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主イエスに呼ばれて

2023年2月12日

川崎 公平
マルコによる福音書 第3章13-19節

主日礼拝

■ある時、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せ」、そして特別に十二人の使徒をお選びになったという聖書の記事を読みました。考えれば考えるほど、不思議な話だと思います。たとえば、今ここに鎌倉雪ノ下教会というひとつの教会が生きている。それだけでなく、二千年にも及ぶキリスト教会の歴史、今世界中に立つすべての教会の歴史をさかのぼると、この山の上に集められた12人に行き着くのです。そのような意味で、すべての教会の礎となるべき12人を、主イエスはお選びになりました。

「これと思う人々を呼び寄せ」と書いてあります。たとえばスポーツが好きな方であれば、ワールドカップサッカー日本代表の二十何人かを監督が呼び寄せる。そのメンバーを発表する時の緊張感を連想するかもしれません。「これと思う人々を呼び寄せ」。このメンバー以外、考えられない。そりゃあ、他人はいろんなことを考えるかもしれない。「ええ? なんでこの人が?」とか、周りは勝手なことを言いたがるかもしれない。しかし主イエスのお考えによるならば、この12人以外、考えられないのだ。その12人の使徒たちの名がここに記されています。

この使徒たちひとりひとりが、この時の山の上での出来事を、生涯忘れなかっただろうと思います。のちに主イエスがお甦りになり、天に昇られたのち、使徒たちは主イエスから委ねられた教会の務めに励みながら、時に悩みながら、あの山の上で主に名を呼ばれたときのことを、折に触れて思い起こしたことだろうと思います。きっと主イエスはその時、ひとりひとりの目をしっかりご覧になりながら、「アンデレ、フィリポ、バルトロマイ……」というように、12人の名をひとりひとりお呼びになったと思います。その主イエスの肉声までも懐かしく思い出しながら、「わたしは、主イエスに呼ばれたのだ」と、背筋が伸びる思いがしたのではないかと思います。

私どもも、主イエスに呼ばれました。主イエスに呼ばれて、主の弟子とされ、イエス・キリストの教会を造る者とされました。

あとでもう一度触れますが、ここで主イエスに特別に名を呼ばれた12人というのは、しかし特別に優れたところがあったから選ばれた12人ではありませんでした。むしろ、いちばんふさわしくない人から順番に12人を選んだのではないかと言われても仕方がなかったかもしれません。「ええ? なんでこの人が?」そのことについては、またあとで触れます。

そこでひとつ興味深いことは、ここに「12人を任命した」と書いてあります。翻訳としては「任命した」というのがいちばん適切なのでしょうが、直訳すると「12人を作った」という表現なのです。主イエスが使徒たちを作り上げてくださるのであって、それは言い換えれば、最初からふさわしかったから、だから選ばれて任命されたのではないということです。この人には見どころがあるから使徒としてふさわしいだろう、この人にもこれだけの力量ががあるから、きっと立派な仕事をしてくれるに違いない、というように任命したのではなくて、この人たちにはいろいろ足りないところもあるけれども、そういう12人を材料にして、教会の礎を作り上げるのは主イエス・キリストである。そういう主イエスに対する信頼を言い表したような表現です。

今私どもも、主イエスに呼ばれて、そして一から作り上げていただくのです。一からというよりも、ゼロからかもしれませんし、あるいはマイナスから、主イエスに作り上げていただいて、そして主の御用のために用いていただくのです。

■主イエスが12人の使徒たちを任命されたのには、明確な目的がありました。それはいったい何であったでしょうか。私どもはそういうときに慌てんぼうですから、それはもちろん、この12人を伝道にお遣わしになるんだろう、ほら、14節の最後にも「派遣して宣教させ」と書いてある、とそう思うのですが、それよりも前にまず、「彼らを自分のそばに置くため」と書いてあります。主イエスが使徒たちを任命なさったのは、もちろん伝道のため、宣教のためですが、もっと根本的な目的は、主ご自身のすぐそばに彼らを置き、一緒に生きさせるということであったのです。「あなたは、わたしのそばにいなさい。絶対に離れちゃだめだぞ」。まるで子どもに言いつけるように、「お父さんからはぐれちゃだめだぞ」と、そう言われて、私どもも主イエスのそばに呼ばれたのです。私どもが主イエスのそばに置かれたのは、繰り返しますが、伝道のため、宣教のためであったわけですが、このことは、何度丁寧に確認してもしすぎることはないだろうと思います。

逆に言えば、主イエスと一緒にいるということがはっきりしない人間が、どうして主イエスの証人になれるか、という話です。先ほども申しましたように、私どもはキリストに呼ばれたといっても、何の取り柄もないのに、ただ主のお召しを受けたのです。それは私どもが教会に来ると、繰り返し教えられることですし、ですから少なくとも表向きはそういうことを言ってみせるのです。けれどもほんねではやっぱり、自分にはこれだけのことができる、こういうことが苦手だ、あの人はこういうところが立派だ、あの人はああいうところがだめなんだと、そういうことにいつまでもこだわっているものだと思います。それでたとえば、「あの人は話が上手だ。それなら説教でもやらせてみよう」。けれども、その人がキリストのそばにいる、イエス・キリストと一緒に生きているということがはっきりしなかったら、上手な話はできても、キリストを証しすることはできないでしょう。ですからまた逆に、あの人はどうも欠点だらけだ、失敗だらけだ、という人であっても、もしもその人がいつも主イエスのそばに生かされているなら、十分立派にイエスさまのことを証しすることができるのです。

■マルコによる福音書を最後まで読み進めていくと、誰もが心を打たれることがあります。このように主イエスのそばに呼ばれた12人が、しかし最後には、全員例外なく、主イエスを裏切ったということです。イスカリオテのユダが銀貨30枚で主イエスを売り渡し、他の弟子たちも皆どこかに雲隠れしてしまいました。ことに私どもの心を打つのは、ここで筆頭に名を記されるシモン・ペトロが、主イエスの裁判の最中にひょいと、「あれ、あなたもあのイエスと一緒にいたでしょ」と声をかけられて、「とんでもない、わたしはあんな人、知りません。一緒にいたことなんて、一度もありません」と、三度繰り返してそういう発言をしてしまったということです。その意味では、「十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くためであった」という、この言葉を誰よりも深く心に刻んだのは、ペトロだったかもしれないと、ふと思います。「ペトロよ、あなたも、わたしのそばにいなさい。絶対に離れちゃだめだぞ」。

ペトロが主イエスを裏切っても、主イエスがペトロをお見捨てになることはありませんでした。そのペトロがのちに教会の使徒、その第一人者となりました。そして、これはもちろん私の想像でしかありませんが、人はいろんなことを言ったと思うのです。なんであんなやつが教会のトップなんだ。そもそもガリラヤの漁師という出身ですから、こんなこと言ったら漁師さんに怒られるかもしれませんが、何の学問もしていないのです。今の日本の漁師さんたちは、漢字が読めなかったら仕事にならないでしょうが、ペトロはろくに読み書きもできなかっただろうと思います。「どうしてあんなやつが」。それに対してまた、事情をよく分かっていない別の仲間が、まあまあ、ペトロ先生は学問はなくても気立てはいいんですよ、とってもいい牧師さんですよ、なんて助け舟を出したかもしれません。けれども、少なくともペトロ本人は、真相をよく理解しておりました。自分は、学問はできなくても気立てはいいとか、おっちょこちょいなところもあるけど約束は守る男だとか、そんなレベルの話じゃないのです。本当に、何の取り柄もない。最後の最後まで、三度繰り返して主イエスを裏切り続けた、卑怯者でしかないのです。そんな自分が、どうして今教会の使徒として立っているのか。理由はひとつしかありません。主イエスがペトロを呼んでくださったのです。「あなたは、わたしのそばにいなさい」。

自分から、主イエスのそばに行くことはできません。私どもは皆、主イエスに名を呼んでいただいて、そばに呼び寄せていただいたのです。そのすばらしさを知った今は、私どもも決して、主イエスを裏切るようなことはしたくないと願うのです。誰かから「あなたもイエスと一緒にいましたね」と聞かれたら、あるいはそんなこと聞かれなくても、「わたしは、あのお方と一緒に生きているのです」。伝道というのは、その意味で、何も特別なことではないのです。わたしと共に、主イエス・キリストが生きていてくださる。そのことを証しするために、私どもの存在が、主のみそばに呼び寄せられるのです。

■その関連で、もうひとつ興味深い言葉があります。ここに「派遣して宣教させ」と書いてあります。「派遣」も「宣教」も、たとえば神学校に行ってギリシア語を勉強すると、すぐに覚える言葉です。ですからあまりギリシア語が得意でない牧師や、あるいは学生であっても、この言葉が出てくると、「はいはい、この言葉は調べなくても知ってる、『宣教』でしょ」と軽く読み過ごしてしまうのですが、ある説教者がこういうことを指摘しています。このギリシア語が「宣教」という意味を持つようになったのは、キリスト教会の影響によるのであって、マルコによる福音書が書かれた年代においては、まだ「宣教」という意味は、それほど定着していなかったのではないか、これを読んだ当時の人たちは、もう少し違った意味に読んだのではないか、と言うのです。もともとこの言葉は、王様がやって来るというときに、その先触れをすること、つまり日本で言えば大名行列の先頭を歩いて、「した~に~、した~に~」「何なに様のおとお~り~」などと先触れをすることであったというのです。

使徒たちに任せられた「宣教」という仕事もまた、それに似て、ただ先触れをするだけなのです。「した~に~、した~に~」などと言っている先触れの人たちを見て、「いやあ、立派な人たちだなあ、本当にいい声してる」などと感心する人はいないし、その先触れをしている人たち自身も、自分たちの性格がどうとか、身なりはきちんとしているかなあとか、もちろんあまりにも見苦しかったら困るでしょうが、基本的にはそんなことどうでもいいのです。先触れをしている人たちが偉いか偉くないか、そんなことは誰も気にもしない。ただ、その先触れの声を聞いた人たちは、「どうもあの人たちの背後には、たいへん立派なご主人さまがいるらしい。いったいどんな方なのだろう」。そう思うのです。

私どもも主イエスの先触れとして生活しながら、「した~に~、した~に~」とは言わないでしょうけれども、われわれの主人は神の御子イエス・キリストなんだ。あなたも、あなたも、このお方のそばにいらっしゃい。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という、主の言葉を伝えるために、私どもも遣わされているし、しかもその私どもと一緒に、いつも主イエスご自身がいてくださるのです。

■さらにもうひとつ読み飛ばしてはならない言葉があります。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ」、そこまではまあ分かるとしても、15節には「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と書いてあります。これがいちばんぴんと来ないところかもしれません。この12人を礎として始まったキリスト教会の存在意義は、キリストのそばにいることであり、宣教、すなわちキリストの先触れをすることであり、しかし最後の目的は悪霊を追い出すことであった、そのための権能を主イエス・キリストから与えられたというのですが、いったい悪霊なんてどこにいるのだろうか。「病気を治すため」とは言わないのです。「悪霊を追い出す」のです。もっとも原文には「悪い霊」というような、はっきりとした形容詞があるわけではありません。単に「霊を追い出す」と訳してもよい言葉です。その「霊」というのは、この世の霊と戦うということです。時代の精神と戦うと言ってもよいかもしれません。イエス・キリストを宣べ伝える、その福音を告げるということは、そのことによってこの世の力に勝ち、この世の霊に勝ち、時代の精神に勝つということなのです。伝道したそのついでに、精神病の患者も元気にしてみせた、ということではないのです。この世の霊に勝つのです。そのために教会は遣わされています。

この世の霊は、死んだらすべてが終わりだと教えるでしょう。教会は、そういう世に立ち向かうようにして、違う、神の命が勝つのだと言い続けるのです。この世の霊は、金がすべてだ、能力がすべてだ、いや健康がすべてだと、いろんなことを人びとに吹き込もうとするし、そういうこの世の霊が逆に教会に入り込むと、あの先生はどこの大学を出ているとか、いや、あの先生は学問はなくても気立てはいいとか、そういう話にもなるわけです。もちろん学問も大事だし、人柄がいいことはいちばんすばらしいことです。けれどもそれが仇となって、この世の霊に負けてしまったらどうしようもないのです。教会は、この世に霊に打ち勝って、われわれはただ神の力によって生きるのだ、そのためにキリストがわたしをご自分のそばに置いてくださったのだと言い続けるのです。

■そのために召された12人の顔ぶれは、まさしく、この目的にかなったものであると言わなければならないかもしれません。筆頭のペトロのことはもう十分に話しましたから、これ以上は申しません。しかし、そのあとの10人はどうでしょうか。その中の何人かは、聖書の他の箇所に1、2のエピソードが残っている場合もありますが、むしろほとんど分からないのです。たとえば、ペトロの次に出てくるヤコブとヨハネという兄弟には「雷の子ら」というあだ名がついていたとありますから、きっとこのふたりは何かと感情のコントロールのできない困った性格の兄弟だったんだろうとか、最初の教会のナンバーツーとナンバースリーがこんな兄弟じゃあ、きっとたいへんだったろうなとか、いろいろ面白がって書く人もいないわけではありませんが、本当のところは憶測の域を出ません。むしろ聖書の学者たちは、誠実な学者であればあるほど、最初のペトロと最後のイスカリオテのユダ以外、その他の10人の使徒たちについては分からないことだらけだと、正直に申します。そして私はむしろ、このマルコによる福音書が、使徒たちの紹介をほとんどしていないことに大切な意味があると思います。

この12人は、主イエスがお選びになったのです。主がお選びになった、そのこと以外のことは、どうでもいいのです。この人がどういう生まれで、どういう仕事をして、年齢がどうとか性格がどうとか、私どもはそういうことをいちばん知りたがるのですが、そんなことは主イエスがこの12人をお選びになったときに何の参考にもされなかったし、今も明らかになっていないし、福音書を書いたマルコも興味を持たなかったのです。この12人は、ただ、主イエスに呼ばれたのです。それ以外に、教会の立つ根拠はひとつもないし、そのような教会だからこそ、この世の霊に勝つこともできるのです。

■けれども最後に、19節になんともやるせないことが書いてあります。「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」。12人の使徒たちは、この山の上で主イエスに呼ばれたことを、生涯忘れなかっただろうと最初に申しましたが、本当はそうではありませんでした。ひとり例外がいました。イスカリオテのユダだけは、主イエスを裏切ってしまった、その良心の呵責に耐えることができずに、主イエスが十字架につけられるよりも先に、自ら首を吊って死んでしまいました。ユダが死んだのは、ペトロのような卑怯者だったからではないのです。むしろペトロのような卑怯者とは違って、主イエスが死刑の判決を受けたあと、自分のしたことをいたく後悔して、国の偉い人たちのところまで出向いて行って、こう言いました。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。「あのお方を売り渡した、この銀貨30枚はお返しします」。ペトロなんかには、そんなことをする勇気もなかったでしょう。ユダは誰よりも誠実だったから、だから自分のやってしまった卑劣な行為をどうしても赦すことができなくて、それで結局、自分で自分を殺してしまいました。もちろん、それをユダの強さと呼ぶことはできないでしょう。これこそが、人間の弱さの究極の姿であったのです。

そんなユダを、どうして主イエスはお選びになったのでしょうか。神の選びというのは、人間の基準にはよらない、たいへん不思議なものだということを、今朝はずっとお話ししてきたつもりですが、その神の選びの不思議さを突き詰めていくと、最後にはイスカリオテのユダに行き着くのかもしれません。ユダという人は、もしかしたら、他の使徒たちに比べても、いろいろ取り柄があったのかもしれません。聖書の他の箇所には、ユダは主イエスとこの12人のグループを取りまとめる会計係をしていたと書いてありますから、それだけ周りからも認められる、きちんとした人間だったのかもしれません。しかし、というか、だからと言うべきか、ユダはいちばん弱い人であったのです。そして主イエスは、ユダの本性を見抜くことができずに間違って選んでしまったのではなくて、いちばん人間の弱いところを知り抜いた上で、ユダをお選びになったのであります。

私どもも、弱い人間です。だからこそ、ただ主イエスに呼ばれて、今も主イエスのみそばに置かせていただいているのです。失敗ばかりしている私どもなのです。いや、それだけではありません、本当は悪意に満ちた人間なのです。神の愛を必ず裏切るような人間でしかないのに、そのくせ自分のしたことの責任を中途半端に取ろうとして、ユダのように首を吊ることはなかったとしても、自分を責めたり、傷つけたりしながら、しかし決して神の恵みには頼ろうとはしないのです。そういういちばん弱い人間、ユダに代表されるような弱い私どもを、だからこそ主イエスがお選びになって、みそばに招いてくださったキリストの恵みを、もう決して裏切ることのないようにしたいと思うのです。

■ルカによる福音書第6章にも、今日読んだ箇所と同じような記事が出てきます。ルカはそこにひと言付け加えて、主は山に登って徹夜の祈りをなさったと書いています。夜を徹して祈り、その祈りののちに、12人をお選びになったというのです。しかしまた、マルコが13節に書いている「イエスが山に登って」という表現も、主イエスの祈りを暗示しているのかもしれません。そうでなかったとしても、主イエスはこの12人をお選びになるために、どんなに真剣に祈られたことでしょうか。

ある人が、こういうことを言っています。主が徹夜で祈られたという10時間とか12時間のうち、いったいペトロのために何時間祈られたのだろうか。ユダのためには、何時間祈らなければならなかっただろうか。いつか必ずご自分のことを裏切ると分かっている者たちのために、主イエスがどんなに祈られたか分からないのです。しかしそれならば、われわれはどうか、とその人は言うのです。自分はペトロよりも簡単な祈りで結構ですと言える人がいるか。イスカリオテのユダのためには、それはイエスさまもずいぶんお悩みになったでしょう、しかし自分のためにはそれほど深刻に祈らなくても大丈夫ですよ、と言える人がひとりでもいるか。

今ここにも、そのような主イエスの祈りの結晶であるような教会が造られております。主イエスのそばに集められたのです。その事実が既に、私どもに無限の勇気を与え、喜びを与え、また同時にへりくだりの心を与えられないわけにはいかないと思うのです。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、あなたの御子に呼び寄せられて、今私どもはここに立ちます。私どもも、あなたの弟子です。どうか終生変わることなく、主のみそばにおらせてください。もう二度と、その恵みを軽んじることなく、ただあなたのすばらしさを告げ続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン