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神の言葉を殺すな

2013年5月5日

ルカによる福音書第11章45-54節
川﨑 公平

主日礼拝

本日、この主礼拝の直後に、長老会において洗礼志願者の試問会を行います。再来週の日曜日、ペンテコステ、聖霊降臨を記念する礼拝において、洗礼を受ける人たちの試問会であります。ぜひ、皆さんにもそのことを覚えて、祈っていただきたいと思っています。再来週の礼拝では、大人の洗礼入会者はありません。子どもの洗礼、小児洗礼を行う予定でいます。その子どもたちのご両親を迎えて、長老会で試問をする。大人の洗礼であっても小児洗礼であっても同じことですが、試問会の最初に、私が聖書を読み、短い説教をします。けれども昨日、準備をしながら、その試問会のための説教で話そうと思っていたことを、先にここでお話ししてしまおうと思いました。私がその試問会で読もうと決めている聖書の言葉は、マタイによる福音書第18章1節以下です。「天の国、神の国でいちばん偉いのは誰ですか」という弟子の質問に答えて、主イエスはひとりの子どもの手を取って言われました。「この子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない。この子どものような人が、いちばん偉いのだ」。正確にその言葉を暗唱することがなくても、どこかで私どもの心に残っている、忘れ難い主のお言葉のひとつだと思います。天の国でいちばん偉いのは誰か。この子どもだ。

先週の礼拝でもお話ししましたが、私自身、小児洗礼を受けた人間です。実を言うと、私は10年以上牧師をしていながら、まだ小児洗礼の司式をしたことがありません。自分自身、小児洗礼を受けた人間として、小児洗礼の意味について、それはもう神学生の時から自覚的に考え続けていたようなところがありますけれども、自分で小児洗礼を授けるのは初めて。そういう時に改めて、「この子どもこそが、天の国でいちばん偉い」という言葉を読みながら、この言葉に対する驚きを失ったらおしまいだと思いました。このわたし、この川﨑公平という人間が、「天の国でいちばん偉いのはだれか。この公平くんだ」と言っていただいて洗礼を受けたのです。そのような自分であることを、驚きを持って受け入れたいと改めて思いました。その私が、今は38歳のおじさんになって、今はもう、そんなに偉くない、ということではありません。小児洗礼も成人洗礼も関係ない。洗礼を受けた人は皆、主イエスに、あなたがいちばん偉いと言っていただいています。偉いという言葉がどうも馴染まなければ、重んじられていると言い換えてもよいと思います。その事実に驚かなくなったら、これは私どもの信仰が相当鈍くなっていると心配した方がいい。そして、たとえば自分の子どもに洗礼を授けるという時に、そのご両親にも、この驚きが求められると思うのです。主イエスのまなざしの中で、この子は、いちばん偉いのだ。親ですら気づかない、自分の子どもの尊さに驚くことがなければ、子育てなどできないと思います。

ところでこのマタイによる福音書第18章ですけれども、なおその先を読んでいくと、どうも話が「子ども」というところから少しずつ変わっていく。話がずれていくと言ったら誤解を招くかもしれませんが、どうもそういうところがあります。たとえば同じ第18章の6節では、その子どものことを言い換えるようにして「これらの小さな者の一人」と言って、さらに10節以下では、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。主はそう言われながら、あの有名な、百匹の羊のうち、たった一匹の迷い出た羊を捜し続ける人のたとえを語られました。そうすると、その小さな者とは、どうも子どもだけのことではなさそうです。なぜ「小さな者」と言われるか。迷い出てしまうような者だからです。そしてそれを、15節以下、21節以下でははっきりと、「罪を犯した人」と呼びます。

子どもだって罪人です。私どもは皆そうです。けれども、主イエスに愛されている罪人です。主イエスに重んじられている罪人です。主イエスが、いなくなった一匹の羊のたとえをお語りになった時、この一匹の羊は罪のない、清らかな存在だから尊いのだと言われたわけではない。罪深かったから迷い出たのです。そしてなおこの18章を最後まで読みますと、21節以下に、一万タラントンという借金をしてしまって首が回らなくなってしまった人が、けれどもその負債を赦していただいたという、これもまた忘れ難いたとえを主イエスは語られました。ということは、この小さな者というのは、迷い出る者のことであり、迷い出たということは言い換えれば、人に迷惑をかける人ということです。けれどもそういう「小さな者を、一人でも軽んじないように」と言われるのです。イエスさまは、そのひとを重んじておられる。私ども、ひとりひとりのことです。ここに、小児洗礼に限らない。私どもの教会が洗礼を重んじる根拠があります。

ルカによる福音書第11章の最後の部分を読みました。既に先週の礼拝で、37節以下を読みました。ファリサイ派と呼ばれる人たちに対する、主イエスの批判の言葉を読んだのであります。その続きです。この主イエスの言葉を横で聞いていたのでしょうか、律法の専門家が反論をいたしました。「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」。律法の専門家、「律法学者」という呼び方も福音書によく出てきますが、なぜ呼び方が微妙に違うかと言うと、原語が異なるからです。同じことだと考えてよいと思います。神の言葉の専門家です。ただもうひとつ、この律法学者というのが、ファリサイ派とどう違うか。ファリサイ派と呼ばれる人たちは、自分たちの生活を一所懸命、神の言葉に従って整えようとした。しかしそのときに、「神の言葉に従って」ということは、具体的には何を意味するか。そういう時に、ファリサイ派が頼りにした、いつもお伺いを立てたのが、律法学者と呼ばれる人たちです。先週読みました37節以下において問題になった、主イエスが食事の前に手を洗わなかった、そういう清めの儀式をしなかったということも、つまり律法の専門家たちがそういうことについて熱心に教えていたということです。ところがその律法の専門家も見ているところで、主イエスは悠々とその教えを無視なさった。しかもそこで、「あなたがたは外側ばかりきれいにして、内側は汚れきっているではないか」と言われる。律法の専門家たちが頭に来たのは当然です。主イエスはそれにお答えになった。それが今日読みました46節以下です。

イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

私は説教の準備をしておりまして、もうここで、しばらく動けなくなるような思いがいたしました。厳しい言葉ではないでしょうか。なぜ厳しいかと言えば、明らかにわれわれの問題を鋭く言い当てている言葉だからです。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」。しばらく前の説教で、ある小説から引用した、「包帯を巻く気がないなら、他人の傷に触れるな」という言葉を思い出しておられる方もあるかもしれません。ある説教者はこう言いました。私どもが神の言葉に従って正しく生きるということは、これはひとりでは絶対に成り立たないことである。ほかの誰が何をしようが、何を言おうが、わたしだけは正しく生きる、そんなことは、絶対にできない。なぜかと言うと、〈わたしの正しさ〉というのは、いつも、自分が自分の隣人に対して、どういう存在になっているか、どういう関係を作っているか。そのようにしか計り得ないものであるからだ。

そして、主イエスのご覧になるところ、律法の専門家のいちばんの問題はここにあったし、私どもの最も深刻な問題もここにあったのであります。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」。この言葉の具体的な意味は、当時の律法学者たちが、実に細かい、さまざまな掟を人びとに重荷のように課していたと(食事の前にはこういうふうに手を洗えとか)、まずそのように読めそうです。けれどももっと重大なことは、そのようにして、神の言葉を用いて、人びとを罪に定めたということです。神の言葉を、正しく読んでいるつもりが、その用い方を完全に間違ってしまった。お前はここが悪い、あそこが悪い。あなたには本当に困ったものだ。あの人は本当に困った人だ。そう言いながら、あなたの正しさによって、人にのしかかっていないか。人に罪の重荷を負わせて、自分では指一本も触れないということになっていないか。それは、さらに言い換えるならば、主イエスが重んじておられる小さな者、主イエスが大切にしておられるこの小さな罪人を、あなたは軽んじてしまってはいないかということであります。

先週の礼拝で、ハイデルベルク信仰問答の紹介をしました。今年、出版から450年の記念の年を迎える、このハイデルベルク信仰問答という信仰の書物を、ぜひこの機会に大切にしたい。そう思って、私が担当しておりますふたつの地区集会でも、この信仰問答の学びを始めているということも、先週申しました。そういう時に、私がもう一冊、丁寧に読み直さなければと考えている書物があります。皆さんの中にも親しい思いで記憶しておられる方が多いと思いますが、既に数年前にお亡くなりになった、ルードルフ・ボーレン先生の『天水桶の深みにて』という書物であります。まさにハイデルベルク信仰問答の復権をうたった書物だと言うことができると思います。しかもそれをボーレン先生の、ひとつの体験記のような形で書いているとも読める書物になっています。

この書物に、「こころ病む者と共に生きて」という副題が付いています。ボーレン先生の最初の奥さんが、こころを病んで、遂に自死なさった。その体験、妻と15年間共に生きた体験を、それからなお15年間、その意味を問い続けて、ようやく書物にすることができたというものです。

もしかしたら、難解に感じることもあるかもしれません。神学的な、また同時に非常に文学的な書物でもあります。なかなかすらすらとは読み進められないようなところもあるかもしれません。けれども、ここだけはおそらく読みやすいだろうと思いますのは、その本の終わり近くに、「自伝的なことども」という題の章があります。この書物が書かれた事情がかなり丁寧に記されています。本を読むときに、まずあとがきから読むと、その内容が手っ取り早く分かるということがありますけれども、そのようなあとがきにも似た部分です。「自伝的なこと」というのですから、ただ奥さんの話をしているのではなくて、その奥さんと一緒に生き続けたボーレン先生自身の心がどうであったかということを語るのです。

たとえば、こういう話が記されております。奥さんの状態が、また深刻になってきた。そこでボーレン先生は、詩編の第103篇を奥さんに「与えた」というのです。新共同訳聖書では少し翻訳が違うのですが、詩編第103篇の最初にこういう言葉がある。「主をほめたたえよ。わが魂よ。主があなたにしてくださったよいことを忘れてはならない」。重い心に捕えられている妻が立ち直るようにと、その言葉を「与えた」という表現を用いています。なぜあなたがこころを病んでいるのか。主の恵みを忘れているからだ。だから、主の恵みを思い起こそう。自分の言葉でなんか祈らなくていい。詩編の言葉を心に刻み付けるように、この歌を歌えばいい。そうすれば立ち直ることができる。そこで、最もふさわしい言葉を与えたつもりであったけれども、まさにそのところで、ボーレン先生は、自分は最も深刻な罪を犯してしまったと言うのです。

「主をほめたたえよ。わが魂よ」。けれども、「蛇を見つけて立ちすくんでいるうさぎのように」――どうしてもその先が続かない。どうしてもその先を言えない。病んでしまって、もうどうしていいのか分からなくなっているこのわたしが、どうして「主がしてくださったよいことを忘れるな」と歌えるか。そしてボーレン先生は、そこで言葉を失っている、蛇を見つけたうさぎのように立ちすくんでいる妻を見ながら、ただ茫然と見るだけであって、結局そこで自分がしていたことは、「主をほめたたえよ」という絶望的な命令を与えただけであったと言うのです。明らかに心の中で裁いていたと言います。

いったいどこで何を間違えてしまったのだろうか。ボーレン先生はそこで、別に詩編の言葉が間違っていたわけではない。神の言葉に誤りがあったわけではない。けれども大きな間違いであったのは、わたしがその言葉を与えるだけで、与えたまま、妻を一人ぼっちにしてしまったことだと言います。律法主義者の特徴というのは、そのように、神の言葉を与えはするけれども、与えただけでそのまま人間をひとりぼっちに放っておくことである。それが律法主義だ。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」。ボーレン先生は、まさにこの律法学者の罪を、自分は犯したと、悔い改めているのです。

ボーレン先生は、こういうことも言っています。私も妻も、ふたりとも、幼い頃からハイデルベルク信仰問答に親しんできたつもりであった。その内容をよく学んできたつもりであった。けれどもまだきちんと理解していなかった。ハイデルベルク信仰問答の問5にこういう言葉がある。「私には、生まれながら、神と自分の隣人を憎む傾向があるのです」。この言葉を、私も妻もまだよく理解していなかった。もともと自分たちには愛が不可能だということを、そのような惨めさの中に落ち込んでしまっている存在だということを忘れていた。特に悪いのは私だと、ボーレン先生は言います。自分の愛の力で、妻を助けることができると思い込んでいた。しかしそこでしたことは、ただ妻に重荷を負わせ続けただけであった。

いろんなことを考えさせられる文章だと思います。今少し長くこの本の紹介をいたしましたけれども、お聞きになってお分かりになりましたように、この書物は、ただ、心を病んだ人のために、というだけの書物ではありません。むしろ、そういう人と一緒に生きている人のために書かれた文章、そういう人のために書かれたドキュメントであると、ボーレン先生は言います。そしてそのような人、つまり私のような人は、いろいろな意味で助けを必要としている。私は、助けてほしいのだ。そして何よりも、自分に必要であった助けは「赦し」という助けなのだと、そう書いています。赦しなくして立ち直れるか。それは妻にも必要なことであったし、しかし、このわたしにも必要なことであったのだ。そこでこういうことを言います。少しそのまま書物から引用いたしますけれども、「それに必要なのは、〔あのルカによる福音書第15章11節以下の「失われた息子の物語」が語っており、特にその22節以下に記されているような〕、あの新しい服であり、指にはめてもらう指輪であり、祝宴なのである。だが、誰がこの服を作ってくださるのであろうか。誰が、指輪を作ってくださるのであろうか。誰が祝いの食事を料理してくださるのであろうか」。自分で自分に指輪をはめることなんかできません。自分で自分のために、喜びの祝宴を用意することなど、できないのです。この小さな罪人を愛してくださる、神を相手にすることなしに、人は人として立てるのか。そう言い換えることもできると思います。

今日読みましたルカによる福音書第11章、その47節以下に、まだ全く触れておりません。けれども47節以下に書いてあることは、今少し長々とお話したことと深い関わりの内に読むべきであると思います。ここに書かれていることは、いろいろと難しい言葉もあるようですが、主旨は明確だと思います。あなたがたは、神の言葉を葬って来たではないか。今も葬り去ろうとしているではないか。

そこでたとえばゼカルヤという名前の預言者が出てきます。先ほど読みました歴代誌下第24章に登場する、旧約聖書の中で最後に殺された預言者の名前です。その前に出てくるアベルというのは、これはご存じの方も多いかもしれませんが、創世記第4章に登場します。最初の夫婦、アダムとエバの間に生まれた兄弟、カインとアベル、その弟のほうがアベルです。弟アベルは神に祝福されたのに、兄のカインはどうも祝福を受けることができなかった。それを妬んでカインはアベルを殺した。人類最初の兄弟げんかは、兄弟殺しになってしまったという、まことに悲しい、けれどもまた、私どもの悲しい現実を痛いほどによく言い当てている聖書の記事だと思います。ところで、ここで多くの聖書学者が批判的に言うことがある。50節で「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について」と言いながら、51節で「それは、アベルの血から……ゼカルヤの血にまで及ぶ」と言うのですが、アベルが預言者であるなどと考える人は、ふつうはいません。アベルがいつ神の預言を語ったか。特に批判的な聖書の読み方をしようとする学者は、イエスさまも律法学者を攻撃するためならこんなむちゃくちゃなことまで言う、などと言ったりします。けれども私は思います。アベルは神の祝福を受けた。その神の祝福をひねりつぶそうとした人間の罪はここから始まっているのだ。そして旧約聖書の預言者の誰もが語ったのも、この神の祝福です。けれどもそれを押し殺そうとし続けた。それがあなたがたの天地創造からの歴史ではないか。

そして、50節、51節で繰り返して言われます。その人類の、預言者殺しの歴史の責任を、今の時代の者たちが問われるのだ。「そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。なぜ今なのか。他の時代ではなく、なぜ今の時代なのか。ややこしい説明をする必要はありません。主イエスが今、殺されるからであります。主イエスはここで既に、この律法学者たちによって、ご自分が殺されることを覚悟して、受け入れておられたのであります。

このわたしイエスこそ、アベルから始まる神の祝福を担う者である。そのわたしを、あなたがたは殺そうとしているね。「あなたがたは、不幸だ」。律法の専門家と相対しながら、そう言われた主のお言葉は、怒りというよりも悲しみの言葉であったと思う。それまでの人類の、神の言葉を消し去ろうとする罪の責任の全部、罪の重荷の全部を、この時代が担わなければならないのだ。しかも主イエスは、背負いきれない重荷を人に負わせて、自分では指一本も触れようとしないようなわれわれとは違います。まさにその、主イエスの十字架において明らかになってしまった、神の言葉を殺そうとする私どもの罪を、ご自分で担ってくださったのです。

その十字架から聞こえてくる言葉があるはずです。天の国でいちばん偉いのは誰か。あなたではないか。そして、あなたの兄弟ではないか。この、わたしが重んじている小さな者のひとりを、決してあなたが軽んじることのないように、気をつけなさい。今、どんなにありがたい「赦し」の言葉を私どもがいただいていることか。もう二度と、この神の言葉を殺すな。あなたを祝福する神の言葉を押し殺すな。十字架の上から、主イエスの語りかけが聞こえてまいります。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、あなたに重んじられている自分自身を受け入れさせてください。あなたに愛されている隣人を受け入れさせてください。命を懸けて私どもを祝福してくださったそのあなたの愛を、あなたの語りかけを今、心いっぱいに受け入れることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン