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願いが叶ったら、帰るべきところに帰ろう

2014年2月16日

ルカによる福音書第17章11-19節
川﨑 公平

主日礼拝

この朝、この礼拝堂に集まり、今おそらく皆さんの心を等しく満たしているひとつの思いは、「さ、さむい……」ということではないかと思います。思いがけず暖房の効きが悪く、私も予想外のことで驚いています。一応説教の原稿を用意しておりますが、それにはとらわれず、いつもより短い説教にしたいと思いますので、ご心配なく。

しかし、先ほど聖書朗読をお聴きになって既にお気づきではないかと思いますが、今日お読みしました福音書の記事は、まことに単純な内容であります。改めて私のような者が筋を辿り直す必要もありませんし、長い説教をしなくても多くのことを読み取ることができると思います。しかしまた、実にさまざまな恵みを与えられる物語であるとも思います。たとえば皆さんに、どういうところが心に残りましたか、と尋ねたら、思いのほか多種多様な答えが返ってくるのではないかと私は思います。非常に豊かな内容を持つ聖書の記事であって、その豊さをいちいち拾いあげていたらどんなに長い説教になるかと思います。

たとえば、私が何と言ってもここで感銘を受けますことは、大声で、声の限りに神を賛美しながら戻って来たひとりのサマリア人、「嬉しかっただろうなあ」ということです。繰り返しますが、「大声で神を賛美しながら」……。はて、こんなに激しい喜びの表現を自分はしたことがあったかなと、ふと反省させられるほどです。しかし、何が嬉しかったのでしょうか。病気が癒されたことでしょうか。そうかもしれません。しかしそれだけであるならば、遂に戻ってくることのなかったほかの9人と何ら変わるところはありません。このひとりのサマリア人が嬉しかったことは、帰るべきところを見出したことだと思います。帰るべきところに帰ることができた。そして、主イエスの足もとに、ひれ伏したのです。このお方との出会いが、かけがえのない喜びを生みます。私どもも知るはずの喜びであります。

そして、私がもうひとつ思いますことは、このひとりの人が帰って来た時、しかし誰よりも喜んでおられたのは、主イエスであったと思います。帰って来たのはただひとりであったけれども、帰って来た。イエスさまは、どんなに嬉しかったことだろうかと思う。このサマリア人にとってというよりも、主イエスにとってかけがえのない出来事がここで起こっています。今ここでも起こる、今起こっている出来事であると、私は信じます。既にルカによる福音書は、このサマリアの人の姿を伝えながら、われわれ教会の姿がここにあると信じて、この物語を書いたと思います。

このような出会いが起こったのは、11節にありますように、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え……」。この「ある村」というのがどういうものであったか、村と言っても村のはずれにこの十人が住んでいたということかもしれませんし、もしかしたらはずれも中心もない、この十人だけが造っていた、外界からは隔てられたような小さな村であったかもしれない。いずれにしてもまことに特殊な集まりであります。

今、「重い皮膚病」と申しましたけれども、皆さんのお持ちの聖書の中には、「らい病」と書いてあるものがあると思います。かつてはそう訳されたのが、10数年前に新共同訳の翻訳の変更があったのです。なぜ訳し直したかというと、ひとつの理由は、かつて「らい病」と呼ばれ、今はハンセン病と呼ぶようになった病気が、聖書に出てくる「重い皮膚病」とは、医学的に言っても同じ病気とは考えにくいということが分かってきたからです。しかしそれならば、なぜかつては「らい病」と訳してしまったかというと、その病気を見る社会の目が、あまりにも酷似していたからだと思います。この日本においても、らい病患者に対するまことに厳しい差別と偏見が生まれ、そういう人たちを、家からも社会からも追い出して、人里離れたところに厳しく隔離してしまった悲しい歴史を、この日本も背負ってしまっているのです。

たとえば、12節に、こういう描写があります。「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて……」。なぜ遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げたかというと、他人のそばに近寄ることが禁じられていたからです。日本におけるハンセン病の人たちも、その隔離され場所で、このような聖書の記述に出会い、一方ではとてもつらい思いを抱いたと思う。自分たちにそっくりな人たちが出てくるのですから。そういうところから、「重い皮膚病」というように、翻訳において配慮をするようになったのだと思います。けれども、そのような病気に苦しむ人たちに対する主イエスの愛を感じ取った時に、たとえば多くの日本の「らい病」と呼ばれた人たちが、深い慰めを得たことも事実なのであります。しかし、どのような慰めを、そこで得るのでしょうか。

主イエスがそこでまずなさったことは、直ちにその人たちに手を触れて、癒されることではありませんでした。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。主イエスもまた、遠くから、大声でそうお命じになったのでしょうか。ふしぎな癒し方ではないかと思います。

なぜここで祭司が出てくるかというと、この重い皮膚病と呼ばれる病気は、何と言いますか、宗教的な意味で切実な意味を持ちましたから、その病気が本当に癒されたかどうか、宗教家である祭司が判断しなければならなかった。祭司のところに行って、あなたは清いと認めてもらえないと、社会復帰することもできない。旧約聖書に、そう定められているのです。しかし、とにかく主イエスは、ここで癒してはくださらなかったのです。さあ、もう治ったから祭司のところに行きなさいと言われたのではないのです。まだ癒されていない。それでも祭司のところに行けと言われる。主イエスはここで明らかに、この10人に、〈信じること〉をお求めになったのです。わたしを信じて、歩き始めなさい。

これは、何気ないことのようですが、なかなかたいへんなことであったと思います。なぜかと言うと、祭司というのは、エルサレムにしか住んでいなかった。多くの人がそのように推測します。そして主イエスもまた、エルサレムに上る旅の途中であったと言いますけれども、一日やそこらで着く距離ではなかったと思うのです。10人の中に、一瞬ためらった人も、もしかしたらひとりかふたりくらいいたかもしれません。本当にここから出かけていいのか。本当に癒されるのか。けれども、10人はそろって覚悟を決め、この主イエスの言葉にすべてを賭けるようにして歩き始めました。まだ癒されていないのに、ここにしか住むことができないと思い定めたその小さな村を出たのです。不安もあったかもしれません。人の住む町を通らなければならなくなるかもしれない。なぜお前たちがこんなところを歩いているのだと責められたらどうしようか、自分たちのせいでおかしな騒ぎが起こったらどうしようかという思いもあったかもしれない。けれども、彼らの信じた通りになりました。歩いているその途中で、10人が10人とも、きれいに癒されました。

けれどもそこで、この10人の間に、ひとつの境界線が引かれるような出来事が起こりました。ひとりがそこで踵を返し、急いで来た道を戻りました。なぜそうしたのでしょうか。あとの9人は、そのまま主イエスの命じられたとおりに、祭司のところに急ぎ続けたのでしょう。何はともあれ祭司に病が治ったことを証明してもらわないと、その先何も始まらないではないかと、常識的な判断をしたのでしょう。けれども、このひとりのサマリア人は、それよりも何よりも優先して、すべてに先立ってすべきことがあることに気づいた。声の限りに神を賛美しながら、来た道を戻り、主の足もとにひれ伏して感謝したのであります。そして、これは何気なく書かれているようですけれども、私は、この人が遂に主イエスのお姿を再び見出した時に、どんなに深い感動を覚えたことかと思うのです。

ここはよく想像していただきたいと思いますが、癒されたことに気づいて、夢中になって主イエスのもとに帰って行くのです。けれども、いや、待てよ。もといたところに戻っても、そこに主イエスがまだおられるという保証はありません。ですからこの人も心配したかもしれません。あの方は、まだあそこにいるだろうか。いや、旅をしておられたようだし、もうどこかへ行ってしまってはいないだろうか。もう一度、あのお方に会えるだろうか。見つけられるだろうか。……やっぱり、どうしても会いたい。わたしを憐れみ、癒してくださったあのお方に、何としても会いたい……。祈るような思いで、道を急いだと思う。けれども、主イエスは、同じ場所で待っていてくださったのでしょうか。きっとそうに違いないと私は思います。そして、この癒されたサマリア人は、主イエスのお姿を認めた時、本当に嬉しかったと思います。ああ、あの方だ。よかった。まだ待っていてくださった。そして、このお方の前に、ひれ伏して感謝したのであります。

私は、このお方に会うために、戻って来たのだ。というよりも、私はこのお方に会うために、今まで生きてきたのだ。これまでの苦しみも悲しみも、全部、このお方に会うためのものであったのだ。そこに、すばらしい出会いが生まれました。このお方との出会いが、すべてを新しくしました。このひとりと、残りの9人を分けるのは、そのようなことであったと思います。

そのすばらしい出会いの出来事の中で、主イエスは言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。ここに主イエスの失望を読み取ることもできるでしょう。嘆きを読み取ることもできるでしょう。確かにその通りです。しかしそれは、それほどの思いを込めて、主イエスは、残りの9人のことをも、待っていてくださったということでもあると思います。明らかに主イエスは、残りの9人のことも忘れてはおられません。戻ってこないのか。あの人たちは。いつ戻ってくるのか。そう言われるのです。

私どもにとってもかけがえのない救いとは、このお方との出会いの出来事であります。このお方に出会い、このお方のところに戻って行くことです。そして、感謝をすることです。16節に「感謝」という言葉がありました。ただ、ありがたや、ありがたや、と思うことが感謝ではありません。感謝には相手があります。感謝すべき相手があって初めて成り立つのが、感謝です。その感謝すべきお方のところに、このひとりのサマリア人は帰ることができました。そのような出会いが起こるところ、すべてが新しくなります。私どもの生活すべてが新しくなるのです。いつ、何をしても、このお方のことを大切にします。いつどのようなところにあっても、このお方のことを無視して生きることはできません。今、私どもも、そのお方の前に立っているのです。主イエス・キリストというお方の前に。そのための礼拝です。

先週、東京神学大学の入学試験がありました。皆さんにとってはそんなに大きなことではないかもしれませんが、私にとっては大事な記念日を迎えるような思いが毎年あります。私も16年前に牧師の道を志し、その入学試験を受けたのです。私にとって、2月11日は建国記念の日ではなく、東京神学大学の受験記念日です。合格発表は2月13日でした。おかしなことですが、13日の金曜日であったことまでよく覚えています。もうひとつ覚えているのが、私は大学を卒業してすぐに東京神学大学に入り直したのですが、その2月13日、合格発表の日に、大学の研究室の送別会がありました。大学院を終えてどこかの大学の教師になるような人から、学部を卒業して就職するような人まで、いろんな人の送別会をまとめてやってしまう。しかし東京神学大学に入り直して、牧師の道を志すなんて人は珍しい。特に教授陣にはあまり理解してもらえなかったと思います。何だよ川﨑、ずいぶん抹香臭いところにいっちゃってさあ、などと言われました。どうして君はキリスト教なの?と問われて答えに窮するような経験をしました。川﨑は聖書の勉強をしに行くらしいと思い込んだ私の指導教授が、(私のおりましたのは国立大学でしたが)聖書の研究だったらうちの大学が日本で一番のはずだ、などと言いました。なぜ自分が今、ほかの人に理解できないような道に立つのか、どうもうまく説明できない、もどかしい思いを抱きました。自分はいったい、何をしようとしているんだろう。何をしたいんだろう。

しかしこういうことは、皆さんも、さまざまな形で経験することではないかと思います。どうして日曜日には教会に行くのか、というようなことから始まって、なぜあなたはそういうものの考え方をするのですか、どうしてあなたはそういう生活のしかたをするのですか……ひとつひとつ問われたら、もしかしたら答えに窮するというような経験をするかもしれないのです。洗礼を受けた時とか、神学校に入学する時とか、特別な時だけ問われるようなことではない。いつも問われることです。

私も16年前、神学校に入学した時に思いがけずそのことを問われて、どうもうまく説明できないような、もどかしい思いを抱きながら……しかし本当は、説明の言葉はひとつしかなかったはずであります。私は、主イエスに感謝しているから、この道に立つのだ。ひとつの言い方をすれば、このお方に対する責任を取るために、こうするのだ。

このひとりのサマリア人がしたこともそのことであります。帰るべきお方のところへ帰ったのです。そして繰り返しますが、これは皆さんの毎日の生活の中でいつも、どこででも問われることです。私どもの生活の中に、絶対に無視することができない、大切な存在が現れるということです。かつてはこのお方のことを知りませんでした。けれども今は、もうこのお方を無視して生活することはできません。それが私どもの生活、ひと言で言えば、感謝の生活です。それだけにまた、残りの9人が帰って来なかったことは、主の御心を痛めることであったと思います。

今日の説教の準備をしながら、ずっと私の心にかかっていたことがあります。今日の説教の題を覚えておられる方はあるでしょうか。「願いが叶ったら、帰るべきところに帰ろう」。この説教題が一週間この建物の前に掲げられた。ひとつには、道行く人に語りかけたいという思いがありました。「あなたにも帰るべき場所があるのではないですか。帰るべき場所はここですよ」。しかしまた、この説教題に後悔しているようなところがないわけでもないのです。「願いが叶ったら」と言いますが、では願いが叶っていない人はどうなるのか。そう考え始めるときに、切実な思いになる方は少数ではないと私は思っています。そういう意味では、ちょっと不適当な説教題であったかもしれない。けれどもこの聖書の物語を、そのようにだけ読むことはもちろんできません。帰るべきところはあるのです。そこに帰ろう。そこにすべてがかかっています。「願いが叶ったら」ということを、間違った方向で突き詰めるならば、何もかも、世界のすべてが自分の思い通りにならなければ、遂に感謝することもできず、帰ることもできず、ということになるかもしれない。それはたいへんおかしなことです。神はきちんと、帰るべきところに帰ることができるように、それだけの感謝をささげることができるように、道を整えていてくださるのです。私どもは既に、感謝すべき相手に出会わせていただいているはずなのです。主イエスは、待っておられると思います。

今朝早く、説教の準備をしながら、ローズンゲンという聖書日課を読み、深い感銘を与えられました。まず旧約聖書の言葉は、ヨエル書第3章5節です。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」。しかし、下手をするとかえって疑いを呼び起こされるような言葉であるかもしれません。主の名を呼べば、必ず救われるのか。自分の願いが叶うのか。もし願いが叶わなかったら、もう主の名を呼ぶのはやめるのか。しかし、このように語りかけてくださるのは神ご自身です。「わたしの名を呼んでほしい。わたしの名を呼びなさい」。そのように、待っておられる神がおられるのです。あなたを救いたい、と願っておられる神がおられるのです。

それにあわせて選ばれた新約聖書の言葉は、ヨハネによる福音書第16章23節の主イエスの言葉です。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」。これこそ私どもの疑いをかえって喚起させるような言葉です。聞かれない願いなんかいくらでもあったではないか。そう思う。主イエス・キリストの父なる神は、「あなたの願いを聞きたい」と願っておられるのです。そのことこそ、何にもまさって決定的に大事なことです。

そして私どもは、今自分は幸せか不幸せか、幸せが足りているか足りていないか、そんなところでうろうろするのではなくて、いつもこのお方のところに帰り続けるのです。残りの9人をも待ち続けていてくださる主の御心が、ローズンゲンという短い聖書の言葉の中にも、鮮やかに示されているような思いがいたします。そのような主の御心に今はしっかりと捕えられ、神を賛美する者とさせていただいていることを、心から感謝したいと思います。お祈りをいたします。

新しい思いで、あなたの御名を呼び始めさせてください。帰るべきところはここだという思いを、今御前に新しく立てることができますように。私どもを待っていてくださるあなたの御心を、何よりも心から感謝いたします。どうぞ私どもの生活を、感謝の生活として整えさせてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン