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荒れ野に立ってくださるイエス

2022年9月25日

川崎 公平
マルコによる福音書 第1章12-13節

主日礼拝

■私どもが神とあがめるナザレのイエスというお方は、30歳になった頃に、突然それまでしていた大工の仕事を捨てて、救い主としての生活をお始めになりました。その救い主としての生活の、いちばん最初になさったことは、たいへん不思議なことですが、荒れ野で洗礼活動をしていたヨハネから洗礼をお受けになるということでした。そのことは、前回お話ししました。けれどもそれ以上に不思議なことは、主がヨハネから洗礼をお受けになった、そのあとすぐに、何をなさったか。荒れ野で40日間、サタンの誘惑をお受けになったというのです。

このことに関してひとつ興味深いことは、12節の最初に「それから」と書いてありますが、原文を直訳すると「そしてすぐに」と書いてあるのです。その点、新しく翻訳された聖書協会共同訳は「すぐに」という言葉をきちんと訳しています。もっともマルコによる福音書を読んでいると、この「すぐに」という言葉はまるで口癖のように無数に出てくるので、それで新共同訳はいちいち全部を訳さないことにしたのかもしれません。しかし考えてみるとたいへん興味深いことで、何があってすぐにかというと、その直前のところでは、主イエスはヨハネから洗礼をお受けになったのです。そうしたら、「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(10節)と書いてあります。そしてその天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が聞こえたというのですが、このような神の愛そのものであるかのような神の霊が、すぐさま何をなさったかというと、「イエスを荒れ野に送り出した」というのです。これは、たいへん不思議な、強烈なことだと思うのです。

「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」という新共同訳の翻訳は、少し表現として弱すぎると思います。その点でも新しい聖書協会共同訳では改善されて、「追いやった」と書いてあります。「外に投げ出す」というのがもともとの意味です。たとえは悪いですが、悪いことをした子どもを家から閉め出すように、神の霊が御子イエスを、荒れ野にたたき出した。もっとも日本にはあまり荒れ野というのはありませんが、たとえば山の中に捨てると言えば、その厳しさが少し分かるかもしれません。便利なキャンプ用品なんかひとつも持たされずに、いきなり山の中に捨てられて……「え? 食べ物は?」「虫でも食ってなさい」「じゃあ、飲み物は?」「知らん!」 それどころか、13節の最後に書いてあるように、どんな危険な野獣が襲ってくるか分からないような場所でもあったのです。そういう40日間の生活において、主イエスにとって実はいちばんつらかったことは、食べ物がないとか危険生物が出るとかそんなことよりも、「サタンから誘惑を受けられた」という、このことであったのです。そのことを、父なる神が御子イエスに強いられたのであります。

「それからすぐに、“霊”はイエスを荒れ野に追い出した」。このたいへん乱暴な表現は、もしかすると、主イエスご自身に由来するのかもしれません。つまり、主イエスご自身が、その聖霊の厳しさを忘れられなかったのかもしれません。前回もお話ししたことですが、主ご自身の洗礼のときに天が開いたとか、あるいは今日読んだ40日間の荒れ野での生活とか、主イエス以外に目撃者はいないのです。したがって、主イエスご自身がこのことを、のちに弟子たちにお話しになったに違いありません。「イエスよ、お前はまず荒れ野に行け。今すぐ行け」と言われた、父なる神の厳しさを、弟子たちにもお語りになったと思うのです。なぜ自分は、こんな荒れ野に追い出されたか。わたしの父である神がそのことを望んでおられる。ほかに何の理由もない。その父のみ旨を、改めて40日間、主は荒れ野において問い続けられたのです。

■そこで主イエスが経験なさったことは、いったい何だったのでしょうか。そこでひとつの鍵となるのが、40日間というこの数字です。この40日間というのは、明らかに旧約聖書を背景にした象徴的な数字です。たとえば旧約聖書の出エジプト記を読みますと、エジプトの奴隷であったイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野に導かれました。その途上で、モーセは山に登り、神から十の戒めを受けました。十戒と呼ばれるその言葉を、私どもも毎週ここで唱えるわけですが、40日間モーセが山の上に登っている間、山の下で待っていたイスラエルの民にとっても、サタンに誘惑される40日間となりました。金の子牛を刻んでこれを拝み、その結果、神の怒りに打たれて三千人が死んだと書いてあります。そののち、イスラエルは実に40年間、荒れ野での生活を強いられました。なぜ40年もかかったか。イスラエルの不信仰のゆえに、と言ってもよいだろうと思います。たえず、サタンの誘惑にさらされました。しかも、それはまるで、私どもの生活の姿にそっくりなのです。

ここにおられる皆さん全員が参加しているわけではありませんが、現在130人くらいが参加している聖書通読会という集会があります。130人が一堂に集まることはありません。ただそれぞれの場所で、1年間かけて聖書全巻を通読しようという会であります。10月1日から、また新しく4周目が始まります。4巡目の聖書通読会で、新しい試みを嶋貫先生が企画してくださって、それは、66人の方たちに旧約・新約合計66書についての紹介文を書いてもらうということです。創世記は誰が、出エジプト記は誰が、というように、既にすべての文書について担当者が決まったようですが、やっぱり人気のあるところと人気のないところが分かれました。最後まで余ったところ、つまり人気のないところは、必然的に牧師たちが引き受けることになるわけですが、私は旧約聖書の4番目の文書、民数記の紹介を書くことになりました。そうでしょうね、いきなり何とか族の人数は何人、何とか族は何人と、延々と人口調査の人数の報告から始まるわけで、よほど忍耐力がないと読み切れないと思うのかもしれませんが、聖書の中でもこんなに面白いところはないと私は思います。面白いと言うと、大いに語弊があるのですが、神の民イスラエルが、まさしく荒れ野において試みられた。サタンの誘惑に遭った。たとえば、民数記の第11章で、イスラエルの人びとがこういう泣き言を言っています。

「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(4~6節)。

マナというのは、神がイスラエルのために用意した、不思議な食べ物の名前であります。そのマナに囲まれながら、「エジプトに帰りたい、ファラオの奴隷であった方が、どれほどよかったか。どこを見回してもマナばかりで、何もない」。これほど神を馬鹿にした発言もないだろうと思いますが、こういう不信仰の罰として、イスラエルは40年間荒れ野で生活しなければならなかった、というのではないと思うのです。少なくとも、それだけではないのです。そういう生活をしながら、何度も不信仰の罪を犯しながら、それでも神は荒れ野においてイスラエルを導き、養ってくださって、まさにそのようにして、イスラエルは神の民として整えられていったのです。それはまるで、私どもひとりひとりの生活の姿と、本当にそっくりなのです。だから、聖書は面白い。

主イエスが荒れ野で40日間、サタンの誘惑を受けられたという、この聖書の記事は……聖書には変なことが書いてあるなあ、という素朴な感想もあるかもしれませんけれども、分かる人には分かると思うのです。私どもの生活も、どんなに豊かに見せかけていても、その真相は荒れ野でしかないかもしれないのです。サタンの誘惑が渦巻き、絶えず野獣の陰に怯えながら、神なんかどこにもいないじゃないか、エジプトに帰りたい、ファラオの奴隷になった方がずっといい生活ができると、われわれも絶えずつぶやくのです。けれども、イスラエルと同じように、まさにその荒れ野で、私どもは神に出会うのです。しかも私どもは、それどころか、まさしくその荒れ野に主ご自身が立ってくださったことを、今ここでも聞かせていただいているのです。しかし、それはいったい何を意味するのでしょうか。

■主イエスが40日間、荒れ野で何をなさったか、ひとつのことしか書いてありません。つまり、お腹がすいたとか、野獣の陰に怯えたとか、もちろん実際にはそういうこともあったに違いありませんが、福音書が伝えることはただひとつ、「サタンから誘惑を受けられた」。なぜそんなことをなさったのでしょうか。というよりも、なぜ神の聖霊は、御子イエスにそのような生活を強いられたのでしょうか。

ここまで何の説明もせずに話を進めてしまいましたが、ここで「誘惑」と訳された言葉は、「試練」と訳すこともできます。私どもが主の祈りにおいて、「我らを試みに遭わせず」と祈っているのも、同じ言葉です。つまりあの祈りも、わたしたちを誘惑、あるいは試練に遭わせないでください、わたしを誘惑し、試みる悪しき者より救い出したまえ、という祈りなのです。そういう言葉を、試練と訳すか、誘惑と訳すか、これは文脈によって使い分けるということになるのかもしれませんが、むしろ聖書がこのふたつの意味をひとつの言葉で言い表している、その意義は深いものがあると思います。誘惑と言えば甘いもの、試練と言えば苦いもの、ずいぶん中身が違うと思うかもしれませんが、その本質的な意味は、試練と言おうが誘惑と言おうが、われわれを神から引き離そうとするということです。

そういう力と、主イエスは正面から対峙してくださった。しかしいったい、主はいかなる誘惑・試練を悪魔から受けられたのでしょうか。聖書にある程度親しむようになると、荒れ野の誘惑と言えば、お腹がすいたなら石をパンに変えればいいではないか、という誘惑から始まって、具体的に三つの誘惑の内容があったことを覚えるようになります。しかしそれはマタイによる福音書とルカによる福音書の話で、マルコはそういうサタンの誘惑の内容を書かないのです。それだけに、広い意味をここに読み取ることもできるかもしれません。

主イエスは40日間も荒れ野で生活なさって、たとえばこういうことをお考えにはならなかったでしょうか。「誰か肉を食べさせてくれないものか。ガリラヤでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」。まさかイエスさまが、そんなばかなことおっしゃるはずはないと考える必要はないのであります。ヘブライ人への手紙第4章15節にこういう言葉があります。前回も読みましたが、大切なことだと思いますので、もう一度読みます。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

罪のない神の子であります。そのお方が、人間となられたのです。何も特別なところはない、頭のてっぺんから足のつま先まで、隅から隅まで100パーセント、生身の人間であったのです。それはつまり、人間としての弱さを、このお方は全部お知りにならなければならなかったということなのです。罪は犯されなかったが、ありとあらゆる点において、わたしたちと同様に、試練に遭われた。誘惑に遭われた。食欲、性欲、自己顕示欲、睡眠欲。不安、恐れ、悲しみ。いかなる意味においても、このお方はわたしたちの弱さに同情できない方ではない。そういう神の子としての生活を、既にナザレで大工をなさっていたときにもしておられたし、言ってみれば、その生活の総仕上げのような試練を、荒れ野でお受けになったのです。

当然のことですが、主イエスは、民数記も全部読んでおられたでしょう。子どものころから全部暗誦しておられたに決まっています。この荒れ野の40日の間にも、「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」と、神を侮辱するようなことまで言ってのけたイスラエルのことを、主イエスは深い同情をもって思い起こされたと思うのです。もしもそうでなかったら、主イエスはわたしの弱さのためにも同情してくださると、信じることができなくなるじゃないですか。

私どもも、今荒れ野に生きているのであります。荒れ野というのは、いろいろな意味で、人間の生活には都合が悪いのです。もちろん私どもは誰だって、少しでもよい生活をしたいと願っております。けれども、何をどう改善したところで、いつまでたっても悪魔の誘惑、試練がなくなることはないし、それに負けたときのみじめさを、私どもはよく知っているのです。だがしかし、そんな私どもを救ってくださる救い主が、荒れ野に立ってくださったのです。サタンの誘惑の中に、神がイエスを追いやってくださったのです。生身の人間として、であります。

■ところで皆さんの中で、ずっとこの言葉が気になっているのに、なかなか触れてくれないと、じりじりしておられる方があるかもしれませんが、「その間、野獣と一緒におられたが」と書いてあります。なぜここで突然、野獣が出てくるのだろうか。マタイ福音書やルカ福音書に比べて、マルコは極めて簡潔に書いていると申しましたが、実は野獣の話を書くのは、マルコだけなのです。それだけに、深い意味を込めてマルコはこの言葉を書いたとも考えられますが、それが分かりにくい。単純に考えれば、荒れ野には危険な生き物がたくさんうろついていたが、そこはやはり神の子、天使たちが守ってくれたので、何もこわくはなかった、ということになりそうですが、もうひとつこういう解釈があります。多くの人が、ここでイザヤ書第11章を思い起こします。クリスマスにもよく読まれる箇所です。ちなみに新共同訳はそこに「平和の王」という小見出しをつけていますが、まさしく平和をもたらす王が現れる。そのときに何が起こるか。

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。(1、2節)

狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。(6節)

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。(8節)

どんなに荒々しい獣も、人間と平和に共存できるようになる。主イエスの荒れ野の生活は、このイザヤ書の預言の成就であると読むことができるのだ、と言うのですが、けれどもそこで、なーんだ、野獣がいたって大丈夫じゃん、と読み過ごすわけにはいきません。時間がないので一足飛びに申しますが、このマルコ福音書が結局のところ語ろうとしていることは、このイエスというお方が、野の獣に悩まされたなんて話ではないのです。そうではなくて、まるで野獣のようにたけり狂った人びとの叫びの中で、十字架につけられなければならなかった。まさにそのことを、ここで忘れるわけにはいかないのです。

神の霊が、イエスを荒れ野に追い出した。そういう乱暴な表現が用いられていると、最初に申しました。父なる神が、御子イエスにそういう厳しい仕打ちをなさったのであります。神が、御子イエスを野獣の中にたたき出して、40日間、そこから出てくるな。その父なる神の厳しい姿勢は、御子イエスの十字架の死に至るまで、一貫して貫かれたのです。やがて主イエスは、十字架につけられて殺される。その前の晩に、主イエスは血の汗を流しながら、お父さん、こんな死に方だけはいやですと、徹夜の祈りをなさいました。まさにそこでも、主イエスは誘惑と戦っておられたでしょう。本当は、神のみ旨になんか従いたくない。自分の好きなようにしたいんだ。今からでも踵を返して、エジプトに帰りたい。ナザレに帰りたい。それでも最後には、誘惑に勝って、神の御心に従って、十字架の苦しみを担われました。その十字架の周りには、それこそ野獣と化した人びとが、「イエスを十字架につけろ、イエスを十字架につけろ」と叫び続けたのですが、既にこの荒れ野において、イエスは野獣と一緒におられた。そのイエスのために、天使たちも仕えていたと言うのです。すばらしい望みを告げる幻ではないでしょうか。あのイザヤ書が、「狼は小羊と共に宿り」と書いたのは、実は、神が私ども罪人と共にいてくださるという意味だったのです。

■そのような主イエスの荒れ野の生活は、同時に、天使たちの助けを得た生活であったと言います。主イエスは、野獣と共に荒れ野に立ってくださった。まさにその生活を、天使たちが助けてくれたと言うのです。これは、主イエスの荒れ野での生活の値打ちを下げることにはなりません。その厳しさを和らげることにもならないと思います。荒れ野に追いやられた主イエスは、とことん悪魔の誘惑と戦わなければならなかった。そこには、何の手加減もなかったのですが、だからこそ天使たちの助けがあったということを、私どもは肝に銘じなければならないと思うのです。なぜなら、私どもも今荒れ野にあって、悪魔の誘惑・試練に取り囲まれて生きているからです。

私どもも〈主の祈り〉という祈りを教えられて、神よ、どうかわれわれを試みに遭わせないでください、悪より救い出したまえと祈るのですが、一度でもいいから、その試みの内容を、自分自身にとっての誘惑を、試練を、具体的に口に出してみるとよいと思います。神よ、わたしは今こういうことで誘惑されています。食欲、性欲、自己顕示欲、不安、恐れ。家族のこと、隣人のこと、職場でのこと、あるいは教会でのこと。何でもいいのです。自分をつまずかせようとする誘惑・試練の内容を、具体的に言葉にしてみるとよい。そうすると、私どもが悪魔の誘惑というものに対してどんなに無力であるか、かえってよく分かるかもしれません。しかもこういうことは、めったなことでは他人に言うわけにいかないのです。気軽に人に話せるようなことなら、それは大した誘惑ではありません。ひとりで戦うほかないのです。けれども、そういう戦いを神が見守ってくださる。天使たちが助けてくれる。何よりも主イエスが、その荒れ野の生活を共にしていてくださるだとすれば、こんなに心強いことはありません。

弱い私どもであります。だからこそ、このような救い主イエスが、荒れ野に立ってくださらなければならなかった。その神の確かなみ旨を思いつつ、今新しい思いで、私どもひとりひとりに与えられた生活を誠実に果たしていきたいと、心から願います。祈りをいたします。

 

私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる御神、今も荒れ野を旅する私どもを顧みてください。罪に悩み続けるこの世界であることを、私どもひとりひとりの生活も常に試練にさらされていることを、あなたもよくご存じです。御使いの助けを信じ、何よりも御子イエスが共にいてくださる事実に慰められながら、なお残る罪との戦いに耐えさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン