1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 見たことのない喜び

見たことのない喜び

2023年1月8日

川崎 公平
マルコによる福音書 第2章18-22節

主日礼拝

■私どもが洗礼を受けて、キリスト者としての生活を始めたときに、しばしば問題になることは、洗礼を受けて自分は、何が、どう変わったのだろうかということです。洗礼を受けて、性格が優しくなった。むやみに腹を立てなくなった。まじめに生活するようになった。そういう変化をどこかで期待する一方で、私どもの多くが承知しているのは、そううまくいくわけではない、ということです。昔、私が洗礼を授けた若い方が、洗礼を受けた翌年あたりだったか、私に話しかけてくださって、「先生、洗礼を受けたらまじめに勉強に集中できるようになるかと思ってたんですけど、全然ダメですね」。その方の表現をそのまま借りると、どうも洗礼を受けたら、頭がスパークして、バリバリ勉強できるようになるはずだと思ったらしいのですが、残念ながらさっぱりそんなことは起こらない。

こういうことは、案外誰もがひそかに問うていることではないかと思うのです。洗礼を受けたら頭がスパークして、などと言われると、何をばかな、とお笑いになるかもしれませんが、本人からしたら、どうして勉強に集中できないんだろう、つい漫画を読んだりゲームをしたり、ああ、こんな自分、本当にいやだ。新しい自分になりたい、という悩みは冗談でも何でもない、いちばん切実なことであったに違いないのです。

それをもう少し一般的な言い方で言い直すと、洗礼を受けた人間がどういう生活をするのか。やっぱり何だかんだ言っても私どもはまじめに生活したいと思いますし、そのためには自分のくだらない欲望と戦わなければならないと思いますし、たとえば具体的にはゲームを我慢して勉強に集中するとか、それぞれに目指している生活があり、だからこそそれぞれに悩んでいることも多いのです。洗礼を受けて、キリスト者として生活するということは、当然罪との戦いを意味するでしょう。きっとそうであるはずだ、そして洗礼を受けたからには、以前より少しはましな生活ができるようになるはずだと思ったのに、相変わらず自分の生活は欲望に負け続ける生活で、こんなことでいいのだろうか。そこで、自分の欲望に打ち勝つためのひとつの方法として、断食という宗教的な手段が生まれてくるということは、何ら不思議なことではありません。

■今日読みました福音書の記事で問題になったことは、なぜイエスの弟子たちは断食しないのか、ということです。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」と最初に書いてあります。ヨハネというのは、洗礼者ヨハネのことです。主イエスもまたこのヨハネから洗礼をお受けになりましたし、それだけにヨハネの弟子たちにとっては、なぜイエスの弟子たちは断食しないのか、不思議でならなかったのだと思います。この場合の断食というのは、イスラムのラマダンのことを皆さんもご存じかと思いますが、完全に食事をしないわけではなくて、日が出ている間は食事をしない、ということのようです。日没のあと、晩ごはんを食べるのは問題ない。夜食も好きなものを好きなだけ食べていい。それでかえって太ってしまう人も多いそうですが、ファリサイ派やヨハネの弟子たちに限って、決してそんなことはなかっただろうと思います。断食というのは、罪の悔い改めを、具体的な行為によって表すことです。

言うまでもないことですが、私どもは断食しません。これははっきりしています。けれどもそんな私どもだって、好きなものを好きなだけ食べる。したいことだけして、したくないことは全部人に押し付ける。いやなことがあったら大声で怒鳴り、嫌いな人がいたら好きなだけ悪口を言う。そのように、ただただ自分の欲望の赴くままに生きることが正しいとは誰も考えないのです。だからこそ、断食という習慣は、実は世界中のあらゆる宗教に存在するのです。そして私どもも、断食はしなくても、当然いろんなことを考えるのです。自分は、何をしなければならないのだろうか。洗礼を受けたら、自分は何がどう変わるのだろうか。そのように「自分は、自分は」と考え続けている限り、本当の答えは見つからないかもしれません。というよりも、そのようにいつまでも「自分は、自分は」と言い続けているところにこそ、私どもの本当の問題があるのかもしれないのです。

■この問いに対する主イエスの答えは、実に単純明快であります。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(19節)。これは、決定的な発言です。もちろんここで「花婿が一緒にいるのに」と言われているのは、主イエス・キリストが一緒にいてくださる。今も私どもと共にいてくださる、ということです。そうしたら、断食なんかできるわけないじゃないか。

私どもの信仰生活とは、花婿キリストと一緒にいる生活のことです。私どもは、どんなことがあっても、このお方と一緒にいたいのです。そして事実、主はいつもわたしと共にいてくださるのです。そうしたら、自分は何をどう変えなければいけないんだろう、なんて話は吹っ飛んでしまうと思います。限りなくどうでもいい話だからです。わたしは、ただこのお方と一緒にいたいんだ。それだけなんだ。もちろんそうであるならば、この花婿が一緒にいてくださるから、殺すことなんかできない。姦淫することなんかできない。盗むことなんかできない。隣人について偽証することなんか、できっこない。花婿キリストが一緒にいてくださるから。今、十戒の後半部分をなぞるようにお話ししてみましたが、十戒の最後の戒めは、「隣人のものを欲しがってはならない」であります。自分の不幸を嘆きながら、他人の境遇をうらやんだり、他人の才能をねたんだり、まさに十戒に書いてあるように、隣人の妻を欲しがるなんてこともあるかもしれない。けれども、今はもう、わたしは他人のものを欲しがるなんて、そんなことできっこない。花婿キリストが、わたしと共にいてくださるから。

私どもに与えられる信仰の生活とは、花婿キリストと一緒にいる生活のことです。その喜びが、すべてなのであって、それ以外のことは、おまけみたいなものです。主イエスが来てくださったのです。弟子たちを集め、徴税人たちを招き、そしてまたこのわたしのためにも、主が訪ねて来てくださったのです。そこに、誰も見たことのない生活、そういう意味での新しい、喜びの生活が始まりました。と、いうところで今日の説教を終えることができたら、どんなに楽ちんかと思いますが、しかしこの話は思いがけない方向に進んでいきます。

■今日読んだ段落の最後のところには、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」という、たいへん有名な言葉があります。今日読んだ記事の結論をひと言で言えば、こういうことになるのでしょう。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」。たいへん有名な言葉ではありますが、有名であるためにかえって意味が分かりにくくなってしまったかもしれません。なぜ主イエスは、こういうことを言わなければならなかったのでしょうか。話としては、特に難しいことはないと思います。新しい布切れを古い服に継ぎ当てるな。洗濯したら継ぎ当てた新しい布の部分だけがキュッと縮んで、目も当てられないことになるだろう。同じように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れるな。この場合の新しいぶどう酒というのは、まだ発酵の途上にあるという意味で、それを古い革袋に入れたりしたら、発酵していったお酒の変化に革袋の方がついていけず、ビリビリ、バシャー、と全部台無しになるだろう。

話としては分かるのです。「古い革袋のままでは、だめだ」ということです。古い服に継ぎを当てるとか、中途半端なことではだめなので、丸ごと新しくしないと。それが分かりにくいのは、なぜこの文脈でこのようなことを言われるのか、ということです。「新しいぶどう酒」とは、花婿キリストのもたらしてくださった新しい喜びのことでしょう。けれども、その新しい喜びを受け入れるあなたが古いままであったら、どうしようもないじゃないか。「ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる」とは、考えてみると、ずいぶん深刻なことが書いてあります。ビリビリ、バシャーと、あなた自身が壊れてしまうかもしれない。もちろんぶどう酒も全部台無し。恐ろしいことになるよ。そうならないように、あなた自身が丸ごと新しくならないといけないのだ。事実、この段落を読むだけでもお分かりになりますように、花婿イエスのもたらした喜びがあまりにも新しすぎて、そのためにたいへん険悪な空気になったというのです。

いったい、私どもはどうすればよいのでしょうか。どういう新しさを主は私どもに求めておられるのでしょうか。やっぱり少しは自分でも努力して、まじめな生活をしなければならないのでしょうか。そういうことではないでしょう。「花婿が一緒にいるのに、断食なんかできるか」と言われた、その新しい喜びを、しかしなかなか受け入れようとしない私どもの古さというものがあると思うのです。それを主イエスは鋭く見つめながら、「このままだと、まずいよ。ぶどう酒も革袋もだめになってしまう。つまり、わたしの恵みも、あなた自身も、全部丸ごと台無しになってしまうよ。そうならないために、あなたのすべてを、丸ごと新しくしないと」。いったい、主イエスが見つめておられた私どもの古さとは、何なのでしょうか。

■この断食についての論争は、何の脈絡もなく始まったものではありません。明らかにひとつのきっかけがありました。直前の段落では、たくさんの徴税人、罪人と呼ばれる人たちが、主イエスと一緒に楽しそうに食事をしていたと書いてあります。彼らは皆、主イエスに呼ばれたのです。それは、あの有名なルカによる福音書第15章の伝える、〈放蕩息子の譬え〉の情景にも似たものがあったと思います。いなくなっていた弟息子が帰ってきた。放蕩の限りを尽くして、飢え死にしそうになりながら帰ってきた弟息子の帰還を、父親はただただ喜んで祝宴を開いたというのですが、その父なる神の喜びを映し出すような楽しい食事を、主イエスは徴税人たちと一緒にしておられたのでしょう。徴税人たちは、よく分かったのだと思います。このお方と一緒に食事をしていると、本当によく分かる。ああ、自分は、自分たちは、神に愛されているんだ。ところがそれを見た人びとが、遂に我慢ならず、主イエスに直接疑問をぶつけました。「なぜあなたがたは断食しないのか。おかしいじゃないか」。何がおかしいと思ったのでしょうか。

今、ルカによる福音書第15章の放蕩息子の話をしましたが、あの譬え話で実はいちばん重要な役回りは、兄息子であります。あの話の中で、私が何気に個人的に好きな場面は、兄が畑仕事から帰って来たときに、家の中から「音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」というところです。あれ、何だ? あの楽しそうな音楽は。今日うちで何かお祝い事あったっけ? その楽しそうな音楽の理由を兄息子が知ったとき、兄はすべてが許せなくなりました。ここでも同じことが起こっています。まじめな人たちは皆断食していたときに、おや、何だろう。イエスを中心にして、罪人たち、徴税人たちが楽しそうに飲み食いしている、その音楽や踊りのざわめきが、外にまで聞こえて来たときに、どうしてもまじめな人たちは納得できなかったのです。どうして断食しないのですか。この人たちは、罪を悔い改めたりしないのですか。おかしいじゃないですか。

ある説教者が、放蕩息子の譬え話についてこういう想像をふくらませています。もしも、この弟息子が家に帰って来たとき、最初に出迎えたのが父親ではなく、兄息子であったら、ずいぶん話は変わっていたに違いない。なぜなら、弟息子は実はもともと謝りたいと思って帰ってきたからです。「わたしは取り返しのつかない罪を犯しました。息子と呼ばれる資格なんかないんです。でも、もし許されるならば、召使のひとりとしてこの家に置いてもらえないでしょうか」という、もともとお父さんに言う予定であったせりふを、まず兄息子に向かってきちんと言っていたら、兄は大喜びで弟を抱きしめてやったと思うのです。「だいじょうぶだ。お父さんはお前も知っている通り、寛大な方だから、きちんと謝れば、必ず許してくれるよ。さあ、お前も、おれと一緒に断食しようよ」。兄息子が願っていた筋書きは、きっとそういうものであったに違いない。これは決して、根拠のない作り話ではないのです。ファリサイ派の人びとがいちばん望んでいた救いの筋道は、あの徴税人たちが皆罪を悔い改めて、自分たち以上にもっと暗い顔をして罪を悔い改めて、「申し訳ございませんでした、わたしたちが悪かったです」と、泣いて詫びながら断食を始めるような、そういう救いを待ち望んでいたのですが、しかし、そうはならなかったのです。

この兄息子の悔しさを、私どももよく理解できるのです。理解できるからこそ、気を付けなければならないのです。どうしてあの人はあんなにわがままなんだろう。どうして私だけ貧乏くじを引くんだろう。あの人が悪いのに。わたしは何も悪くないのに。あーあ、いつかあいつが泣きながら悔い改めて、断食でも始めないかな。そういう私どもの心というのは、まさしく古い革袋によく似ているのです。

けれどもそんな私どものところに、主イエス・キリストというお方が現れて、そしてこのお方が、わたしのいちばん嫌いな人を愛して、その人を赦して、一緒に楽しく食事をするようなお方であることが明らかになったとき。あるいは、このお方が私どもに祈りを教えてくださって、「あなたにいちばん必要な祈りは、これだよ」と、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく」と、そう言われたとき。けれどもそのとき、古い革袋は、新しいぶどう酒に耐えることができませんでした。

■そのことが決定的になったのが、主イエスの十字架という出来事です。正しい人びとが、正確には自分の正義を信じる人びとが、その正義感を突き詰めたところで、神を殺したのです。喜びを殺したのです。ビリビリ、バシャーンと、古い革袋は破れ、新しいぶどう酒も全部流れ出てしまいました。覆水盆に返らず。主イエスは十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り。すべてが終わった。誰もがそう思いました。けれども、主イエスはお甦りになりました。

20節にこういう不思議な言葉がありました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。これも言うまでもなく、主の十字架のことを暗示的に語っておられるのです。その日には、誰が強制しなくたって、この人たちは断食をするだろう。何ものどを通らないということが起こるだろう。「その日には、彼らは断食する」と書いてありますが、ある聖書学者は「その当日には、断食するだろう」と訳しました。「その当日には」というのはつまり、「その日」というのが原文では単数形なのです。彼らの断食はその当日、一日限りだ。金曜日の夕刻に主イエスが墓に葬られ、土曜日は当然、誰が何を言わなくても断食したでしょう。けれども日曜日、主イエスはお甦りになりました。そして、弟子たちのところに帰って来てくださって、そこで何をなさったか。一緒に食事をしてくださったのです。弟子たちもまた、皆最後の最後には、主イエスを裏切って、主イエスを見捨てて逃げたのです。けれどもお甦りのキリストと一緒に食事をしながら、本当によく分かったと思います。花婿キリストが共にいてくださる。わたしは、わたしたちは、このお方に愛されているのだ。

■最初に申しましたように、私どもの信仰生活というのは、ただこの花婿キリストと一緒にいたい。どんなことがあっても、わたしはこのお方と一緒にいたいのだ。そういう喜びの生活であります。そして事実、このお方がいつもわたしと共にいてくださる。それが分かったら、自ずと私どもの存在は、新しい革袋に変えられていくだろうと思います。

考えてみれば、主イエスが徴税人たちを招いて食事をなさったとき、主イエスはもちろん最初から、これを快く思わない人がいることを知っておられたでしょう。分かった上で、まるでこれを見せつけるように、楽しそうな食事をなさったのであります。何度も、何度も。しかしそれは、当てつけるとか当てこするとか、そんなことではなかったと思います。今も主イエス・キリストは、この教会の存在をこの世に向かって、いわば見せつけていてくださると思うのです。赦された罪人の集まりでしかありません。ファリサイ派のような立派な生活はできません。「敬虔なクリスチャン」などという、世の人びとの勝手なイメージ通りの教会ではないかもしれません。けれども、それとは違った意味で、やはり教会というのは、特別な香りを放っているものだと思います。花婿キリストが一緒にいてくださるから。そういう私どもの生き方を見て、世の人びとはいぶかるかもしれません。「なぜあなたはそのような生き方をするのですか。あなたの存在からにじみ出る、その喜びはいったい何ですか」。もしもそんなことを聞いてもらえるようなことがあれば、こんなにすばらしいことはないでしょう。

昨日も、この場所で教会の仲間の葬りの礼拝をしました。たいへん多くのご家族が、そして教会の仲間が集まりました。まだ洗礼を受けておられないご家族にも、きっと分かったと思います。お母さんには、いちばん大切な人がいたんだ。だから、お母さんはお母さんでいることができたんだ。

私どもの生活が、この花婿キリストと共にある喜びを証し立てるような生活とされていることを、今感謝をもって受け入れたいと願います。お祈りをいたします。

 

今、あなたが私どもの生活を、喜びの生活として整えてくださいます。主イエスが、いつも共にいてくださるのです。なお私どもは、この世にあって、悲しみがあります。悩みがあります。しかもそこで、人を殺したり、憎んだり、他人の幸せをねたんだり、どうかそこで、私どもの存在そのものを新しくしてください。あなたの喜びを盛るふさわしい器として、私どもの全存在を新しく作り変えてください。いつか死を迎える時にも、花婿キリストと共にある喜びの中で、望みをもってこの世を去ることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン