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どっちが大切なの?

2017年5月28日

上野 峻一

教会学校・小礼拝合同礼拝説教

ある時、イエスさまは、たくさんの人たちを見て、小高い山へと登られました。しばらく登って、腰を下ろされると、お弟子さんたちがやってきました。そこで、イエスさまは、口を開き、「幸せだ。心の貧しい人たちは」と、次々と、たくさんのことをお語りになりました。そこは、とても自然が豊かな場所でした。今みたいに大きなビルも、車も、電車もありません。そこにあったのは、原っぱに石や岩、虫や鳥もいたでしょう。少し見渡せば、ガリラヤ湖が見えたかもしれません。自然の中で、ゆっくりゆっくりと、イエスさまの御言葉が、人々の心の中にしみわたりました。今日の聖書は、そのようにしてイエスさまがお語りくださったことの一つです。

「だから、言っておく。自分のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで、何を着ようかと思い悩むな。命は、食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」今日は、朝ごはん何を食べてきましたか。もしかしたら、食べてないという人も多いかもしれません。私も朝ごはん食べていません。いけませんね。保育園や幼稚園、学校では、一日体を元気にするために、朝ごはんは必ず食べてきましょうと言われます。その通りです。朝、ご飯を食べないと、お弁当や給食、お昼ごはんになる前にお腹が空いてしまいます。お腹が空くとどうなりますか。元気が出ませんね。友達と遊んだり、勉強している時に、何だかお腹空いてフラフラします。運動していたら、お腹が空き過ぎて倒れることもあるのです。そんなことになったら大変です。また、これから、どんどん暑くなって来ます。そうすると、たくさん汗をかくので、私たちは、いつも水筒やペットボトルをもって、喉が渇いたら、飲み物を飲みます。そうしないと、体の中の水が足りなくなって、これまたフラフラして、倒れてしまいます。だから、私たちには、食べ物も、水も、欠かすことのできない大切なものです。自分の命を生かすためには、どうしても必要なものなのです。

また今日、皆さんはお洋服を着ていますね。裸の人は一人もいません。もしいたら、これも大変です。寒くて風邪をひいてしまいます。それに、裸で外に出ようとしたら、当然みんなから止められます。寒いときはたくさん着たり、暑いときは汗を吸って渇きやすいものを着たりします。また、転んだり、ぶつかったりした時には、ケガをしないためでもあります。もちろん、オシャレをするためにお洋服を着ることをありますが、お洋服を着るのは、皆さんの体を守るためです。だから、私たちには、服は欠かすことのできない大切なものです。自分の体を守るためには、どうしても必要なものなのです。

ところが、私たちは、時々、この大切なことがわからなくなってしまいます。食べるのも、飲むのも、そして、お洋服も、自分の命のためなのに、自分の体のためなのに、そのことを忘れて、食べ物や飲み物のことで、思い悩んでしまうのです。思い悩むということを、他の言い方をすると、思い煩うとも言います。煩うとは、病気になるということです。何を食べようか、何を飲もうかと、迷ったり悩んだりして、色々と考えて、考えて、考え過ぎて、病気になってしまうというのです。これまた大変です。

イエスさまは、私たちの心を、人間のことをよくよくご存知でした。私たちが、食べ物や飲み物、着る物のことで、迷って、悩んで、考え過ぎてしまって、大切なことを忘れてしまう者だということを、知っておられたのです。だから、イエスさまは、このように言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」イエスさまが、小高い山の上で、お弟子さんたちに、お話をしてくださっていた時、丁度、その上を鳥が飛んでいたのかもしれません。「ほら、あの鳥を見なさい。」そうおっしゃったのかもしれません。また、そこに生えていた小さな花を見つけて、「ほら、この花を見てみなさい。」そうお話くださったことでしょう。

辺りを見回せば、たくさんの鳥や動物、草花があるその一つひとつは、人間のように、あくせくしていません。私たちのように、何を食べようか、何を飲もうか。何を着ようか。あれが嫌い、これが好き。あれが、欲しい。これを買ってくれなきゃ嫌だ。迷って、悩んで、考えて、あるいは、それによって、本当は楽しい時間を台無しにたり、そのことで、誰かに嫌な気持ちをぶつけたり、それはもう、自分では気づかないうちに、まるで、どんどん病気になっているかのようです。しかし、イエスさまは、あなたたちは、何を食べようか、飲もうか、着ようかと、思い悩んではならない。本当に大切なことを思い出しなさい。なぜなら、それは、そもそも私たちを愛してくださる父なる神さまが、必ず養ってくださる。しっかりと見守って、育ててくださる。だから、何も心配することはないからです。必要なものは、すべて神さまが、お与えくださるとイエスさまは言われるのです。

それは、私たちが、「鳥よりも価値あるものだからです。」価値とは、少し難しい言葉です。何だか、お金でしか物事を考えられないもののようです。ただし、本当の意味はそうではありません。これは、「他とは違って、良い」ということです。神さまが世界を造られた創世記には、神さまは、一つひとつものを造る度に、「良い」と言われました。ところが、私たち人間を造られた時には、「極めて良かった」とされます。そして、他の生き物をしっかりと見守る役割を与えます。それは、私たちが、神さまと応答できる存在だからです。神さまの御言葉に聞いて、それによってしっかりと行動できるということです。

今日の御言葉が書いてある聖書には続きがあります。その最後には、イエスさまが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」「何よりもまず」です。色々なことがある中で、何を食べようか、飲もうか、着ようかと、あれこれ考えたり、悩んだり、迷ったりする中で、「最初に」ということです。神の国は、神さまの支配です。神の義は、神の正しさです。簡単に言えば、神さまなら、イエスさまなら、どうされるのか、どうお考えになるのか、大事なことは、まず御言葉に聴くということです。そして、その時、本当に大切なことに気づかされます。

食べ物や飲み物と、自分の命はどっちが大切ですか?着る物と自分の体はどっちが大切ですか?「そんなことは、わかっているよ」と言いたくなります。けれども、それがわからなくなるのが、私たちです。自分の欲しいものや、自分のしたいことが何よりも大切になって、神さまのことを忘れ、周りの人のことも考えず、自分にとって、本当に大切なことにも気づけずに、知らず知らずに自分で自分のことをダメにしてしまうのです。それはすべて、神さまを忘れることに原因があります。これが罪です。この罪が、私たちにはあるのです。しかし、何も恐れる必要はありません。私たち一人ひとりは、神さまに愛されています。罪は、イエスさまによって赦されています。神さまは、このように自分でも気づかないうちに、自分で自分を壊してしまう私たちを救うために、イエスさまをお与えくださいました。そして、イエスさまの御言葉に聴いて、イエスさまに従って生きるようにと、いつも導いてくださるのです。イエスさまの十字架は、この神さまが私たちを愛してくださる確かなしるしです。だから、何よりもまず、神の国と神の義を求めるのです。そうすれば、他のものは、必要なものは、加えて与えられます。御言葉によって、大切なことを思い出して、神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛していく歩みを、もう一度、そこから始めるのです。今日この礼拝から、それぞれの場所へと送り出されていく時、お花をもって感謝を伝える時、何よりもまず、イエスさまの御言葉を、神さまの想いをもって、そこへと向かいましょう。お祈りをいたします。