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裏切られ、傷つく神

2024年7月14日

マルコによる福音書 第14章10-25節
川崎 公平

主日礼拝

 

■お気づきの方も多いかもしれませんが、最近、新しい伝道の試みを始めました。本当にささやかな試みなのですが、教会堂前の掲示板に、聖書の言葉を短く書いて貼り出すということをしています。もちろんこれまで通り、次の日曜日の説教の題を掲示しています。それに加えて、短い聖書の言葉を、できれば次の日曜日に読む聖書の中から抜き書きして、たとえば、あとで外に出て確認していただくと、今日読んだ箇所のどこかの言葉が、非常にいい雰囲気の書体で掲示されています。

こういう試みを始めて、ひとつ気づかされたことは、そういう場面にふさわしい言葉って、そんなにたくさんはありませんね。聖書の言葉だからって、何でも闇雲に貼り出せばいいというわけではありません。たとえば13節の「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う」とだけ立派な字で書いてみせても、何のこっちゃ、ということにしかならないでしょう。できれば、そのひと言ですべてが伝わるような、いやむしろ、すべてが伝わらなくてもよいのです、道を歩いている人がふと足を止めてくれるような、勝手に教会の前に車を停めて人待ちをしている人が「これ、何だろう」と、ぼんやり眺めてくれるような、そういう言葉を発信したいと考えています。しかし、そうすると、毎週次の日曜日の聖書箇所から、という縛りにこだわらないほうがよいかもしれません。ふさわしい言葉が見つからなければ、無理せず何週間か同じ聖書の言葉が貼り出されていたってよいと思います。

そこでひとつ、皆さんに考えていただきたいことがあります。今日読んだマルコによる福音書第14章10節から25節の中で、そういう趣旨の聖句を貼り出すとしたら、どの言葉を選ぶのがよいでしょうか。できれば30文字以内で、できれば1行以内で。少し考えていただいてよいでしょうか。……「もう掲示板を見ちゃった」という方も多いかもしれません。私もずいぶん迷ったのですが、22節の最後の主イエスの言葉を、毛筆奉仕の方に書いていただきました。「取りなさい。これは私の体である」。

それこそ、これだけ読んでも、「これ、何だろう」というところかもしれません。しかし、良い意味での「これ、何だろう」と、悪い意味での「はあ? 何これ?」があるだろうと思うのです。できれば、ひとりでもふたりでも、良い意味で「これ、何だろう」と足を止めていただきたい。考えてみますと、強烈な発言ではないでしょうか。「取りなさい。これは私の体である」。もともとの文脈から言えば、それは過越の食事という特別な食事における、パンのことを言っておられるのです。「食べなさい。このパンは、わたしの体である。あなたは、わたしを食べて生きるのだ」。

私は思うのですが、この言葉を最初に聞いた弟子たちは、それこそいい意味か悪い意味か、おそらくはあまりいい意味でなく、「は? 何? どういうこと?」と思いながら、不思議な思いでそのパンを主の手から取って食べたと思うのです。後になって、その言葉の意味が痛いほどにわかるようになりました。「取りなさい。これは私の体である」。その言葉は、すべての教会にとって、永遠に忘れらない言葉になりました。ことに月に一度、私どもの教会が聖餐という祝いの食卓を囲むときには必ずこの主イエスの言葉が朗読されます。「これは、あなたがたのために与えられる、主イエス・キリストのからだです。アーメン」。「取りなさい。食べなさい。これは、わたしの体である。あなたは、わたしを食べて生きるのだ」。

■「体」というのは、この当時の言葉遣いで「その人自身」ということです。ただ体の一部、肉体の一部分ということではなくて、「わたしの全部を、あなたにあげよう」という話です。したがってある人はこの部分を思い切って意訳して、「取りなさい、これは、わたしだ」と翻訳しました。強烈な言葉ではないでしょうか。しかも本当は、すべての人が、そういう本物の愛を求めていると思うのです。

愛とは、すべてを与えることです。自分自身を与えることです。そのことを、誰もが体験的に知っているのです。皆さんもきっと、長い人生の中で、本物の愛に出会ったことがあるだろうと思います。「ああ、あの人は、本当に最後まで自分を愛し抜いてくれた。あの人がいたから、今の自分がある」。きっとそういう人が、皆さんの人生の中に、ひとりやふたりはいたと思いますし、もしそうであればその人は、自分自身を犠牲にして、あなたのために、喜んで自分を与えてくれる人であったに違いありません。決して、あなたから奪い取る人ではなかったと思います。

けれどももしかしたら、いや、自分はそんな愛に出会ったことは一度もないという人もいるかもしれません。私の周りに現れるのは、偽物の愛ばかりだ、皆わたしから奪い取るばっかりだ。むしろそういう人のほうが多いかもしれません。私どもは、どこかで愛に破れているのです。愛に絶望しているのです。

ところが私どもが聖書を通して教えられることは、主イエス・キリストの愛は本物であって、このお方は、いつでも、誰に対しても、もちろんこのわたしのためにも、ご自分のすべてを与えようとなさったということです。そのために主イエス・キリストは、この世においでになりました。「取りなさい、これは、わたしだ」と、このひと言を言うために、そのためにこのお方はわたしのところにも来てくださった。あなたのところにも来てくださったのだ。そう言わなければなりません。

■けれども、まさにそのところで、理解しがたいことが起こりました。そういう神の愛に対して、そんなものはいらんと投げ捨てた。これを拒否した。それが、今日読んだ福音書の記事の語るところです。

ここで私どもは、福音書を読む際にどうしても避けることのできない難問の前に立たなければなりません。それは、イスカリオテのユダという弟子のことです。「取りなさい、わたしの体を、あなたは取りなさい」と言われて、そして事実主の手からパンを取って食べた12人の弟子たちの中に、イスカリオテのユダが含まれていたというこの事実は、正直に申しまして、私どもの心をたいへん重くさせるものがあると思います。

時は受難週の木曜日の夜、主イエスが十字架につけられる前の晩であります。その夜、主イエスは12人の弟子たちと共に、過越の食事をされました。それが、主イエスの死に先立つ最後の食事になりましたから、これを〈最後の晩餐〉と呼ぶようになりました。なぜこれが最後の食事になったかというと、その経緯が10節以下にこう伝えられています。

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかと狙っていた。

ここに「引き渡す」という言葉が出てきます。先週の礼拝でもこの言葉について説明しましたが、福音書の受難物語を理解する上でとても大切な意味を持ちます。これと同じ言葉が、18節や21節では「裏切る」と訳されるのですが、これらが原文では同じ言葉であるということ、そしてその基本的な意味は「引き渡す」であるということを知っておくことが大切だと思います。もう少し細かく言葉の説明をすると、「与える」という動詞に、「~から離れて」という前置詞が付いています。ただ与えるだけでなくて、手放して、与える。したがって「売り渡す」とか「譲渡する」という意味にもなります。ちょうど昨日――牧師が土曜日にすることかと言われてしまうかもしれませんが――息子と一緒にブックオフという古本屋に行って、いらなくなった大量の子どもの本を売り払うということをしました。段ボールひと箱あたり千円くらいで売れました。それを3箱。「これはもういらないな」と思ったから、手放して、売り払う。そうしたら、もう自分のものではなくなるのです。けれども、これは絶対に売りたくない、絶対に手放したくない本もずいぶんたくさんあるんだな、ということがよくわかりました。「この本も売っていいよね?」「だめ! それは絶対売っちゃだめ!」

もしもユダが、主イエスの愛のすばらしさをよく知っていたら、絶対にこのお方を人の手に引き渡すようなことはしなかったはずです。どんなことがあっても手放したくないのです。「取りなさい」と言われたら、何が何でも取りたいし、手放したくないはずですが、ところがユダは、「こんなものいらん」と、神の愛そのものであるお方を引き渡した。売り払った。11節によれば、そのことによっていくばくかのお金を手に入れることもできたようです。それを先ほども申しましたように、18節、21節では「裏切る」と訳しているわけですが、もしかしたらその2か所も、同じように「引き渡す」あるいは「売り渡す、売り払う」と訳してもよかったかもしれません。

一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を売り払おうとしている」(18節)。

人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を売り払う者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」(21節)。

■「取りなさい」、「この愛を、あなたは取りなさい」、そう言って渡された神の愛を、ユダは僅かの金で売り払ってしまった。なぜそんなことをしたのだろうか。ユダは金の亡者だったのだという解釈が伝統的にありますが、最近ではあまり人気がありません。むしろ多くの人はこのように説明します。イスカリオテのユダもまた、主イエスを信じていたし、愛していた。正確に言えば、このお方こそが真実の救いをもたらしてくださると、自分なりの期待を抱いていた。だからこそ、他の11人と共に、最後までこのお方について来たのです。ところがここに来てだんだんとユダが悟ってきたことは、どうも自分の求めているものと、このお方が与えようとしておられることは、何だかずいぶん違うようだ。

マルコ福音書の第12章に、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉がありました。ユダが二日前に聞いたばかりの言葉です。もしかしたら、二日前にこの言葉を聞くまでは、ユダはまさか自分が主イエスを売り払うなんて、夢にも思わなかったかもしれません。「皇帝のものは皇帝に」。それは非常に具体的な話で、ローマ帝国に税金を払うか、払わないかという問いに対する答えでした。たとえばユダは、いつかローマに税金を払わなくてよい世界が現れることを期待していたのかもしれません。暴力団のような徴税人の脅しに怯えなくてよい、そういう新しい世界を主イエスが打ち立ててくださることを、期待していたのかもしれません。ところがそれに対して、「皇帝のものは皇帝に返してやればいいじゃないか」というのは――ある人は、「これは皇帝に対する主イエスの徹底的な無関心を表す」と説明しましたが――それがユダにとっては我慢ならなかったのだと思います。冗談じゃないよ。そんなの、神の愛でも何でもないよ。

ユダもまた、本当の愛を、神の愛を求めていたに違いないのです。しかし、私ども人間という生き物は、〈愛を求める〉という、まさにこの一点において、いちばん深刻な間違いを犯すのではないかと思うのです。人間同士の間でも、いくらでもそういうことがあるでしょう。相手が自分の期待通りにしてくれないとき、私どもが口にするいちばん安易で、いちばんきつい裁きの言葉は、「あなたには愛がない」。はたから見れば、「あなたには愛がない」とか「あの人には愛がない」とか言っているその本人が、いちばんたちの悪い人間になっていることが多いのですが、自分では気づかないのです。けれどももっと深刻な問題は、私どもの前に神のみ子イエスがおいでになったとき、この私どものわがままな罪が、頂点に達したということなのです。そのとき、神のひとり子が十字架の死に引き渡されるという、痛ましいことが起こりました。いや、「痛ましい」という日本語は、この文脈では言葉が足りなかったかもしれません。主イエスご自身がどんなに痛んでおられたか、どんなに傷ついておられたか、その主の痛みを深く思わなければならないと思うのです。

■主は、深い痛みの中で言われました。

一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」。弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた(18、19節)。

12人の弟子たちは、それはもちろん心を痛めたでしょう。「誰がそんなひどいことを。考えられない」。そう言いながら、しかし弟子たちがしたことと言えば、「『まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めた」だけでした。「えっ、わたしじゃないですよね? わたしは、悪くないですよね?」 代わる代わるそう言うだけで、誰も主イエスの痛みを思う者はおりませんでした。それで実際には、ユダのみならず、結局は12人全員が主イエスを裏切る者となってしまいました。しかしそれにしても、それに続く主の言葉は、いくら何でも言葉がきつすぎるようです。

「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」(20、21節)。

ここまで言われて、弟子たちはたいへんなショックを受けただろうと思いますし、既に裏で祭司長たちと相談を進めていたユダは、変な汗が出てきたかもしれません。「生まれなかったほうがよかった」なんて、今時ならたちまちパワーハラスメントで訴えられるかもしれません。「いや、言い方に気をつけてください。これは、いくら何でも傷つきますよ」。けれども、ここでも私どもが思うべきことは、遂にこのような言葉を絞り出すように口にしなければならなかった、主の痛みであると思います。

今日の説教の題を、「裏切られ、傷つく神」といたしました。「売り渡され、傷つく神」と言い換えてもよいのです。ここで主イエスが何に苦しんでおられるか。いったい、聖書の伝える主イエス・キリストの苦しみとは何か。ただ十字架は残酷だとか、死ぬのが怖いとか、そんなレベルの話ではないのです。もしもそういうレベルの話であれば、主イエスよりもずっと勇敢に殉教していった人たちが山ほどいるでしょう。けれどもここで主イエスが苦しんでおられることは、もう一度18節を読みます。

「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」。

「私と一緒に食事をしている者」であります。いちばん愛し合っている仲間、いちばん信頼している仲間、そのひとりが自分を売り渡そうとしているというのです。「これは、もういらないから売っちゃおう」。愛を裏切られるということは、いちばんつらいことです。ことに主イエスにとっては、十字架の痛みよりも何よりも、愛を裏切られたことが、いちばん深い傷になったのです。なぜかと言うと、このお方は愛そのものであられたからです。われわれは、決して愛の人ではありませんから、そりゃあ裏切られたら傷つくし、赦せないと思うかもしれませんが、繰り返しますがわれわれは愛の人ではありませんから、裏切られても、それはお互い様だ、ということになるでしょう。それでもわれわれは、お互いに裏切ったり裏切られたりして、時に死にたくなるほど悩むことがあるものです。けれども主イエスは、神の愛そのものでしたから、その愛が裏切られ、あるいは売り渡されて、そのことで誰よりも苦しまなければなりませんでした。このお方は、神の愛、そのものであられたからです。

主イエスはここで、そのご自分の痛みと、そして愛を丸ごとぶっつけるようにして言われるのです。「取りなさい。これは、わたしだ」。「あなたは、わたしを食べて生きるのだ」。だがしかし、そのような神の愛を裏切り、これを売り捨てるような者がなおあるとするならば、その人は災いだと言われなければならないのは、むしろ当然のことであります。「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」。

■ここに、「災いあれ」と訳されている言葉があります。原文ではもっと端的な、文法の言葉で言えば間投詞と呼ばれる言葉で、ギリシア語をそのまま発音すると「ウーアイ」という言葉です。もっとも主イエスはギリシア語をお使いになったわけではありませんから、主イエスが実際に口にされた、このギリシア語の背後にある言葉を推測すると、「オーイ」、あるいは「ホーイ」であったかもしれません。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者は、おお……うう……」。「災いあれ」でも間違いではありませんが、一種の呻きであります。「ユダよ、お前にだけは、裏切られたくなかったよ。今からでも遅くない。取りなさい、これは、わたしだ」。しかし、ここがいちばん不思議なことだと思うのですが、この主イエスの呻きは、ユダの心を何ら動かさなかったらしいのです。

ユダは、まさに聖書に書いてある通りに、主イエスを売り渡します。マタイによる福音書では、ユダはそのことを激しく後悔して自殺したと言われるのですが、マルコによる福音書はユダの運命について、不気味なほどに関心を持ちません。ユダについて何ひとつ伝えません。問題は、私ども自身だからでありましょう。興味本位でユダのことに関心を持っても意味がありません。ただ福音書が伝えることは、このまま闇の中に消えてしまったかのようなユダの後ろ姿を追うように、「オーイ」「ウーアイ」と、主イエスの呻きが聞こえたという、このことであります。「生まれなかったほうが、よかったのだ」と言われるのですが、主イエスが売り渡され、十字架につけられたのは、この人間の災いを、主イエスが身代わりになって担ってくださるためでした。十字架の上で神に呪われたのは、主イエスご自身でした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。そこまで叫ばなければならなかったのです。

そのお方の声が、今もここに響きます。「取りなさい。これは私の体である」。今日私どもは聖餐を祝うわけではありません。しかし私どもの礼拝の中心にいつもこの聖餐の食卓が置かれているのは、いつもこのキリストの言葉を聞き続けているためです。「取りなさい」。「これは、わたしだ」。お祈りをいたします。

 

主イエスよ、ここまで言われたら、取らないわけにはいきません。生まれなかったほうがよかったような罪人であったことに、今は気付きます。たくさん、愛を裏切ってきてしまいました。そのくせ他人のことは「愛がない」と裁いてきてしまいました。それは何よりも、あなたに対して申し訳ないことでした。呻くように、「取りなさい」とあなたがおっしゃるのであれば、それでもあなたが赦してくださるというのであれば、今はもう、あなたの愛を裏切ることなく、手放すことも売り渡すこともなく、喜んでこれを受け入れる者とさせてください。主のみ名によって、祈り願います。アーメン