時の介入
ヨハネによる福音書 第7章1-9節
嶋貫 佐地子
主日礼拝
神様は何をしようとしておられるのでしょうか。
それはこの世界をみてもそうですし、私ども一人ひとりの、自分の人生をみても、そう思わされる時があります。
神は、何をしようとしておられるのだろうか。
不思議なもので、私どもは多かれ少なかれ知っているのであります。この人生という時の流れは、ただ過ぎているのではなくて、神の支配の中で進んでいるのだということを、です。
今日、主イエス・キリストは「時」の話をなさいました。
「わたしの時はまだ来ていない。」(7:6)
「わたしの時」と言われました。
「わたしの時」とは、神の時です。
父なる神がお決めになった、御子、主イエスに与えられた特別な「時」のことであります。それは十字架の時であります。主イエスは、ご自分の十字架の「時」を、「わたしの時」と言われているのであります。
でもその「時」は「まだ来ていない」。この時点では「まだ」でありました。
しかしこの「まだ」が大事なのです。「まだ」ということは、この先にそのことが必ず起こることを意味しておられるからです。ですから「まだ」と主イエスがおっしゃるのは、その予告でもあって、そしてその「わたしの時」は、私どもからいたしましたら、「もう」、来たのであります。
今日から読み進めますヨハネ福音書の第7章と、そして第8章は、一つのまとまりをもっております。これから主イエスはエルサレムの都に入られます。でも、「まだ」十字架の時ではありません。それはまだ、先のことです。しかしながらこの時、主イエスがエルサレムにお越しになったことで、エルサレム中が大混乱になるのです。主イエスをめぐって、この方は救い主かどうか、あるいは、憎むべき、神の名を語る不届き者なのか、人々のあいだでもユダヤの議員たちのあいだでも意見が分かれて、もめごとまで起こるのです。
そしてその主イエスの出現が、ユダヤ人たちの、これまでの憎しみの火に油を注ぐことになり、第8章の最後には、主イエスは石で打ち殺されそうになるということまで起こります。ところがそういった主イエスへの殺意や、主イエスを捕らえようとする彼らの試みは、ことごとく失敗するのであります。主イエスの「わたしの時」が、まだ来ていなかったからです。
今日のところは、その大混乱が起こる、入口とも言ってもいいところです。「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」(7:2)と静かに言われています。主イエスをめぐる混乱は、その仮庵祭という大きな祭りの最中に起こったのですけれども、その祭りが近づいていた。この仮庵祭というのは秋なのです。この祭りを、聖書の後ろの説明で見ますと、仮庵祭は、10月の初めごろ、と書かれてあります。ですから、その祭りが近づいていた、ということは、これは私どもにとりましても、ちょうど、今頃ということになります。季節は秋。
そしてこのあと第10章になりますが、主イエスは神殿奉献記念祭という祭りのときにも、エルサレムに行かれまして、それは「冬であった。」(10:22)といわれています。
そして十字架の時は、春であります。春の過越の祭りのときです。そのときには、主は、「御自分の時が来たことを悟り」(13:1)といわれております。また父なる神に祈られています。
「父よ、時が来ました。」(17:1)
秋、冬、春と、主は、近づきつつある「わたしの時」に向かって、歩まれているのです。
しかしながら、今はまだ秋であって、主イエスは、ガリラヤにおいででした。でももうすでに、ユダヤ人たちがご自分を殺そうとねらっていたので、主イエスはあえて、エルサレムのあるユダヤ地方に行かれようとは思われませんでした。主は「時」を大事にされたのです。
ところが、そのガリラヤで、主の「兄弟たち」と呼ばれる人たちが、主イエスに言いました。
「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」(7:3)
彼らは主イエスに、「エルサレムに行きなさい」と言ったのです。
ここで言われている主イエスの「兄弟たち」というのは、私どもはマリアの子どもたちのことを思ってしまいますが、そうではなくて、マリアの親族のようです。親戚一同といってもいいかもしれません。これはマリアとヨセフの子だからと、彼らは心配してくれたのでありましょう。あなたは、こういった人に賞賛される、そういうことをしているからには、なにもこんなところで隠れていないで、もっと公に、エルサレムに行って、もっと大勢の人たちから賞賛を受けたらいい。ちょうど祭りも近いことだから、もっとたくさんの人たちの前で業をして、世に認めてもらったらいい。特にあなたから離れていった弟子たちがいるだろうから、その弟子たちにも見せてやりなさい。そう言って、彼らは主イエスに勧めたのでした。
けれども、その彼らのことを、福音書はすぐにこう言います。
「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」(7:5)
彼らも主イエスを信じていなかったのである。神の御子とは信じていなかったのである。主イエスの言葉を信じていなかったのである。まして親切心ならなおさらのことであります。人が後押ししてあげる。神に対して、世に認めてもらったらいいのに、今、行ったらいいのにと、彼らは人間の賞賛とか、人間の時を、主に差し出したのでした。
すると主イエスは言われたのであります。「わたしの時はまだ来ていない。」
「時」はまだ来ていないのであります。けれども、主イエスはこのあと、誰にも黙ってあのエルサレムに入られるのです。どういうことかと思いますけれども、不思議ではないので、主イエスは兄弟たちにこう言われたのであります。あなたがたによっては行かない。わたしは、あなたがたの世の思いによっては行かない。わたしが行くのは、すべて父の御心による。
でもそれはもしかしたら、彼らも「イエスを信じていなかった」ということがきっかけになったのかもしれません。信じていなかった。信じていなかった。そういうひとの切なさに、父なる神の憐れみは燃えるのであって、主はそこに踏み込まれるので。だから、そういう者たちの中に、主は、求めて入られた。そして公に、わたしのもとに来なさいと、こののちエルサレムの真ん中で主は叫ばれるのであります。そしてこの時はたいへんに憎まれまして、主の「わたしの時」は、いよいよ現実味を帯びてゆくのです。
けれども、そのことを重く、よく考えてみますと、神が時をもたれるというのは、とても不思議なことであります。
なぜなら、神は時をお持ちにならないお方だからです。神は時をもたない。
神は永遠なるお方であって、時は、神がおつくりになったものです。
天地創造のときから「時」が始まり、神が造られた命あるものには時が宿りました。すべて造られたものには、初めがあり、終わりがあるのです。
そして人には、歴史があるのです。
母の胎内から時が始まり、そしていつか、その時は止まる。
それを考えますと、人はおそろしくなりますし、どうしてもこわくなります。そういうことを何も考えないでいられるときはいいですけれども、そのことを考えなくてならないときもあります。たとえば、あなたはあとどのくらいだろうと言われてしまう時があります。あるいはそうでなくても、自分はあと、このくらいだろうなと思う時があります。
でもその時に、人は、神を見ます。
今まではぼんやりとしか知らなかった神の存在を見ます。
自分に訪れてくださった神を見ます。
救いの「時」を持って来てくださった、神を見ます。この神の時はあなたを救ったのだと、御子主イエスが命をもって教えてくださいました。父と共にあった主イエスが、世界の創造の時にも父と共に在った主イエスが、その永遠から、父に遣わされて「わたしの時」を持ち、来てくださり、わが人生に踏み込んでくださった。
神が時を持ったのは、そのためです。神は人のために時を持った。人となって救いたかった。そして人と、時を共にし、秋、冬、春。十字架で、神の御子は私どもに命を与えたもう。
ご自分を信じる者たちを、終わりのない永遠に入れるためであります。
昔、東京神学大学の先生が、人の人生は中央線と言ったことがあります。山手線のように、ぐるぐる回っているのではなくて、始まりがあって終わりがある。では永遠はというと、その直線の周りをすべてつつんでいるのが永遠である。その線はどこでも永遠に触れており、またその永遠のご支配の中にある。そして直線の時が終わったとき、信じる者たちは、その永遠の中に迎え入れられる。それでいうならば、私どもも永遠に入る。
昨日まで、葬儀が続きました。
それぞれの方に、やはり、ご自分の「時」を見つめる、そういう時間があったと思います。厳しいことであったと思います。けれどもそこで、神様との、密接な時間を持たれたと思う。
お一人がこう言われていたとお聞きしました。自分はもう、そろそろだろうと。
そしてご家族に言われたそうであります。
「自分じゃなんにも決められないんだ」。
「時」は、自分では決められないんだ。でもそれは安心した、信頼の言葉であって、神様への信頼の言葉であって、そして家族に対する愛の言葉であった。
「自分じゃなんにも決められないんだよ」。
神がお決めになることだから、神が時を選び、神が与えてくださるのだから、そして神が永遠の命に入れてくださるから、
安心してください。
だから死ぬことはこわくない。
そうやって、穏やかに言える。ほほえんで、永遠に入る。そこでやっと落ち着くような、そういう父と子の交わりの中に私どもは、入る。そしていつか、決められた時に、復活の命が与えられる。
神は何をしようとしておられるのだろうか。
神はこの世界の、救いの完成を目指しておられます。
その世界の時の直線、時間軸に「神の時」は「もう」来たのだから、これからは、私どもはもう一つの、完成の日に向かって、「神の時」を、生きてゆくのであります。
お祈りをいたします。
父なる神様
この命を感謝します。あなたが救おうと決めて、与えてくださった命です。どうぞあなたに向かって生かし、歩ませてください。
主の御名によって祈ります。 アーメン