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空しくない言葉

2014年5月11日

イザヤ書55章5~11節
大澤 正芳

主日礼拝

「わたしの言葉は、空しくない」と神は、仰います。預言者が第3人称で、「神の言葉は空しくない」と語るのでなくて、神が、預言者の口を用い、自らの言葉として仰るのです。「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」

力強い言葉です。頼もしい言葉です。神自らが約束して下さるのです。この言葉を語りかける私の言葉に信頼するあなたの期待は、絶対に空振りに終わることはないのだと。

この言葉を神から託された人は、無名の預言者です。今は、イザヤ書の中に納められている言葉ですが、この預言者の言葉は、40章~55章までで独立しているもので、イザヤとは、時代の違う別の預言者の言葉だと言われています。

なぜ、その無名な人の言葉が、預言者イザヤの書と結びついたのか、イザヤが預言した、神の背きへの裁きとしての外国による占領、異国の地に連れ去られる捕囚の開始、そしてそのイザヤが同時に預言していた、いつか来るその捕囚の終わり、それを遂に間近に見て、預言した預言者の言葉が40章~55章の言葉であったからです。イザヤが待ち望んでいた神の言葉は、その慰めの言葉が、時が満ち、この無名の預言者に遂に託されたのです。

この神の言葉を初めて聞いた人たちが待ち望んでいたことは、具体的なことです。民族が、外国の支配を脱し、先祖伝来の土地に戻ることです。

捕囚から数十年、遂に、待ち望んでいた解放の到来を告げた預言者の言葉、それが、イザヤ書40章~55章にかけての無名の預言者の言葉でした。神は彼を通して、語り始められたのです。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザヤ40:1、2)

自由になるのです。苦役の時が満ちて、やっと故郷に帰れるのだと、神がそのように語られているのだと預言者は語りだしたのです。

ある神学者は、言います。「これまで主は、いかなる預言者の口を通しても、このように語られることはなかった。これまで、その言葉において、これほど低く、自分の民に向かって身を低くし、臆病になっている者をひるませることのないように、一切の恐るべきことを語らないですまされることはなかった。」イザヤ書40章~55章は、それほどに優しい言葉に満ちているのです。

主なる神さまは、この預言者において、手を変え、品を変え、慰めを語ります。あなたはわたしの目に価高く貴い、だから、今すぐにあなたを贖い救い出す。私があなたを背負い、あなたを運ぶのだ。そして、一連のそのような約束の言葉が解放の到来が近いという慰めの言葉が語られた後に、私たちが今日読んだ聖書の言葉に至るのです。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(55:10、11)

預言者の結びの言葉です。神の慰めの言葉は、今まで語られた言葉は、実体の伴わないものではない、慰みの言葉ではない、神が捕囚が終わるのだと仰るならば、必ず、捕囚は終わるのです。そして、この神の言葉が響いてしばらくのちに、歴史の事実として、ユダヤ民族は、エルサレムに帰ることができました。捕囚が終わったのです。

私たちは想像します。世界史に刻まれた歴史の出来事となって起きた預言者の言葉を、この言葉をはじめて聞いた人々は、どんな思いでこの言葉を聴いたのだろうか? きっと喜んだに違いないと。このイザヤ書40章以下に記された神の言葉を最初に聴いた人はどのような反応を示したのか? 実は、私たちは想像を膨らませなくともどういう反応を示したか知っています。

このイザヤ書40章以下に記された神の言葉を最初に聴いた人が、どのような反応を示したかはまさにこの神の言葉を最初に聞いた人、預言者自身の反応が記録されていることからわかるのです。この預言者の語りだしの言葉である、イザヤ書の40章に神の言葉とその言葉に出会った預言者の物語があります。

神の言葉は彼に響いてきました。「慰めよ、わたしの民を慰めよ……苦役の時は満ち、彼女の咎は償われた……罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた……」(40:1~2)

捕囚の終わりを告げる言葉です。民が、求め続けてきた解放です。

ところが、この預言者はこのような神の言葉を語るようにとの召命を受けた時、すなわち、イザヤ書40:6で、この預言者は、既に神の言葉が響いてきたにも関わらず絶望し続けていました。

神は、彼を召して言うのです。「呼びかけよ」と。しかし、この人は神に歯向かって言うのです。「何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」ではないかと。

呼びかける言葉など持たない。人間は草花に等しい。絶望するほかない。それは、目に見える世界史の状況がいまだ変わるところがない、捕囚から解放される兆候などどこにもない。そういう歴史的な状況を語っているのでしょう。しかし、それだけではないと思う。彼の絶望は、それだけではない。

一つの苦しみが、私たち人間存在のより深い苦しみを明らかにすることがあります。苦難の一撃が、より深い悲しみと苦しみの水脈を掘り抜いてしまうことがあります。ユダヤ人にとっての捕囚は、その民に、そのような苦しみの扉を開いてしまった出来事です。

捕囚から解放されれば、彼らは全く自由になったのか? 何もかも解決したのか? そうではありませんでした。捕囚の期間の数十年によって、草花に等しい人間の脆さが明らかにされてしまったのです。この預言者の反抗の言葉には、捕囚の地で経験した様々な苦しみが詰まっています。

「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」

取り戻せない悲しみがあります。帰って来ることがない人がいます。草花のように、消えて後もなくなってしまった人がいます、ものがあります、そういう関係があります。たとえ、今、この時すぐに捕囚から解放されても、失われてしまったものは取り戻せないのです。元には戻らないのです。

人間を枯らし、しぼませる力が、無数にあることをこの人は知ってしまったのです。私たちを駄目にしてしまう力は、私たちの人生に満ちあふれているということを知ってしまったのです。私達は、弱く脆いのです。そして、失われたものの多くは、取り返しがつかない。

私たち自身にも、絶対に取り戻せないと思うものがあります。決して消えないと思う痛みがあります。皆、それぞれが、そういうものを抱えています。そういう私たちだからこそ、捕囚から解放されるという言葉を聞いても、素直に喜べなかった人の気持ちが分かると思います。痛みや苦しみから解放される。神はあなたを慰めて下さるのだ、救って下さるのだと言っても、両手放しでは喜べない。

神の言葉が慰めて下さる悲しみ、神の言葉が解放して下さる不自由、それは、私の抱えるどの痛みのことを言っているのか? 私の抱えるどの悲しみのことを言っているのか? 私を捕えて離さない、どの絶望のことを言っているのか?

そして、思うのです。私は知ってしまった。一つの苦しみが、私に明らかになってしまった。最早、神のもたらす救いによってもどうにもならない悲しみ、苦しみを私は、抱えてしまったのだと。もう、手遅れなのだと。

それが、捕囚からの解放を告げる神の言葉に最初に出会った人の反応でした。喜べなかったのです。立ち上がれなかったのです。しかし、そこに、なお神の言葉が響いたのです。この人を立ち上がらせるために、さらに、身を低くされて、神はこの人の絶望に答えられたのです。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と。

私の言葉は、あなたの絶望に負けない。私の言葉は、諦めてしまっているあなたにとっても希望である。

この40:8の言葉は、私たちが今日共に聴いております、55:10、11の言葉とシンクロナイズする言葉です。

風が吹けば跡形もなく消え去ってしまう、失われたものは戻らないという空しさの象徴として捉えられていた草花の姿が、55:10では、天の恵みを受けて、生え出で、実を確実に結ぶという、神の言葉の確かさの象徴として語られ直しているのです。

この預言者を通して響いた神の言葉は、初めから終わりまで同じです。神の言葉は空しくないということ、神の言葉は、現実となるということです。

神は仰います。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」

私は思います。絶望する預言者を立たせた神の言葉、とこしえに立つという神の言葉、空しく戻ることなく、神の望むところを成し遂げ、神の命じられたことを必ず果たすと言われる神の言葉、それは、ただ、捕囚の地から、ユダヤ人たちが、故郷に帰って来ることだけを実現するのではないのではないか。

この解放の知らせを最初に聴いた預言者自身がそうであったように、捕囚からの解放という指針がもはや響かない者、「肉なる者は皆、草に等しい」と、取り返しのつかない悲しみに出会ってしまったがゆえに、慰められることを完全に拒否している者にも勇気を与える言葉ではないか。

絶望していた無名の預言者が立ち上がることができたように、絶望して立ち上がれなくなっている人の顔を、再び輝かせる言葉、それが神の言葉です。

事実、預言者は立ち上がったのです。そして、大胆に言ったのです。「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。私たちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」

捕囚からの解放を待ち望む人だけじゃない、主なる神の憐れみを諦めてしまっている人、神の赦しを思い描くことのできない人、もう、神に何の期待もかけることも出来なくなってしまった人にも呼びかけているのです。「神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。」

なぜなら、神が語られるからです。預言者の語る三人称としてではなく、この私を目指す神の直接の言葉として、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なる」と。期待を失った私たちに向かい神が語られているのです。

私たちが諦めてしまっても、神は諦められないのです。私の悲しみと痛みは、誰にも慰めることができないと私たちが思っても、神さまの思いは違うのです。

私たちの思い、私たちの見通し、私たちの計画を高く超えた方が、私たちが、慰められたり、憐れみを受けたり、赦されたりすることなど絶対にあり得ないと思っているところで、期待を捨ててしまっているところで、語られるのです。

「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」

私たちも、それぞれ、慰められることのない悲しみを抱いています。取り去られることのない痛みを持っています。赦されない罪に捕えられています。しかし誰の言葉もそこに届かなくとも、神の言葉は、そこに届くのです。神の言葉はそこを目指して語られているのです。

その悲しみを慰めると神は仰る。その痛みを取り去ると神は仰る。その罪を赦すと神は仰る。

主イエスは宣教の初めにこのように語られました。「『主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは、/囚われている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げ知らせるためである。』イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4:18~20)

主イエスは、貧しい人に福音を告げ、囚われている人を解放し、目の見えない人の目を開き、圧迫されている人を自由にされました。これは主イエスのなさったことです。

比喩でも、象徴でもなく、事実、そのようにされたのです。生まれつきのこと、仕方のないこと、時代が悪い、どうしようもないと人々が諦めているそのところで、その現実において、主なる神がもたらす解放を告げる言葉は、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と仰ったのです。そして、主イエスの周りでは、事実、語られた通りのことが起こったのです。

貧しい人に福音が告げられ、囚われている人が解放され、目の見えない人の目が開かれ、圧迫されている人が自由にされる。

この主イエスの力は、病、障害、貧しさよりも強いだけではありませんでした。そのお方は、この世のあらゆる支配者の中の最後の支配者であられました。

私たちを圧迫し、草花のような存在にすぎないと納得させようとする、あらゆる力の、私たちの存在のあらゆる側面に迫ってくる攻撃の全てを、この人は打ち砕いて下さったのであります。ご自身の十字架の死とそのおよみがえりによって。この方の十字架と復活によって、全ての者がその前に沈黙し、希望を捨てざるを得なかった、その死が滅ぼされたのです。比喩でも象徴でもなく、主イエスをお納めした墓は、空っぽになったのであります。そして復活し、私たちに出会われたこのお方は、この方の死と命に結ばれた私たちの墓もいつか、必ず空になるのだと、そう約束して下さったのです。

とこしえに立つ神の言葉、必ず使命を果たす神の言葉は、私たちの全存在の全局面において、主なる神の望むことを成し遂げられるのです。

神の言葉こそが、最終的な現実です。神の意志以外のものがこの世界に立つことはないのです。

それは、私たちがもはや取り返しのつかないと諦めてしまったその痛みも苦しみも絶望も含まれています。この世界を造って下さった神さまが、罪を贖い赦して下さる神さまが、死人を復活させて下さる神さまが、取り返しのつかないと思っている私たちの痛み、悲しみ、罪を全部解決して下さるということです。

なぜならば神の言葉は空しく帰らず、必ず出来事となるからです。全世界、存在の全てを巻き込んだ出来事となるからです。私たちが神の言葉について信じるようにと招かれ促されているのは、こういうことです。

パウロは語りました。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマの信徒への手紙8:19~22)

ここに神の言葉の最終到達点があります。

この世界を飲みこんでいる死の定めすら、滅びの定めすら、最後の支配者ではないのです。神が支配者であられ、キリストにおいて完成した神の言葉が、その約束が、私たちの唯一の現実となるのです。

しかし、神の言葉がこのような出来事となるのは、まず、私たちにおいてです。世界史が変わる前に、全被造物が滅びから贖われる前に、私たちがまず変えられるのです。今日の聖書の言葉によれば、神は、私たちの顔を輝かせることから始めて下さるのです。

神の言葉が必ず実現する、その言葉が我々の真の支配者である、それが最後の言葉である。そのことを確信した人の顔は輝くのです。神さまが与えて下さった輝きに輝いているのです。

それは、どんな暗闇も消せない輝きです。暗闇の中に住む人が、世界中から集まり、それを見たい私たちの顔を見たい、そう願う輝きです。

もう、私たちは絶望しません。苦しみと悲しみを抱えたままでも、この世界を無から有に呼び出され、死者を復活させられた神の約束の言葉が、生ける神の言葉が、今も生きて働かれると信じるから絶望し切ることはないのです。

私たちは、神と共に、声をあげます。死と虚無に掴まえられ、永遠に失われてしまったと見える人も、物も、関係も死と虚無に支配され続けることはありません。最後の主人は、私たちの神です。神の言葉は、その望むところを成し遂げ、その使命を必ず果たすのです。神の言葉はとこしえに立つのです。

私たちはこの言葉を告げることにより、世の光となります。枯らし、しぼませる力が、自分たちを支配する最後の主人だと絶望している人々に対する神の言葉の証人として、慰められた者として、暗闇の中で輝く者として私たちは今ここに立っているのです。

祈りを捧げます。

主イエス・キリストの父なる神さま 私たちの真の飼い主であり、私たちの真の主人であり、私たちの真の救い主であられるあなたが、私たちを捉えていて下さいます。この身も心もあなたが捉えていて下さいます。私たちを支配するのは、ただあなただけです。この世で私たちにもたらされる痛みも悲しみも私たちを名付けることはできません。そのことを深く心に留めさせて下さい。神の言葉の現実に、神の言葉の力に捉えられた私たちが、どうかこの暗闇が覆いかぶさるような世界のなかにあって、あなたの言葉を語り続けることができますように。あなたによって輝かされている、私たちの顔をこの町に照らし出すことができますように。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン