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食物が我らを導くのではない

2021年6月27日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第8章7-13節

主日礼拝

 

コリントの信徒への手紙一の第8章は、コリント教会にあったある問題について、伝道者パウロが応えている箇所でした。その問題は、偶像にささげられた肉は食べてもいいのか、という問題でした。

当時のコリントの町には、ギリシア神話の神々のために神殿がいくつもありました。そして、人々の日常生活は、その神殿での祭りとまだ密接な関係があったのです。神殿の祭りでささげられた肉が、配られ、売られて、人々はそれを日々の食材としていたのです。
しかし、主イエスを信じる教会の者たちは、主なる神さま以外に礼拝をささげる対象を持ちません。ギリシア神話の崇拝対象にささげられた肉を、そのまま食べていいのでしょうか。それは教会の信仰として、どうなのでしょうか。

パウロはその問題に答えていきます。
第8章の前半、つまり1節から6節において、パウロは力強く伝えました。「そもそも私たちは、神さまの愛によって造り上げられた者たちであり、その主なる神に向かって愛をささげることこそが、私たちの生き方なのだ」と。
パウロは、偶像のことを考える以上に、まず私たちを愛し、造ってくださった主なる神さまのことを伝えます。「この方こそを、私たちの唯一の神さまとして、心から愛していこうよ」、と訴えたのです。

実は、このパウロの手紙の書き方は、イエスさまが弟子たちにお教えになった、最も重要な掟に対応して考えることができます。
イエスさまは、聖書に記されている掟で最も大切なものはなにか、人々にお教えになりました。マルコによる福音書12章からの言葉をお聴きください。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」

伝道者パウロは、この偶像にささげられた肉問題を論じる時に、まず主イエスのこの教えにのっとって、「主なる神さまは私たちの唯一なる主である、私たちはこの方に愛されている。そして、この方を私たちは愛します。」ということを改めて皆に確認したのです。
では、パウロはその先をどう論じるでしょう。パウロが続けて論じることは、やはりイエスさまの教えに対応しています。
今日私たちが聴いたコリントの信徒への手紙一、7節からは、イエスさまがお教えになった最も重要な掟の、後半が対応すると考えられるのです。
イエスさまは言われました。

「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

そう、今日読んだコリント信徒への手紙一は、隣人への愛を思いつつ、読むことができる箇所なのです。

では、このコリントの信徒への手紙一で語られる隣人愛とは何か。それは、「イエスさまは、あの誰かのことも愛してくださっているではないか。その誰かの信仰をつまずかせるようなことは、その誰かの滅びにつながるようなことは、しないようにしよう」という、信仰者の在り方です。
コリントの信徒への手紙一第章7節からは、このようにありました。

「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」

最初に言われるこの知識とは、4節にあるような、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識です。その知識があれば、何を食べたって、かまわない、とコリント教会の一部の人々は思ったのです。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」。この箇所は、コリントの信徒の一部の人たちが考えていたことを、パウロも認めて、語り直した言葉でしょう。そうです、私たちはこの世の食材の何かを食べなければ死んでしまう、ということはありません。

しかし、一方で、コリント教会の人々には、これまで長くギリシア文化の中で生きてきて、最近やっとイエスさまのことを知り、聖書の言葉を知らされた人がいたのです。ギリシアの神々への崇拝してきた生活スタイルが、まだ抜けきっていなかい人がいる。その人たちがすぐに、偶像に備えられた肉を、「偶像は神ではないだからこの肉はただの肉だ」、と割り切って考えられるかどうか。パウロは、そのような人のこともしっかり考えようではないか、と伝えるのです。
9節から。

「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。」

コリント教会の誰かが、ギリシア神話の神々の神殿で祭りの食事の席についていたら、他の教会の仲間が思うかもしれない。「ああ、あの人は、イエスさまではない何かを崇拝するように戻ってしまった。では、わたしも昔のような生活にもどっていいのだ」。
そのような誘惑は私たちにも起こることがあるかもしれません。ギリシアと同じように、日本にはもともと文化があるところに、主イエスの福音が伝えられ、教会が立てられていきました。ギリシアの祭りと同じように、日本にも教会以外の宗教行事があります。

すごく極端な例えをしましょう。もし、ある日曜日、牧師が礼拝に出ずに、神社や寺のお祭りに行って、そこで奉献された食べ物を食べていたら。教会の皆はショックを受けずにはいられないでしょう。もちろん、牧師は、日曜に誰よりも喜びつつ教会で礼拝をささげるはずです。
パウロは、訴えます。そのように誰かがあなたの偶像へと向かう姿勢によって、信仰から離れて、滅びてしまうことがあってはならない、と。
11節から。

「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」

パウロの書き方で大切なところは、教会の弱い人のことを、兄弟、と呼んでいることでしょう。「その人はあなたの兄弟姉妹であり、家族ではないか。主イエスはその人のことも、あなたのことも、同様に愛されているではないか。その人を躓かせないようにしよう」とそう伝えているのです。
実は、イエスさまご自身も、弱い者、小さい者をつまずかせないようにとお教えになりました。

マルコによる福音書/ 09章 42節

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」

とまで言われたのです。

私たちは、教会の家族のことを愛します。その誰かがつまずかないように、心を砕きます。なぜなら、主が私たちを愛し、私たちを、その誰かを、それぞれ愛されているからです。
私たちは、皆でそのイエスさまの方を向いて、礼拝をささげる生活を続けます。一人が他の方向、偶像の方向を向いてしまって、誰かが同じようにそっちを向いて、ふらふらとはなれてしまったりしないようにします。皆で主の方を向くことこそ、皆で主を愛することこそ、私たちが誰かを罪に誘わないために、つまずきを置かないために大切なことではありませんか。

では、どのように、主イエスの方を向き続けるか。
教会が、教会として大切なことを喜び神さまにささげ続けることです。教会が、御言葉の純粋な説教と正しき聖礼典の執行を執り行いつつ、その群れが賛美と捧げものをしつつ礼拝をささげることです。
今日は聖餐を執り行います。これは、他の神話や文化のための祭りのための食事とはまったく違うものです。この世の食べ物は私たちを導いたりはしませんが、主イエスは私たちを導き、信仰を与え、新しい命を与え、この食卓に招いてくださいます。
教会は、この聖餐を中心とします。それは、礼拝堂においても分かることです。私たちは聖餐卓を中心として集まっている。
むしろ、そこから外れる時、それは誰か兄弟のつまずきを引き起こすことではないでしょうか。

イエスさま自身が、人々をつまずきから救ってくださるお方でした。パウロは伝えました。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」私のために、主が十字架にお架かりになった。私たちの兄弟姉妹のために、主イエスは死なれた。そのことを私たちが心に刻むのは、聖餐の時です。主イエスが私たちからつまずきを取り除くために、ご自身の命をささげてくださったことを、はっきりと私たちの心に覚えさせる食卓です。私たちは誰か小さい、弱い者をつまずかせるどころか、実は、私たち自身が弱い、小さい者だったのです。ローマの信徒への手紙/ 05章 06節

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」

見える御言葉である聖餐がなければ信仰が弱ってしまうほどほど弱く、小さい私たちを生かすために、主は聖餐の食卓を備えてくださいました。
私たちはこの食卓に向かっていくことで一致します。
もしこの食卓以外の方向、それこそ、偶像の方を向いたら、誰かのつまずきになるのです。今、つまずきが多い時代です。主イエス以外の何かに、私たちは心奪われて、恐れてしまいそうになる。幸いなことに、鎌倉雪ノ下教会は今、様々な困難を超えて、多くの祈りと尽力に支えられて、今聖餐を祝っています。

私たちが弱かった時、主イエスは父なる神の方へと向き続け、十字架に架かって死なれました。そして、ご復活させられて、新しい命を私たちに教え召しになりました。今私たちは主に従い、共にこの聖餐に向かうことで、誰かのつまずきにならないようにすることができます。私たちは唯一の主を信じます。という信仰を受け、それを告白することで、誰かが信仰から離れないようになるのではありませんか。誰かが新たに信仰を告白し、主イエスの救いに入れられるようになるのではありませんか。

聖餐を中心とするこの交わりに、この共同体に、主の愛による交わりがさらに豊かになりますように。