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神よ、平和をください

2022年8月7日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第4章4-9節

主日礼拝

■今日の説教の題を、「神よ、平和をください」といたしました。「神よ、平和をください」という、この祈りをひとつに集めながら、8月第1日曜日の礼拝を共にしたいと思うのです。これが人類共通の願いであることは間違いのないことだと思いますし、今日読んだフィリピの信徒への手紙第4章7節にも、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と書いてあります。さらに9節にも、「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」と、同じことを繰り返すのです。

こういう言葉を読みながらも気づかされることは、私どもがどんなに平和というものを慕い求めているかということです。いやむしろ、神が私どもに与えたいと願っておられるその第一のものは、平和であるということに、ここで気づかされるのです。平和がほしい、自分の生活が平和であってほしいと願わない人はいないのです。たとえ国と国とが争っているような時でさえ、これは平和を実現するためにどうしても必要な戦争なんだと信じて疑わずに、何年も、時に何十年も軍事的な争いを続けることだってあるだろうと思います。

8月という月は、その意味で、私ども日本人にとっては、やはり特別な月だと思います。平和のありがたさを思うと同時に、その平和というものが、実はどんなに不安定なものでしかないか、そのことを今改めて、心もとなく思うのです。そのようなところで、今私どもはみ言葉を聞きます。

■伝道者パウロの書いた、フィリピの信徒への手紙を礼拝で読み続けてきましたが、前回読んだ箇所とほぼ重なるところを読みました。「主において常に喜びなさい」とか、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」とか、「何事につけ、感謝を込めて、すべての祈りと願いを神に打ち明けなさい」とか、そういう生き方ができたらいいな、と思わないでもないのですが、他方から言えば、こんなに難しいこともないのです。ただそこで私どもが気づいていなければならないことは、これらの勧めというか命令はすべて、実は、私どもが神の平和をいただくためのものであったのです。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたを守る。あなたの心も考えまでも、神の平和の中で守られているんだ」。

その上で、8節では「終わりに、兄弟たち」と言うのです。「終わりに」というのはつまり、それまで語ってきたことを総括するように、あなたがたは神の平和によって守られているんだから、完璧な平和の中で、完全に守られているんだから、だから今は、こういう生活をしなさい。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」。こういう生活をしたら、初めて平和をいただくことができますよ、ということではありません。神の平和は、キリストによって救われて、既に根本的に与えられているのです。イエス・キリストに救われて、その主キリストの中で、常に喜ぶのです。主がいつも近くにおられることを知って、思い煩いを捨てるのです。どんなことについても、求めていることを何でも神に打ち明けるのですが、その祈り願いの根本には、いつも感謝があるのです。そしてそのとき、私どもがいつも知っていることは、平和の神がわたしと共にいてくださるのだ、ということです。そのことを知った上で、今私どもがどういう生活をするか、というのが8節以下の内容です。

ところが、その8節以下に語られることは、もしかしたら皆さんにとっては、何だか印象が薄いというか、頭に入ってこないというか、そういう感想もあったかもしれません。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと」というのですが、まあなんと申しますか、神なんか信じていなくたって、誰だって言いそうなことが書いてあります。実際、ここに列挙されていることは、別に聖書だけが教えていることではないと、どの聖書学者も申します。そうすると、たとえば私のような説教者がまず困るわけで、何を説教したらいいんだか、話のネタに困る。いや実際、本当に少し困ったんですけどね……。しかし、よく考えてみて、改めて思いました。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」。神を信じることなしに、これらの徳を本気で受け止めることができるでしょうか。あるいは、こう言い換えてもいいのです。私どもは、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと」、そういったことを、僅かでも逃してはならないというような生活を、実際にしているでしょうか。それが実際にできていないとすれば、それはなぜでしょうか。

■昨日8月6日は、広島に原爆が落とされて、77年の記念日でした。そして明後日8月9日は、やはり長崎に原爆が落とされた日です。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと」。核兵器などというものは、そこからいちばん遠いところにあるものだと言わなければならないでしょう。77年前、広島と長崎で現実に、実際に、何が起こったのか、その後何が起こり続けているのか、その悲惨な現実をきちんと直視すればするほど、核兵器というのは決して、気高いことでも正しいことでもない、清いことでも愛すべきことでもないと、明確に言わなければならないと私は思うのです。

けれども今、より正確に言えばこの5か月ほどの間に、やはり日本も核兵器を保有した方がよいのではないかという議論が高まっていると思います。平和主義とか戦力の放棄とか、きれいごとでしかない。何のことはない、アメリカの核の傘に守られているだけじゃないか。そのアメリカだって、いざとなったら頼りになるかどうか、何の保証もないじゃないか……。

こういうことについて、延々と議論するつもりはありません。教会の礼拝は、そういう議論をするための場所ではないからです。ただ私は個人的にこう思うのですが、日本も核戦力を持つべきだという考えは、人間として実に自然なことだと思うのです。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと……」、いやいや、そんなお花畑で夢を見るような話をされたって、話にならないよ。右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさいとか、まさかそんなこと言わないよね? もしも神を信じなかったら、結局はそういうことにしかならないと、私は思うのです。

けれどもここでパウロが、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、そういうことをすべて心に留めなさい」と言っているのは、信仰がなくたって誰もが自然と受け入れるはずの生活道徳を語っているのではないのです。そうではなくて、既に根本的に神の平和の中で守られている人間が、だからこそ可能になるような生活の姿を語っているのです。もしも神の平和がなかったら、本当は誰もこんな生活をすることはできないのです。

■「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(6節)。どんなことでも、です。私どもが、たとえば真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いことなどに立ち続けることができなくなる理由があるとするならば、その第一の理由は、何と言ってもまず思い煩いではないでしょうか。きれいごとは分かるけど、建前は分かるけど、でも、これがこうだから、あれがああなったらああだからと、私どもはどこまでも思い煩い続けるのです。だから、「すべて真実なこと、すべて気高いこと」などと言っても、〈きれいごと〉のひと言で片付けられてしまうのです。だがしかし、7節の「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあるのが、もしも、これが嘘でなかったら、どうでしょうか。9節には、「平和の神が、あなたと共におられる」とも書いてありました。神が共におられるということが、きれいごとなどではなく、本当のことであるなら、思い煩うのをやめることはできないでしょうか。

「神の平和が、あなたがたの心を考えとを守る」と言うのですが、この「守る」と訳されている言葉は、軍事的な意味でも用いられることの多い言葉で、その場合は「防衛する」というよりは、「見張る」という意味になります。見張りの兵隊を立たせたり、今はレーダーか何かでミサイルが飛んでくるのを見張ったりもするのかもしれません。以前にもお話ししたことがありますが、フィリピという町はローマ帝国の中でも特別な位置を与えられた都市で、ローマの兵営がありました。帝国の平和を守るために、いつもローマの軍隊が町の平和を見張っていたのです。ですから、他の町では比較的自由に悪さをすることができたならず者がいたとしても、フィリピの町では何もできない。フィリピの町の人たちは、頼もしい軍隊が町を守っている、見張っているということの意味を、身をもって知っていたのです。ところがそういうフィリピの人びとの心に語りかけるように、それ以上にはるかに確かに、神の平和がわれわれを守ってくれているじゃないか、と言うのです。いつも思い煩ってばかりいるあなたの心を、けれども神の平和が、キリスト・イエスの中でしっかりと守ってくださるのだから、どうかそのことを、今一度真剣に考え直していただきたい。

主イエス・キリストご自身が、既に同じことを言われました。「思い煩うのはやめなさい」。空の鳥を見なさい、野の花を見てごらんなさい。神がこんなに小さな草花さえも、こんなにも美しく装ってくださるのはどうしてなのか、よく考えてごらんなさい。あなたがたは、この花よりもずっと優れたものではないか。神があなたがたのことを、どれほど愛してくださっているか、そのことをよく考えて、思い煩うのはやめなさい。

「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」と、子どものころから歌い慣れてきた人も少なくないと思います。これは、私どもの信仰の内容の、いちばん根本的な、いちばん素朴な表現だと思います。しかもこれが同時に、私どもにはいちばん難しいのです。きれいごとでしかない、と思えてならないからです。ところが、聖書の言葉なんかきれいごとでしかない、と考える人間が、果たしてどんなに悲惨な世界を作っているか、そのことをもう少し冷静になって考え直した方がよいと思うのです。

私は大げさでも何でもなく、こう考えています。「思い煩うのはやめなさい」、「神の平和が、あなたを守る」という聖書の言葉を真剣に聞こうとしないところに、人間の悲惨のすべての原因があるのであって、人類が救われる道は、もう一度悔い改めて、主イエスの言われることが本当なんだと認める以外にないのです。「神の平和が、わたしを守る」という生き方と、「いや、核兵器が我が国を守るんだ」と考える生き方と、いったいどちらが、現実的な生き方なのでしょうか。いったいどちらが、人間らしい生き方なのでしょうか。考えるまでもないことです。この神の平和の支配を信じて初めて、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと」を求めながら、少しでもよい生活に励むことができるようになるのです。

■神の平和、神の平和と何気なく口にしてきましたが、パウロはここでわざわざ、「あらゆる人知を超える神の平和」という言い方をしています。実はこれもたいへん興味深い表現だと思います。「人知を超える」という翻訳は、もちろん間違いではありませんが、ちょっと仰々しい感じがしなくもありません。「人知」と訳されているのは、ふつうは「理性」と訳すことの多い言葉です。理性とはつまり、人間の知恵とか工夫とか言い換えてもよいと思います。それこそ何事につけ思い煩って、こうした方がいいんじゃないか、ああした方がいいんじゃないかと、工夫することが、ここで言う人知です。工夫すること自体は何も悪くないのです。けれども問題は、そういう私どもの知恵とか工夫とか心配には、いつも神の力が計算に入らないのです。自分を守るために、あるいは自分の国を守るために、いろいろと知恵を尽くして工夫をするのですが、神がわたしを愛してくださる、神がわたしを守ってくださるとは、1ミリも考えようとしないのです。ところがここでは、神の平和は、あなたの理性を超えるのだから、その神の平和が、あなたの心を考えとを守るのだから、神に守られた心に生きなさい。主において常に喜びなさい、主の近さを知って、広い心に生きなさい、どんなことについても思い煩いを捨てなさい、というのです。

ところでもうひとつ興味深い表現は、「人知を超える」の「超える」という言葉で、これは逆に、もっと仰々しくというか、強く訳した方がよかったのではないかと思います。「圧倒的に優れている」という意味の言葉です。実は同じ言葉が第3章8節にも出てきました。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」と書いてありますが、この「あまりのすばらしさ」というのが「圧倒的に凌駕する」という意味を持つのです。つまり第3章が語っていることは、自分は生まれて八日目に割礼を受けた者であるとか、律法の義については非のうちどころのない者であったとか、自分がどんなに立派な人間であったか、それが自分の支えであり、自分の鎧であった。ところがそんなものを圧倒的に凌駕するキリストの愛のすばらしさの中で、すべては塵あくたになったと言うのです。かつて自分で自分を鎧っていた、身に着けていたものは、キリストの愛によって完全に凌駕されて、むしろ損失でしかなくなった。価値がゼロになったと言っているんじゃない、マイナスになったと言うのです。使い道のない核兵器みたいなもので、むしろ損失でしかない。

それと同じ言葉を、第4章でも使うのです。私どもも、キリストの愛を知るまでは、ありとあらゆることについて思い煩って、自分を守ろうとしていました。神の力は1ミリも計算に入れずに、自分の理性だけを支えに、自分自身を支えていた、つもりだったのです。けれども今は、すべての理性を圧倒的に凌駕する神の平和に守られて、マイナスの価値しか持たない思い煩いを捨てさせていただきながら、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留める」、そういう生活を新しく始めるのです。

■最後に9節でパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と言います。フィリピの教会は、パウロから何を学んだのでしょうか。パウロという人間の中に、何を見たのでしょうか。それは今お話ししたとおりのことですから、繰り返す必要もないでしょう。かつて自分で自分を支えていたあらゆる鎧を、キリストによって取り上げられて、「これは、もういらないだろう」と声をかけていただいて、圧倒的なキリストの愛の中に立ったのです。パウロは、今も私どもに語りかけてくれます。「わたしに倣う者となりなさい。わたしから学んだことを、実行しなさい」。かつて自分が誇りとしていた立派な鎧は何もないけれども、わたしには、人知を超える平和が与えられている。あなたも、神の平和の中に生きることができるのだ。今、思い煩いを捨てて、「神よ、平和をください。平和をくださるのは、神よ、あなただけなのです」と、祈りをひとつに集めたいと願います。お祈りをいたします。

 

思い煩いの種は、尽きることがありません。あなたの愛を何度学んだつもりになっても、そこに立ち続けることの難しさを思います。信じさせてください。あなたが生きておられることを、あなたの平和が私どもを守ることを、ただ、信じさせてください。この世界のためにも、この国のためにも、新しい執り成しの祈りを始めることができますように。何よりも、今、聖餐を祝いつつ、「マラナ・タ、主よ、来てください」との祈りを新しくすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン