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さいわいを創造する主

2016年5月1日

マタイによる福音書
第4章23節―第5章12節
川﨑 公平

主日礼拝

マタイによる福音書の第5章から第7章にかけて、主イエスが山の上で語られたと言われる言葉がまとめられています。〈山上の説教〉と呼ばれます。多くの人の心を惹きつけてきた言葉です。多くのキリスト者たち、またキリスト者でない多くの人たちが、この主イエスの言葉に心を動かされてきました。

「敵を愛しなさい。右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」。「空の鳥、野の花を見なさい。明日のことまで思い煩うな」。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」。こういう言葉に感銘を受けたり、反発したり、困惑したり、途方に暮れたり……それがどういう心の動きであれ、多くの人が主の言葉に心を動かされてきた。少なくとも、無視することのできない力を、この山上の説教は持ち続けてきました。そのひとつの理由は、ここに私どもの生活の姿が具体的に語られているからだと思います。

一方から言えば、たとえば右のほっぺたを殴られたら左側もどうぞと差し出してあげなさいとか、並大抵のことでは実行不可能だということは、誰でも気づくことです。けれどもそれでは、やられたらやり返す生き方と、主イエスの語られた生き方と、本当に幸いな生活の姿はどちらなのか。主イエスの語られた言葉は、決して忘れ去られることなく、人びとのこころに生き続けました。そして私どもも、これらの主イエスの言葉を忘れることができないから、改めてこれを読もうと志しているのです。

今も、主イエスは私どもひとりひとりに語りかけてくださる。そう信じて、この山上の説教を読みたいと願います。かつて『信徒の友』という雑誌に、山上の説教についての文章を連載したことがありました。そのとき編集者の方から、この連載にサブタイトルをつけてほしいと乞われて、「主イエスに出会う道」としました。〈山上の説教〉を読むことは、主イエスに出会うということにほかならない。逆に言えば、主イエスに出会いそこなったところで、山上の説教の文字だけを読むならば、こんな危険なことはないと思うのです。

たとえば第5章21節以下には、「腹を立ててはならない。腹を立てることは、人殺しと同じだ」と言われる。こういう言葉と向かい合いながら、いや、そんなばかなと困り果てるときに、しかし私どもは、決してひとりぼっちで困り果てることのないように気をつけたいと思います。これらの言葉を、今このわたしに語りかけてくださるのは、主イエス・キリスト。感銘を受けたり、あるいは逆に反発したり、まさにそのようにして、主イエスに出会うことができるように。ああ、本当に主イエスはわたしのために語りかけてくださるのだ、ということが分かるまで、この山上の説教を読み抜きたい。しかも、そこに喜びが溢れてくるような読み方をしたいと願っているのです。

主イエスは山に登り、語り始められました。そこにいるひとりひとりのことをじっと見つめながらお語りになったと思います。「心の貧しい人よ、あなたは幸いなのだ」。「悲しむ人よ、幸せな人とは、あなたのことなのだ」。それはいったい、誰のことなのでしょうか。今お話ししたことから言えば、はい、それは私のことですということになるかもしれない。けれどもここで、もう少し丁寧に聖書を読み解きたいと思います。

主イエスはこれらの言葉を、いったい誰に向かって語られたのか。聖書の学者たちは、こういうことについて案外丁寧な議論をします。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」と言います。ここに出てくるのは、まず群衆であり、そして弟子たちです。弟子たちというのは、たとえば第4章18節以下で、四人の漁師たちが突然主イエスに声を掛けられて、すべてを捨てて、つまりそれなりの覚悟をもって、主に従った。それが弟子たちでしょう。

それに対して群衆というのは、もう少し距離があるかもしれません。第4章23節以下に出てくる人たちです。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来た」。とにかくこのイエスという男について行けば、いいことがあるかもしれないと思ったのです。悩みがあったから、自分の愛する者が悩んでいたから、「イエスさま、助けてください」と言って、その悩みを主イエスのところに持って行きました。ただ闇雲について来ただけかもしれない。その群衆のことを、主イエスはどうご覧になったのでしょうか。

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」。群衆をあとに残して、弟子たちだけを連れて山に登られたのだろうか。けれども山上の説教の終わりのところには、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(第7章28節)とありますから、実はどうやら群衆も聞いていたようだ。しかしたとえば、「あなたがたは地の塩、世の光である」とか、「敵を愛しなさい」などという言葉は、自覚的に主に従って来た弟子たちのための言葉であるとしか読めないだろう、という議論もあるのです。皆さんはどうお考えになるでしょうか。

特にここで、合わせて読んでおくべき言葉があります。第5章から第7章までは主の言葉が集中的に伝えられます。それに続けて第8章と第9章では、今度は主イエスのみわざについての記事が続きます。そしてその第9章35節に、改めて主イエスの働きを総括するように、こう言うのです。そこに今日読みました第4章23節とほとんど同じことが繰り返されます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。主イエスのなさったことは、要するに、「会堂で教え、福音を告げ、病気をいやされた」、このことであった。そして、その背後にある主の思いを、第9章36節では続けてこう言います。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。

群衆は何も分かっていなかったかもしれない。「幸せになりたい」という、ただのご利益信仰でしかなかったかもしれない。しかし聖書は、このような群衆を批判したり、軽蔑したりするのではなく、ただ、その群衆に注がれた主の深い憐れみを語るのです。

この人びとに対する主イエスの思い、深い憐れみがあふれ出て、そこに生まれてきた言葉であります。「心の貧しい人よ。あなたは幸いだ!」 私どもも等しく、主の憐れみに捕らえられ、主の祝福を聴かせていただいているのです。
この群衆が共通して抱いていた願いは、まことに素朴なことでした。「幸せになりたい」。これは人間としての当然の願い、根源的な願いと言ってもよいかもしれません。そして、この群衆も何かを感じ取ったのだと思います。このイエスというお方は、何かを持っている。この方こそ、真実の幸いをもたらしてくれるのではないか。

しかしそこで主が、「心の貧しい人は幸いだ」「悲しむ者は幸いだ」と言われたのは、こうしたら幸せになれますよ、というような、幸せのノウハウを語っておられるのではありません。「よし、今日から幸せになるために、一所懸命心を貧しくしよう、悲しみを深くしよう」。どうもそれはおかしな話だということは、誰だってすぐに気づきます。

かつて『信徒の友』に連載した文章の中で、こういうことを書いてみました。昔から人間は〈幸い〉を問い続けてきた。幸せになりたい。どうしたら幸せになれるのか。そして、ある意味では、牧師というのも人の幸せに仕える職業であろう。そのときに、牧師本人が無責任であってはいけない。つまり、私のような牧師が聖書を片手に、「あなたがたは、幸いなのです!」などと説教しながら、その牧師本人が全然幸せそうでなかったら、文字通り話にならないのです。そこでついでに、ちょっとおかしなことかもしれませんが、占い師だって同じですね、と書いたのです。つまり、こうしたら幸せになりますよ、こうやったら儲かりますよ、と教えてくれるはずの占い師なのに、その占い師本人が全然幸せそうじゃない、全然儲かっていない、ということでは困るのです。そんな占い師のことは誰も信用しない。幸いを語る人間は、その言葉に責任を持たなければならないのです。

けれどもそこで、もう少し問いを深めてみる。私が牧師として、「心の貧しい人は幸いだ」、「悲しむ人こそが、幸いなのだ」という説教をしたとします。その言葉に私が責任を持たなければならないとすると、川﨑牧師は少なくとも教会の皆さんの前では、なるべく暗い顔をしていなければならないのでしょうか。しかしそうなると、牧師は幸せそうな顔をしたらいいのか、暗い顔をしたらいいのか。しかし実際の生活では、こんな意味のない議論をしているいとまもないのが普通だと思います。

「あなたの敵を愛しなさい」と言われます。けれどもやっぱり実際には、嫌いな人は嫌い、苦手な人は苦手。こういう思いに勝つことができず、夜も眠れないほど悩むということが、しばしば私どもの現実になる。私だって例外ではありません。「明日のことを思い煩うな」と言われます。何も心配いらない、父なる神が、あなたがたのことを愛してくださるのだ、などと説教する私のような人間が、たとえば財布をとられたりしたら、たったそれだけのことで、しばらく他のことは何も考えられなくなるかもしれません。おそらく皆さんが考えている以上に、私は霊的に貧しい人間であると思っています。

まさにそういうところで、主の言葉を聴くのです。主イエスが、このわたしに語りかけてくださる。「お前の心は、本当に貧しいね」。「心の貧しい人よ、あなたは幸いだ」。そう言われるのです。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」た主イエスが、「心の貧しい人は、幸いである」と言われたのは、「あなたを幸せにするのは、このわたしだ」という意味でしかないのです。
皆さんに覚えておいていただきたいことがあります。祈っていただきたいことがあります。5月22日の伝道礼拝において、改めて第5章4節の「悲しむ人々は、幸いである」という言葉を読みます。皆さんの中に、今悲しんでおられる方があるならば、ぜひ22日の礼拝に来ていただきたい。皆さんの周りに悲しんでおられる方があるならば、ぜひそういう人を22日の礼拝に連れて来ていただきたい……と一所懸命宣伝すべきところですが、正直に言って、あまり自信はありません。第4章の終わりにあるように、悩む者、苦しむ者、悲しんでいる者が礼拝堂に殺到して、さあ、この教会の牧師は何を語るのか、ということになったら……足がすくむ思いがします。愛する人を失って、涙が止まらないという人の前で、「あなたは幸せですね」なんてことを、どうして、どんな言葉で言うことができるか。

私どもにできるのは、ただ主イエスのことを紹介することだけです。あの群衆に深い憐れみを注がれたお方が、今も生きておられ、私どもに語りかけてくださることを信じて、その言葉を聴くのです。「悲しむ人よ、わたしがあなたを慰める。あなたを幸せにするのは、このわたしなのだ」。そう語りかけてくださるのは、主イエス・キリスト以外にないのです。

「山上の説教」と呼びます。古くは「山上の垂訓」とも呼ばれました。しかしそこで、皆さんに考えていただきたいことがあります。最近、この教会で長く牧師をなさった加藤常昭先生が『説教への道―牧師と信徒のための説教学』という書物をお出しになりました。その書物の冒頭で、そもそも「説教」という用語が果たして適切だろうかと問い直しておられます。礼拝で語られるべきは、「教えを説く」言葉ではない。「説教」ではなく「福音」と呼ぶべきだという問題提起をしておられます。

しかもここでは、主イエスの語られた「山上の説教」が問題になります。これを「教え」として聴くのか。しかも私どもを途方に暮れさせるような難しい教えとして聴くのか。それとも、福音として、喜びの知らせとして聴くのか。「山上の福音」と呼ぶほうがよいのです。既にマタイが、第4章23節でこう言いました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」。主イエスが「諸会堂で教え」られたその教えは、「御国の福音」でしかなかった。「御国」というのは「神の支配」ということです。私どもにとって神の支配とは、主イエス・キリストが生きておられるということにほかなりません。このお方が、心の貧しい者、悲しむ者に語りかけてくださるのです。この主のご臨在を信じ抜く歩みを、共に作ることができますように。

(五月一日 礼拝説教より)