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罪の赦しの先にあるもの

2024年7月21日

ルカによる福音書 第5章1-11節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

先月の第4主日の主礼拝のなかで、伝道師就任式を執り行っていただきました。改めて神のみ前に立って誓約するなかで「召命」とは、いったい何であるのか、自分はいま、何に生かされて、ここに立っているのか、そのようなことを深く考えさせられました。

本日のテキストの主題は「召命」であります。今朝、私たちに与えられた御言葉には、弟子シモン・ペトロの召命の記事が描かれています。漁師であったペトロは主に見出され、主からの呼びかけに応えて、すべてを捨てて、主イエスに従っていきました。

物語の大筋はこうです。ある日、主イエスがゲネサレト湖のほとりにおられると神の言葉を求めて大勢の群衆が主イエスのもとに押し寄せてきました。そこで主イエスは群衆からある一定の距離を取って、より多くの者に神の言葉を届けるため、近くに停めてあったシモン・ペトロの舟に乗り込みます。そしてその上から群衆に教え始められました。

主イエスは、群衆に語り終えられると、そばにいたペトロに向かって「沖へ漕ぎ出し、網を降して漁をしなさい」と言われます。ペトロは主イエスの言葉通りに舟を沖に漕ぎ出して、そこで網を降ろしてみます。すると網には大漁の魚がかかっていました。ペトロは主イエスの膝元にひれ伏して「私は罪深い人間です」。そう言って、自らの罪を告白します。

その後、ペトロは「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という主イエスからの呼びかけに応えて、すべてを捨てて、主イエスに従っていきました。

こうして物語の大枠だけをさらってみますと、このペトロという男は非の打ちどころのない立派な信仰者であったかのように思えます。「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」という主イエスからの突然の命令、いわば無茶ぶりとも言えるような要求にも「お言葉ですから」とその言葉に信頼して、すべてを委ねて従った、信仰深い者であったかのように思えます。しかし本当にそうなのでしょうか。

実際はそうではなかったようです。聖書をよく見てみますと、ペトロは主イエスから「沖へ漕ぎ出して網を降ろせ」と言われたとき、咄嗟に「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」と答えています。本当に心から主イエスの言葉に信頼していたのなら、こんな言葉が出てくるはずがありません。

漁師であったペトロは、いわば、漁のプロであり、この付近の湖の事情については主イエスよりはるかに熟知していました。そんな漁のことについて専門家である自分たちが一晩中、苦労して、魚一匹すら捕ることができなかったのに、今さら舟を沖に漕ぎ出し、網を降ろしてみたところで、何も捕れるはずがないとペトロは内心そう思っていたのでしょう。

それに、こういった打ち網を用いて行う漁は、通常、まだ日が昇らない暗いうちに行います。日が昇り切ってしまった明るい時間帯に、網を水面に降ろしてみたとしても網が魚に丸見えで、到底、魚など捕れるはずがありません。

ペトロはそういった自らの蓄積された経験からも世の一般な常識からも「そんなことはあり得えるはずがない」と心のどこかで主イエスの言葉に不信を抱いていたのであります。

けれどペトロは言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。そう言ってペトロは、実際に舟を沖へ漕ぎ出し、そこで網を降ろしてみました。

しかしこの時点においてもまだペトロは主イエスの言葉を信じ切っていたわけではなかったようです。その証拠に大漁の魚が網にかかったのを見て、ペトロは大変、驚き、「私は罪深い人間です」と言って、自らの罪深さを告白しています。

主の言葉に従いながら、そんなことは起きるはずがないと、最初からペトロは疑っていたのであります。私たちは、このペトロの言動からも彼の心のなかにやはり主の言葉に対して、疑いがあったのだと見ることができます。

それでは何故このとき、ペトロはわざわざ主イエスの言葉に従ったのでしょうか。「お言葉ですが、先生、先ほど申し上げましたように、そんなのあり得ないのです。無理なのです」。そう言って、主イエスの言葉を真に受けずに無視することだってできたかもしれません。それでもペトロは主イエスの言葉に従いました。

その理由は今日の箇所の少し前、第4章38・39節を見るとわかります。

「イエスは会堂から立ち去り、シモンの家に入られた。シモンのしゅうとめがひどい熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスが枕元に立って熱を叱りつけられると、熱は引き、彼女はすぐに起き上がって一同に仕えた。」(4:38~39)

ここで主イエスはペトロのしゅうとめの熱を癒されています。ペトロには主イエスに自分のしゅうとめの熱を癒していただいたという恩義があったのです。そのため無下に主イエスの言葉を無視するわけにはいかない。お世話になった先生の願いを安易に断ることはできない。そのような思いに駆られて、ペトロは主イエスの言葉に従ったのではないかと思われます。

このようにペトロはけっして完璧な存在ではありませんでした。むしろ主イエスの言葉を疑い、自分の思いや経験を優先し、主イエスの言葉に信頼することができない弱さを抱えた者でありました。

主イエスのみ前に立たされたとき、ペトロはある種の恐ろしさ、恐怖を感じたとあります。自分の近くにいた存在が単なる立派な先生ではなくて主であると知ったとき、ペトロは主イエスに自分のもとからどうか離れてくださるようにと嘆願しています。このとき、ペトロは初めて自分が神のみ前に立つにふさわしくない存在であることに気づいたのでしょう。

しかし主イエスは、そんな神と真っ直ぐに向き合うことができない罪深いペトロを主のみわざのためにもちいようとされました。疑い、傲慢、そのような罪に囚われて、自らの罪の意識に支配されているペトロに対して「召命」を与えようとされました。

主イエスはペトロに「恐れることはない」と力強く宣言されます。この言葉はペトロへの罪の赦しの宣言でありました。「恐れることはない。あなたはここにいていいのだ。私のみ前に立っていていいのだ」。この言葉によって、主イエスはペトロの罪を赦されました。こうしてペトロは「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という新たな使命に生きたのであります。

ペトロがすべてを捨てて、主イエスに従った理由、それは主イエスがなされた大漁の奇跡を目の前で目撃したからではありません。まして、ペトロの意志や信仰が強かったからでもありません。

ペトロが主イエスに従った理由、それは主イエスから罪の赦しを与えられたからでありました。神のみ前に立って、罪赦されて、自分に与えられている使命と誠実に向き合うことができたから、ペトロは主の呼びかけに応えて、漁師としての職、今までの自分を支えてきた大切な舟さえ手放して、ただ主イエスに従って歩んでいったのであります。

本日、ルカによる福音書とともに聴いているイザヤ書第6章に記された預言者イザヤの召命の記事も同じことを証言します。

イザヤは、紀元前8世紀に活躍した預言者でありましたが、そんな彼も神から見出されたとき、自分が汚れた唇の者、また汚れた民の中に住んでいる者であることを告白しています。

預言者イザヤは、神のみ前に立たされたとき「ああ災いだ」と嘆きます。この言葉は、直訳すると「ああ、私はもうだめだ」という意味の言葉です。イザヤは、神と出会ったとき、神のみ前に立たされたとき、自らの罪を認識し、自分の欠け、汚れを深い嘆きを持って赤裸々に告白したのであります。

しかし神はその罪深いイザヤをもちいようとされます。イザヤの罪で汚れた唇に聖なる炭火を触れさせ、イザヤの罪を覆って赦してくださいました。

こうしてイザヤも「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるのだろうか」という神からの呼びかけに応えて「ここに私がおります。私を遣わしてください」と力強く宣言し、自らに与えられている使命を受け止めることができたのであります。

私たちもこの預言者イザヤやペトロと同じであります。罪の意識に囚われ、自らの罪に支配されている存在であります。罪故に自らで自分の価値を測り、神の言葉よりも、自分の思いや経験を優先し、神と真っ直ぐに向き合うことができない存在であります。

けれど神はそんな私たちの名前を呼んで、罪赦し、私たちをたしかにもちいようとされている。私たち、それぞれに使命を与えようとされている。それでは、いま、私たちはこの神からの呼びかけに真剣に応えて、主の召しに生きることができているでしょうか。

正直、現実は、そう簡単ではないと思います。主の召しに生きるということに私たちはときに困難を抱えます。よく教会員の皆さんと話をしていて、こんな言葉を耳にします。「私なんか全然、だめなのです」、「私なんか神様の前にふさわしくなんかないのです」、「私なんかあの人と比べたらまったく立派ではないので…」。もちろん、こういった言葉には、謙遜の思いが込められているということを十分に理解します。

しかしこのような言葉の背後に自らで自分を裁いているそんな思いはないでしょうか。自分の弱さや欠け、過ちや恥をずっと赦すことができないで苦しんでいるそんな思いが見え隠れしてはいないでしょうか。

私たちはついつい主の言葉に聞いて従っているようでありながら、このような罪の意識に留まってしまうことがあります。自分はまるでだめだ。こんな自分には価値がないと思ってしまう。しかしそんな思いに囚われたままで、私たちは本当に主の召しに応えて「召命」に生きることができるのでしょうか。

私が神学生のときです。東京神学大学には卒業するまでに計2回の夏期伝道実習というものがあります。夏の一か月間、それぞれが遣わされた教会で、実際に主日礼拝のなかで説教をし、牧師になるための訓練を受けます。新型コロナウイルスの影響で、一年目は、外の教会への派遣が中止になり、それぞれ自分が普段、通っている教会で実習を受けることになりました。

そこで、私も出席教会で実習をしたのですが、このペトロの召命記事から説教することになりました。しかしいくら必死に聖書を読み、原典のギリシャ語を調べ、著名な先生の説教を読んでみても、いっこうに説教を作ることができませんでした。いや、厳密には、説教原稿を出来ている。けれどそれが本当の意味で「神の言葉」としての説教になりませんでした。

そんな私に指導牧師はこう言いました。「どうして説教ができないかわかるか。それは、あなたに聖書の知識が足りないからじゃない。文章を書く能力がないからでもない。あなたが説教をできないのは、本当に自分が赦されていると心から思っていないからだよ。頭では、自分は赦されていると理解していても、心のどこかでこんな自分に価値はない、自分なんかだめだと思っているから、主イエスに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたあのときのペトロの気持ちがわからないのだ。すべてを捨てて主イエスに従っていったあのペトロの喜びがいかほどのものであったのかわからないのだ」。

日本の文化には「本音と建前」というものがあります。本当はそう思っていなくても、建前で、表向きでそう言っているのではないかと勘繰ってしまう。

私たちはついつい聖書の御言葉も建前であるかのように聴いてしまうことがあります。主イエスが「あなたの罪は赦された」と語る。その言葉をまるで建前であるかのように頭だけで理解して、心のなかでは、本音では「そんなことあり得るはずがない」と疑いにかかっているということはないでしょうか。

自分は神に赦されているのだと心から受け止めることができなければ、主の前で、恐怖に震えたペトロのように「私は罪深いのです。イエス様どうか私から離れていってください」とずっと神のみ前で罪の意識に震えながら生きることになります。

そんな不安を心のどこかで抱えながら、今日の礼拝に出席されているという方がいるかもしれない。主の前からいっそ逃げ出したいと感じている方がいるかもしれない。しかしそんな罪深い私たちだから、主の前から逃げ出さないで、いまここで神のみ前にともに立つのであります。

先ほど、取り上げたイザヤの召命の記事をある説教者はこのように説き明かしました。まさにここに描かれているのは「礼拝」の場面である。神殿のなかで、セラフィムたちは 「聖なるかな、聖なるかな、聖なる かな。万軍の主」と主のみ名を声高らかに誉めたたえている。そこで神は預言者に出会い、罪の赦しを与え、預言者は、自らの罪を悔い改め、そこからこの世へと召し出されていく。たしかにここに私たちが毎週、捧げている礼拝の姿が描き出されています。

そして何より私たちは自分の罪に押しつぶされそうになりながら、主の膝元にひれ伏したあのペトロの姿に主を礼拝する人間の姿を見ることができます。

私たちが主から罪の赦しを受け取る場所、それは、他でもないこの礼拝という場所であります。私たちはこの場所で主と出会うのです。この場所で神のみ前にひれ伏すのです。

主の前に出ることは、自分の罪が露わにされる恐ろしいことであります。けれどこの礼拝で罪を抱えた自分を神のみ前に差し出して、その罪を悔い改めて告白するとき、主は、語りかけてくださるのであります。「恐れることはない。私があなたの罪を赦した。あなたはここにいていい。神のみ前で生きていていい」。

この言葉はけっして建前なんかではないので、主の愛に溢れた神の本音なので、神の言葉である聖書は、罪人である私たちを生かすのであります。罪に倒れた私たちをそこから起き上がらせるのであります。

罪の赦しの先にあるもの、それは罪に囚われながら生きていた惨めな自分が死んで、主の命に生かされる喜びであります。

よく自分なんかふさわしくないからと礼拝に出ることを躊躇してしまう方がいます。しかしそんなことはけっしてあり得ない。何故なら主は預言者イザヤを見出したようにペトロに声をかけられたように他でもないあなたを招き、呼び求めているからであります。

誰もが神のみ前に立つにふさわしい存在ではありません。すぐに神の言葉を疑い、また何度も、自分の罪に押しつぶされそうになる。自分が神に罪赦された存在であることを見失いそうになる。

しかし主はそんな神から遠いはずの私たちを見出して、名前を呼んで、声をかけてくださる。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。

驚くべき言葉です。「こんな自分がまさかそんなものになれるはずがない。そんなの無理です」とまた罪に怯えて、すぐに否定してしまいたくなるような言葉であります。しかし主イエスの言葉に自分のすべてを委ねたペトロのように、私たちもいま決断して主の前に一歩を踏み出したいのであります。

「自分は罪深い存在です。まるでだめなのです」と言いながら、私たちは心のどこかで本当は誰かに自分のことを赦してほしいのでないでしょうか。こんな自分を誰かに受け止めてほしいのではないでしょうか。

ペトロは、自分は罪深い人間なのでイエス様どうか自分から離れていってくださいと願いました。しかし主イエスは彼のもとから離れなかった。ペトロの罪を赦して、彼とともにいてくださった。そして自分に付いてくるようにと彼を招いた。だからペトロは喜んですべてを捨てて主イエスに従っていったのであります。

私たちは誰かにあなたはここにいていいと言ってもらわなければ、誰もここに立っていることはできません。あなたは生きていいと言ってもらわなければ、誰も不安でいまを生きていくことはできません。

だから私たちは今日もこの礼拝で神のみ前に立つのであります。ここに私たちを生かす神の言葉があるからです。あなたの存在を支える十字架の赦しがあるからです

神のみ前に立って、自分の罪の深さに気づき「神様、私は罪深い人間です。私にはあなたの赦しが必要です」。そう自らの罪を告白し、悔い改めるとき、私たちは罪赦されて、そこで初めて新しい自分に出会います。

今まで、自分はこんなものだと思い込んでいた。まるでだめだと決めつけていた。でも本当は私は神のみ前では、人間をとる漁師なのだ。そこへ召されているのだ。私は選ばれていたのだ。そうやって神のみ前で本当の自分の姿が見えてくるのであります。

私たちはまさに洗礼を受けたとき、罪に死んで、この主の命に召されました。十字架と復活による新しい命に生きる者とされました。故に今日も私たちはこうして主の前に立つことができています。

一人ひとりが主に見出された人間をとる漁師です。今度は、私が罪に押しつぶされそうになっているあの人に神の言葉を届けることができる。不安で怯えているあの友に神のみ前に生きる幸いを証しする歩みが与えられている。

主イエスは、今日もあなたの名前を呼んで、語りかけくださっています。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。自分の経験や世の常識ではどうやっても理解することのできない言葉であります。けれど私たちはもう怖がらなくていい。罪に怯えなくていい。あなたは赦されている。主の弟子とされている。

いま、握りしめている不安や恐れを手放して、主の前にともに進み出たい。ここに主の命があります。罪の赦しがあります。「恐れることはない」この神の言葉に支えられ、この命に生かされて、いっさいを捨てて主イエスに従っていったペトロのように私たちも喜んで主とともに歩んでいきたい。これがまさに「召命」です。

 

私たちをこの世へと召し出してくださる主イエス・キリストの父なる御神。
私たちは罪深い人間です。しかしあなたはそんな私たちに御子をお与えくださいました。
御子の十字架と復活に罪の赦しが示されました。ここに愛があります。ここに命があります。
その恵みを味合い知り、あなたから名前を呼ばれている者として、それぞれに託されている使命に誠実に生きることができますように。
どうか私たち一人ひとりを、この場からあなたを求めている友のもとへとお遣わしください。
この願いと感謝、我らの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン