがいたのでしょう。その者たちに向けて、パウロは言葉を綴っているのです。「正気になって身を正しなさい」。

むしろ、パウロは、ただひたすらイエスさまのために、自分をささげていました。彼自身は、「日々死んでいます」とまで自分のことを伝えています。日々、復活の希望に生かされていたのです。そして、主のために、その喜ばしい知らせを伝えるために、文字通り毎日死ぬような苦労を経ながらも、生きていた。

教会は、そのように、日々主なる神さまに、自らを明け渡し、降伏して、従っていく者たちの群れです。人生のどこかで、自分の握りしめていたものを、手放すように、主なる神さまに、ひれ伏すように、降伏していく群れです。

私自身も、かつてはどこかで自分の力で立とうとしていました。しかし、主に変えられた。今も、また自分に頼ろうとすることがある。だからこそ、今日のみ言葉が与えられている。今日もまた、皆さんと共に、主に服従をし、降伏をしていきたいと祈ります。

全てを差し出して、降伏し、服従する時、私たちは知らされます。父なる神が、私たちをただ支配する恐ろしい支配者ではないことを。私たちを愛し、何とかして救いたいと、そのみ子主イエスを私たちの代わりに十字架に架けるまでしてくださった方だということを。そして、主イエスを復活させることで、死を打ち滅ぼしてくださるほどに、私たちを救われたいと願っている方だと。私たちはこのお方に、すべてにおいてすべてとなってくださった方に、降伏し、服従し、依り頼みます。イエスさまがしてくださったように。そのイエスさまの後に従っていきます。