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いのちに飛び込め

2022年10月16日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第11章17-27節

主日礼拝

「ラザロは死んだのだ。」(11:14)
弟子たちが固唾をのんで、静まり返った、主イエスのお言葉でした。

「ラザロは死んだのだ。」

けれども主はすべてを負っておられます。だから言われました。
「わたしは彼を起こしに行く。」(11:11)
「さあ、彼のところへ行こう。」(11:15)

そうして主イエスは、栄光への道を、弟子たちを連れて、ラザロのいるベタニアまで行かれました。そのベタニアは、もうラザロの死の臭いがしていました。当時は、死に至ると、なるべく早く、村の外の墓に葬りに行きました。「4日」がすでに経っていました。4日は、もしかしたら蘇生するかもしれないといわれる当時の臨床医学の期間で、それが過ぎました。ですからベタニアの村全体が、その死の確定に覆われていたのです。でもそこに主が来られて、ラザロが墓に葬られている村全体をご覧になりました。そこは忌中の入口でした。

もうずっと昔のことです。知り合いの子で、私が可愛がっていた姉と弟がいました。とても可愛い子たちで、お姉ちゃんはおしゃまさんで、弟に「私はいつもあなたのお姉さんよ」という感じでした。弟が甘えてきても手を解いたり、でも不安そうなときは手を握っていたり、私の前ではいつもかしこまって、ふたりで照れてしまい、座っている姿がとても可愛らしい、仲の良い二人でした。でもある日、弟が事故でなくなりました。二人共まだティーン、10代でした。お姉ちゃんはその日のことを私に話してくれました。その日は友だちと遠くまでドライブに行っていて、知らせを聞いて、家に帰ってきた。

家は団地だったので、夜階段を上がって、家のドアの前まで来た時、ドアに一枚の貼り紙がしてあった。「忌中」と書いてあった。彼女はそのとき初めて、ほんとうなんだ、と思った、と私に言いました。そしてドアを開けたときには、玄関はもう靴でいっぱいだった。
葬儀に行ったときには、私に飛びついて来て泣いた子でした。

ベタニアのこの家もそうでした。ラザロには二人の姉がいました。マルタとマリアです。その家にはもうたくさんの人が慰めに入っていました。葬儀の期間はおよそ7日間で、ユダヤの人々は旧約聖書で神様がなさったとおりに、慰めを尽くしました。その葬儀の途中でした。その家は人々の慰めで溢れていたのです。けれどもそこに知らせが来ました。主が来られた。

姉のマルタはそれを聞いて、主を迎えに出ました。マルタは弔問客を置いて、靴がいっぱいの家を出て、主の許に走ったのです。他の福音書では、マルタは人へのもてなしに尽くす人でしたが、でもそのとき最も必要なことは主の傍で主のお言葉を聴くことと諭されたマルタが、今、その主のもとに走ることがすべてだと思ったのです。

そうしてマルタは、主のおられる村の入口に来て、一人で、主イエスの御前に立ちました。
主に近づきながら、このお方がそこにいるだけで思いがあふれて。

主と向かい合って、マルタは言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(11:21)

もし、あなたがいてくださったら。
とマルタは言いました。もし、あなたがもっと早く来てくださったら、わたしの弟は死ななかったでしょうに。あなたはそれがおできになったはずです。でも、そうではなかったのです。

「もし」というのは、信仰が直面する厳しさです。あなたはなぜ?と問うのです。
けれども、これほどまでの信頼の言葉も他にありませんでした。マルタは思っていることをすべて主に言いました。私どもも、このマルタの言葉を責められません。もしあなたがいてくださったら。そう思いますし、いえ、もしかしたらそこまでも行かないかもしれません。もうだめだと思うしかないところで、居座ってしまうだけかもしれませんのに。でもそうじゃなく、あなたがいてくださったら、弟は死ななかったと、マルタは言ったのです。

でもそれは、マルタがここに来るまでのあいだにあったことではなくて、主にお会いしたから出た言葉でした。誰でも、主と向かい合ったら、この方がすべてだとわかるからです。あなたがここにおられる。あなたが来てくださった。それだけで。
あなた以外に望みはないのです。だからマルタは主に言いました。
「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(11:22)

私だったらここで涙が出ています。あなたが願ってくださるなら、何でも。神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。それが私どもも葬儀で、葬りのところで、心の底から出る言葉なのです。私どもは、死の前に立ったら無力で、どうしようもないです。だけど、あなたはそうではないのです。火葬場でも、あの最もつらい時、棺が炉に入り、もうじきに扉が閉まる。冷たいドアが閉じる。火がつく。だけど、あなたが願ってくださるなら、何でも、神はかなえてくださると、わたしは今でも、承知しています。

そのマルタに、主は言われました。
「あなたの兄弟は復活する。」(11:23)

するとマルタは言いました。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」(11:24)

マルタは、終わりの日に復活することは、知っていますと言いました。そのことはユダヤの人たちの希望でした。だから、そのことは知っておりますし、信じています。でも、それは、「今」ではないのです。

すると、主が言われました。
「わたしは復活であり、命である。」(11:25)

そのとき、村の入口で、
死の力を奪う声が響きました。そしてそこに、人間に新しい道があり、この方がその入口の門であることがはっきりと見えました。
主は「わたしが復活である」と言われました。「わたし自身が」復活である。そして「わたし自身が」命である。将来の復活が「今」マルタの目の前におられたのです。それはマルタ、あなたの言う通り、将来彼は復活する。けれども、その時によみがえらせるわたしは、今でも彼を起こすことができる。ということでした。時を超えて、遠いことだと思っていたら、復活が、今、マルタの目の前におられたのです。

主はまた「わたしは命である」とも言われました。それはこの福音書の第一章の初めから言われていました。
「初めに言があった。言は神の共にあった。言は神であった。」(1:1)
その第1章の4節にはこうあります。
「言の内に命があった。」

主イエスの命は、初めからあった、神の命でした。そしてその命の中に、私どもを入れようと、主が御自分を与えに来られました。そしてその方が今、目の前におられて。

そして主はマルタに、あなたが願っているのはわたしだと言われているのです。今も将来も、あなたが願っているのはわたしだ。

ある人が、使徒信条の講解の中でこのようなことを言っています。「死にて葬られ」のところです。「わたしたちはいつか葬られるだろう。やがていつか、ひと群れの人々が、どこかの墓地に出かけて行くであろう。そして一つの棺を埋めて、皆家路につくであろう。しかし、一人だけは帰らない。そしてそれがわたしであろう。……人生とは何であろうか。それは墓に向かって急ぐということである。」
人の命は、ほんとうは、そういうものでした。そのままなら、誰でも、人は罪のために死なねばならず、罪をもったままでは神に近づくことはできず、けれども神はその私どもを憐れみ、罪を赦す道を開いてくださいました。そしてそのために神は主の命を与えられました。

ラザロも、死にて、葬られ、よみに下り、となりました。でもほんとうはそのまま帰らない人でありましたのに、主によみがえらされてからは、もう墓への道ではなく、全く新しい命になって、主につながった主の命になって、そこからは命の道を歩くのです。それは主との関わりの命で、新しい創造に等しいのです。

ラザロもこの先、結局死にますが、その命は、主が言われるように「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(11:25)ラザロはそういう命になりましたし、そして「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(11:26)そういう命になるのです。

想像いたしますと、このあと、ラザロが主からよみがえらされて、墓から家に帰る時は、もう彼の中には主イエスがおられました。主イエスといっしょに生きてゆく。けれども、いっしょというのはどういうことでしょう。主もまたよみに下られるということでしょう。ラザロが出た、死の入口に今度は主が入られます。主が「わたしは復活である」と言われたとき、それは、主が死ぬことが前提です。
初めからあった方が、死にて葬られ、よみにくだり、我々と一緒になり、そして復活させられる。命の先導者は、ご自分をそこにささげられました。だから私どもは、その贖いの命にあるから死なないのです。

マルタは、完全ではなかったですが、言いました。
あなたがいたら、死ななかった。
でも、本当にそうなのです。
あなたがいたら死なない。
たとえ地上の死を迎えても、私どもは、あなたがいるなら死なないのです。

その方が、今マルタの目の前にいて。そして言われました。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
あなたは「このことを信じるか。」

それは、ラザロを死から呼び出すような声なのです。
あなたが求めているのは、わたしだ。

するとマルタは言いました。
「はい、主よ、
あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると
わたしは信じております。」

マルタの告白は主イエスだけになりました。あなたは神の子、あなたはキリストです。
信じるとは、主の存在を信じることです。そのとき、マルタ自身が、あなたがいてくださったら死なない、たとえ死んでも生きるという存在になりました。それは弟もそうだけれども、今、わたしと向かい合っているあなたが、わたしの命。わたしの復活なのです。

いま、教会の墓地では納骨の祈りが続いています。そこに刻まれているのはこの御言葉です。
「わたしは復活であり、命である。」

はい、主よ、と共にお答えしながら、
皆、信仰によって生きていると、
主と共に生きていると、
共に信じさせていただきたいと思います。

 

天の父なる神様
御子の命に、今、与っている私どもはあなたに最大の感謝をささげます。
私どもの主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン