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罪の美しさに惑わされず

2021年9月26日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第17章1-18節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録という、聖書の中でも特別な個性を持つ文書を礼拝の中で読み続けています。今年1月の最初の日曜日から読み始めて、9か月が過ぎようとしていますが、だんだんと終わりが見えてきました。私の計画では、ちょうど今年いっぱいで、12月のクリスマスの礼拝に黙示録を読み終えることができそうです。

黙示録の終わり近くまで読んできて、ますます明らかになってくることは、これが戦いの言葉であるということです。神が戦っておられる。先週読みました第16章16節に出てくる、「ハルマゲドン」というある意味で有名な言葉も、実は「メギドの山」という意味で、そのメギドという土地はイスラエルの古戦場、戦いの場所であったというお話をいたしました。神の最後の戦いであります。今日読んだ第17章の14節にも、戦いという言葉が出てきました。

「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」。

神は、今も戦い続けておられると思います。私どもが今生きている、その生活のそこかしこで、神の戦いの様子を見出すことができると思います。しかし、神はいったい誰と戦っておられるのでしょうか。というよりも、今読んだ14節の表現に即して言うならば、いったい誰が神に戦いを挑むのでしょうか。しかもその戦う神の姿が、ここでは「小羊」と言い表されているのは、なぜでしょうか。こういうことを考えてまいりますと、いくらでも時間が過ぎていってしまうような気がします。なるべく急所を絞って、聞き取るべき福音をご一緒に聞き取ってまいりたいと思います。

■ここに、大淫婦と呼ばれる女が出てきます。小羊キリストの戦いの相手、その総大将のような存在です。大淫婦などという言葉はふつうの日本語にはないと思いますが、意味は分かります。人びとを、みだらな行いに誘っている。そのためにたいへん魅力的な姿を見せているのだと理解することができます。たとえば4節には、「女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた」と書いてあります。「みだらな行い」と書いてありますが、セクシャルな意味は基本的になくて、まことの神ならざる神に心を向ける。その意味で、神に対して浮気の罪を犯すという意味です。ですから3節には、この女は赤い獣にまたがっていて、「この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった」と言うのです。その獣というのは当時のローマ帝国のことであり、それにまたがっている大淫婦というのは、18節によれば、ローマ帝国の首都ローマの豊かさを象徴しているのだと読むことができます。

この第17章が、ある意味で非常に大切な意味を持つのは、ここに当時のローマ帝国の歴史が反映しているということです。この大淫婦が座っている赤い獣には、七つの頭があった。その七つの頭とは要するに、七人の王のことだ、つまり初代から七代目までのローマ皇帝のことだ。そのように読むと、黙示録が書かれた年代をある程度推測することができるのです。9節以下に、こう書いてあります。

「ここに、知恵のある考えが必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる。五人は既に倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるのはごく短い期間だけである」(9、10節)。

歴代のローマ皇帝のうち、最初の5人は既に死に、黙示録が書かれた当時の皇帝は6代目、さらにそのあと現れる7代目の皇帝の在位期間は僅かだ、という話になりそうですが、これを実際のローマ帝国の歴史と照らし合わせるといろいろ細かい問題が出てきて、私のような者には扱い切れないところがあります。しかしさらに興味深いのは11節です。「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」。それは明らかに、8節の言葉と呼応しているのであって、既にこう書いてありました。

「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう」。

この「以前いて、今はいない獣」というのは、おそらく皇帝ネロのことだと言われます。しばらく前の説教でも触れましたが、当時のローマの人びとの間に生き続けていた、ネロ再来説という噂があったらしいのです。ネロというローマ皇帝の名は、比較的よく知られているかもしれません。ローマの町に自分の手で火を放ち、さすがに人びとの厳しい批判を受けそうになったときに、いや、これはキリスト者のしわざだと言って大迫害をした。最後には自殺をしたと言われます。一方では、たいへん評判の悪い暴君なのです。けれども不思議なことに、民衆の間にネロの再来を期待する願望が生まれた。キリストが復活なさったように、あたかも神の化身であるかのように、ネロが再び甦ってわれわれの帝国を支配してくれるのではないか。そういう願望が、ネロ再来というまことしやかな噂を生み出し、黙示録はそれを前提としていると考えることができます。もちろんヨハネがそんな噂を信じていたはずはありません。けれども現実問題として、一方ではたいへん暴虐な王、だがしかし卓越した力でもって自分たちのひそかな願望を叶えてくれる強力な王を望む人の心を、黙示録は見抜いていて、そこに生まれる誘惑と戦うようにと呼びかけているのです。

■ネロ再来説などというと、どうも奇妙な感じがしますが、これは非常に現代的な意味を持つ話だと思います。80年ほど前に、ヒトラーという独裁者がドイツでたいへん大きな力を持ちました。そのファーストネームのアドルフという名は、それまではドイツにおいて非常に一般的な名前でしたが、戦後生まれの男の子にアドルフという名をつけることは、事実上不可能になりました。それにも関わらず、今でもヒトラーの再来を待望する声は死んでおらず、むしろ近年、勢いを増しているとさえ言われます。私どもからすると理解に苦しむというところかもしれませんが、その場にいた人たちからしたら、大げさでも何でもなく、救世主が現れたとしか思えなかったのだと思います。第一次世界大戦に負け、さらに世界大恐慌が起こり、どん底に落ち込んでいたときに、魔法のようにドイツを豊かにしてくれたのは、ほかでもない、あのお方のおかげだったのであって、だからこそ今でもその再来を願う人びとがいなくならないというのは、人間の本性をよく示すものだと思います。そのような私どもの心を撃つように、黙示録は語るのです。

「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう」(8節)。

「驚くであろう」というのは、ここでは明らかに、いい意味で用いられています。すばらしい王が現れた、まさしくこの皇帝こそ救い主、現人神であると言って、驚きをもって人びとはこの獣を受け入れるだろう。しかし、9節。「ここに、知恵のある考えが必要である」。神からいただく知恵がなければ、戦うことができないのだ。それほどの力と、神が戦っておられるのだ、ということであります。

なぜ知恵が必要なのでしょうか。知恵がなければ、どうしたって私どもは騙されるからです。大淫婦とか獣とか、そういう言い方をされるといかにも悪そうですが、現実にはむしろ非常に好ましい姿を見せるものです。「女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り」などと書いてあるのも、私どもを惑わす豊かさ、力強さを示すものでしょう。ちょうどヒトラーが国中をどんどん豊かにしてくれるスーパースターとして姿を現したように、当時のローマ帝国もまた、世界にまたとない平和をもたらす存在として、人びとの目を驚かせたのです。けれどもその豊かさは、いみじくも「大淫婦」と呼ばれているように、人の心を神から離れさせるような、その意味で人を誘惑するような豊かさでしかない。最後には、神に裁かれる豊かさでしかないのです。

■来週の礼拝で読みますが、第18章に進みますと、この大淫婦が神に裁かれ、遂に倒れる姿が、より具体的に描かれていきます。その豊かさを、かつて人びとの心を惑わした豊かさの内容を、具体的に数え上げていきます。第18章11節以下には、こんなことが書いてあります。

地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。その商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あらゆる香ばしい木と象牙細工、そして、高価な木材や、青銅、鉄、大理石などでできたあらゆる器、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、人間である(11~13節)。

お読みになってすぐにお気づきになると思います。ローマ帝国の豊かさを示すさまざまな商品の目録の最後に、「奴隷、人間」と書くのです。「奴隷は人間じゃないのか」というところに引っかかる方もあるかもしれませんが、ここは翻訳に議論があって、原文を直訳すると「人体、そして人間の命」と書いてあります。私は、原文のギリシア語でこのところを読んだときに、本当に背筋が寒くなっていくのを感じました。ローマ帝国の誇る豊かさを数え上げて、「金、銀、宝石」から始まって、「家畜、羊、馬、馬車、人間の体と命」。その「人間の体」というのを「奴隷」と翻訳したのは、奴隷の体は消耗品であるという理解があるのかもしれません。命はどうでもいい。その体さえ使えればいい。

人間の体も、そして人間の命さえ商品化してしまうような社会の豊かさにひそむ問題というのは、私どもにとっても決して遠い世界のことではありません。人間が商品として扱われるとき、それは同時に、人間の体にも価値のある体と価値のない体、生きていてもしょうがない体があるということにならざるを得ません。ヒトラーという人が、たいへんな数のユダヤ人を殺させた。しかしそれよりも先にヒトラーが力を入れたことは、優性思想と呼ばれるもので、要するに、障害者と呼ばれる人たちを組織的に殺害したということです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。ただしそれは、立派な体の人間、立派な精神の人間に限る。そういう人間がたくさんあれば、国はそれだけ豊かになるだろうけれども、生きていてもしょうがない体を生かしていたって、国益にはならないし、その人のためにもならないじゃないか。その考えをつきつめていったときに、ユダヤ人虐殺という悲劇もまた起こったのです。

こういう考え方がどんなに恐ろしいものであるか、私どもはよく承知しているつもりですが、本当はそれは、私どもの心にあるいちばん暗い部分を映し出したものでしかないのです。豊かさという誘惑に、私どもはいちばん弱いのです。黙示録は、そのような神に裁かれるべき豊かさへの誘惑を、大淫婦というイメージの内に見せてくれるのです。

■この大淫婦の姿をしっかりと見据えるために、ヨハネは神の霊に満たされて、荒れ野に連れて行かれたと、3節に書いてあります。ここで多くの人が、ヨハネは主イエスと似た経験をさせられていると言います。主イエスもまた、公の活動をなさるその前に、荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになったと言われます。そんなにお腹が空いているなら、石をパンに変えてみたらどうだ。もしあなたが神の子なら、高い神殿の屋根から飛び降りてみたらどうだ。きっと神さまが助けてくださるだろうから。そして最後に、世界のすべての豊かさを一挙に見せられて、イエスよ、もしわたしを拝むなら、これを全部あなたにあげよう、と言われたのです。

荒れ野で主を誘惑した悪魔の姿は、黙示録を書いたヨハネの見た大淫婦にそっくりであり、たとえばヒトラーのごときは、その具体的な表れの典型だろうと思います。お腹が空いていればパンを豊かに与え、もうだめだと思ったときさっと手を差し伸べてくれて、そして最後には、もしわたしを拝むなら、あなたの望む豊かさを何でもあげようと約束してくれるような救い主に、私ども自身、どんなに憧れることだろうかと思います。けれども主が荒れ野で、「こういう救い主になってみないか」と悪魔に持ち掛けられたとき、「わたしは、石をパンに変えるような救い主にはならない」と、固く思い定めておられたのです。石をパンに変える救い主が与えられたって、人間は救われない。それはむしろ、人間が人間でなくなる道でしかないのです。

黙示録は、この大淫婦と真正面から戦ってくださる、神の戦い、小羊キリストの戦いを伝えます。

「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」(14節)。

なぜ小羊なのでしょうか。ここであまり多くの言葉を重ねる必要もないだろうと思います。屠られた小羊、十字架につけられた神の御子であります。黙示録を書いたヨハネは、既にイザヤ書第53章をも思い出していたかもしれません。預言者イザヤは、私どもを真実に救う神の僕の姿を、たいへん強烈な言葉で描き出しながら、それはまるで屠られた小羊のようであったと言うのです。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。 (7節)

石をどんどんパンに変えてみせたローマ皇帝と、天地の差があるようです。このお方には「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ書第53章2、3節)とも言うのです。ヒトラーの手にかかったら、いちばん最初に処置されていたのは主イエスであったかもしれません。こんな人間がいたって、国益にはならないだろう。けれども、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(4節)と言うのです。このお方は、そのようにして、私どもを本当に人間として扱ってくださいました。

黙示録は、この小羊キリストの勝利を語ります。そしてまた、先ほど読みました14節にあったように、「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」。私どもも今、召されて、選ばれて、小羊キリストと共に立つのです。お祈りをいたします。

小羊キリストの姿を、今新しい思いで仰がせてください。私どもも、このお方と共に立ちたいのです。人間が人間として生きることができないこの世界を、あなたがどんなに憂い、そのためにどんなに激しい戦いを戦っておられるかと思います。今私ども自身の罪を悲しみつつ、小羊となってくださったお方のもとに帰ることができますように。私どもを誘惑に遭わせず、悪い者からお救いください。主のみ名によって祈ります。アーメン