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キリストの愛の継承者

2022年2月6日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第1章3-11節

主日礼拝

■礼拝のたびに、伝道者パウロの書きましたフィリピの信徒への手紙を読み続けておりますが、このパウロという人が書き残した別の手紙の中に、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ第13章13節)というたいへん有名な言葉があります。これは、どうも意味がよく分からなくても、何となくいいことが書いてあるように思えますし、「信仰、希望、愛」というように語呂がいいということもありますから、私どもの多くが、特に深い意味も考えずに、記憶に留めているところがあると思います。しかし考えれば考えるほど、不思議な言葉です。最後まで残るものは、信仰と希望と愛である。それ以外のものは、全部廃れるとも書いてあります。なるほど、確かにそうだ。われわれが一所懸命苦労して、働いて、あとに残したものも、結局はみんな滅びていく。忘れられていく。けれどもそこで、なぜ永遠に残るものは、信仰と希望と愛と、この三つだけなんだろうか。「その中で最も大いなるものは、愛である」と言います。なぜ、そう言わなければならないのでしょうか。そこが実は、なかなか分からないのではないかと思います。

しかし鈍感な私どもにも、そのことが何となく理解できるかもしれないひとつの場面は、愛する者の葬りをする場面ではないかと思います。先週も、月曜日と木曜日と、ふたりの教会の仲間の葬儀をこの場所でしました。亡くなった家族のことを悼んで、さまざまな言葉が語られます。そのようなときにこそ、「最後まで残るのは、信仰と希望と愛、この三つだけだ」という聖書の言葉が真実であることが、よく分かるのではないでしょうか。先週葬られた方たちはふたりとも、本当に豊かな人生を与えられたと思います。神さまからいただいた豊かな賜物を誠実に用いて、家族のために、隣人のために、何よりも神さまのために、一所懸命生き抜かれました。けれども、遂にその人が葬られるというときに、結局最後に問題になるのは、その人がどれだけ偉いことをしたかとか、どれだけの財産を積んだかとか、そんなことは全部吹き飛んでしまうので、最後に残るのは、信仰と希望と愛、この三つである。

愛する妻を葬らなければならない。大好きなお母さんの声を、地上で聞くことはもう二度とない。そういうときに、最後に残るのは、いったいこの人は何を信じていたのか。何を希望としていたのか。それだけなのです。この人にどれだけ立派な学歴があったかとか、どんな立派な勲章をもらったかとか、そんなことは限りなくどうでもよくなるので、最後に残るのは、愛なんです。そうだ、わたしは、お父さんのことが大好きだったんだ。わたしは、この妻に愛されていたんだ。愛する者の死に際して、改めてそのことに気づかされるということが、あるだろうと思います。もとよりそれは、必ずしも今申しましたような積極的な表現を取るとは限りません。愛において挫折したまま、それを最後まで取り繕うことができないまま、家族の葬りをしなければならないことだって、きっとあるだろうと思います。「申し訳なかった。本当にごめんなさい」と、悔恨の涙を流しながら葬儀をしなければならなかったとして、そういうときに、信仰と希望と愛ではない、それ以外の何かで埋め合わせをしようったって、そうはいかないのです。

しかもこのことは、ただ最後の別れの時に初めて問題になることではないので、実は私どもの生活というのは、何を信じているか、何を望みとしているか、そして何にもまして大切なことは、私どもが真実の愛に生き得ているか、それ以外の問題は、いつかは廃れてしまう、どうでもよい事柄でしかないのであります。しかも私どもは、普段の生活において、まさにこの三つのもの以外の、どうでもいい問題にばっかり夢中になりながら、ふとした拍子に自分の歩みを振り返ってみて、自分の生活のいちばん深刻な悩みは、結局愛の問題だということに気づくのではないでしょうか。そのいちばん大切な問題に、正直に向き合うことがなかなかできないで、私どもは始終、いずれ廃れるはずの、偽りの栄光を追い続け、そのために疲れ果てているのではないだろうかと思うのです。けれども、私どもが死ぬときには、最後の総決算をしなければなりません。神の前で。いや、私どもが死ぬとき、という言い方は正確でないので、私どもの死のさらにその向こう側で、もう一度主イエス・キリストの前に立つことになります。それが、今日お読みしたフィリピの信徒への手紙第1章10節に出てくる「キリストの日に備えて」という言葉の意味です。その「キリストの日」、終わりの裁きの日に問われることもまた、私どもがどれだけの財産を積んだか、どれだけの社会的影響力を残したか、そんなことではないので、信仰と希望と愛、最後にはその三つしか残らない。そのことを思え、というのですが、まさにその愛において、私どもはつまずくのです。悩むのです。確信を持つことができないでいるのであります。

■そういう私どもにとりまして、ここでパウロが8節で語っていることは、驚くべきものがあると思います。

わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

このパウロの言葉に、迷いはありません。フィリピの教会の仲間たちよ、わたしはあなたがたを愛している。キリスト・イエスの愛の心でもって、あなたがたを愛している。「それを証明してくださるのは神である」と言っているのは、今神が証明していてくださる、という意味でもあるかもしれませんが、それ以上に、終わりの日、先ほど申しました「キリストの日」に裁き主キリストの前に立つ。そこで私どもの愛が最終的に問われるというときに、そうだ、この人は真実の愛に生きた人だと、神が証してくださると言っているのです。驚異的な発言であると言わざるを得ません。

たとえば、私のような者がここに立って……鎌倉雪ノ下教会の皆さん、わたしがこの教会を愛していることは、しかもただの愛じゃない、キリストの愛でもってわたしがあなたがたを愛していることは、神がそのことを証明してくださる。誰かが私に、「そんなの嘘だ。この偽善者め」と文句を言ってきたって、全然怖くない、神さまは私の味方だから……って、そんなことはとてもじゃないけど言えないと思ってしまいます。だがしかし、もしもこのパウロの発言が嘘でないとしたら、人間としてこんなに幸いなことはないだろうと思いますし、そのような伝道者の真実の愛に触れることのできた、フィリピの教会もまた本当に幸せだったと言わなければなりませんし、それはまた、私どもすべての者にも確かな望みを与えてくれる言葉だと思います。

■そこで、もう少しこの8節を丁寧に読んでみたいと思いますが、まず注意しなければならないことは、実はここでパウロは、「わたしが、あなたがたを愛している」という言い方はしていないということです。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているか」と言うのです。

ここに、「キリスト・イエスの愛の心」という表現が出てきます。新約聖書のギリシア語では、ひと口に愛と言っても、実はいろんな言葉でいろんな種類の愛を区別することがあるということを、ご存じの方もあるかもしれません。そこで話が複雑になるのですが、最初に紹介した「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」というときの「愛」と、フィリピの信徒への手紙で「キリスト・イエスの愛の心」と書いてある「愛」とは、原文ではまったく違う言葉なのです。「信仰と希望と愛」というときの愛は、ギリシア語でアガペーという言葉で、その言葉の説明はここでは省きます。他方、「キリスト・イエスの愛の心で」と訳されている言葉は、もともと「内臓、はらわた」という意味で、愛に限らず、怒りとか、心配とか、それこそ日本語で言えばはらわたを動かすような感情の動きを意味します。胸の中でとか、頭で考えてとか、まして口先だけの愛なんてものではなくて、その人の感情の底から揺さぶられるような愛です。そう説明されると、それが憤りという意味を持つというのも頷けます。頭でよく考えてから腹を立てる人というのはあまりいないんで、とにかく瞬間的に、カーっと頭に血が上ってしまう。しかしここではもちろんキリストの怒りではなくて、イエス・キリストが腹の底から、はらわたがきりきり痛むような思いで、私どもに対する愛の心を動かしてくださったと言うのです。

興味深いことに、この「内臓、はらわた」という言葉に、ちょっと語尾をくっつけて動詞の形にした言葉があります。その動詞は新共同訳ではだいたい「深く憐れむ」と訳されます。どういうわけか、マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書にしかこの動詞は使われません。お腹の底から揺り動かされるような憐れみです。たとえば、ナインという町のひとりのやもめが、たったひとりの息子に先立たれ、延々と泣き続けていたというときに、主イエスはその母親を見て、深く憐れみ、「もう泣かなくていい」と言われました。あるいは、父親の家から飛び出して行って、行方不明になっていたあの放蕩息子が家に帰ってきたとき、父親はまだ遠く離れていたのに息子の姿を認めるや否や、腹の底から揺り動かされるような思いで走り出して、息子の首を抱いて口づけをしたと言います。またあるいは、主イエスが五つのパンと二匹の魚で、成人男性だけ数えても五千人という群衆をおなか一杯にしてくださったのも、もとはと言えば、その群衆が飼い主のいない羊のような有様であったのをご覧になって、腹の底から深い憐れみの情を抱かれたというところから、話は始まっていたのであります。

わたしは、われわれは、このお方のはらわたから出るような愛を受けたのだ。パウロは、そのキリストの愛の心で、あなたがたのことを思う、と言っています。もちろんパウロ自身、フィリピの教会のことが大好きだったでしょう。けれどもそれは実は、キリストの愛の心でもって、あなたがたのことを思っているのだ。

■新共同訳聖書は、「キリスト・イエスの愛の心で」と訳しましたが、実はもうひとつ翻訳の可能性があって、「キリストの愛の中で」というのです。英語で言えば ”in” にあたる前置詞が使われていて、たとえば ”in English”「英語で」というのを「英語の中で」と読む中学生がいたら、もうちょっと勉強しなさい、ということになるでしょうが、ここではどちらにも訳せるので、「キリスト・イエスの愛の中で」。「キリストのはらわたの中で」。言ってみれば、パウロはキリストのお腹の中に立つような経験をさせていただいたのだと思うのです。イエス・キリストのお腹の中に入ってみて、改めて驚くことは、このお方が、どんなに激しい思いで、私どもを愛してくださったかということです。

翻って、私どもの腹の中というのは、非常にあてにならないものだと思います。口先では愛の言葉を口にして見せても、腹の中は真っ黒、ということがあるだろうと思います。パウロ自身、そういう人間の弱さを知らなかったはずはないのです。けれどもそんな私どもが、キリストのお腹の中に入ってみて、そこで知るのは、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかということであります。パウロという人は、まさにそのキリストの腹の中に立たせていただく幸いを、よくわきまえておりました。

私どもが愛する者を失うとき、涙が止まらないというようなときに、キリストの腹の中に立ってみればよいのです。そこに、どんなに激しい憐れみの心の動きがあるか。私どもがどうしようもない深刻な罪に陥ったとき、親にも兄弟にも知られるわけにはいかない黒々としたものを抱え込んでいるときに、だがしかし、キリストの腹の中を覗いてみるならば、そこにまたどんなに激しい愛の動きがあることか。そのキリストの愛に驚き、心揺さぶられながら、私どもだってじっとしていられなくなるでしょう。

■そこで重ねてパウロは言うのです。「キリスト・イエスの愛の心の中で、わたしがあなたがたのことを、どれほど思っているか」。ここで「思っている」と訳されている言葉は、もちろんこの翻訳でもよいのですが、たとえば「激しく求める」「強く欲しがる」という意味の言葉です。「わたしがあなたがたのことを、どれほど強く欲しがっているか」。ことにパウロはこの手紙を、牢獄に捕らえられている中で書きましたから、それは要するに、「一目でいいからあなたがたに会いたい、あなたがたと一緒にいたいんだ」ということにもなると思います。

そこでもたとえば、あの放蕩の限りを尽くし、いなくなっていた息子を求めて、はらわたをかきむしるような思いで悩み抜いた神の思いを考えてみればよいのです。その息子が帰ってきた、まだ遠く離れているけれどもその姿が見えたとなったら、もうじっとしてなんかいられない、急いで走り寄ってこれを抱きしめたという、神の思いであります。私どものような、いちばんつまらない人間を求めて、「あなたと一緒にいたいんだ、あなたがいなくなったら困るんだ」と、そこまで私どものために心を激しく動かしてくださったキリストの愛の心を思い、そのはらわたの中に立ちながら、私どもも互いに愛し合うのです。そうせずにはおれなくなるのです。

私どもは、信仰生活を何十年と重ねていたって、相変わらず、愛することにおいてはほとんど何の成長もしていないと、自分ではそう思うのです。聖書の知識は増えた。人前で上手にお祈りすることにもまあまあ慣れた。だがしかし、愛においては、いったいどれほど成長したんだろうかと、どんなに心もとない思いを抱くとしても、そんなわたしのために、キリストがどんなに激しい憐れみの心を動かしてくださったか、そのことに気づくときに、やっぱり私どもは、愛に生きるしかないのです。そして少しでも、そのような愛に生きることができたときに、私どもはどうしたって、「その愛の証人は、神である」と言うほかありません。このわたしの愛の生活は、自分の力で作ったものではない。神が与えてくださったものである。わたしとあの妻との生活も、わたしとあの母親と、そしてあの兄弟姉妹との生活も、神の憐れみによって与えられたものでしかない。そうであるならば、わたしの愛の証人は神である、と言うほかなくなるのです。

私どもが遂に終わりの日、10節の表現で言えば「キリストの日」に神の前に立つ時に、どうしたって私どもは、まずは神さまにお詫びをしなければならないのかもしれません。天国でいろんな人に再会して――きっといろんな人に会うだろうと思います――そこでもまずはいろんなことについて謝罪をしないといけないかもしれません。自分のしたことなんですから、責任を取らなければならないのは当然です。けれども、そんな私どもが、そこでもキリストの愛の中に立ち続けることができるならば、まさしく10節の後半にあるように、「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり」、神に感謝をささげながら、このわたしも確かな信仰に生きることができました、確かな希望に生きることができました、神さま、あなたがわたしのためにも愛の生活を与えてくださいました、ありがとうございますと、確信をもって言い表すことができると思うのです。

その次の11節には、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と書いてあります。私どもに与えられるのは、「イエス・キリストによって与えられる義の実」であります。私どもの多くが愛唱する讃美歌280番の、「主の義をまといて みまえに立たまし」という歌を思い出しておられる方もあるかもしれません。私どもの罪がどんなに真っ黒でも、主イエス・キリストの正しさを、真っ白な衣のごとくまとって、神の前に立つことができるとの望みを歌う讃美歌です。まさにそこでも、私どもがキリストの愛のはらわたの中に立っているということが、決定的な意味を持つようになるのです。

■私どもに許された愛の生活というのが、そのようなものでしかないならば、それは当然信仰と希望と深く結びつくのであります。信仰も希望もないけれども、愛の生活だけは立派にやっているなんてことは、少なくとも聖書はまったく考えておりません。神を信じ、その救いに望みを置きながら、何よりも、私どものために命も惜しまないほどの愛を示してくださったキリストのはらわたの中に立ちながら、そのキリストの愛の心の中から、私どもも隣人のことを思うのです。そうとするならば、私どもの愛の生活の中心に立つのは、実は祈りであるということに気づかされるのではないでしょうか。

今日読みましたところで、ひとつたいへん興味深いことは、8節で、「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と言いながら、即座に9節では「わたしは、こう祈ります」と言っていることです。ある説教者はこのことをとらえて、われわれが自分の愛する者のためになすべき第一のことは、祈ることである。私どもが人間としてできることのうち、いちばん大きなことは、祈りであると、そう言っています。私どもはうっかりするとそうは考えないので、祈りなんかよりも、実際に体を動かして、知恵を働かせて、自分の愛する者のためにあれやこれやのことを実践することが大事だと思うのです。けれどもパウロは、もちろんこの人は誰よりもよく働いた人でしたが、そのパウロがいつもよくわきまえていたことは、自分が人間としてできる最大のことは祈りであるということです。ですから既に3節以下にも、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と書いたのです。

先週この場所で葬儀をした、ふたりの教会の仲間のことを思いますときに、私のような者が強く思わされることは、ふたりとも、本当によく祈っておられたということです。晩年は、高齢のため、あるいは難しい病のために、ご家族の献身的な介護の手に自らを委ねながら、けれども遂にこの人を葬るというときに、きっとご家族が改めて思い知らされたことは、自分たちがこの人を支えていたんじゃない。むしろ、この人の祈りに、自分たちがどんなに支えられていたか。この人が自分のために、どんなに祈ってくれていたか。そのことではなかったかと思うのです。まさにそのようにして私どもは、キリストの与えてくださった愛の中に立たせていただくのです。改めて、9節以下を読んでみます。

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように(9~11節)。

このような祈りのうちに、今私どもも等しく、主の愛の中に立たせていただいていることを喜び合いたいと願います。お祈りをいたします。

 

あなたがキリストの内に示してくださったまことに激しい愛に、今私どもも心を揺さぶられながら、互いに祈り合い、愛し合う生活をみ前にささげることができますように。主が再び来てくださるその日まで、信仰と希望と愛に支えられた歩みを造らせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン