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人生の免許皆伝

2022年8月14日

川崎公平
フィリピの信徒への手紙 第4章10-14節

主日礼拝

 

■今月から、小・主礼拝において久しぶりに詩編の交読を再開することができました。コロナ感染症が始まったときに、礼拝の時間を最小限に短縮した結果、詩編の交読も省略してしまったわけですが、今改めて思うのは、詩編というのは私どもの教会に与えられた大きな宝だということです。これは雪ノ下通信7月号の牧師室だよりにも書いたことですが、8月の日曜日の礼拝で読む詩編の箇所を、私はかなりウキウキしながら決めました。それで今日の礼拝では、フィリピの信徒への手紙の第4章10節以下を与えられて、私は迷うことなく詩編第23篇を選びました。150ある詩編の中でも、もしかしたらいちばん多くの人に愛されているのが、この詩編第23篇であるかもしれません。その中でもいちばん強く私どもの心を捕えるのは、その最初の行だと思います。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主なる神がわたしの羊飼いでいてくださるから、わたしには、何も足りないものはない。わたしの人生に、不足するところはひとつもない。本当にすべてが十分に、十二分に与えられた。主がわたしの羊飼いでいてくださるから……。本当にこう言えたら、どんなにすばらしいかと思いますし、いや、実際にはなかなかそうは言いにくいということはよく分かった上で、むしろだからこそ、このような歌が私どもに与えられている、神がこのような歌を私どもに与えてくださっている、その重大さを思わないわけにはいかないのです。

パウロがここで語っていることも、この詩編第23篇と響き合うものがあると思います。特に11節の、その後半からです。

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です(11~13節)。

わたしはどんなに貧しくても、あるいは逆にどんなにお金持ちになっても、決して動かされることはない。主がわたしの羊飼いでいてくださるから。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」、わたしにできないことは何もありません、とまで言うのです。本当に、こういうふうに言えたらどんなにすばらしいかと思いますし、しかしなかなか現実にはそうもいかないんじゃないかと思ってみたり、ここまで来ると、パウロという人はちょっとおかしいんじゃないかと考えてみたり、いろんな感想があり得るかもしれません。「パウロはちょっとおかしい」などと言うと、礼拝の説教の言葉としてそれこそおかしいと思われるかもしれませんが、実際にそういう感想を正直に述べる聖書の学者たちも少なくないのです。

■ここで具体的に問題になっていることは、新共同訳聖書にも「贈り物への感謝」という小見出しがついていますが、フィリピの教会が、牢獄に捕らえられていたパウロのために、必要な物資をいろいろ送ったということです。もともと、この手紙が書かれたひとつの理由は、牢獄に入れられたパウロのために、フィリピの教会がたいへんな援助をした、愛のわざをもってこれを支えたということがありました。今日読んだところのすぐあとの15節からも分かるように、フィリピの教会だけがパウロを助けたらしいのです。生活に必要なもの、食料とか衣服とか、いろんなものを届けて、しかもそれに携わったエパフロディトという人が、しばらく牢獄でパウロの生活を支えるために一緒に生活までしたらしい、という話を以前にもしたことがあると思います。そんなフィリピの教会の存在は、パウロにとって、何ものにも代えがたく、ありがたいものであったに違いありません。

けれども、そういうことを考えながら改めて10節以下を読み直してみると、ちょっと複雑な気持ちになるかもしれないのです。たとえば10節。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」。あなたがたは、わたしに対する心遣いを、ようやっと表してくれたね。これまでは、何も助けてくれなかったけれども、まあ、それは、たまたま機会に恵まれなかったんでしょう。……何だか、取りようによってはずいぶん皮肉っぽい物の言い方です。もうちょっと素直に「ありがとう」とか言えないのかね、この人は? と、思わないでもありません。11節以下もそうです。わたしは、貧しくても豊かであっても、満腹していても空腹であっても、別に平気なんですけどね、と言うのですが、それはいくら何でも、フィリピの教会がどんなに苦労してパウロ先生を支えようとしたか、その気持ちを踏みにじるような発言ではないかと、嫌な気持ちになる人がいても不思議ではありません。

しかしそこで、あまり急いでパウロを批判する前に、まず自分自身のことをよく考えてみた方がよいかもしれません。人からものをもらったり、逆に誰かに何かをあげるということは、簡単そうに見えて、実はなかなか難しいことです。何かをもらってうれしくない人はいないだろうと思いますが、実際にはそんなに単純な話ではありません。ちょっと人に親切にしたからって高慢になったり、もらったらもらったで卑屈になったり、十分なお返しができないことを悩んだり、「いいよ、いいよ、お礼なんか気にしないで」と口では言いながら、自分がこれだけの犠牲を払ったのに、何の見返りもないじゃないかとよこしまな思いを抱いたり……案外私どもは、ものをあげたりもらったりということが、たいへん下手くそなところがあると思います。

そういう複雑な関係が、まさにこの手紙の背後でも起こっているように、牧師と教会員との間でも起こるかもしれないのです。つまり、フィリピの教会がパウロを支えたように、教会が牧師の生活を支えるという場面で、複雑な心の動きが生まれるかもしれない、ということです。この牧師の生活を支えるために、いったいわれわれは、どれだけのものをささげなければならないのか。そこに生まれる複雑な心の動きが、しばしば教会を不幸にしてきた歴史がないわけでもありません。

まさにそのようなところで、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という信仰に立ち続けることが、実は意外と、大切なことだと思うのです。言うまでもないことですが、パウロはここで、フィリピの教会に対して皮肉を言ったり、不平をこぼしたりしているわけではありません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という信仰にしっかりと立ちながら、その恵みの外に一歩も踏み外すことなく、その上で、フィリピの教会からの愛のしるしを、パウロは喜んで受け入れたのです。そしてそのときに、パウロという人がどういう信仰の言葉を綴っていったのか、それを私どもも心して読み取りたいと思うのです。

■そこでまず鍵となる言葉は、11節の最後に、「満足することを習い覚えたのです」とあります。「習い覚えた」というのですから、つまり、知らなかったことを後から新しく学んだということです。聖書によく出てくる「弟子」という言葉も、この動詞に由来するもので、弟子というのはつまり「学ぶ人」ということです。生まれつき知っているようなことではない、そのことを本能的に最初から知っている人はいない、そうではなくて、場合によっては誰かのところに弟子入りしてでも、きちんと学び取らなければならない。そういう事柄があるということです。

何を学び取るのでしょうか。「満足すること」と書いてあります。古代ギリシア哲学の一派にストア派という、一種の禁欲主義を旨とする学派がありました。この人たちが大切にしたのが、「満足すること」という、この言葉です。高校の倫理とか世界史の教会で、アウタルケイアというギリシア語を覚えさせられた方もあるかもしれませんが、どんなことにも満足する、どうでもいい欲を抱かず、不平を言わないということです。自分が貧しかろうが豊かであろうが、そんな外的な環境にいちいち惑わされることなく、自ら足ることを知って生きる。そのような境地こそ、人間の最高の幸せであると、ストア派の人たちは考えました。言われてみれば、一理あるかもしれません。逆に、自ら足ることを知らないで、あれが足りない、これが足りない、あの人のせいだ、何かのせいだと、いつも不満ばかりため込んで生きる生き方というのは、決して幸せな人生ではないし、そういう不満の塊のような人間というのは、実は周りの人たちにとっても非常に迷惑になることが多いと思います。

その関連で、もうひとつここでパウロが用いている少し特殊な言葉は、12節の最後に出てくる「秘訣を授かっています」という表現です。ある人はこの言葉を「免許皆伝」と訳しました。この言葉は、もともと当時の密儀宗教で使われた言葉だと言われます。密儀宗教というのはつまり、特別な資格を持つ人だけが入会を許される宗教ですね。少し前にオウム真理教というたいへんいかがわしい宗教が世間を騒がせたことがありましたが、あれもまあ、密儀宗教のひとつの形式だと言えるかもしれません。特別な修行をしたとか、悟りを開いたとか解脱したとか、そういう人だけが、免許皆伝と認められて、いわゆるイニシエーションを経て、その集団の一員となるということです。

パウロはここで、そのような特別な用語を用いながら、自分は免許皆伝の人間なんだ、貧しくても豊かであっても、物が有り余っていても不足していても、どんな境遇にも満足する境地に達したのだと言うのですが、このようなことだけを強調すると、皆さんを誤解させてしまうかもしれません。パウロはここで、自分だけが別格の人間であると言おうとしているわけではありません。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)。わたしを強めてくださる、主がおられるから。主がわたしの羊飼いでいてくださるから、だから、わたしには何も乏しいことはありません。ただ、それだけなのです。

ただそれだけのことを、だがしかし、最初から分かり切っている人は、ひとりもいないのです。そうではなくて、先ほども申しましたように、誰かに弟子入りしてでも、新しく学び取らなければならないなのです。私どもは、主イエス・キリストの弟子です。私どもは、このお方から教えていただきました。主が羊飼いでいてくださるなら、私には何も欠けることがないことを。天の父がわたしの父でいてくださるなら、明日のことを思い煩う必要もないことを。それをパウロはここでも言うのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です!」

■既にいろいろな形で報告をしましたが、8月5日金曜日から6日土曜日にかけて、教会学校の小学科の夏期学校を、当初の予定を変更して、教会堂にお泊まりをする形で行いました。御殿場まで出かけて2泊3日という予定を断念しなければならなかったのは、残念と言えば残念ですが、私どもの思いにはるかにまさる恵みを与えられたと思います。

夏期学校の最後の時間に、子どもたちがひと言ずつ、いちばん楽しかったことを発表してくれたのですが、人数もそれほど多くなかったので、大人たちも同じように、いちばん楽しかったことを発表しました。私の番が回ってきて、少し迷ったのですが、「小学生男子がはしゃぎまわっている姿を眺めていることがいちばん楽しかった。まるで40年前の自分をそのまま見ているようだった」などと言いました。男の子4、5人が、延々と鬼ごっこをしたりかくれんぼをしたり、ひたすらじゃんけんを繰り返したり、冷静に考えると何が楽しいのかと思いますが、そんな小学生男子の姿を見て、おかしなことのようですが、本当に感動したのです。

感動したついでに、夏期学校の最後の礼拝で、私が説教をしたのですが、こんな話をしました。自分もこんな感じで教会学校で育って、泊まりがけの夏期学校にも何度も参加して、正直なところ、聖書の勉強とかをさせられたのは本当にいやでいやでしかたがなかったけれども、お友達とはしゃぎまわったり、お兄さんお姉さんに遊んでもらったり、そういう思い出は何にも代えがたいもので……これを少し大人向けの言葉で言い換えると、自分が根本的に受け入れられていることを、体で学ぶことができたと思っています。そんな自分が大人になって、自分を受け入れてくれたその教会というのが、実は他の誰のものでもない、イエスさまの教会なんだということがよく分かったから、イエスさまを信じるようになりました。

たいへん傲慢な言い方にも聞こえてしまうかもしれませんが、そのような経験を通して、私もまた免許皆伝の生き方を体得させていただいたと思っています。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言うのですが、別にそれは、武士は食わねど高楊枝、というような話ではないのです。貧しい自分を喜んで受け入れることができるし、豊かなら豊かなりに、神の恵みの中に立ち続けることができる。神がわたしを受け入れてくださっているのですから、主イエスがわたしを愛してくださっているのですから、ただそのゆえに、ありのままの自分の存在を喜んで受け入れている人間というのは、特別な強さを持っていると思うのです。

先週、私は48歳の誕生日を迎えました。私自身の話として聞いていただきたいと思いますが、年をとればとるほど、自分の欠点や貧しさ、罪深さを、ますます自覚するようになるものです。何とか克服したいと思わないわけではありませんが、人間というのは思いのほか進歩しないものです。けれども、そんな自分が罪を赦されて、神に受け入れられていることを、毎日新しく学ばせていただきながら、「主は羊飼い。わたしには、何も足りないことはありません!」と言うことができるのです。逆に言えば、もし、神に赦していただいていることが分からなければ、そのような意味で神に対して傲慢な人間というのは、決して「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも」知ることはできないと思います。自分の置かれた境遇とか、自分自身の貧しさや欠点に、いちいち自分自身でケチをつけながら、もっといいものがほしかった、自分にはもっといい人生が与えられてしかるべきなのに、なんでだ、としか思わないでしょう。けれども、神によって罪を赦され、根本的に受け入れられた人間は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という、確かな場所に立つことができるし、そのようにありのままの自分を受け入れている人間、自分の人生を感謝して受け入れている人間は、それと同時に、他人をも受け入れる力を与えられるはずだと思うのです。自分の目の前に現れる、いろんな欠点や罪深さを持った隣人を、神の恵みのゆえに、受け入れることができるのです。

■そのような観点から、改めて10節以下を読み直してみると、むしろここでパウロは、フィリピの教会の心遣いを、本当に広やかな心で受け入れていることに気づかされます。ここでもうひとつ注目したい言葉があります。10節に「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを」と書いてありますが、この「表してくれた」と訳されている言葉は、直訳すると「花が開いた」という表現です。あなたがたのわたしに対する思いが、遂に再び開花した、満開になったと言うのです。こういう色彩豊かな表現は、なるべく直訳してほしいと思わないでもありません。パウロは灰色の牢獄の中で、自分の前後左右上下、どこを見回しても、愛のかけらも見出すことができないようなところで、愛の花が咲くのを見たのです。

考えてみれば、パウロは信仰を理由に捕らえられているわけですから、そういう人のために何かをするというのは、決して容易なことではありません。ですから最初に申しましたように、10節の後半で「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」と言っているのも、決して皮肉などではなくて、本当にやむを得ないことだと思って書いたことでしょう。しかもこういうことは決して私どもにも他人事にはならないので、私どももしばしば、人との愛の交わりが枯れる経験をすると思います。肉親であっても友人であっても、どうしてこんなに愛が通じ合わなくなってしまったんだろうと思うことがあります。「思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」。旧約聖書のコヘレトの言葉第3章にも、「すべての出来事には時がある」と書いてあります。「生まれる時、死ぬ時」(2節)、「愛する時、憎む時」(8節)、けれども、時が来なかったら、どうしようもないじゃないか。「人が労苦してみたところで何になろう」(9節)とコヘレトの言葉も言うのですが、そのようなところでもしも真実の愛の花が咲くのを見出したならば、それは神が用意してくださった時なのだと言わなければならないのです。ある人は、このフィリピの信徒への手紙について、「この手紙は、愛のない世界の中で、愛の花を見出した人の書いた手紙である」と言いました。本当にそうだと思うのです。

言うまでもないことですが、パウロがフィリピの教会からの支援を受けたとき、ただ飢え死にしないですんだ、助かった、という次元で喜んだのではないのです。まして、心を砂漠のようにして、悟りきった宗教家のように、貧しくても平気なんだ、と言ったのでもないのです。砂漠のような場所に愛の花が咲くのを、パウロは見たのです。だから、わたしは生きることができる。わたしのことを思ってくれる人が、そういう教会がこの地上に存在するということは、それほどの重みを持つのです。

そのような、フィリピの教会の愛に感謝しつつ、何よりも、主がわたしの羊飼いでいてくださる、その恵みの中にしっかりと立ちながら、11節以下でパウロは言うのです。わたしは貧しさの奴隷にはならない。豊かさの奴隷にもならない。主が、わたしの羊飼いでいてくださるから、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。そのような恵みの上に築かれた伝道者と教会との関係は、金銭的・物質的な援助があったかなかったか、そんなことで崩れるような、やわな関係ではなかったのであります。主が、わたしたちの羊飼いでいてくださるから……。

その上で、14節ではこうも言うのです。「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」。そのパウロとフィリピの教会が共にする苦しみに、もちろん、主イエスご自身も伴ってくださったのであります。まさしくここに、私どもの姿が描かれている。主と共に歩む鎌倉雪ノ下教会の姿が、ここに描かれていると信じることができるなら、こんなに幸いなことはないと思います。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、あなたが私どもの主でいてくださるから、私どもには何も乏しいことはありません。死の陰の谷を行くときも、あなたがわたしと共に歩んでくださるのですから、何もこわいことはありません。どうかこの教会を、そのようなあなたの愛の花咲く場所としてください。愛に裏切られることの多い私どもを、憐れんでください。貧しくても豊かであっても罪を犯しやすい私どもを、どうかあなたの愛の中で解き放ち、わたしも愛に生きることができると、望みに向かって立ち上がることができますように。主のみ名によって、感謝し、祈り願います。アーメン