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泣くな、神は黙っておられないから

2021年5月2日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第5章1-14節

主日礼拝

■私どもがしている礼拝というわざは、改めて考えてみると、たいへん不思議な行為だと思います。なぜ私どもは日曜日の朝に礼拝をするのか。皆さんも、誰かに尋ねられることがあるかもしれません。「へえ、あなたクリスチャン? 日曜日には教会に行くんだ? 何しに行くの?」 私のような者も、しばしば尋ねられます。私が教会の牧師であり、毎週たくさんの人の前で話をしているなどということを聞くと、たいていの人は何となく尊敬のまなざしになったりしますが、「川﨑さんの仕事って、結局、何してるの?」なんてことを聞かれると、答えに窮するようなところがあります。いったい私は、というよりもわれわれ教会は、何をしているんだろう。答えは明白で、われわれはここで礼拝をしている。神を拝んでいるのです。しかし、礼拝っていったい何だ。われわれはここで何をしているのか。これは容易に説明することができない問いであるということに気付かされると思うのです。

■先週の礼拝ではヨハネの黙示録第4章を読み、そして今週は第5章を読みました。今朝の礼拝のための準備をしながらつくづく思い知らされたことは、このように第4章と第5章を分けて読んだことが、果たして本当に正しかったか、ということです。第4章に書いてあることは、黙示録を書いたヨハネが、幻のうちに天の礼拝に招かれたということです。「天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(第4章2節)。その玉座の周りに4つの生き物がおり、さらにその周りに24人の長老たちがぐるりと取り囲んで、そこで彼らが何をしていたかというと、夜も昼も絶え間なく、神を礼拝し続けていたというのです。私どもがしている礼拝というわざは、しかし実は、天において行われていることであった。むしろ、天の礼拝に支えられて地上の礼拝があるのであって、たとえ地上の礼拝が不完全であったとしても、たとえ地上の礼拝が何らかの理由で中止されるようなことがあったとしても、天の礼拝が止むことはないし、その天の礼拝に支えられて、今私どももここで礼拝を続けるのです。それがまず、第4章から私どもが学ぶべきメッセージだと思います。

ところがこれに第5章が続く。この天の礼拝においてヨハネが経験させられたことは、まさにその礼拝の場所で、ヨハネは激しく泣き続けなければならなかった、ということでした。そして私どもは、実は誰もが、このヨハネの涙の意味を痛いほどに理解するところがあるのではないかと思うのです。

なぜヨハネは泣いたのか。最初の1節には、「またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた」と書いてあります。この巻物というのは、第6章以下で明らかになるように、神の御心を記した書物です。「これからどうなるのか、これから何が起こるのか」、その神のご計画を明らかにする巻物が、けれども「七つの封印で封じられて」いて、読むことができないというのです。「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった」(3節)。ヨハネが激しく泣いたのは、その時です。

私どもは一方では幸いなことに、第6章以下で、この七つの封印が解かれて、その内容を知ることができます。それは、世界の終わりはどうなるのか、というようなセンセーショナルな興味をかきたてるものでもあるかもしれませんけれども、もっと大切なことは、神が神でいてくださるということです。神ご自身が神としてのご支配を、どのように貫かれるのか、どのように完成してくださるのか。しかし私どもが絶えず礼拝において直面させられることは、その神の御心が見えない、ということです。

礼拝をするということは、この世の現実を忘れることではありません。この世には理不尽なことがある。説明のつかない悲しみがたくさんある。それをいったん脇において、神さまを見上げよう、という話ではないのです。礼拝をするということは、もちろん喜びの行為でしょうけれども、他方から言えば、私どもが流さなければならない涙があるという、その悲しみの現実に改めて直面させられるのが、この礼拝の場所だと思うのです。

先ほど、ご一緒に主の祈りを祈りました。「天にまします我らの父よ。願わくは、み名があがめられますように。み国が来ますように。み心が天に行われているとおりに、地においても、あなたのみ心が行われますように」。私どもは、主の祈りをするたびに、礼拝をしていると言ってもよいのです。ところが、この祈りを口にするたびに私どもが直面させられる現実は、神のみ心は、天においては行われていたとしても、地においては全然行われていない、ということです。

■このことを少し見方を変えて言うと、こう言うこともできるかもしれません。実は私どもは、そんな難しいことを言われなくたって、とうの昔からいくらでも泣いていたかもしれないのです。いろんなことで悩んだり、迷ったり、時に思いつめて涙が止まらなかったりする経験をしているものです。信仰があろうがなかろうが関係なく、私どもは涙を流すことがあるし、日曜日の礼拝に出たからってその涙がたちまち笑顔に変わるわけじゃない。けれども私どもは、礼拝において、本当に泣くべき事柄が何であるかを知るのです。いろんなことで涙を流してきた私どもです。その涙の中には、実に罪深い、わがままな涙だってたくさんあったに違いないのです。けれども、本当に泣かなければならないことは、もっと他にあったんじゃないか。他でもない礼拝という場所において流さなければならない究極的な涙というものがあるのです。ヨハネが流した涙はそういうものです。神よ、あなたの御心が見えません。なぜこの巻物は封じられたままなのですか。

先週の礼拝でも触れたことですが、第4章11節に「主よ、わたしたちの神よ」という、24人の長老たちの礼拝の言葉がありました。ヨハネがこの賛美の歌を聞いたとき、涙が止まらないほどの思いを抱いたのではないかと、先週の礼拝で申しました。なぜかと言うと、黙示録が書かれた当時のドミティアヌスというローマ皇帝が人びとに求めたことは、まさにこの「主よ、わたしたちの神よ」という、一言一句同じ言葉をもって自分のことを呼ぶように、ということであったのです。まさに〈現人神〉であります。天においては、「主よ、わたしたちの神よ」という礼拝の言葉が、ただひとりの神にささげられているけれども、それと同じ言葉が、地上においては、どんなに汚く踏みにじられていることか。「御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。このような祈りを、何億という人が、何兆という単位で、繰り返してきたことでしょう。けれども依然として、この世界には神の支配が見えません。見えるのは人間の支配だけ。黙示録に特徴的な表現で言えば、〈獣の支配〉であります。そのような世界を造ってしまっている人間に対して、どのような神の裁きが下されたとしても、何ら不思議ではありません。そのことについて、私どもはしかし、まだ十分に泣いていないのではないかと、反省してみてもよいかもしれないのです。

■私が所属している、説教塾という集まりがあります。かつて長くこの教会の牧師であった加藤常昭先生が、今でも中心的な指導者であり続けていますが、この説教塾が毎年春に出している紀要、つまり論文集があります。1か月ほど前にその最新号が私の手元にも届きました。その巻末に、加藤先生がひとつのエッセイのような文章を書いておられます。ちなみに、その文章そのものは、昨年の8月に書かれたものだそうです。「時々人類は、このような疫病に襲われるが、私の90年の生涯において、これほどの疫病蔓延は、なかなかほかに例を見ない」。「私は、これは神の審きのひとつではないかと時に思う」と言うのです。少し長く引用します。

 戦後75年、人間の営みは想像を絶する進化を遂げた。飢えと文化の混乱のなかで絶望と希望のないまぜになった、いわゆる虚脱の時代を過ごした。その頃は、今のような生活になるとは思ってもみなかった。このような現代文明を創造している人類である。人間の心身の能力と富の力を誇示するオリンピックを開催するはずであった日本である。……その開催時期が来たが、まだ未開催である。肉眼では見ることのできない微細なヴィールスの蔓延で、その人間の力を誇示することができなくなったのである。人間の弱さを思い知らされている。人間が全能ではないことを、人間は神ではないことを思い知らされているはずなのである。このことを真実に思い知ったならば、自分の傲慢を恥じ、改めて謙遜を知るということがあってもよい。しかし、そのような悔い改めの言葉、悔い改めの祈りが教会堂のなかで聞かれることもない。……
今は苦労している。しかし、やがてワクチンが開発され、病魔を恐れなくなり、いつもの生活に戻る。オリンピックもするかもしれない。その頃、私が生きているかどうかはわからない。とにかく、何事もなかったかのように元の生活に戻る。今経験していることは、一日も早く過ぎ去ってもらいたい災難でしかないのである。

言うまでもなく、「それでよいか」と問いかけているのです。「一日も早く過ぎ去ってもらいたい災難でしかない」。それだけのこととして、済ませてよいのか、というのです。

この文章を加藤先生が書いたのは、先ほど申しましたように、昨年の8月です。もともといきなりコロナ危機の話をしていたわけではなくて、敗戦後75年という区切りの時に、改めて加藤先生自身の戦争体験を書いておられるのです。敗戦も近い頃、当時16歳であった加藤先生は、千葉県の我孫子で訓練を続けていたと言います。既に沖縄での地上戦は終わっていた。いよいよ本土決戦である。それでまた加藤先生の文章を引用しますが……

日本の本土にアメリカ軍が上陸する。それを迎え撃たなければならない。……米軍は必ず九十九里浜に上陸すると考えられていた。私たちが派遣された我孫子は、上陸して東京に攻め込んでくる米軍が必ず通るところとされた。日中、ゴルフ場の芝を掘り返して畑にしていた私たちは、空襲警報などに関係なしに襲ってくる米軍艦載機の攻撃を受けた。……そして夕食後は米軍を迎え撃つ訓練を受けた。匍匐前進を繰り返した。しかし、武器は小銃もなかった。爆弾を抱えて米軍戦車に飛び込むだけである。……私たちの了承を得ることもなく、中学生に特攻訓練をさせたのである。無謀極まりない愚行である。もし降伏していなかったら、私はいのちを失っていたことは、ほぼ確実であったのである。

そこで加藤先生は言うのです。8月に突然訓練が終わった。家に帰りなさい、ということになった。明らかに、広島と長崎に落とされた新型爆弾の犠牲があったからだ。16歳の少年にもそれはよく分かったと言います。そこで加藤先生が思ったことは、「自分は死なないで済んだ。広島と長崎の人たちの犠牲によって、自分の命は贖われたのだ」という、どうしようもなく深い負い目の思いは、90歳を超えても変わることはないと言います。

しかし、そのあと、日本は何を学んだのだろうか。これ以上加藤先生の文章を延々と紹介するわけにもいきませんが、76年前までに支払われた犠牲者が、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことを求められたことを、忘れることはできないと言います。戦時中に洗礼を受けていた加藤先生は、幼いなりに、それを拒否しなければなりませんでした。「敗戦後、君が代を歌ったことは一度もない」とはっきり書いています。「問題の急所は神を神とする、という一点である」。そう言いながら、新型ウイルスのことにも言及するのです。戦争があろうが、疫病があろうが、神を神とすることができなかったら、人間は人間として生きることもできないではないか。そして実は、戦争もウイルスも何もなかったとしても、どんなに平和な状態を作り出したかに見えたとしても、私どもは結局、どこまで行っても、神を神とすることができない罪人なのです。ここに、人間の悲惨の根本的な原因があるのです。

■ヨハネは、激しく泣きました。礼拝以外の場所で泣いたんじゃない。礼拝に出て、神の前に出て、だからこそ、神の御心が隠されていることを、人間の罪がこれを隠してしまっていることを、嘆かずにはおれませんでした。けれども、長老のひとりがヨハネに声をかけてくれました。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5節)。「ユダ族から出た獅子」というのは、創世記第49章に由来する言葉です。イスラエルの12部族のうち、ユダ族からは獅子のごとき真実の王が出るという預言があったのです。それをヨハネも覚えていたからこそ、この長老の言葉は深い慰めになったでしょう。「泣くな、見よ、ユダ族から出た獅子が勝利を得て、巻物を開くことができる」。ところが興味深いのは、それに続く6節に小羊が登場することです。「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た」。その小羊が、「玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った」(7節)というのです。

まさにこのところから、神が神であられることが明らかにされていきます。ですからある人は、ここにヨハネの黙示録の頂点があると言いました。ところがそこに登場するのが、ライオンではなく小羊であったというのは、たいへん不思議なことだと思います。まさにここに、神のご支配の秘密があります。神の御子キリストは、獅子のごとき力を持ちながら、いや、まさにそれほどの力を持っておられたからこそ、屠られた小羊であることを貫くことができた。この屠られた小羊を通して、神の御心のすべてが明らかにされるのです。

ヨハネの黙示録をこのまま読み進めていくと、いやでも覚えさせられる特徴的な言葉は、〈獣〉という表現です。〈獣の支配〉です。この獣とは、常識的にはローマ帝国の支配のことを指すと理解することができると思いますが、何もそれだけに限ったことではないと思います。人間の作る世界は、いつでも獣の支配を呼び起こすような、それを喜ぶようなものでしかない。私ども自身が、本物の人間になっていないからです。改革者カルヴァンは言いました。神を神としてあがめることをしない人間の状態は、野獣よりも悲惨である。その〈獣の支配〉に対抗するように、神はひとりの方を遣わしてくださった。それが、見よ、屠られた小羊だと言うのです。イザヤ書第53章7節を思い起こしておられる方も多いでしょう。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

屠られた神の小羊、けれども永遠の勝利を得たユダ族の獅子であります。このお方を礼拝する以外に、私どもが人間らしく立つ道はないのです。

■最後にもうひとつ、10節にたいへん驚くべき表現があります。

彼らをわたしたちの神に仕える王、
また、祭司となさったからです。
彼らは地上を統治します」。

小羊の支配を語るのかと思ったら、そこにとどまらず、「彼らは王となり、祭司となる。彼らは地上を統治します」と言います。その「彼ら」というのは、9節にあるように、屠られた小羊の血によって贖われた人たちです。私どものことです。神の支配は、具体的には、私どもを通して成り立つと言うのです。この世を支配するのは天皇でもない、ローマ皇帝でもない、キリスト教会こそが地上を統治するのだと言います。しかもそこで、ふんぞり返ることは許されません。私どもは二度と、獣になるわけにはいかないのです。そうではなくて、私どもが王であるための大切な特質は、この王たちは「神に仕える王、また祭司」であるということです。私どもの罪はむしろ、神に仕え抜くことができなかったところにあるのです。けれども今はそこから解き放たれて神に仕え、そして、小羊イエスのご支配を共に担う者として、今ここに立つのです。そのための礼拝であります。

私どももまた、獅子のごとき力と自由を持ちながら、だからこそ愛に生きる。奉仕に生きる。小羊イエスに倣って。そのような教会の存在が、この世界にとってどんなに尊いことか。感謝と確信を持って、世の終わりまで、礼拝の生活を続けさせていただきたいと、心から願います。お祈りをいたします。

主なる御神、今、あなたの御子が教えてくださった祈りを、もう一度すべての思いを込めて繰り返します。み心が行われますように、天におけるように、地においても。右を見ても、左を見ても、自分自身を顧みても、獣の支配しか見えません。今、この礼拝の場所で、流すべき涙を流すことができますように。その涙を払うあなたの言葉を、明確に聞き取ることができますように。屠られたかに見えた小羊が既に勝利していることを、この世界は既に御子キリストのご支配のもとにあることを、確信をもって受け入れることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン