1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 主イエスのまなざしの中で

主イエスのまなざしの中で

2015年6月21日

ルカによる福音書第22章54―62節
川﨑 公平

伝道礼拝

今日は、伝道のための礼拝です。つまり、まだ洗礼を受けていない方たちのための礼拝です。そういうわけで、友達に誘われて、あるいは家族に勧められて、今日だけはここに来たという方もいらっしゃるかもしれません。そういう方たちの存在を意識した礼拝です。

そのような礼拝で、既に私が多くの方から言われていることは、「頼むから、初めての人にも分かりやすい話をしてほしい」ということで、先週はずっとそのことがプレッシャーになっていました。しかし、私がここでお話しすることは、いつもの礼拝と何ら変わりません。イエス・キリストというお方を紹介するのです。洗礼を受けた人、まだ受けていない人、相手によって話が変わることはありません。イエス・キリスト。どうかこのお方に出会ってほしい。そう願ってここに立ちます。

そのような願いを込めて、たとえば、先ほど讃美歌の354番を歌いました。もしかしたら、今日礼拝に来てくださる方の中に、昔、教会学校に通ったことがあり、この讃美歌を歌ったことがあり、懐かしく思ってくださる方がひとりでもいればありがたいと思ったのです。「かいぬしわが主よ、まよう我らを/若草の野べに導きたまえ」。主イエスが皆さんを導いてくださったから、今日皆さんはここにいる。私はそう信じます。

しかしそこで問題は、イエスさまに出会ってほしいと言われたって、このお方の姿は目に見えないということです。これは私が伝道者としていつも苦労していることですが、一方ではとても大切だと思っていることなのです。神は目に見えない。主イエス・キリストも、今は目に見えない。そのことを大切にしますから、たとえばこの礼拝堂の中にご神体があるわけではない。イエスさまの像を置いたり、絵を飾ったり、そんなこともしない。けれども、ここに教会があります。教会というのは、建物のことではありません。主イエス・キリストを信じる人たちの集まりのことです。私は、皆さんに神をお見せすることはできませんけれども、教会をお見せすることはできます。具体的に言うと、たとえば皆さんの中に、今日は妻に引っ張られてここに来たという方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は、ご自分の奥さんを見ればよいのです。

「初めての人にも分かりやすい」と聞いていたのに、何だか話が難しくなってきたと思われるかもしれませんが、ここがいちばん大切なところです。まだ洗礼を受けていない方たちにお願いをしたい。この教会の人たちを見てください。この人たちを見れば、神の恵みが分かるようになる。その意味では、既に洗礼を受けておられる方たちにもお願いをしたいのであって、「わたしなんか見ないでください、神を見てください」などとは言わないでほしいのです。だいたい「神を見てください」などと言われても、神は見えません。見えるのは皆さんの姿だけです。

もうひとつ、今日の礼拝で歌おうと思いながら、いくらなんでも断念せざるを得なかったのは、「ひかりひかり」というこどもさんびかです。「ひかり ひかり わたくしたちは ひかりのこども」。そう歌います。私も子どもの頃よく歌いました。

ところで、こういうことを聞いたことがあります。今ここの教会学校でも使っているこどもさんびかは、十年ほど前に改訂されたもので、「ひかりひかり」は入っていません。日本基督教団の讃美歌委員会がこれを外した。なぜか。「わたくしたちは ひかりのこども」。それを説明して、「ひかりのように あかるいこども」「げんきなこども」「ただしいこども」と言い換えていきます。これがけしからんという意見があったそうです。明るく元気な子どもでなければならないのか。こういう大人の側からの押し付けはけしからん、というわけです。明るく元気でなくても、あるがままの自分が神さまに愛されているのではないか。しかしこういうことは、子どもでなくても問題になるかもしれません。今日の礼拝が終わって家に帰ってから、ご主人にいろいろ言われてしまう人がいるかもしれない。お前、光のこどもらしいけれども、別に全然明るくないなあ。しかし私は、まずこんなすばらしい讃美歌が消えていくということはとても残念だと思いますし、もしもそこで、「わたくしたちは ひかりのこども」という信仰まで捨ててしまうとしたら、とんでもない間違いだと思っています。この鎌倉雪ノ下教会も、「ひかりのこどもたち」の集まりである。私はそう信じています。

聖書を読みました。ペトロという弟子の名前が出てきます。のちに教会の指導者のひとりになりました。そのペトロが、主イエスが十字架につけられるための裁判を受けておられたときに、「わたしはあんな人のことは知らない」と、主イエスとの関係を、しかも三度繰り返して否定してしまいました。

多くのキリスト者が、深い痛みをもって、このペトロの姿を心に刻みます。しかも、この出来事の厳しさをなお深くいたしますのは、既に主イエスが、このことをはっきり予告しておられたということです。今日お読みしたところの最後にあるように、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主の言葉を、ペトロはつい数時間前に聞いたのです。しかもそのときペトロは、「先生、死ぬ時は一緒です。先生を知らないなどと、口が裂けても言いません」、そう言ったのです。そのことを思い出して、激しく泣きました。

このペトロの姿を見れば、神の恵みが分かる。主イエス・キリストの恵みのすばらしさが見えてくる。もっと言えば、ここに神の光が輝いている。多くの人がそう信じ、このペトロというひとりの弟子を記憶し続けました。

なぜ、このペトロという弟子は多くの人に愛されるのでしょうか。ひとつの理由は、多くの人の、より正確に言うと多くのキリスト者の共感を呼ぶからだと思います。なかなかイエスさまのことを証しできない。たとえば、できれば家でも食事の前に祈ってみたいけれども、夫の顔が目の前にあるとやりにくい。私にも経験があります。私が今でも痛みをもって思い起こすのは、私が大学生のころ、教会に行っていることを恥じていた時期と場所がありました。私は文学部を卒業しましたが、実は、大学二年生までは理系のクラスに籍がありました。その理系のクラスの友人には、教会に行っていることを知られてはならないと思い込んでおりました。大学一年生の春休みに、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったということも深い影響を与えたかもしれません。他の場所では、たとえば合唱のサークルの友達の間では、割とそういうことも気軽に話すことができたのですが、どうしてでしょうね。

そういう私が、大学四年生の秋に、神学校に行く決心をしました。そのことを喜んでくれる友だちと、そうでない友だちがいたことを、今でも思い出します。それでもとにかくその頃は、新しい道に立つのが本当に嬉しくて。そんな折、思いがけず、理系のクラスで一緒だった友人に大学の構内でばったり会いました。「うわ、川﨑、久しぶりー。今文学部で何やってんの?」 神学校のことは何も言わず、「古典ギリシア語の動詞の文法組織について、えーと、通時的な観点から……」などとわけのわからないことを言いました。この何気ないやりとりを、よく覚えています。大学図書館前の噴水の近くで、などということまではっきり覚えています。どうしてそういうことになってしまったのか。

ペトロもまた、自分のした経験の意味を問い続けたと思います。のちに教会の指導者になったペトロが、くり返し、自分の恥ずかしい経験を教会の仲間たちに語ったでしょう。この聖書の記事で興味深いのは、たき火にあたっていたら声をかけられたとか、一時間後にまた別の人が、とか、具体的な描写が目立ちます。ペトロ自身が、忘れたくても忘れられなかったのだと思います。図書館の前の噴水の横で、などというように、ひとつひとつの情景が忘れがたく、それをそのまま教会の仲間たちに何度でも語り直した。それを聞いた教会の人びとも、深く共感しながら聞いたに違いないのです。

ある神学者がこういう文章を書いています。「『わたしはあの人を知らない』というペトロの言葉は、人類の言葉である」。人類の言葉、ということは、キリスト者かそうでないかにかかわらず、ということでしょう。私は、はっとさせられました。これは人類の言葉! その人類が声をそろえて何と言ったかというと、「あなたはイエスと一緒にいましたね」「いいや、違う!」「あなたはイエスの仲間ですね」「いいや、知らない!」 この神学者は、ここに全人類の罪を見るのです。「わたしはあの人と一緒にいたことなんかない。わたしはイエスなしでこれまで生きてきたし、これからもイエスなしで生きていく」。私が大学四年生のときに経験したことも同じだと思うのです。「えーと、古典ギリシア語の文法組織の……」などと言いながら、「わたしはイエスなしで生きている人間だ」。そのことを表明してしまったのだと思うのです。

けれども、そのような人類の言葉を根底から覆すような主のまなざしが、ペトロの心を刺しました。「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61節)。「わたしはあの人を知らない。わたしはあの人に愛されたこともないし、あの人を愛したこともない」。全人類を代表してそのように言うペトロに、主イエスのまなざしが注がれます。「ペトロよ、本当にそうか」。その主イエスのまなざしは、裁きのまなざしではなかったと思います。「ペトロよ、それでもわたしはあなたと一緒にいる」。

この主イエスのまなざしは、何と言っても祈りのまなざしでありました。既に主イエスがペトロの裏切りを予告なさったときに、こう言われたのです。

シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(31―32節)。

主イエスが振り向いてペトロを見つめてくださったのも、この祈りを込めたまなざしでしかなかったのです。「わたしはあなたのために祈った」。このまなざしで見つめられている人間のことを、私ども教会は、「ひかりのこども」と呼びます。神の光を受けているのです。その意味では、この「ひかりのこども」は、明るいだけではないかもしれません。ペトロは泣いたのです。けれどもそのような人間に、主イエスは言われました。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。あなたのような人間が、人を力づけるのだ。主イエスを裏切り、けれども主イエスに祈られ、見つめられているペトロです。

たいへんおこがましい言い方で恐縮ですが、私もまた、ペトロと同じような意味で、皆さんを力づけるためにここに立っているのです。そのような私が語り得ることは、ほとんどひとつしかありません。主イエスに祈っていただいている自分の話をするのです。しかも私は、決して孤独になることがありません。教会の仲間と一緒にここに立ちます。この鎌倉雪ノ下教会は、イエスさまに愛されている人の集まりです。神の光を受けて、光のこどもとされているのです。その人たちと一緒に、私はここで語り続けます。まだ信仰を言い表しておられない方も、どうかこの光の中に入ってきていただきたいのです。

今日、私が「光」という言葉を繰り返しているのは、56節にこういう言葉があるからです。「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った」。この「たき火に照らされて」と訳されている言葉は、原文ではもう少し不自然な表現で、「光に向かって」というのです。「ペトロが光に向かって座っているのを見て」。興味深い表現です。ペトロは、光に向かい合っていた。その光がペトロの姿を照らし出し、それを見た女中が、あれ、この人は、と気づいたのです。

ルカによる福音書は、このような表現によってもまた、ペトロは最初から光の中にいた、ということを伝えたかったのではないでしょうか。ペトロの思いからすれば、人びとに紛れ込んでいれば大丈夫、という気持ちでたき火にあたっていたに違いない。けれどもその光が、自分を照らし出す光だとは気づかなかったのです。「あれ、あなたは、イエスの仲間ではないですか。あなたは光のこどもではないですか」。その事実を否定することほど、人間にとって悲しいことはない。しかし、事実、ペトロは最初から光の中にいたのです。

主イエスのまなざしに捕らえられたペトロの姿を、教会は大切にしてまいりました。そして、これは皆さんの物語です。皆さんの生涯もまた、この光の中にあるのです。

(6月21日 伝道礼拝説教より)