今、この時の苦しみの秘密
ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
川崎 公平

主日礼拝
■主の日の礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めながら、今日から第8章18節以下の段落に進みます。「今日から18節以下に進む」ということになるわけですが、しかしこの箇所については既に何度も、先取りをするような形で触れてきました。たとえば、返す返す本当に不思議だと思わされるのは、22節のこの言葉です。
実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
「私たちは知っています」、と言うのですが、逆に「いや、そんなこと知らないけど」と、不思議な思いになるかもしれません。しかし、そう言われてみるとわからないでもないのです。確かに、そうかもしれない。「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」。本当にそうかもしれない。新聞を読んでも、テレビを見ても……私も含めて、最近の若い人はあまり新聞やテレビには依存しない生活をしているのですが、そんな若い人のほうがますますわかりみが深いかもしれません。「世界が、呻いているんだ」。
逆に、二千年前にこの手紙を書いたパウロという人は、テレビも新聞もネットも見ていなかったわけですが、この伝道者は、被造物全体の呻きを聴き取ることができました。いったいパウロという人は、どこでどのようにして万物の呻きを聴き取ることができたのでしょうか。「被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」。今朝、改めて私どももこのことに思いを集めたいと思うのです。被造物全体が呻いている、その呻き声に耳を傾けながら、なお深くその意味を尋ねたいと思うのです。
■今朝の説教の題を、「今、この時の苦しみの秘密」といたしました。「今、この時の苦しみ」。18節にそう書いてあります。「思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」。「今この時」って、いつのことだろう。パウロがこの手紙を書いたのは紀元60年ごろだと言われますが、その頃どういう苦しみがあったんだろう、などということを考える必要はありません。「今この時の苦しみ」と聖書が書いているのは、今ここに生きている皆さんにとっての「今この時の苦しみ」のことでしかありません。
昨年の11月にもここで説教していただいた近藤勝彦先生という説教者が、この箇所について説教しながら、その説教の冒頭でこういう話をしておられます。
20世紀を振り返って驚くことは、色々な分野で大変な進歩を見せたことです。リンドバーク〔ママ〕が33時間かけて大西洋を飛行機で越えたのは、1930年〔ママ〕、今からわずか70年前です。今では、宇宙船が飛び、インターネットが世界を繋ぎ……しかしもう一つ驚くべきことは、それらのすべてによっても人間の「苦しみ」は克服されず、根本的には何の解決も見ていないということではないかと思うのです。(『しかし、勇気を出しなさい』)
この文章ひとつ取り上げるだけでも、近藤先生がすぐれた説教者また預言者であることがよくわかります。世界をよくしよう、社会をよくしよう、人間の生活を少しでもよいものにしようと、特にこの100年間、人間の生活はびっくりするくらい進歩したように見えるのだけれども、ふと気づかされることは、人間の苦しみはひとつも解決していないじゃないか。聖書が書いている通りだ。「今この時の苦しみは」と言うのですが、その「今この時」というのは、昨日今日の話ではありません。パウロがこの手紙を書いた二千年前の話でもないのです。人類がこの地上に生きている、その歴史のすべてが「今この時」なのであって、それが根本的には「苦しみの時」だと言っているのです。
私どもが生きているこの世界は、根本的に、苦しみの世界である。しかし聖書がそのように言うのは、私どもを絶望に誘うためではありません。「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」。取るに足りないんだ、今この時の苦しみは。将来現されるはずの栄光があまりにもすばらしくて、今この時の苦しみは、もはや勘定に加えるまでもない。言うまでもないことですが、その場合の「将来」というのも、10年、20年経ったら、今の苦しみも少しは解決するかもしれない、というような話ではありません。私どもの苦しみは、死ぬまで解決なんかしないんです、主が再び来てくださるまでは。けれどももう一度申しますが、そのように教えるパウロという伝道者は、決して悲観主義者ではありません。むしろ、こんなに徹底した楽観主義者はほとんどどこにもいないだろうと思います。「今この時の苦しみは、取るに足りません」。上から目線で、「いやあ、あなたの苦しみなんて、実は大したことないんだ」と言うのでもありません。万物と共に呻きながら、そう言うのです。すべての人と、すべての苦しみを共有しながら、「しかし、私たちには、希望があります」と、そう言うのです。
苦しんでいる世界であると、特に昨今、つくづくそう思うのです。人間、希望がなければ生きることはできません。その希望を持ちにくくなっている、今この時の苦しみだと思うのです。だからこそ、私は思うのです。「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」。今ほど、この言葉を世界が必要としている時代はないのではないかとさえ思います。もしも本当にこの言葉を体得することができたら、どんな苦しみにも負けることはない。そういう強靭な慰めの言葉が、ここに与えられているのです。
■「今、この時の苦しみの秘密」という説教題を掲げてみたわけですが、なぜ今この時は、こんなに苦しいのでしょうか。その秘密というか、苦しみの理由をいちばん直接的に説明しているのは20節だと思います。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
……これは、しかし、どうでしょう。「ロマ書って、本当に難しい。とっつきにくい」。そういう感想を抱く人が大部分ではないかと、少し心配になるところですが、ここが大事なところなので丁寧に解きほぐしていきたいと思います。まず「被造物が虚無に服したのは」というのは、きっとわからないでもないと思います。今私どもが生きているこの世界は、根本的に苦しみの世界であると先ほど申しましたが、これもそういう意味です。被造物、つまり神が造られたこの世界です。それが実は、根本的に虚無の世界になっている。
わかりにくいのはそのあとです。被造物は、虚無に服している。それはなぜかと言うと、「自分の意志によるのではなく、服従させた方による」、つまり「神によるのだ」ということです。自分でそうしようと思ったのではない。神のご意志によって、世界は虚無に服したのだ。
そのことを語るのが、先ほどあわせて読んだ創世記第3章です。最初の人類、最初の夫婦が蛇のたくらみによって神に背いたという、この印象深い話のあらすじを改めて語り直す必要はないでしょう。なぜ「被造物が虚無に服した」のかを、このような物語で説明しようとしているのです。創世記第3章17節以下に、こう書いてあります。
「あなたは妻の声に聞き従い
取って食べてはいけないと
命じておいた木から食べた。
あなたのゆえに、土は呪われてしまった。
あなたは生涯にわたり
苦しんで食べ物を得ることになる。
土があなたのために生えさせるのは
茨とあざみである。
あなたはその野の草を食べる。
土から取られたあなたは土に帰るまで
額に汗して糧を得る。
あなたは塵だから、塵に帰る」。
あなたがどんなに苦労して食べ物を得ようとしても、土地があなたに与えるのは、茨とあざみである。そして結局、あなたは死んで土に帰る。ただそれだけなんだ。そのように「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方、神によるのであり、そこには希望があります」。……読めば読むほど、不思議な言葉です。
■被造物が虚無に服したのは、神による」。なんだ、要するにすべての苦しみは神さまのせいだったのか、という話ではありません。人間が、神に背いて、食べてはいけないと言われていた木の実を食べたのです。なぜ背いたか。今日は創世記の第3章の途中から読みましたが、第3章を最初から読むとその理由もちゃんと書いてある。神のようになりたかったのです。
この創世記の物語は、いかにも古代人のおとぎ話のようでいて、実は人間の苦しみの説明として、これ以上的確な話はどこにも見つからないのではないかと思います。「神のようになりたい」。「わたしが神になりたい」。「神に従うなんて、ばかばかしい」。ふとそのように考えた人間が、そのうち何を言い出すかというと、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻!」あの妻ですよ、「その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(創世記第3章12節)。すると女は慌てて言うのです。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです」(同13節)。「わたしのせいじゃありません。わたしは悪くありません」。そういう人間のわがままが募り募って、それが人を滅ぼす。場合によっては世界を滅ぼすのです。被造物の呻きが聞こえないでしょうか。それをここでパウロは「虚無」と呼ぶのです。
他人の説教の引用ばかりで恐縮ですが、竹森満佐一という説教者が、やはりこの箇所の説教の中でこういうことを言っています。たいへん見事な説き明かしなので、そのまま引用させていただきたいと思います。
人間の罪は、孤立したものではありません。人間の社会の中においては、それはとどまるところを知らぬほどに、広がって行くのであります。静かな水面に小石を投げこんだ時のように、その波紋はどこまでも広がり、岸辺にあたり、さらにそこから別の波紋になって帰って来るのであります。後の波紋は前の波紋にあたり、さらに複雑な模様を描いていくことは、誰でもよく知っていることであります。罪の影響もまた、その通りであります。ただ、その波が、あるところから先では見えにくくなるというだけのことであります。波を追うことができると思うのは、あさはかな話であります。人間の目のとどかないところに、どのような恐ろしい波が及んでいるか分からないからであります。そのことがこの虚無の中にあらわれていたのです。(『ローマ書講解説教II』)
イメージ豊かな、しかも人間の罪によって造られているこの世界の真相を見事に説き明かす文章だと思います。静かな水面に小石を投げ入れると、波紋が広がっていく。それがまた他の波とぶつかり、さらに複雑な模様を描いていくというのですが、私どもの生きているこの世界は、まさしくそのようなものです。それをもう少し露骨な言い方をすれば、この世界には加害者がおり、被害者がおり、けれどもそれは決して、「Aさんは加害者、Bさんは被害者」というような単純な話にはならないので、特に深刻なことは、私ども人間というのは往々にして、自分は被害者だと思うときにこそ、いちばん簡単に罪に誘われるのです。「わたしは被害者だ。あいつのせいだ。わたしは悪くない」と、声を挙げ、拳を挙げ、そのような無数の波紋がぶつかり合い、複雑な模様を描いている、この世界の今この時の苦しみを、パウロは「虚無」という不気味な言葉で説明するのです。恐ろしいほどに的を射た説明です。
■ところがそこでいちばん不思議なことは……先ほど20節を読みまして、「本当に難しい。とっつきにくい」という、皆さんの感想を汲み取って見せましたが、いちばん不思議な印象を残したのは20節の最後の言葉ではないかと思います。もう一度20節を読んでみます。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
どうして、こんな結論になるのでしょうか。被造物が、今このように虚無に服しているのは、人間の意志ではない、神がお定めになったことだ。「そこに、希望があります」。なぜそういう結論になるのでしょうか。
しかし、逆にもしもこれが神によるのでなく、最初から人間だけの世界の話であったとしたら、どうでしょう。つまり、もしも、神がいないとしたら。人間だけでこの世界を運営しているのだとしたら。それでも、ほぼ同じような道筋をたどるのではないかと思います。わがままな人間たちが、人間だけで勝手にいがみ合い、奪い合い、殴り合い……「そして誰もいなくなった」。もしもそうだとしたら、何の希望もないのです。けれども、この世界の虚無の背後には、神がおられるのです。そこに希望がある。そこにしか、希望はないのです。
先週の礼拝後、説教を聴き分かち合う会という集まりの中で、ふとしたところからこんな話題になりました。私が言い出したのか、出席者の誰かが最初に口にしたのか、正確な記憶がないのですが、22節に、すべての被造物が呻いていると書いてあります。「いったい、パウロはどこでどのようにして万物の呻きを聞き取ることができたんだろう」。私が言い出したのか、ほかの人が言い出してくれたのか、とにかくその疑問に私は心を吸い寄せられるような思いがしたのです。「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」。いったい、パウロはどこでその呻き声を聞いたのだろう。最初に申しましたように、テレビを見て、ネットを見て、そうでなくてもありとあらゆるところから呻き声が聞こえるのです。けれどもパウロにとって決定的だったのは、どこかのYouTubeチャンネルを見つけたとか、そんなレベルの話ではなかったと思います。
パウロは、主イエス・キリストの呻きを聞いたのです。このお方の、十字架の苦しみの姿に触れたのです。どうして、このお方はこんなに苦しんでいるんだろう。十字架の上で、なぜこんなに呻いておられるんだろう。人間の罪のためだ。世界の救いのためだ。神は、このお方を死人の中から復活させられました。そこに希望があるのです。
だからこそ、また私どもはこのように確信することができます。「今この時の苦しみは、取るに足りません」。「将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば」。激しい言葉です。「どんな苦しみも、取るに足りない」だなんて、いくら何でもつまずきに満ちた言葉です。けれども、キリストご自身の呻きと、そしてこのお方の復活という確かな事実に支えられて、このつまずきを乗り越えることができたら、どんな苦しみだって乗り越えられる、そんな強烈な慰めが、ここに約束されているのです。
今日は18節から読みましたが、その直前の17節の後半にはこうも書いてあります。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。すべての被造物と共に、私どもも呻いています。しかし、まさしくその呻くことにおいて、私どもは決してひとりではありません。「キリストと共に苦しむなら」。キリストが共に苦しんでいてくださる。共に呻いていてくださる。お甦りになったお方が。そこに、希望があります。
■18節の最初に、「思うに」と書いてあります。何気ない言葉ですが、実は案外重みのある言葉です。「思う」という翻訳は、少し軽すぎたかもしれません。原文のギリシア語をそのまま発音すると「ロギゾマイ」という言葉です。「ロゴス」というギリシア語をどこかで聞いたことのある方もあると思います。ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる、「初めに言があった」という、あのロゴスです。「言葉」という翻訳でもよいのですが、このロゴスというギリシア語から英語のロジックという言葉が生まれたように、論理とか道筋とか、そういうニュアンスの言葉です。この18節の「思うに」というのも、何となく漠然と期待するということではなくて、きちんとした根拠に基づいて、きちんとしたロジックに従って、「私はこう結論付ける」。きっちり計算した結果、こういう結論にならざるを得ない。今、この時は、苦しみの時なのだ。けれども、将来の栄光を計算に入れるならば、取るに足りない。キリストの愛に基づいて、「今この時の苦しみは、取るに足りない」と結論付けているのです。
それがまた私どもの今この時の生活を支えます。苦難の中で、忍耐することができます。その忍耐は、神の子としての品格を生みます。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生む。神の愛が、わたしたちの心に注がれているからです」と、この手紙の第5章が証しするとおりです。それこそ私は思うのですが、「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生む」という、その希望というのは、わたしの希望・わたしたちの希望に留まらないのではないでしょうか。私どもの希望は、世界の希望です。「今この時の苦しみは、将来の栄光と比べれば、取るに足りません」と、キリストの愛に基づいてそのように考え、苦難の中で忍耐に生き、品格に生き、希望に生きている私どもの存在は、またすべての被造物にとっての希望でもあるはずです。
だからこそ、19節にあるように、「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでい」るのです。すべての被造物が、不思議に思うのです。「どうしてあのキリスト者たちは、こんな苦しみの中で、あんなに確かな希望に生きているんだろう」。すべての被造物の呻きに答えて申し上げたいと思うのです。「わたしたちは、神の愛に基づいて、このように考えます」。「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」。神の造られた世界の望み、すべての被造物の望みが、ここにあるのです。お祈りをいたします。
「思うに、今この時の苦しみは」。いろんなことが起こります。涙までこぼれそうになります。いちばん悲しいことは、私ども自身が加害者になり、また被害者になり、まさしくそこで、私ども自身が罪人のかしらになってしまうことです。そのようにして造られてしまっている、今この時の苦しみの中で、私どもも呻いています。すべての被造物が呻いています。そんな私どものために十字架につけられたお方の呻きに耳を傾け、その復活の栄光に目を開かせてください。自分自身についても、この世界についても、また私どもに与えられている隣人についても、確かな希望を見せてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン








