1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 神の言葉は前進する

神の言葉は前進する

2022年2月20日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第1章12-14節

主日礼拝

■新型コロナウイルスと呼ばれるものが、私どもの教会の活動をたいへん厳しく制限するようになって、ほぼ2年がたちました。いったいいつまでこのような生活をしなければならないのでしょうか。本日教会員の皆さんのメールボックスにお配りした「2022年3月 鎌倉雪ノ下教会の祈り」というプリントにも書いたことですが、2、3か月前には一瞬収束の兆しが見えて、だからこそ、長い間地区ごとに礼拝出席を制限していたのを解除したりもしたのに、今になってまた最大の波が襲ってきたというのは、かえって心を挫かれます。

しかし私はそれだけに、たいへん不思議な思いで、伝道者パウロの書いたフィリピの信徒への手紙の言葉を読みました。いつ終わるか知れない牢獄での生活の中で、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)と言うのです。「わたしの身に起こったことが」というのは、今申しましたように、パウロが牢獄に閉じ込められたということです。パウロのことを心から慕い、また頼りにしていたフィリピの教会の人たちは、どんなにか心配しただろうかと思いますし、それはただプライベートな意味で、パウロという個人の生活のことを心配したというよりも、このことによって教会の伝道が行き詰ってしまったんじゃないか。いったい、神さまは何をしておられるんだろうか。もし神が与えてくださった使命が福音の伝道であるならば、これは本来あってはならないことが起こっていると考えるほかないじゃないか。……

私どもも、今同じように思うのです。今われわれが強いられている異例の生活は、本来あってはならないことが起こっているんじゃないか。どうしてこんなことになるんだ。いつまでこんな生活が続くんだ。ところがパウロは、牢獄の中から言うのです。何も心配することはない。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。福音は、前進し続けているんだ。そのことについて少し先の18節では、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。だから、あなたがたも、わたしと一緒に喜んでほしい、ということでもあると思います。

先ほど、ほぼ2年がたちました、と申しましたが、この2年という数字を口にしたときに、私がふと思い出した聖書の記事があります。使徒言行録第24章27節に、「さて、2年たって」と書いてあるのですが、その「2年」というのは、パウロが監禁されていた時間のことです。2年たって釈放された、というのではなくて、2年たってもまだ監禁されたままであった、と言うのです。使徒言行録は、実にさらりと、この2年というパウロの監禁されていた期間を書きますが、改めて読むと愕然とさせられます。2年も獄中にあって何もできないというのは、しかもその獄中生活がいつ終わるかまったく予測が立たないということは、たいへんなことだと思います。だがしかし、使徒言行録がその2年という時間を、ことさらにドラマティックに飾り立てて書こうとしないのは、人間的に見ればどんなに虚しい時間が過ぎたように見えても、その間にも神が変わることなく福音を前進させてくださる。福音を前進させてくださるのは神だ。そのことを、信じていたからだと思います。そして事実、使徒言行録は、神による福音の前進のことしか書かないのであります。

■この「福音の前進」ということが、いったいパウロが獄中にいる間にどういうふうに起こったか。そのことについて、15節以下にはこう書いてあります。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」。要するに、ねたみとか争いとか、パウロに対して悪意を持った人たちが、その悪意を言ってみればバネにして、伝道を頑張った人たちがいる、という話です。つまり12節でパウロが言った「福音の前進」というのは、少なくともその一部は、ある人びとの悪意に根差すことであった。いやいや、そんな伝道、絶対神さまに祝福されるはずがないと、常識的にはそう思いますが、パウロはそんな小さなことにはこだわりません。「それがどうした」。先ほど読んだ18節であります。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。驚くべき発言ですが、このことについては、来週の礼拝で改めて丁寧に考えてみたいと思います。しかし既にひとつ明らかなことは、悪意をもって伝道を頑張っている人がいる、だから何だ、と言い切ることができるのは、「福音が、前進するのだ」、「神の言葉が、前進するのだ」。主語は神の言葉そのものであって、われわれではない。われわれのちっぽけな善意とか悪意とか、そんなものは吹き飛ばしてしまうくらいの大きな神の出来事が起こっているのだという確信があればこその発言なのであります。

そこで改めて、ここでの主題は〈福音の前進〉、神の言葉の前進であります。ここで「前進」と訳されている言葉は興味深いもので、「前に向かって切る/打つ」というのがもともとの意味です。ただすたすたと前に歩いて行く、というのではなくて、岩をも切り開いて、どんなに高い壁があってもそれを打ち砕いて、道なき道を切り開いて前に進んで行くのです。福音が前進するというのは、いつでもそういう激しい出来事を意味するというのは、考えてみれば当然のことで、このような〈福音の前進〉のいちばん根っこにあるのは、キリストの復活であります。十字架につけられたキリストを、人びとは墓の中に葬り、その墓の入り口には大きな石を転がして蓋をしたといいます。ここまでしたら、もう出てくることはできないだろう。数々の奇跡を行ったあのイエスと言えども、死んでしまったら、もう二度とここから出てくることはできないだろう。ところが、神ご自身がその墓の入り口の石を転がして、人間の力では絶対に動かすことができなかったはずの死の壁を神が打ち壊してくださって、そこから前進を始めたイエス・キリストの命の福音は、今も変わることなく、力強く前進を続けている。そのことを、パウロはこの手紙を書いたときにも、牢獄の中で、肌身で感じ取ることができたのであります。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、……」(13節)と言うのです。

■パウロがまた投獄されたと聞かされたとき、フィリピの教会の人たちが自然と思い出したことがあると思います。それは、何週間か前の礼拝でもお話ししたことと重なりますが、使徒言行録の第16章が伝えていることです。パウロが最初にフィリピで伝道を始めたとき、ところがたちまちパウロたちは捕まってフィリピの牢屋に入れられて、裸にされた上で何度も鞭で打たれ、足には木の足枷をはめられ、さらに鎖でつながれていたというのです。ところが、その牢屋の中で、パウロともうひとりシラスという伝道者が、ふたりで讃美歌を歌い続けていた。他の囚人たちはびっくりしたと思います。喜びの歌が世界でいちばんふさわしくないこの場所で、どうしてこんなに明るい歌が聞こえてくるんだろう。囚人たちは皆、ふたりの讃美歌に聞き入っていたと言います。そして、パウロたちの礼拝に神が答えてくださるかのように、突然たいへんな地震が起こり、パウロを含む囚人たちを押さえつけていた牢獄は、壁も、鎖も、扉も、みんな壊れてしまったというのです。しかもそこで、絶望して自殺しようとした牢獄の看守にパウロは改めてキリストの福音を説き、この看守はその家族も一緒に皆洗礼を受けたという話です。

考えてみれば、この話の中で使徒言行録が伝えていることもまた、どの部分を取り出してもまさしく〈福音の前進〉の話であります。パウロたちの讃美歌が、他の囚人たちの心に入り込むように、その魂を動かしたということも、牢獄の壁を神が打ち破ってくださったというのも、そして何より、パウロたちを見張っていた看守がキリストの福音を受け入れて洗礼を受けたというのも、ひとつひとつ、神でしかなし得ない、福音の前進の出来事であったのです。もしパウロがこの牢獄に捕らえられることがなかったら、あの看守に福音が伝わるなんてことが起こり得たでしょうか。すべては神のみわざであったのです。

けれどもそれから時を経て、また別の土地の牢獄の中でパウロがフィリピの信徒への手紙を書いたときには、もちろんその牢獄の中でもパウロは讃美歌を歌い、お祈りもいっぱいしたでしょうけれども、地震は起こりませんでした。牢獄の壁が崩れることもありませんでした。「おかしいなあ、あのときは地震が起こって、パウロ先生、次の日には釈放されたのに……」などとつぶやいたフィリピの教会の人もいたかもしれません。けれどもここでは、パウロはこう言うのです。もう一度13節を読みます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り……」。「兵営全体、その他すべての人々」というのはつまり、ローマ帝国の手先であります。あのヨハネの黙示録が、獣とまで呼び捨てたローマ帝国の犬どもであって、その人たちの心の中に福音が前進していくというのは、考えてみれば、石の壁を打ち砕くよりもずっと難しいことであったかもしれません。牢獄の壁を叩き壊すことがもしできたとしても、この兵隊たちの心を突き破って福音が侵入していくなどということは、どうしても考えられなかったかもしれないのです。

■パウロがここで、「福音の前進」という、つまり、福音が岩をも切り開いて前進していくという激しい表現を用いたのは、いったいキリストの福音というものが、何を相手にしなければならないか、どんなに頑なな人間の心を相手にしなければならないか、そのことを思ってのことであったと思います。「伝道は難しい」と、私どもはよく何気なく口にいたします。しかし、逆にもしも伝道のことが簡単にいくと考えるならば、それは、私どもが何を伝えようとしているのか、そして、その相手が何者であるかを少しも考えていない、たいへん浅はかな考えであると言わなければなりません。

しかも、ここでも私どもは原点に帰って考えなければならないので、先ほど申しましたように、私どもの伝道の大前提というか、それこそ原点にあるのは、キリストの復活であります。神があの墓の入り口を塞いでいた大きな石を転がして、命の道を開いてくださったのは、神さまなんだからそんなこと簡単にできるだろうと考えるならば、それは大間違いであります。伝道というのは、神にとってもたいへんに困難な、骨の折れる仕事であったのです。それは、わたしのような頑なな人間のために、神がどんなにご苦労をなさったか、そのことを少しでも考えてみればよいのであります。御子キリストの十字架という、たいへんな痛みを神ご自身が負うことによってしか、神の福音の前進の道が開かれることはありませんでした。まさにそのようにして始まった命の福音の行軍に、われわれもついて行く。そのお手伝いをさせていただくのです。しかしまたそれは、どんなに望みに満ちたわざであろうかと思います。

こうしてパウロは、牢獄の中にあっても、確かな希望に生きることができました。第1章3節以下にもパウロ自身が書いたように、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する生活をすることができたのであります。そのようなパウロの生活の姿そのものが、キリストの証しとなったのだと思います。「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」と13節に書いてある通りであります。「わたしが監禁されているのはキリストのため」、その恵みの事実の中に立ち続けることができました。それで、パウロを捕らえ、見張っていた兵隊たちも、自ずと悟るところがあったに違いないのです。このパウロという囚人は、本当に自由だ。いつ釈放されるか、何の見込みもなさそうなのに、それにもかかわらず、この人はわれわれのうちの誰よりも自由だ。

考えてみますと、二千年に及ぶ教会の伝道の歴史というのは、いつもこのような形で前進してきたのではないでしょうか。偉い神学者が立派な本を書いたとか、盛大な伝道集会が大成功を収めたとか、ついそういうことばかりに目が行くかもしれませんが、本当は、福音の前進というのはいつも、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝している、そういう小さなキリスト者たちの生活こそが、どんなに力強く、キリストの福音を証ししてきたことでしょうか。パウロ自身が、牢獄の中で、そのような福音の力に触れたのであります。

■13節に、「キリストのため」という言葉が出てきます。「わたしが監禁されているのはキリストのためである」と言うのですが、実はここは翻訳に問題があって、直訳すると「キリストのために」というよりは、「キリストの中で」という表現なのです。パウロは、いつもキリストの中にいた。興味深いのは、その次の14節に「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が……勇敢に、御言葉を語るようになった」とありますが、この「主に結ばれた兄弟たち」というのもほぼ同じ表現で、「主の中にいる兄弟たち」というのです。牢獄の外でますます勇敢に伝道している仲間たちも、今は牢獄につながれているパウロも、キリストの中にいる、キリストに結ばれているという点では何ら変わりはないのであって、その意味ではパウロは、たとえ自分が牢獄にいることが、誰の評判にもならなかったとしても、自分がキリストの中にあること、自分は確かなキリストの支配の中に生かされていることについては、少しも疑わなかっただろうと思います。

したがって、パウロにとっては、たとえ何年間牢獄につながれていようと、たとえその獄中生活が遂に死刑をもって終わるとしても、何も思い煩う必要はない。ただ自分自身をキリストの支配に委ねきることができるか、それだけを考えていればよかったのであります。私は直接原典にあたったわけではありませんが、「わたしがビールを飲んでいる間に、福音は走って前進する」という、改革者マルティン・ルターの言葉があるそうです。私の大好きな言葉のひとつです。ルターという人は、言うまでもなく、決して怠け者ではありません。教会のために、こんなに働き、こんなに苦しんだ人はなかなかいないだろうと思いますが、そのルターが固く確信していたことは、「わたしが酔っ払っている間にも、神の福音は走って前進する」。そのことを信じさせていただいたルターという人もまた、ただキリストの中にあることを喜びとしたのであります。

もし私どもが、このようなことを確信して生きることができるならば、どんなに励まされることだろうかと思います。もちろん、ただビールを飲んで酔っ払いながら、「いやあ、今神さまの大事な仕事してるところだからさあ」なんてふざけてみても、あまり意味はないかもしれません。けれどもそんなときにも、あるいは私どもがいろんな事情で、もう自分には何もできなくなったと思うようなときにも、「わたしはキリストの中にいるのだ」という平安があるならば、そこにはまた喜びが生まれ、祈りが生まれ、感謝が生まれ、そのような私どもの生活の姿が、キリストの恵みを証していくということが、きっと起こるだろうと思います。

■そこで最後に、14節であります。そのような生活を与えられたパウロの様子が知れ渡り、結果として何が起こったでしょうか。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。もうこれ以上、この14節について説明をする必要もないかもしれませんが、それにしても興味深いのは、「わたしの捕らわれているのを見て確信を得」と書いてあることです。ここに出てくる「主に結ばれた兄弟たち」が、「ますます勇敢に、御言葉を語るようになった」のはなぜかと言うと、パウロの囚われの生活を見て、それで確信を得たからだと言うのです。これは、実に不思議なことだと思います。

パウロを知る教会の仲間たちは、ことに深い友情で結ばれていたフィリピの教会の人たちは、一度は落胆したかもしれません。パウロ先生が、また捕まってしまった。もう二度と塀の外に出られないかもしれない。そうしたら、われわれの教会だってもうおしまいだと、どんどん、どんどん、悲観的なことばかり考え続けたかもしれません。けれども、だんだん事情が明らかになってきました。その牢獄の中にいるパウロが、実に確かな喜びの内に生かされている。「パウロが監禁されているのはキリストのためである」、この人は本当に〈キリストの中に〉生かされているのだということがよく分かって、そうしたら逆にじっとしていられなくなって、がぜん確信を取り戻して、「ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。み言葉を語りながら、まさにそのようにして、自分たちも等しくキリストの中に生かされていることを知ったのであります。

キリスト教会の歴史というのは、まさにそのようにして作られてきました。だからこそ今ここでも、キリストの中にある者として、私どもも、望みをもって立つことができるのです。お祈りをいたします。

 

今あなたが、私どものような者をも憐れみ、キリストのご支配の中に置いてくださいます。いつも自分のことばかり考え、自分が幸せか、そうでないか、そんなことにばかり心を動かしている私どもをあなたがみ手の内に取り上げてくださり、ただあなたのみわざを思うことができますように。私どもが何をしているときにも、福音を前進させてくださるのは、神さま、あなたです。ただあなたの力を恐れ、またあなたの力に望みを置くことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン