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悪のリストではなくキリストに連なって

2020年11月29日

中村 慎太
申命記 第17章1-7節
コリントの信徒への手紙一 第5章9-13節

主日礼拝

聖書には、主イエス・キリストが私たちに語ってくださった大切な言葉がいくつもあります。その中で、私たちの人生の目的も示す、特に重要な主イエスの言葉を挙げようと思います。皆さんは、どのみ言葉を思い浮かべますか。キリスト者、教会の使命をはっきりと伝えている、主の言葉を挙げるとしたら。
 大切な主の言葉はいくつもありますが、ここで二つを挙げます。
 一つ目は、主イエスが最も重要な掟としてお教えになった言葉です。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。

そして、もう一つ挙げます。大宣教命令と言われる主の御言葉です。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

 主イエスは、私たちの人生の目的を、そして教会の使命をはっきりと示すために、これらの言葉を私たちにお与えになりました。私たちが人生の目的や私たちに与えられた使命を見失いそうになった時、ぜひこれらの言葉をはっきりと心に抱きましょう。そしてこれらの言葉は、私たちの大きな導きと支えとなるはずです。
 ある牧師は、この二つの主の言葉から、私たちの人生の目的を簡潔に、5つでまとめました。私たちの人生の目的は、礼拝、奉仕、伝道、交わり、弟子訓練なのだと。
 主を愛し、礼拝をささげる。隣人を自分のように愛し、共に奉仕をする。すべての民を弟子にするために、伝道する。父と子と聖霊の名による洗礼から、主にある交わりを拡げていく。主の命じられたことを守ることで、次の主の弟子を訓練していく。
 礼拝、奉仕、伝道、交わり、弟子訓練、この5つを大切にしていくことが、主に造られ、愛されている、人の本来の生き方です。教会の在り方です。
 もし、主から与えられたこの私たちの目的、使命、を見失うと、私たちはどうなるでしょう。もしそんなことになったら、私たちは、キリスト者として歩むのが困難になります。この主の使命を見失うと、教会は進めなくなります。
 実はかつて、コリントというところにある教会で、この目的、使命を見失いそうになる危機がありました。特に、先ほどの5つの目的の言葉で言えば、弟子訓練という目的を、コリント教会は見失っていました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という、主イエスの大宣教命令に基づいて進むことが、できなくなっていたのです。
 私たちは、コリントの信徒への手紙一から、その危機を読み解くことができます。この手紙は伝道者パウロによって記されました。伝道者パウロは、コリント教会が主の使命に生きられるように祈り続けました。そして、手紙を送ることでコリント教会を励ましました。「キリスト者には、教会には使命がある、それを思い出そう」と、言葉を尽くして手紙を記したのです。
 今日は第5章の9節から読みました。第5章の最初から読むと、コリント教会にみだらな生活を送っている人がいたとのことが記されています。具体的に言えば、父親の妻を、自分の妻のようにしていた男がいたというのです。
 しかし、コリント教会はそのような教会員を、黙って見逃していたということです。教会の皆で、そのような生活をしている人を、聖書の教えに基づいて教え諭そうとすることがなかった。その信徒に、「そのような生活はやめて、イエスさまに救われた者として、神さまの教えに従って歩もう」と教え諭すことをしなかった。
 むしろ、パウロに言わせれば、コリント教会は高ぶっていた、とまで言われます。もしかしたら、そのような生活をしていた信徒を、「今までにない新しい生き方をしている」として、どこか認めていたのかもしれません。
 しかし、パウロはそのような教会の姿勢を、非難します。パウロは、そのようなみだらな者とは交際しないようにと伝えました。今日私たちが共に聴いた第5章9節の最初です。

「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」。

ところが、コリント教会の人たちは、そのパウロの手紙を聞きながら、パウロの伝えたこととは違うことを思いました。コリント教会の人々は、まだ教会につながっていない人、つまり教会外の人でみだらな生活をしている人のことをパウロは言っているのだと思いました。
 聖書の教えをまだ知らず、みだらな生活をしている人は、コリントの町に、教会の外には、たくさんいたはずです。だから、コリント教会の人々は思ったようです。「パウロの言うように、みだらな行いをする人すべてと付き合わないようにするのは、大変なことだ、そんなことは不可能だ」と。
 そのように考え、パウロの教えを実行できなかったコリント教会の人々に、パウロは改めて伝えます。第5章10節から。

「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

パウロが伝えていたのは、教会の内側のことでした。コリントの教会員でそのようなみだらな行いをする人、不道徳な行いをしている人がいたら、つきあわないように、と伝えていたのです。
 さて、このようなパウロの言葉は、厳しいものでもあります。この第5章だけを切り取って読むと、私たちはなかなか理解できません。「なぜ、ここまでパウロは厳しい言い方をするのだろう」と。
 しかし、パウロは目的を持ってこの手紙を記しています。パウロは、主の体である教会を建て上げるのに、力を尽くしていました。主の与えてくださった、礼拝、奉仕、伝道、交わり、弟子訓練という使命を、しっかりと抱きながらすすむ教会。そのような教会を建て上げるために、ここまで力を尽くして伝えていたのです。その視点がないと、この箇所を読み解くことができません。
 さらに言いましょう。私たちもまた、心にこの主から与えられた人生の目的、使命を抱かないと、コリント教会の人々と同じ過ちに、陥ってしまいます。
 コリント教会の人々は、主イエスの言葉や主イエスのなさったことを、知識として受け取っていたところがあります。「ユダヤにはナザレのイエスという、こんなすごい人がいた、そして、わたしたちはそのことを伝えられて、良く知っている」と。しかし、ただ主の出来事、言葉を知っていても、それが自分たちの救いであることを、心に抱かなければその福音は響きません。
 あるいは、コリントの教会の人によっては、主の救いを感謝しつつも、それを自分だけのものにしていたところも言えるでしょう。「自分は救われた、ああよかった。キリストによってわたしの罪は赦された。だから、わたしはもう、何をしても赦される」。
 そのように主イエスの救いのことを、知識として、自分だけのものとして受け取ってしまうと、その者の教会生活は御心に従ったものではなくなってしまいます。コリント教会で、教会員でありながらみだらな生活をしていた人、そして黙ってそれを見過ごしていた教会の皆が、その罪に陥っていたことになります。
 しかし、教会の目的はただ自分たちが救われただけで終わらないのです。救われた者として、主を愛し、隣人を愛し、伝道するために共同体で励まし合い、教え合う群れです。
 主イエスは、私たちの罪が赦されるように十字架にお架かりになりました。それこそ、私たち自身が、みだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちであったのです。その罪を秘めていた者たちだったのです。しかし、主はその私たちを罪から救われました。その救いは、教会という主に結ばれた群れ全体を救うほどの、大きな出来事でした。私たちはその教会の一員とされました。私たち一人が、一人の力で主イエスの救いに入ったのではありません。主が私たち皆のために命を投げだしてまで救いを起こしてくださったのです。教会というこの群れ皆に救い与えるため、さらに言えば、世界中の人たちに救いを示すために、主は十字架に架かられたのです。
 教会はその救いに与って、その救いを共に喜び、そして伝える群れ、共同体です。
 私たちにも、コリント教会に起こったような誘惑はあります。聖書を学んで、自分の心が安らかになればそれでいいと思うようなことがあります。自分が救われたことが分かって元気をもらって、それで満足してしまいそうになるのです。教会の兄弟姉妹のことを、真剣に祈ること、世界の救いのために祈ること、そういうことをしないで、自分だけの満足で終わってしまうことが、あるかもしれないのです。
 しかし、教会はそれだけの群れではありません。何より、主イエスがそのようなことを望まれていません。主は、教会に、礼拝、奉仕、伝道、交わり、弟子訓練を望まれて、大切な言葉をお伝えになったのです。
 教会は、主に救われ、聖なる群れとさせられた喜びを抱いて、今度は皆で励まし合って、主の教えに実際に従っていく群れです。それによって、主の救いに入れられた喜びの共同体を、世界に証ししていく群れです。そして、主の弟子を新たに生まれさせ、伝道を続けていく群れです。
 パウロはそのような教会を立ち上げるために、ここまで厳しいことを伝えました。
 ただし、教会が教会員でみだらな行いをしている人にここまで厳しい処置をするにしても、そこにはその教会員が悔い改めて立ち帰ることを祈っていたことが前提にあります。そのみだらな行いをする教会員をただ排除するのではなく、祈り、教え、諭したはずです。
 そして、これらの言葉は、今の教会である私たちにも与えられている言葉です。
 私たちの鎌倉雪ノ下教会などの改革派と呼ばれる教会が、戒規という戒めの弟子訓練を大切にしています。互いの罪の問題にも、共に祈り合い向き合う群れとなっているのです。
 今日の箇所で、パウロが教会の外にいる人たちとの交わりについても言及していることは、重要なことです。もし教会外の不道徳な人とつきあわないのなら、「あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」とまでパウロは言います。教会は世から離れ去った群れではありません。教会は、世に向けて主を証しする主の弟子たちの群れです。私たちは、自分たちだけの救いに目を落とさないのです。主イエスに救われたら、今度は誰かの救いを祈ります。
 皆さん、信仰を告白して、教会の一員になる時、なった時のことを思い起こしてください。これからそのような時を迎える人がいます。今日そのような大切な時を迎える人もここには集っています。もうそのように信仰を言い表した人は、かつて自分がその信仰を言い表した時を思い起こしてください。
 信仰を告白する時、主イエスを救い主として告白し、その救いに入れられた喜びを、私たちは与えられます。私たちはその喜びを常に忘れないようにしたいのです。そして、今度はその喜びを、誰かに証ししていくのです。
 皆さんはその喜びを、教会の誰と分かち合いますか。まだ教会に繋がっていない誰に伝えたいですか。家族、友達、知人。誰を思い浮かべますか。
 私たち教会の群れは、そのように教会の内側だけで終わる群れではないのです。教会は主の福音を教会の外にも向かって証ししていきます。
 今日の聖書の箇所から、私たちは教会の根本を、私たちの人生の根本を見つめ直すきっかけとしましょう。主イエスの言われた大切な二つの御言葉を、心に抱きつつ歩む群れとなりましょう。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

主よ、教会があなたの御心に従って歩めるように導いてください。あなたから与えられた救いの喜びを抱きつつ、あなたの群れとして歩めますように。そのために互いに心を尽くして祈れる群れでありますように。主の弟子が増え、主の救いがさらに世界に伝えられていきますように。