1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 神さまに声をかけられたら

神さまに声をかけられたら

2022年10月23日

川崎 公平
マルコによる福音書 第1章16-20節

主日礼拝

■先月から日曜日の礼拝でマルコによる福音書を読み始めて、今朝は最初の弟子たちが主イエスに招かれた記事を読みました。主イエスがガリラヤの湖で漁師の仕事をしていた4人の人たち、ふたりずつふた組の兄弟を御覧になって、「わたしについて来なさい。あなたがたは、人間をとる漁師になるのだ」と声をかけられました。そうしたらこの4人の漁師たちは、すぐさま、すべてを捨てて主イエスについて行ったというのです。

これはたいへん不思議な話ですが、考えてみれば、今私どもがここでこのように教会の生活を作っている、その教会の歴史がどこでどのように始まったかというと、このガリラヤの湖のほとりで起こった、小さな出来事にさかのぼるのです。その意味で、この4人の漁師が主イエスに呼ばれたという記事は、私どもにとりましても本当に慕わしいものがあると思います。新しい歴史を拓く決定的な出来事が、しかしそのときには、ほとんど誰にも気づかれないような静かな形で始まったのです。

ここでどうしても思い起こさなければならないのは、第1章15節の主の御言葉です。今朝は先週の予告を少し変更して、16節からではなく、その前の段落から、14節から聖書を朗読しました。その14節と15節を、前回(と言っても少し間が空きましたが)、10月2日の礼拝で読みました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。この第1章15節の言葉について、その時の礼拝でこういうことを申しました。この主イエスの発言は、決定的な意味を持つものであって、このマルコ福音書のどの文字を読むときにも、いつもその背後に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、神の宣言の言葉を聞き取っていないといけない。

ところが、その上で気づかされる不思議なことは、「神の時が満ちたのだ、神の国、神の支配が今始まったのだ」という、決定的な言葉を書いたあとに、真っ先にマルコが書いたことは、4人の弟子たちが呼ばれたということであったのです。「わたしについて来なさい」と主が4人の漁師たちに声をかけてくださった。まさにそのようにして、神の国、言い換えれば神の支配が、出来事として始まったのです。

■今ここに集まっておられるひとりひとり、主イエスの御声を聞いたから、ここにいるのです。「わたしについて来なさい」と、このお方に呼ばれたから、今ここに教会を造らせていただいているのです。私どもは自分たちのことをふつう「教会」と呼ぶのですが、この言葉は原語にさかのぼると、「呼び出されたもの」という意味の言葉です。皆、主イエスに呼ばれたのです。そのようにして集められたのが教会です。その言葉を「教会」つまり「教える会」という日本語に訳してしまったのは、実は誤訳だと言うべきかもしれませんし、事実また一般的なイメージとして、教会に行くとキリスト教を教わることができる、ひとつキリスト教でも教えてもらおうか、という誤解があるかもしれません。けれどもそうではないので、私どもはキリスト教を教えたり教わったりするために教会をやっているのではないのです。キリストに呼ばれたのです。ただ、それだけなのです。

もちろん、皆さんもひとりひとり、教会に来るようになったきっかけはさまざまでしょう。たとえば私自身は、生まれたときから、いつの間にか教会の中にいたのですが、だからと言って自然と信仰が生まれるわけではありません。それ以外にも、たまたまミッションスクールに合格して、教会に行けと言われたとか、結婚したら相手がキリスト教で、自分だけ日曜日に留守番もいやだから来てみたとか、いろんなきっかけがあるでしょう。それで自分でももっと真剣に聖書を学んでみようとか、そういうこともあるでしょう。けれども最後の最後、いちばん肝心なところは、人間の力ではどうしようもないので、キリストご自身が声をかけてくださるのです。「わたしについて来なさい」。

■今クリスマスに向けて、何人かの方が洗礼の準備をしておられます。その方たちの相手が今いちばん忙しいし、しかし牧師にとっては、そういう忙しさがいちばんうれしいものです。さてしかし、気づいたら10月も下旬で、洗礼の試問会まであと一か月と少ししかありません。いよいよ自分の言葉で信仰を言い表さなきゃいけない。そういう方たちに、「ところで、いつからイエスさまを信じるようになったんですか」と尋ねると、全員ではありませんけれども、かなりの確率で、「えーと……分かりません」とお答えになります。礼拝に続けて来ているうちに、いつの間にか、イエス・キリストというお方が自分にとってかけがえのない存在であることに気づき始めて、そしてまたイエスさまがわたしを呼んでいてくださることが分かってきて、しかしそれが、いつからですかと言われると、「いつの間にか?」としか言えない。多くの人がそういう感覚を持っているのではないかと思うのです。

それは、ここに出てくる4人の漁師たちが主イエスに呼ばれて、「すぐに従った」と書いてある、この聖書の物語とはずいぶん話が違うように思われるかもしれませんが、実は何の隔たりもない、むしろ本質的にまったく同じだと思います。

自分はいつから主イエスを信じるようになったのだろうか。どうもはっきりしない、その自覚が自分にはないということは、つまり自分の方には何の用意もなかったということでしょう。こっちには何の用意もないのに、いつの間にかキリストがわたしを呼んでくださって、そのキリストの御声が、自分でも気づかないくらい静かに自分の心に浸透してきて、そして今は分かる。わたしは、このお方と一緒にいたいんだ。このお方のおられるところなら、どこにでもついて行きたいんだ。

それは繰り返しますが、ここに出てくる4人の弟子たちだって同じだったのです。「すぐに網を捨てて従った」と書いてありますように、最初の勢いはいいけれども、福音書を読むと実際に彼らが言ったりやったりすることは実にでたらめで、最後には十字架につけられた主イエスを見捨てて、裏切って、全員逃げてしまったというのです。今日読んだところで最初に名が記されるシモンのごときは、のちにペトロというあだ名を授かりますが、主が裁判を受けておられるときに三度繰り返して「あんな人のことは知らない、関係ない」と公然と言ってしまいます。

ところがその弟子たちが、たとえばこのペトロも改めてお甦りになった主の前に立たされて、やはり三度繰り返して「あなたはわたしを愛しているか」と聞かれます(ヨハネによる福音書第21章15節以下)。そこでペトロも気づくのです。三度繰り返して、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えます。これは何度読んでも不思議な答え方で、「はい、わたしはあなたを愛しています」というのではないのです。「わたしがあなたを愛していることを、あなたがご存じです」と答えるのです。三度とも同じように。主イエスよ、このことについていちばんよく知っておられるのは、あなたですね。わたしがあなたを愛していることを、こんなにも愛していることを、わたしは知りませんでした。しかしいつの間にか、わたしはあなたから離れられなくなりました。そのことを、あなたはよくご存じです。思えばあの日、ガリラヤ湖のほとりで声をかけてくださって……。「わたしについて来なさい」と言われた言葉の意味が、今はよく分かります。わたしは、どんなことがあっても、主イエスよ、あなたと一緒にいたいのです。

■今も主イエスは、私どもひとりひとりに声をかけてくださいます。「わたしについて来なさい」。私どもの信仰の生活とは、主イエス・キリストについて行く生活です。このお方と一緒にいたいのです。しかしそれは、具体的にはどういう生活を意味するのでしょうか。主イエスについて行くと言っても、肉眼でその姿が見えるわけではありませんから、いったい具体的に何をしたらいいのか、どういう生活を心がければいいのか、実はそれがどうもよく分からないということがあるかもしれません。

そこでひとつの誤解が生まれるかもしれません。主イエスに従うというのは、主イエスの真似をして、あるいはキリストの教えを忠実に守って、まじめな生活をすることだ、立派な生活をすることだ、愛に満ちた生活をすることだ、という誤解です。それは先ほど申しました、教会というのはキリスト教を教える場所だという誤解と関係があるかもしれません。キリストからいろいろな有益な教えを学んで、それを実践していくということも、私どもの信仰生活に含まれるかもしれませんけれども、それが中心になることは決してないのです。たとえば福音書を読んでも、その続きの使徒言行録を読んでも、ペトロをはじめとするキリストの弟子たちがどんなに立派な生活をしていたか、そんな話は書いてないでしょう。少なくともそれは、キリストについて行く生活の中心ではないのです。

そうではなくて大切なことは、実に単純なことで、「イエスについて行く」。このお方と一緒にいたいのです。どんなことがあっても。主イエス・キリスト、このお方が誰よりも慕わしいからです。何よりも大切だからです。それが、私どもに与えられた生活です。それははた目から見たら、何も変わらないかもしれません。キリストを信じていないほかの家族から、「お前、クリスチャンのくせに」などと嫌味を言われても、何も言い返せないかもしれません。けれども私どもからしたら、主イエスが共にいてくださる、いつでもわたしの前を主イエスが歩いていてくださる、その事実が、何にも代えがたい慰めなのです。

この夏から秋にかけて、たいへん多くの教会の仲間の葬儀をしなければなりませんでした。特に私が深い思いにさせられたことは、その人の人生の途上で、息子を喪った、あるいは娘に先立たれた、そういう大きな試練を経てなお教会生活を続けてこられたという教会員の葬儀を、夏から秋にかけて何度もしたということです。子どもに先に死なれるということは、ほとんど人間としては耐えられないほどの試練かと思いますが、私はその人たちの信仰を危ぶんだことは一度もありません。それは苦しかったに違いないのです。けれども、最後まで主イエスについて行くことができました。自分の救いは、キリストしかない。そして事実、主イエスはその悲しみの父親、悲しみの母親といつも一緒にいてくださいました。先に亡くなったご子息のことを、最後まで嘆き続けた母親がいました。「そんなに悲しいのに、あなたはなぜ教会に来るのですか」と、もちろんその方に直接聞いたことがあるわけではないのですが、もしもそういう質問をしたら、「わたしの救いは、イエスさましかないのです。わたしは、どんなことがあっても、イエスさまと一緒にいたいのです。わたしはイエスさまに向かって泣いているのです。イエスさまを信じているから」。きっとその方は、そうお答えになっただろうと思うのです。

そういう生活を、主は私どもひとりひとりに与えてくださる。「わたしについて来なさい」。それは、決して特別な人にだけ与えられる生活ではありません。キリストに愛された人なら、キリストを愛する人になら、誰にでも等しく与えられる生活です。キリストについて行くと、それだけでは済まされないので、「人間をとる漁師にしよう」と書いてありますが、こういう言葉を読みますと、ああ、これは牧師とか、せいぜい神学生や長老のための言葉であって、自分には関係ない、自分は別に人間をとる漁師の仕事なんかしていないと思うかもしれませんけれども、決してそうではないのです。もしもキリストと共なる生活が、自分にとってかけがえのない生活であるならば、その恵みを、もちろん状況に応じてでしょうけれども、証ししていくほかないではないですか。「わたしは、イエスさまと一緒に生きている。悲しいこともあるし、失敗だらけの生活だけれども、そんなわたしのために、いつもイエスさまが一緒にいてくださる」。その恵みを証しすることなら、誰にだってできるはずですし、既に召されたあの教会の仲間たちも、最後まで、実に見事に、人間をとる漁師の仕事をなさったと思うのです。

■さて最後にもうひとつ、大切なことがあります。それは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたとき、この最初の弟子たちは「すぐに網を捨てて従った」と書いてあることです。ふた組目の兄弟についても、20節の後半に、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と書いてあります。主イエスについて行く生活というのは、すなわち捨てるべきものを捨てる生活である。そう言わなければなりません。

「網を捨てて」、つまり自分の仕事を捨てて、ということであります。「父を残して」、つまり家族も捨てて、ということです。もっともわれわれの翻訳では、18節では「網を捨てて」、20節では父や雇い人を「舟に残して」と書いていますが、「捨てて」も「残して」も、原文ではまったく同じ表現です。仕事も家族も同様に捨てたのです。しかしこれを、何か律法のように読むとおかしな話になると思います。洗礼を受けるためにはまず家族と絶縁しなきゃいかんなどと、いったい誰が考えるでしょうか。現に今日読んだ少し先の29節以下を読むと、そこでは思いがけず、主イエスと4人の弟子たちがシモンとアンデレの家に帰って行きます。彼らからしたら、相当の決心をして家を出たつもりだったかもしれませんが、わずか数日のうちに主イエスに連れられてまた同じ家に帰って行くのです。特にそこでは、たまたまシモンの姑が熱を出していて、それを主イエスが癒してくださったと書いてあります。それ以来、シモンの姑も主イエスを信じるようになったのではないでしょうか。ついでに、コリントの信徒への手紙Ⅰ第9章を読みますと、ペトロはいつも自分の妻を連れて伝道をしていたということが分かります。なんだ、結局ペトロは何も捨ててないじゃないかと、文句を言う必要なんかないのです。

大切なことは、主が既に15節で、「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われたことです。今も私どもに求められていることは、悔い改めること、そして福音を信じること、しかもこのふたつのことは、ひとつのことでしかありません。悔い改めるとは、向きを変えることだと前回の説教でも申しました。「向きを変えて、福音を信じなさい」。つまり、向きを変えて、それまで信じていたものとは違うものを信じるのです。それまではお金を信じていた人も、今は向きを変えて福音を信じる。そういうことが起こるでしょう。自分はこんなに頭がよくて、こんなに仕事のできる人間であると、自分を信じていた人が、けれども今は信じるものが変わって、主イエスだけを信じる。そういうこともあるでしょう。子どもの成長が生きがいだと思っていた人が、思いがけずその子どもに先立たれるということが起こる。涙が止まらないのは当然です。けれどもそんなときにも、私どもが信じるのは福音だけなのです。どんなことがあっても、主が共にいてくださるのです。それよりも大切なことはないのです。

そのことを信じるとき、場合によっては、親を捨ててでも教会に行くのをやめないとか、夫に反対されたって洗礼を受けるとか、そんなことはいくらでも起こり得るだろうと思います。私どもは、どんなことがあっても、キリストと共にいたいと願うし、キリストの御声を聞きたいと願うのです。それは、信仰のない家族を軽蔑するという話ではありません。自分を救うのは家族じゃない。イエス・キリストがわたしを救う。ついでに言えば、その家族の救い主だって、イエス・キリスト以外にはいないのです。その福音を信じるのです。

そのために、主イエスは今も私どもひとりひとりに呼びかけてくださいます。「わたしについて来なさい」。このキリストの御声の尊さに気づかせていただきながら、今も私どもの前を主が歩いていてくださる、その主の背を見つめながら、私どもも今主の弟子として、家族のもとに帰って行きます。働きの場に出て行きます。こんなにありがたい生活を与えていただいていることを、主に感謝しないわけにはいかないと思うのです。お祈りをいたします。

 

主イエスよ、あなたの御声が今も聞こえます。聞こえたなら、それに従わせてください。悔い改めて、福音を信じさせてください。悲しみの日にも、喜びの日にも、私どもに先立ってくださるあなたの背を見失うことがありませんように。あなたと共に歩む私どもの生活を、今もいつも新しく、あなたの御言葉によって励まし、導いてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン