重荷を担い合う歩みを
ガラテヤの信徒への手紙第5章25節-第6章5節
川﨑 公平
主日礼拝
週報などでも予告をいたしましたけれども、先週の月曜日から木曜日にかけて、名古屋で行われました、説教塾という集まりのセミナーに出かけてまいりました。名古屋というと、皆さんがすぐに思い起こすことがあります。かつてこの教会で共に礼拝の生活を続けた、名古屋の金城教会の木下喜也牧師、池田慎平伝道師、また名古屋の金城学院大学で働いておられます落合建仁先生。さすがに大学で働いていらっしゃる落合先生が、月曜日から木曜日という日程のセミナーに現れるということはありませんでしたけれども、木下先生も池田先生もそのセミナーにご出席でした。ちょうど先週の日曜日には、池田先生の伝道師就任式が行われたばかりであると、そのような報告も伺うことができました。木下先生と池田先生と、とてもよい協力関係を作り、就任式にもずいぶんとたくさんの鎌倉雪ノ下教会の人たちが出席してくださったと伺いました。豊かな交わりが与えられていることを感謝するひとときになったということを、まずご報告したいと思います。
今日は、いつも読み続けておりますルカによる福音書を少しお休みして、ガラテヤの信徒への手紙第5章25節以下を読みました。パウロという伝道者が、ガラテヤという地域にある諸教会に宛てて書いた手紙であります。なぜこの聖書の言葉を今日読んだかというと、ひとつには非常に単純な理由でありまして、先週の名古屋のセミナーで木下先生や池田先生と一緒にこのパウロの言葉を共に学んだということによります。しかし私は、そのような消極的な理由にとどまらず、やはりこれは、今この教会に神が与えてくださった言葉であると信じて、今日だけではなくて、次に私が説教いたしますさ来週の日曜日、それはつまり大澤正芳・みずき両先生の牧師就任式が行われる礼拝ということでもありますけれども、今日とその日と2回に分けて、この聖書の言葉を皆さんと一緒に聴き取っていきたいと願っております。ついでに申しますならば、2年前に私がこの鎌倉雪ノ下教会に赴任してすぐに、4月の教会総会の日にこの聖書の言葉を読み、説教したことがあります。何度説教しても説教し足りないと思うほどの豊かな内容の聖書の言葉であると思いますし、特に今この教会が聞くべき、もっと言えば日本の教会が聴き取るべき大切な聖書の言葉がここにあると信じているのです。
もう少しその名古屋の説教塾のセミナーの話をさせていただきたいと思いますが、この名古屋のセミナーが行われる場所はいつも決まったカトリックの施設で、その中に、20人も入ると満員になるような小さな聖堂があります。その聖堂をお借りして、私どもプロテスタントの者が礼拝に使わせていただくわけですけれども、礼拝堂の姿もいろいろと異なるところがあります。ひとつ大きく異なるのは、礼拝堂の中に十字架がある。しかもその十字架に、キリストのブロンズ像がついています。私どもの礼拝堂に十字架はありません。教会堂のてっぺんに十字架はついていますが、その十字架にキリストの像をつけるということは決していたしません。それはなぜかというと、私どもの教会は改革派と呼ばれる伝統の流れに属します。ジャン・カルヴァンという神学者の伝統にさかのぼると言うことができますが、この改革派の教会では非常にやかましく、十字架にはキリストの像をつけてはならないということを徹底いたしました。その十字架につけられたキリストを、偶像を拝むように拝み出したらまずいと考えた。しかし名古屋のセミナーの期間中は、その聖堂で十字架につけられたキリストの像を仰ぎ続け、毎朝そこで礼拝をいたしました。たまたま、池田慎平伝道師も、最終日の朝の礼拝で説教なさいました。説教を聴いておりますと、ちょうどを司式者の背後にキリストの十字架が見えます。少し特徴のあるデザインで、ずいぶんと縦長の、1メートル以上あるような細身の木製の十字架に、その十字架の大きさに比べると、ずいぶん小さなキリストの像がかかっている。実際にキリストが十字架につけられた姿をそのまま写実的に表そうと思ったら、これはちょっとイエスさまが小さすぎるのではないか思うほどです。たとえば池田先生の説教を聞きながらも、そのような十字架がふと目に入る。ああ、イエスさまはこんなに小さくなってくださったかと思いながら礼拝をしたこともありましたし、しかしまた別の日に見ると、十字架につけられた主イエスが高く、高く掲げられて、その十字架につけられた主イエスを、いわば旗印にして、共に歩む教会の姿をイメージしながら礼拝をしたこともありました。礼拝をしているといつも説教者の背後に、そのキリストの像がある。
そのような珍しい礼拝体験をしながら、私が思い起こしていた聖書の言葉がありました。このガラテヤの信徒への手紙第3章の1節であります。
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
これはずいぶんと激しいものの言い方です。ガラテヤの人たち、あなたがたは物分かりが悪い。ある神学者ははっきりと、「あなたがたは愚かだ」と訳しました。その愚かさはどこに見えるかというと、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。なぜそのキリストを見失うのか。このガラテヤの信徒への手紙というのは、十字架につけられた主イエス・キリストから目を逸らしてしまったために、道を踏み誤ってしまった教会に宛てた手紙であると言うことができます。
「イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。繰り返しますけれども、私どもの教会は十字架を礼拝堂の中に置きません。もし置いたとしてもそれにキリストの像をつけることはしません。それを拝むのは間違っていると考えるからです。けれども、もしかしたら下手をすると、十字架を見ながらも、そこにどのようなお方がつけられたのかということ忘れることがあるかもしれません。なぜこの方は十字架につけられたのだろうか。なぜこの方はこのように高く掲げられているのだろうか。ガラテヤの教会にキリストの像が置かれていたということではないと思います。「ガラテヤの人たち、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言ったときに、パウロはキリストの像のことを言っているのではなく、説教によって語られるキリストのことを思っていたのです。パウロはそれに続く文章で「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」と言います。ガラテヤの人たちは福音を聞いたのです。説教を聴いた。それは、十字架につけられたイエス・キリストをはっきりと示し続けることである。私どもが何よりも重んじるのは、十字架につけられたイエス・キリストです。それ以外のことを語ることはありません。そこから目を逸らしてはいけない。
このガラテヤの信徒への手紙第3章で、パウロはひとつおもしろいことを言います。「あなたがたが“霊”を受けたのは」と言います。なぜここにこんな言葉が出てくるか。福音を聞く、十字架につけられたキリストを仰ぐということは、霊を受けることにほかならないというパウロの理解があったと思います。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」。われわれが霊を受けたのは、福音を聞いたからだ。十字架につけられたキリストに出会ったからだ。今日読みました第5章の25節にも、こういう言葉がありました。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
私は説教の準備をしながら、ひとつ心配をしました。「霊の導きに従って生きているなら」と言われて、皆さんはどういうことをイメージなさるか。どういうことをお考えになるでしょうか。もしかしたら何らかのイメージはあるかもしれない。何となく心が清らかになったり、間違いを犯さなくなったり……。パウロにとって、「霊の導きに従って生きている」と言ったときには、そこにまことに具体的な内容がありました。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。あなたがたは霊を受けたではないか。だから、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」。私どもの教会は霊の導きに従って前進する教会である。それを言い換えれば、キリストの十字架から目を逸らしたら、一歩も前進することができない教会である。そのように言い換えることができると思います。そして、そのように私どもがキリストの十字架を仰いで生きるという時に問題になるのは、われわれはひとりで歩いているのではないということです。教会に来ると、どうしても人間との関わりが生まれてきます。いろんな人がいます。いろんな人と一緒に生きていきます。そしていろんな関わりがある。いろいろな言葉が交わされる。奉仕をする。そのようにわれわれが一緒に生きていくというときに、私どもは霊の導きに従って生きている、キリストの十字架を仰いで生きているということが、いったい何を意味するのか。
新共同訳はここで、「霊の導きに従ってまた前進しましょう」と言います。この「前進しましょう」という翻訳は、非常に工夫が凝らされていると思いますが、これも私どもがひとりで歩いているのではないということを、よく言い表した言葉だと思います。共に手を携えて足並みをそろえて、前進しよう。けれども私どもは、そのように一緒に前進するというときに、どうしてもそこにキリストの十字架がなければならない。そのような歩みがなお具体的に、鋭く現れてくるのがどのような場面であるかということを、パウロは第6章の1節以下でこのように語っていきます。
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。
こう言ってもいいと思います。私どもは、霊の導きに従って生きている。キリストの十字架を仰いで生きている。そのような私どもの歩みが最も具体的に試されてしまうのが、「だれかが罪に陥った」時である。「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と言います。やさしい心で、と言い換えてもいいと思います。これは非常に具体的な言葉です。そんなに分かりにくいことが語られているわけではないと思います。
既に2年前の春にも、私がこの教会に赴任してすぐに、このパウロの言葉を説教しました。2年前の雪ノ下通信に載せました。「だれかが罪に陥った時に、柔和な心で立ち帰らせなさい」という言葉を説明しようとして、私はこういう話をしました。ある牧師が、こういうふうにこの聖書の言葉を説き明かしていた。自分の子どもに向かって、無意識のうちに口にしている言葉に気づいた。「お父さんの言った通りでしょう」。子どもが何かの失敗をしたという時に、ほとんど無意識にそういう言葉を口にしている。「ほら、お父さんの言う通りにしないから」。そこでこの先生は、反省しながらこう言うのです。「いったいこの言葉は、誰のために語っているのだろうか」。少なくとも相手のための言葉ではない。自分の正しさを証明するための言葉でしかない。人間の本能とも言うべき悲しい心が、こういうところに現れてくると言います。
この2年前の雪ノ下通信に載せた説教を、ふだん日曜日の礼拝には来ることができない高齢の教会員の方が読んでくださって、わざわざ機会を見つけて私に声をかけてくださったことがありました。先生、本当によく分かりました。わたしが昔、妹に言い続けてきた言葉にそっくりだ。「ほら、お姉ちゃんの言う通りにしないから」。どんなに重い罪を犯していたか。今はよく分かる。「先生の説教、とてもよく分かりました」と言いつつ、「でも先生の説教は、一度読んだだけでは全然分からないから」と言い添えて、「説教をテープで聴き直し、全文をノートに書き起こしました」。こういう教会員が与えられているということは、本当にありがたいことだと思いました。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」。何も難しいことはない。書いてある通りであります。しかしまた、こんなに難しいことはないと改めて思わされます。
ところで面白いのは、これに続けてこういう言葉を書いていることです。「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」。なぜこんな言葉がここに出てくるか。たとえばひとつの読み方をすれば、「あなただって人間でしょう。間違いを犯すこともあるでしょう。五十歩百歩でしょう。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけたほうがいいのではないですか」。けれどもむしろここはそういう意味ではなくて、誰かが罪を犯すとき、「ほら、わたしの言う通りにしないから。何度も言ったでしょう。ああ、何度言ったら分かるのかな」。私どもがそのように〈正しい人間〉になるときに、私どもは最も深刻な誘惑に遭うのです。しかしこれは私どもが体験的によく知っていることだと思います。その時に何が起こるかというと、「柔和な心」を失うのです。
あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
このパウロの言葉は、ちょっと厳しいなと思うことがあったとしても、分かりにくい言葉ではないと思います。
そこでひとつの急所になるのは、「互いに重荷を担いなさい」。担わなければならない重荷がある。私は説教の準備をしながら、この「重荷を担いなさい」という言葉を読み、さあ、皆さんはどういうことをお考えになるかなということを思い続けました。「互いに重荷を担いなさい」。たとえば病気の人がいたら訪ね、看病し、困っている人がいたら手を差し伸べ……そのようにして重荷を担い合う。教会というのは、まさにそのように助け合い、愛を注ぎ合う交わりである。そのように一方では言うことができると思います。確かにそうです。けれども、明らかにここでパウロが語っていることは、ただ助け合おうということではありません(そういう意味では、新共同訳の「信仰に基づいた助け合い」という小見出しは、あまりにも軽薄だと私は思っております)。ここでパウロが問題にしているのは、誰かが罪を犯した時、その罪をどうするかということです。教会に来ると、私どもは互いに助け合うことを知るようになります。困っている人がいれば、その人の重荷を担い合うことを学びます。「どんな重荷でも喜んで担いましょう。特に教会のためなら何でもします。一所懸命励みます」。そうは言っても、私どもがどうしても担いたくない重荷があると思います。それは誰かが罪を犯した時、特に自分がその罪の被害者になった時です。誰かが罪を犯した時、あなたがその罪の被害者になった時、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」。
「互いに重荷を担いなさい」。この言葉は、教会の伝統の中で、特に結婚式に読まれる言葉になりました。実は、私ども夫婦の結婚式の時にも、東京神学大学の教授が、この言葉を紹介しながら挨拶をしてくださいました。そして、そのような場所では誰もが、この言葉を喜んで聞くのです。結婚式の誓約の時にも、教会に来ていない人でも覚えている言葉があります。「すこやかな時も、病む時も、この人を愛しますか」。相手が病気になったら、それでも一所懸命重荷を担う。それが夫婦でしょう。けれどもそこでなお、ひと言付け加えてみるとよいのです。「すこやかな時も、病む時も。この人があなたに対して罪を犯す時も、あなたはこの人の重荷を担い続けますか」。誰かが罪を犯す時、思いがけず、罪に落ち込んだ時、「ほら、わたしの言う通りにしないから」……そこに、重荷を共に担う心はありません。その重荷に指一本触れることをせず、むしろその重荷に重荷を加えるようなことをしてしまいます。夫婦の生活だけではありません。何よりもここでパウロは、夫婦生活ではなくて教会生活のことを考えています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。このような聖書の言葉は、誰もがすんなり受け入れているはずの言葉だとも思います。けれども案外、重荷を担わなくてすむのが教会の交わりだと考えているようなところもあるのではないかと思います。教会に来ると皆やさしくて、誰も自分を傷つけることなく、誰も自分に重荷を負わせることなく……それが教会である。それなのに、誰かが罪を犯しているために、自分が重荷を負わないといけない。教会なのに、どうしてこんなことが起こるか。特に自分が被害者になると、もう黙っていることができません。しかし、それはおかしなことです。教会とは、互いに重荷を担い合うところです。
なぜパウロが既に、第3章1節で、「十字架につけられたイエス・キリストから目を逸らすな」と言ったのか。その意味がここでも明らかになってきていると思います。
「重荷」という言葉は、やはりこのようにしか訳せない言葉であります。元のギリシア語を調べてみても、この「重い」という言葉を取り去ることはできないということに気づきました。これは軽くはない。重いんだよ。そう言われているのかなと思いました。できれば今日、「この重荷は軽いのです」という説教をしたいとも思いましたけれど、やっぱりこの重荷は重い。そしてこの重荷の重さがどこで明らかになってくるかというと、キリストの十字架においてでしかないのです。「互いに重荷を担いなさい」。それは「キリストの律法を全うすること」である。聖書のどこを探したら、そのようなキリストの律法が出てくるか。聖書をめくって調べる必要もありません。キリストご自身がしてくださったことです。特に私がそこで思い出したのは、ローマの信徒の手紙第5章。私どもの多くが愛誦している聖書の言葉です。その第5章の6節以下にこういう言葉があります。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
私どもはこう思っているのではないかと思います。「善い人のためなら、どんな重荷でも担いましょう。正しい人のためなら、まあ重荷を担ってもいいでしょう。しかし、なぜ罪人の重荷をわたしが担わなければいけないか」。けれども、キリストは罪人のために死んでくださった。その罪人とは自分のことであると、今改めて気づくべきです。 だからこそもう一度申します。パウロはガラテヤの教会の人たちに、このキリストの十字架から目を逸らすな、重荷を担っていただいた自分であることを忘れるな、と言うのです。この礼拝堂にキリストの像を置くことはできませんけれども、皆さんの生活の中に、必要なら十字架につけられたキリストの像を刻んでもよいと私は思っています。自分がどんなに重い重荷を担っていただいて、今ここに生かされているか。そこから目を逸らさないようにしよう。パウロはそう言うのです。
この後、私どもは主の食卓にあずかります。聖餐の時に招きの言葉として必ず読む主イエス・キリストの言葉があります。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
ここにも重荷という言葉が出てきます。その重荷を主イエスもまた担ってくださったということに、改めてこの食卓において気づきます。この主イエスの言葉は、なおこのように続きます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。ここにも「柔和」という言葉が出てきます。キリストの柔和、キリストのやさしさと言い換えてもよいと思います。私どもは皆、このキリストのやさしさに触れたのです。「だれかが罪に陥ったなら、柔和な心で……」と言われますけれども、誰よりもやさしく私どもの罪を正してくださったのは主イエスです。そしてこの主イエスのやさしさとは、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったこと」であり、「やさしさ」という言葉では言い足りないと思うほどの激しいものです。
私どもの教会が徹底して学ぶべきことは、このキリストの柔和、キリストのやさしさです。このキリストのやさしさによって私どもは既に受け入れられたし、私どももこのやさしい主イエス・キリストを受け入れたのです。もしこの十字架につけられたキリストから目を逸らしていないならば、誰かが罪を犯した時、そこにも私どもの柔和な心というものが作られていきます。この聖餐において、私どもは、キリストのやさしさを知るのです。そのことを、もう一度新しく学び直したいと思います。
私どもが聖餐を祝います時に、司式者が必ず読む式文の言葉があります。「陪餐停止の戒規を受けている者もこれにあずかることはできません」。私は聖餐の司式をするたびに、この短い言葉が皆さんにどのように聞かれているかなということを思います。「陪餐停止の戒規」というのは、つまり誰かが罪を犯した時、そしてその罪が重大であると判断された時には、あなたはしばらく聖餐にあずかってはいけませんと、戒めを与えることであります。これは、マタイによる福音書第18章15節以下の主イエス・キリストの言葉に典拠を持つ、教会の定めであります。ただし私どもの教会が、実際にこの陪餐停止の戒規を行うことができるか、その実力を持っているか。私は正直に申しまして、少し心もとない思いを抱かないわけではありません。現実にこの鎌倉雪ノ下教会で陪餐停止の戒規が行われた記録があるかどうか。少なくともここ何十年間、ひとつもないはずです。くどくどと説明するまでもなく、それはちょっと難しそうだと、ご理解いただけると思います。
ただし、私が現実に陪餐停止の戒規が行われた、その現場に立ち会った例がひとつだけあります。自分が属していた教会ではありませんけれども、金銭問題で大きな過ちを犯した教会の長老がいました。たいへんな被害が出ました。その教会だけでは扱い切れないというので、教区の責任ある人たちも関わって、陪餐停止の戒規にするほかなくなった。ただし、この戒規というのはそれこそ、このガラテヤの信徒への手紙が語っているように、柔和な心で、キリストのやさしさをもって行うものである。罰則ではない。罪を赦して、もう一度主の恵みに立ち帰らせる手段であるということを明確にし、金額的には相当大きな被害でありましたけれども、この世の裁判所に訴えるようなことはしないという決断もいたしました。ただし、その人は、それまで属していた教会を離れて、別の教会で礼拝に出続けるように、という指導がなされたと聞きました。知っている人は誰もいない、そういう教会でみ言葉を聞き続け、聖餐にはあずからない。私はその決定を聞いた時に、機会がありましたので、教区の議長に直接尋ねたことがあります。陪餐停止は分かる。けれども、なぜ出席教会を替えなければなりませんか。なぜそれまで共にみ言葉を聴き続けた教会の仲間のもとに戻ることはできないか。もう一度、主の十字架のもとに立ち、もう一度手を携えて共に歩むことはできないか。
けれども、そのような判断にも一理あると考えることもできます。罪を犯した本人が一番苦しんでいるのです。恥ずかしくて、どうしてそれまで行っていた教会に戻ることができるか。いったいどの面下げて、という思いがあったかもしれません。しかし、悲しいことではないでしょうか。教会とは誰も罪を犯さない、清らかな人の集まりだという理解が、やはりどこかにあるのです。そのような教会で誰かが重大な罪を犯したという時に、わたしはあそこには戻れないという思いを養ってしまった、教会の悲しさを思いますし、けれどもまた、どうしてもそのようにしか考えることができない私どもの心の頑なさをも思います。そんなに大げさなことを考える必要もないのです。誰かが罪に陥った時、それを指摘された時、どんな小さなことでもいいのです。自分の失敗を誰かに指摘された時、私どもの心の中で何が起こるか。ひと言批判的な言葉を聞いただけでも、心が固くなってしまう。ほとんど反射的な心の動きを、私どもはよく知っているのです。「互いに重荷を担いなさい」と言われますけれども、やはりここは「互いに」というところが大事だと思います。赦し難い罪を犯した人の重荷を担ってあげることも難しいことですが、しかしそれにもまして、自分の罪の重荷を誰かに担ってもらうということ、実はこんなに難しいことは他にないのです。
もし私が、何かの罪を犯した時、そして皆さんとの間に何らかの大きなわだかまりができた時。もうこの教会ではやっていけないなと思ってしまう、弱い心を私は持っていると思います。これは認めざるを得ない。けれども一方で、実は私はもう、キリストに罪の重荷を担っていただいた人間です。なぜ今さら恥ずかしがる必要があるかとも言えるのです。もう一度、私どもがどのようなお方に招かれたのか。どのようなお方に呼ばれたのか。その原点に立ち帰りたいと思います。「ガラテヤの人たちよ、なぜあなたがたは物分かりが悪いか。十字架につけられたイエス・キリストから、なぜ目を逸らすか」と、パウロが語らざるを得なかった、その神の御心にもう一度心を寄せたいと思います。私どもは主イエス・キリストに赦され、ここに立たされているのです。それ以上の者ではありません。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。キリストに赦されている自分であることを、もう欺いてはいけない。キリストのやさしさに生かされている自分であることを、もう欺いてはいけない。誰かが罪を犯す時、そこで柔和な心を失ってしまう時、私どもは自分自身を欺いているのです。
今共に聖餐にあずかりながら、自分の本当の姿にもう一度気づき直したいと思います。自分を欺くことなく、赦された者として、共にここに立ちたいと心から願います。それでは、お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神。もう一度原点に立ち帰らせてください。あなたに赦されてここにある私どもであることを、ここで新しく発見することができますように。十字架につけられた主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン