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愛を求めて

2022年9月18日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第14章1-19節

主日礼拝

私たち教会に集められた者は、神さまの愛を追い求めます。それは、神さまを愛し、同時に隣人を自分のように愛していくことです。そして、その愛を神さまから受け取った者として、その愛を世界に伝えていく群れです。

今日私たちが聴いた新約のみ言葉、コリントの信徒への手紙一は、イエスさまの弟子である伝道者パウロたちが記した手紙です。手紙の相手は、コリント教会は、パウロたちがイエスさまのことを伝えた、生まれたての教会です。

コリント教会には問題や課題がありました。パウロたちはそれが解決に導かれ、さらにコリント教会がしっかりと建て上げられていくようにと、この手紙を綴っていたのです。

今日私たちが聴いた箇所は、第14章の前半でした。第14章は、ある言葉から始まります。

 「愛を追い求めなさい」。

実は、この箇所の直前、第13章では愛について記されていました。コリントの信徒への手紙一のクライマックスの一つとも言える、有名な言葉が連ねられていました。

「神さまから頂いた様々な賜物、ギフトのうち、最も偉大なものは、愛だ。それこそが、私たちに示された最高の道だ」、と伝えられていたのです。「愛が無ければ、教会の皆に与えられた賜物は、どれも意味を成さないほど、大切なのが、愛なのだ」、と伝えていたのです。

そして、今日の箇所においては、その愛を追い求めるように、と伝えます。その上で、パウロは愛の次に大切な神さまからの賜物は何か、つまりはナンバー2は何かを伝えていきます。

愛の次に大切な神さまからの賜物、ギフトは、預言だ、とパウロは伝えます。

 「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」

預言、それは神さまからの言葉を伝えることです。

預言は予言とは書かれません。

預言者、旧約の時代からずっといた。聖書を読むと、神さまから支えられて、霊を送られて、熱狂的に、神さまの預言を伝える信仰者の姿が記されています。あるいは、神さまに聴き、祈り続け、その言葉を預かり、人々に伝えていく預言者が記されています。

最大、究極の預言者は、イエスさま。

では、神さまからのどんなメッセージを伝えたか。

すごくはっきりとした言い方で言うと、それは、「わたしはあなたたちを愛している。」という神さまの思いとメッセージです。

そしてそのイエスさまの後の時代の預言とは、そのイエスさま自身を伝えること、となります。「イエスさまはその愛を実現するために、私たちの代わりに十字架にお架かりになるまでしてくださった」。そこまで「神さまは私たちを愛している」、それを伝えるのが預言です。そして、その預言が、教会というこの群れに与えられていることなのです。

教会に与えられた神さまからの賜物として預言を伝える時、パウロはどうしても神さまからの愛を伝えなければなりませんでした。そして、「愛を追い求めなさい。」という言葉と共に、愛を追い求めていく教会の次の目的として、預言を伝えたのです。

その預言に対して語られるのは、異言です。

異言も、預言と同じような面があります。神さまに向き合い、主の聖霊に満たされて、熱狂的に恍惚状態となり、神さまの言葉を語り伝え、祈りと賛美の言葉なのです。しかし、大きな違いは、その言葉が他の人には分からないということです。

パウロは異言より、預言の方が大切なのだ、と伝えるのです。

2-5

これらのことから、当時のコリント教会の問題がどんなものだったかを推察することができます。それは、礼拝の中で異言が大切に用いられていたということと、その異言によって、信徒の中で優越争いも起こっていたということ。そして自分たちだけが満足する礼拝になっていたのかもしれない、ということです。

礼拝の中で、多くの人が同時に異言を語り、神さまに向かって語っていた。そうすると、軽い混乱状態になる。そして、「今日の礼拝、私すごく神さまと異言ができました。」とか、「あの人の異言、すごかったね、さすがよく神さまの子と学んでいるね。」といったような会話が、もしかしたら起こっていたかもしれません。しかし、その一方で、礼拝で本来語られるはずの神さまからの預言、言葉が、教会の人にも、新しく教会に来た人にも伝わらずに礼拝が終わってしまっていた。「神さまとはこのような方で、イエスさまはこのように地上の生涯をいきてくださったのだ」「それほどまでに神さまは私たちを愛して、イエスさまは私たちを救ってくださったのだ」と伝えることができなくなっていた。

ここで確認したいことは、パウロ自身は異言も語ることができたし、異言もまた大切な神さまからの賜物である、と伝えていることです。今も、私たち教会の群れにおいて、異言が語られることや聞くことがあるかもしれません。

ただし、異言に加えて、教え解き明かすことがなければそれは教会を建て開けることにならない、と、パウロは伝えるのです。9節からそれが記されています。そして、12節。教会が造り上げられていくことが、目的となっている。世界の、愛に飢え、悲しみ、不安をどこかで抱えている友が、集い、教会がさらに造り上げられていくこと、それが教会の目的なのだと、伝えるのです。

私たち教会の歴史でも、そのような誘惑に苛まれた経験があります。かつての教会の歴史で言えば、中世のヨーロッパでは、普段使わない言葉で礼拝をささげ、語学の知識のない者は聖書の言葉がまっすぐに伝わってこなかった時代もあります。そのような中で、改革が起こり、プロテスタントが生まれました。またカトリックでも改革が起こり、世界に宣教していく祈りが新たに起こっていき、その宣教がここ日本にも届いたのです。

また、私たちも、自分たちだけが満足する礼拝を求めてしまうことがある。教会が建て上げられていくために、私たちに何が必要なのか、改めて問い続けていくことが必要です。鎌倉雪ノ下教会も、ただ維持するためだけではなく、さらにイエス・キリストの体である教会を、この鎌倉の地に、日本の地に、世界に建て上げていくために、祈ります。どのようなことを神さまが私たちにお望みなのか、それを、聖書から、み言葉から聴いていきます。

今日は、旧約のエゼキエル書の言葉も聴きました。エゼキエル、イエスさまがこの地上にお生まれになる、600年近く前に生まれた人です。そして、彼も、預言者として神さまにお仕えして、神さまの言葉を伝えました。

今日共に聴いたのは、そのエゼキエルが神さまから召し出されて、預言者として遣わされた出来事です。

預言者は言葉の働きをします。神さまは、他の預言者にもしてくださいますが、エゼキエルにも口に関するやり方で、その言葉を預けていく備えをしました。巻物のこと。

そして、エゼキエルは遣わされます。それは、今はかつて住んでいたイスラエルの地から追われ、バビロンの地に捕囚されていたイスラエルの民のもとに、です。

エゼキエルが遣わされるのは、外国ではありません。同じ言葉を持つ、同胞、仲間のもとへ、なのです。だから、言葉は問題なく伝わるはず。しかし、神さまはつらいことをあらかじめ告げます。それは、イスラエルの民は、頑なになっている。固くなっている、あなたの言葉を聴かない、ということです。

預言者の大変さはここにあります。これから、エゼキエルは、その不信仰の仲間たちに、それでも神さまの言葉を伝えていくこととなるのです。しかし、神さまは、エゼキエルもまた支え、預言を続けられるように、と力をくださる、固くしてくださるのです。

それほどまでに、神さまはその民のことを、愛し続けていてくださった。そして、その民を通して、人間を救おうとなさっていた、人間を愛し続けてくださっていた。何があっても、どれほど私たちが神さまから離れて、神さまの言葉を受け取れないほど固くなっていても、その私たちにメッセージを伝えようとしてくださった。

エゼキエルが神さまの言葉を伝え、民は希望を持ち、生き残ることができました。その民の子孫に、父なる神さまはその独り子、イエスさまをお遣わしになります。

頑なで、神さまの言葉を聴くことができなかった私たちに、その愛の言葉をつたえてくださいました。そして、私たちが離れ神さまを拒んでしまうその罪を許して、神さまと父と子として向き合えるようにしてくださいました。十字架にお架かりになって、その罪を代わりに背負ってくださることで。そして、復活してくださり、私たちに新しい希望をしめしてくださいました。私たちの鉄のような、固い心を、打ち砕き、新しい、血の通った心へと変えてくださいました。

教会はそのようにイエスさまの愛で変えられた群れです。エゼキエルの時代の信仰者たちの状況から、イエスさまによって変えられたのです。そして、私たちはさらに、そのイエスさまの体である、イエスさまという幹に連なるブドウの木である、教会を、さらに建て上げていけるように、祈ります。その枝がさらに世界へ広がるようにと、祈ります。

今日も、多くの方が、この礼拝に集っています。教会に通い続けたことがまだない方も、初めて集った方もいるかもしれません。教会はその方々にも、また、まだここに集ったことが無い、この地の友にも、伝えていくのです。神さまから預けられたメッセージを、「わたしはあなたがたを愛している」。その愛を伝えてくださったイエスさまの言葉を、その十字架と復活の救いを、伝えていきましょう。そのようにして、愛を追い求めましょう。