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私に与えられている神

2013年5月26日

ヨハネによる福音書16:4b-15
川﨑 公平

主日礼拝

今日、皆様のお手元の週報にも報告が載りましたけれども、先週の月曜日、教会員のHさんがお亡くなりになり、その葬儀をこの場所でしなければなりませんでした。一昨年の秋にやはりこの場所で葬儀をしたKさんのご主人と言った方が、人によっては通りがよいかもしれません。もともと熱心な教会員であった奥様のKさんに引き込まれるようにして、晩年、73歳になってようやく洗礼を受けられました。ご自分では「晩年」だと思っておられたようですけれども、男性にしては稀な長命に恵まれ、その後18年間、ここで教会生活をすることができました。とても身体の頑丈な方で、昨年の今頃は、90歳になってもなお趣味のゴルフに励むという驚異的な体力を誇った方でしたので、その訃報に接して驚かれた方も多かったのではないかと思います。

このHさんという方を思う時、何と言っても私どもの心に残っているに違いないことは、先ほど申しましたように、1年半前に奥様の葬儀をしなければならなかった。その衝撃は本当に深いということでした。落胆という言葉は、こういう時に使うのかなと思ったほどです。どうも一般的に言って、特に男性が妻を喪うと、こんなに力を失うものかと思います。もちろん、夫を喪う悲しみだってつらいのだと言われればそれまでですし、いやいや、子どもを喪う悲しみの方がずっと大きいと言われれば、その通りでしょうけれども、しかしまた、妻を先に喪った夫の悲しみというのは、やはり独特なものがあると思います。

けれどもそういうことを考えます時に、私が思い起こすことがある。既に先週、Hさんの葬儀をしながら、思い出していたことがありました。私は11年前の春に神学校を卒業して、まず長野県の松本市にある教会に赴任しました。礼拝出席40人くらいの小さな教会でしたが、赴任した年の8月にはもう、あるご婦人の葬儀をしなければならなくなりました。その時にも教会の人たちの心にかかっていたことは、82歳になるご主人が残された。お子さんもいらっしゃらない。それが私の伝道者としての、初めての葬儀の司式の経験になりました。

この方の葬儀が終わって2週間くらいして、今度は3人の人が洗礼を受けるという、おめでたいことがありました。繰り返しますが小さな教会ですから、そういうことがあると、さあお祝いだと言って、礼拝後に皆で食事をする。そしてその席で、出席者全員が自己紹介をするという、鎌倉雪ノ下教会ではなかなかできないような恵まれたことをしました。そこでこの人が立って、つい先日自分は妻を亡くしたのだということをお話しになって、「とうとうわたしもひとりぼっちになっちゃって」ということを言われました。厳しいことだと思いました。

それからまた何か月かたって、今度はクリスマス、そこでもまた愛餐会という食事の席を設けて、またこの方が発言の機会を得た。そこでこういう話をなさいました。4か月前に妻の葬儀をして、「ひとりぼっちになっちゃって」と言ったけれども、という話をし始めて、何をおっしゃったかというと、実はあの後、自分は教会の人たちに取り囲まれたのだ。「ひとりぼっちなんかじゃないよ、わたしたちがいるよ」。そう言われた。それを聞いて私などは、本当にいい教会だなあと思ったのですが……。けれどもこの方は、そこで感謝の言葉を述べたのではありませんでした。当時、既にその教会で洗礼を受けて60年以上という方でしたけれども、すばらしい教会に生かされてありがたい、という話をしたのではなかったのです。「そうだ、私には教会の仲間がいる。イエスさまが一緒にいてくださる。ひとりぼっちだなんて、とんでもないことを言ってしまった。あやうく死の力に負けてしまうところだった。神さまに申し訳ないことを言ってしまった。イエスさまに申し訳なかった。今ここでお詫びをしたい」。真剣な口調で、ある意味ではたいへん厳しい口調で、そうおっしゃった。私の伝道者としての基本的な姿勢が、そこで定まったと言ってもよいほどの体験になりました。

ご存じの方も多いと思いますが、その松本の教会の、私の後任者が、この鎌倉雪ノ下教会出身の方ですから、その教会の会報が定期的に送られてきます。最近も最新号が出て、さっき見ましたら、まだ残部があるようです。この方が奥様を亡くされてからなお12年生かされて、しかし、今年の1月にお亡くなりになりました。その追悼文が載っていました。もしかしたら、お読みになった方もあるかもしれません。94歳まで生かされた。もちろん、長生きしたから偉いなどという低級な話をするつもりは毛頭ありません。けれども、よく神が生かしてくださったと感謝しているのです。奥様を亡くされて10年以上、ずっとひとり暮らしでした。もちろん寂しかったことはいくらでもあったと思います。けれども私は、最も根源的なところでは、この人がひとりぼっちだったことなどは一度もないと、そう信じています。そしてたとえば先週、Hさんの葬儀をした時も、同じ確信をもって葬儀の司式をしたつもりですし、Hさんがひとりぼっちだったことは一度もないということを証しする説教を、私は語ったつもりです。

このような神の現実を、今日読みましたヨハネによる福音書は、「真理の霊」、聖霊、という表現で言い表しているのです。

今日は、この主礼拝に先立って、小礼拝で教会学校と合同の礼拝を行い、既に私ではなくて、恵牧師が説教をしました。いつも私がここに立ちます時には、ルカによる福音書を読み続けておりますが、主礼拝だけ先に進むわけにはいきませんので、私がこのところ、心にかかっておりましたみ言葉のひとつを、ここで読むことにいたしました。

ここで主イエスが弟子たちに語っておられること、それは、主イエスが弟子たちのもとを「去って行く」ということです。去って行き、もう弟子たちの目には見えなくなる。しかも、ただ遠い国へ旅立ってしまうというのではない。主イエスはここで、ご自分の十字架の死について、語っておられるのです。いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる、その席上で語られた言葉です。その食事が終わると、すぐに主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、翌日には十字架で殺される。そのことを弟子たちも悟り始めています。その弟子たちの心を見抜くように6節で言われます。

むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。

別れの悲しみです。死によって、別れを強いられる悲しみです。私どもが既に知る悲しみです。その悲しみの中で、弟子たちは立ちすくむ。5節には、こういう主イエスの言葉も記されています。

今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない。

なぜこういうことを言われたかというと、実はこれに先立つ第14章の最初のところで、弟子たちは、「どこへ行くのですか」と、同じことを尋ねていたのです。ところが、その後いろいろなやり取りがあり、主イエスの死を悟ると、もう尋ねない。尋ねる気力も萎えてしまったのでしょう。ああ、先生は死んでしまうのだ。それじゃあ、もう何をしてもだめだ。あきらめてしまって、絶望してしまって、主イエスに「どこへ行くのですか」と尋ねることもやめてしまう。私は思います。私どもも、この悲しみを、よく知っているのです。死の悲しみを。死の力に打ちのめされてしまう経験を。その悲しみは、あきらめの心と深く結びつく。死の力を前にして、「ああ、もうだめだ」とあきらめてしまうのです。死の力が、世界の支配者のようにいばっています。神といえども、死にはあらがえないのだと、思い込んでいます。私どもも、この死の支配に対する信仰を、なかなか捨てることができないと思います。神に対する信仰と、死に対する信仰と、どちらが強いか。案外われわれは、死の力に対する信仰の方を強く保っているというところが、あるのではないでしょうか。そこに私どもの悲しみというのが現れてきてしまっています。

私も牧師として、少しおこがましい言い方で恐縮ですけれども、いろいろな人の悲しみと向かい合うことがあります。そして、これは皆さんも経験があるかもしれませんけれども、悲しみを知るからこそ、そういう時だからこそ、砂地に水がしみ込むように、すーっとみ言葉が入って行く、そういう幸いな経験をすることもあると思います。けれども、その反対のことも起こります。少し厳しい言い方になりますけれども、人間というものは、悲しみの中で、わがままになることがあると思います。自分は悲しんでいるのだ。その悲しみは、自分だけの特別な悲しみであって、誰にも分かってもらえないと思いながら、しかも同時に、周りの人はすべてこの悲しむ自分に仕えてくれるべきだと思い込みます。けれども現実には、そう思い通りにはなりません。そしてそういう人の心に慰めの言葉を届かせることは、本当に難しくなります。ほとんど不可能ではないかと思うことがあります。神よ、この人が悲しんでいることは分かります。けれども、その悲しみの心に届く言葉が見つかりません。どうすればよいですか。そういうところで、私のような者が時々、割と本気で考えることは、イエスさまが目に見える姿でいらっしゃって、イエスさまご自身がその人を慰めてくださればよいのに、ということです。主イエスのお姿が見えない。主イエスが、それこそ、「去って行く」、もう去って行かれたということは、こういうところでこそ、切実な問いになるものだと思います。

イエスさま、あなたがあの人を慰めてくださらなければ、困ります。あなたの教会ではないですか。あなたの教会員ではないですか。ぼやきにも似た祈りが生まれることもあるのです。けれどもここで改めて気づかされます。ここで主イエスがしておられること、それはまさに、主イエスが、教会のかしらとしての責任を持って、まず目の前にいる弟子たちの悲しみを解きほぐそう、追い払おうとしてくださっている。そのことに、ここで気づきます。

ある人が、この6節について、こういうことを指摘しています。ここで福音書は、「弟子たちは悲しんだ」という書き方はしていない。もちろん、ニコニコしてはいなかったでしょうけれども、「弟子たちは悲しみました」という書き方をしているのではない。主イエスがその弟子たちのその心を見抜いて、「あなたがたは悲しんでいるね」。その悲しみを射抜くような言葉を、ここで主イエスは語っておられる。この違いが、お分かりになりますでしょうか。おそらくそれなりに悲しい顔をしていたに違いない弟子たちの心の中を、もっと深く見抜いてくださって、その深い悲しみに、深いまなざしを注いでくださる。

ですから、またある別の神学者は言いました。主イエスが見ておられる、この弟子たちの悲しみは、不信仰の悲しみだ。神を見失う悲しみだ。それはもっと言えば、死に対して、神は敗北せざるを得ないのだという、愚かな不信仰だ。簡単に言えば、神さまなんか信じても、あてにならんという悲しみです。

私どももこの弟子たちの悲しみを知っています。愛する人を喪って、悲しみを抱きます。いろいろな試練の中で、望みを失います。けれどもそのとき、主イエスは私どもの心の奥深くに、じいっと、まなざしを注がれ、「あなたがたの心も、悲しみで満たされているね」。そうおっしゃった時、そこで主イエスが見ておられるのは、まさにこの弟子たちと同じ、神を失う悲しみ、主イエスの姿を見失ってしまう悲しみ、死の力を前にしてあきらめてしまう不信仰の悲しみであり、愚かさであり、心の鈍さであります。「自分はひとりぼっちだ」という言葉について、お詫びをしなければならなかったというのは、たとえばそういうことです。けれども、そのようにお詫びをしなければならないということが、どんなにありがたい恵みであるか。「お詫びをしたい」。それは言い変えれば、「わたしは、今は、神を見ております」という信仰の告白でしかない。このような、私どもの悲しみの真相に気づかせてくださるのは、繰り返しますが、主イエスただおひとりです。弟子たちが自分で気づいたのではない。そして、その悲しみを、責任を持って解きほぐし、追い払ってくださるのも、主イエス・キリストでしかないのです。

「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと……」。この主イエスの語られる、「実を言うと」というお言葉が、どんなに重みのある言葉であるかということは、既にお気づきでしょう。

この7節の冒頭の「実を言うと」という言葉は、それこそ実を言うと、ちょっと意訳をしすぎているようなところがあります。少しなめらかに訳し過ぎたと思わないでもない。もう少し直訳風に訳しますと、「わたしは真理をあなたがたに告げる」という言葉です。「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、わたしは真理を告げる」。それを新共同訳は、「実を言うと」と訳した。けれどもここでは、「真理」、あるいは「真実」という言葉が大切です。なぜかと言うと、その先の13節で、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」という言葉があります。その真理を、今ここで主イエスが告げてくださる。ついでにもうひとつ申し上げると、「このわたしが、真理を告げる」というように、「このわたしが」という主語を、敢えて強調する文章になっています。わたしは真理を告げる。これからわたしが、大事なことを言うから、よく聞きなさい。

あなたがたの悲しみは、神を失った悲しみでしかない。その悲しみは偽りに根ざす。真理はそうではない。わたしはあなたに真理を告げる。わたしが去って行くのは、あなたがたのため。あなたがたにすばらしい利益を与えるため。驚くべき言葉ではないでしょうか。なぜ「あなたがたのため」になるのでしょうか。主イエスが去って行くと、そのあとで、「弁護者」が遣わされるからだと、主イエスは言われます。

この「弁護者」というのが、先ほど読みました13節の「真理の霊」、すなわち、「聖霊」のことです。今私どもに与えられている神、今わたしに与えられている神のことです。ヨハネによる福音書において、この「弁護者」という言葉が最初に用いられたのは、第14章の16節です。今日読みました第16章の言葉も、実はこの第14章からずっと続いている。この第14章16節に、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。そしてさらに18節では、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」という、忘れがたい約束の言葉、慰めの言葉を語ってくださいました。そのための、「弁護者」です。

この「弁護者」という言葉は、新共同訳になって新しく現れてきたもので、たとえば口語訳や文語訳聖書では、「助け主」と訳されましたし、また他の外国語の翻訳を見ると、「慰め主」と訳されたこともあります。どう慰めてくださるのか。どう助けてくださるのか。この言葉の基本的な意味は、「そばに呼ぶ」ということです。呼ぶと、そばに来てくれる。だから、たとえばそれこそ、裁判の席で、自分の傍らに立って弁護してくれる。ひとりではとても戦えないと思っている時に、自分よりももっと知恵のある、力もある人が自分のそばに立って助けてくれる。それがまた、慰めとなるのです。主イエスは、神の霊が、そのような助け手、慰め手、弁護者としてあなたがたのために送られると約束してくださいました。

この弁護者がしてくださることがある。第16章の13節では、その弁護者のことを、「真理の霊」と言い換えています。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。私どもが知るべき真理とは何か。これまで聞いたこともない真理というのではなくて、ここに主イエスが明確に語っておられるように、わたしが語ったことと同じ真理をこのお方が明確に教えてくださる。「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語る」。「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。ですからたとえば、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしてはおかない」という主イエスの言葉が分かるのも、この聖霊によるのだということです。「わたしが去って行くのは、あなたがたのため」。それがどんなにすばらしい真理であるかを悟らせてくださるのも、神の霊だと言われるのです。

この神の霊によって、教会が生まれました。キリストの教会とは、真理を教えていただいた集団であります。その真理をもって、互いに慰めを告げ合う集団です。「わたしが去って行くのは、あなたがたのため」。「わたしが死ぬのは、あなたがたのため」。だからこそ、この弟子たちは、主イエスが十字架につけられ、その姿を見失い、けれどももう一度甦りの主イエスにお会いして、その甦りの主のお姿も見えなくなった後、なお神の霊に導かれて真理を悟り続けたのです。偽りの悲しみではなくて、真実の慰めを知り続けたのです。そこから、キリストの教会の歴史が始まったし、今ここに、この鎌倉雪ノ下教会の歴史が作られているのも、〈真理の霊〉の働きにほかならないのです。この真理を受けた教会は、互いに慰めを語ります。私は今、抽象的な話をしているつもりはまったくありません。非常に具体的な話をしている。たとえば、死の悲しみにうちひしがれて、自分はひとりだと思い込んでいる人にも、それは違う、真理はそうではないと、慰めを告げることができるのです。「あなたの心も、悲しみで満たされているね。しかし、実を言うと……」「ひとりぼっちなんかじゃないよ」。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。まさにそこに、神の霊が働いていてくださるのであります。

この神の聖霊が真理を明らかにするということは、もうひとつ、世の誤りを明らかにするということを意味いたします。8節です。

その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。

ただ主イエスがどんなに優しいお方であったとか、もうひとりぼっちなんかじゃないよ、というようなところにはとどまらず、「世の誤りを明らかにする」。この「世」とは、たとえば教会の外にある神を信じないこの世、と言ってもよいのかもしれませんけれども、既に主イエスを信じているはずの私どもの心の中にも、絶えず忍び込んでくるのがこの「世」であると思います。その私どもの誤りを、神の霊が明らかにしてくださる。どう明らかにするのか。

罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

罪とは何か。イエスを信じないことです。イエスなんて男を信じて何になるか。殺されてしまったではないか。「あなたがたがもはやわたしを見なくなること」とも言います。イエスの姿は見えないではないか。十字架に殺されて、それっきりではないか。そこで私どももまた、不安に陥るのです。なるほど、そうだ。世の言う通りだ。主イエスの姿は見えない。声も聞こえない。この世の支配者に裁かれて、そのままではないか。けれども、そこで聖霊が教会を慰めてくださるというのは、そのような誤りからわれわれを守ってくださるということです。

しかも、ただ守られるだけではありません。この神の霊に生かされる教会は、世の誤りを明らかにする言葉を語り続けます。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」。主イエスを信じられない人がいれば、それがどんなに悲しい罪であるかを、語り続けるのです。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。主イエスのお姿が見えないことにつまずく人がいれば、そのために自分はひとりだと思い込む人がいれば、そうではない、まさにそこに神の正しさが貫かれているのだということを、証しし続けるのです。「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。この世の支配者だけしか見えなくなり、もっと言えば、主イエスを殺す支配者の姿しか見えなくなって、神の支配が見えなくなった時、けれどもそうではない。神の裁きがもう始まっている。この世界を支配してくださるのは神だ。そこで教会は神の勝利を信じ、それを語り続けたのです。どうかあなたも、この神の愛のご支配のもとに立ってほしい。

教会は、そのように、聖霊の言葉を語り続けます。今ここに生きていてくださる神の真実の慰めを語ることによって、世の誤りを明らかにし続けたのであります。私ども自身、誤りを正されることを喜びとするのです。

だからこそ、それだけに、私は改めて心から願います。なお悲しみの中で、うずくまっている人がいるならば。その悲しみが、実は神を失った悲しみでしかないということに気付き始めているならば。どうか一日も早く、そのような〈世の誤り〉から自由になっていただきたい。世の誤りを明らかにし、これを癒し、慰めてくださる、神の聖霊のご支配のもとに立っていただきたい。真理をことごとく悟らせてくださる、神の霊の働きに、もうこれ以上逆らうことがないように。そのためにも、今、神が聞かせてくださる真理の言葉を互いに告げ合う教会を、ここに作らせていただきたいと心から願います。神は、ここに生きておられるのです。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、あなたの霊に導かれて、世の誤りから解き放たれる喜びを、今ここで知ることができますように。とんでもない誤りに陥っていることに気づいたならば、今すぐにあなたにお詫びをすることができますように。主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。アーメン