ハイデルベルク信仰問答の第22主日、問57と58の二つの問答について学びます。ここで取り扱われているのは、使徒信条の最後の部分です。「
と「
。いずれも、私たちの将来に関わる事柄です。端的に言えば、私たちが死んだ後のことなのです。それだけに、なかなか理解するのが難しいかもしれません。いや、理解などできないからこそ、信じるべき事柄なのでしょう。体の復活や永遠の命について、完全に理解したり、捉え尽くしたりすることはできません。あくまでも、将来の約束として、信じて受け入れるようにと求められているのです。
しかしながら、体の復活と永遠の命を信じることは、現在と無関係だということではありません。二つの問答の問い方に注意してください。
将来約束された恵みの賜物を信じることによって、私たちは、今慰めを与えられる、というのです。「慰め」という言葉を目にしたら、すぐに第一の問答を思い起こします。
信仰問答は、私たちのただ一つの慰めを問うことから始めました。そして、端的に答えます。
ただ私たちの魂だけが救われるのではありません。体も魂も、私たちの存在のすべてがキリストのものとされます。しかも、ただ私たちが生きている間だけではなくて、死ぬときも、死の中においてさえ、この慰めがむなしくなることはないのです。私たちが自分で自分を捕まえていることができなくなるときも、私たちの主となってくださったキリストが、私たちをしっかりと捕らえていてくださるからです。私たちは、キリストに結ばれて生き、キリストに結ばれて死ぬ。そこに、何ものによっても脅かされることのない確かな慰めがある、と告げています。そうであればこそ、私たちはまた、死んだ後のこと、将来のことについても、私たちをご自分のものとしていてくださるイエス・キリストとの関わりの中で、慰めを信じることができる。「体の復活」も「永遠の命」も、私たちの主であるキリストとの関わりの中で、初めて本当に意味をもつ言葉となるのです。
そこで、問答を一つずつ見ていきます。まず、問57で取り上げられる「身体のよみがえり」
は、聖書独特の信仰なのだということを、わきまえておく必要があります。西洋思想の源流の一つとなったギリシア哲学の考え方の中に、体の復活という思想はありません。さらに言えば、東洋思想の一つの形である日本の思想の中にも、復活について語ることのできる場所はないのです。ギリシアの思想では、この世界を造っているものを、精神と物質の二つに大きく分けて考えます。やがては朽ちていく体が属している物質の世界は、汚れたもの、劣ったものであり、その中に宿る霊魂だけが、崇高で不滅の価値をもつと教えました。人間の魂は、元来、理想的なイデアの世界に存在していたというのです。ところが、そこから堕落して、体という牢獄の中に閉じこめられました。そこで考えられる救済とは、霊魂が体から解放されて、本来の故郷であるイデアの世界に帰ることです。だから、ギリシアの哲学は、理性に働きかけることによって、真・善・美というイデアを思い起こさせ、体に絡みついた悪しき欲望から魂を清めることを目指します。そして、最終的には、死によって肉体の牢獄から解放され、霊魂は本来の永遠性を得ると考えるのです。そこで考えられているのは魂の救いだけであって、体の救いなどということは、意味をもたないことになります。
確かに、霊魂不滅という教えの方が、分かりやすいのかもしれません。私たちは死んだら、火葬場で焼かれて、骨と灰になります。体は無くなってしまうけれども、魂はそこから抜け出るようにして神のもとにいく。案外漠然と、そんなふうに受け止めているキリスト者が多いのではないでしょうか。体が復活するなどということは、簡単には受け入れがたいのです。しかも、私たちは体において、多くの目に見える罪を犯してしまうものですから、何となく体は汚れたもの、悪いものと考えるギリシア思想の方に引きずられてしまいがちです。けれども、人間の存在を霊の部分と体の部分に分けて考えたり、体なしに霊だけで生きている人間を考えたりするのは、聖書の信仰に馴染みません。霊と体は全体として人間の存在を形作っているのであって、分けられるものではないのです。崇高な霊と汚れた体が対立しているのではありません。対立があるとすれば、一方に、生まれながらの肉としての人間、すなわち、罪に捕らわれた魂と罪に仕える体があります。そしてもう一方に、罪赦され、贖われた魂と義のための武器としての体があるのです。聖書には元々、物質や体を悪いものと見なす考えはありません。むしろ、神はこの世界と人間を、善きものとして創造されたのです。そこに混乱と腐敗をもたらしたのは、人間の罪です。だからこそ、キリストの十字架による贖いと復活による命の回復は、魂と体からなる人間の全人格的な回復であり、それによって、造られた世界全体が完成へと導かれるのです。
最初の教会においては、体の復活ということがよく分からず、ギリシア思想に引きずられた人たちが多くいたようです。中には、キリストを信じたことでもう復活は済んでいると主張して、教会を混乱に陥れた者たちがいました。死後の復活を否定したのです。パウロは、このような誤解を退けるために、コリント教会に宛てた手紙の中で、復活の体について教えています。(Iコリント15・35−49)。もっとも、「自然の命の体」
に対して「霊の体」
があるとか、地に属する「最初の人」
に対して天に属する「第二の人」
が現れたなどと言われても、果たして充分に納得できるでしょうか。むしろ、かえって混乱してしまいそうです。しかし、大事なのは、信仰問答の答えの最後に描かれているように、私たちの体が完全に贖われて、「キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」
ということです。いろいろ説明を受けても、よく分からないかもしれません。私たち自身の体や体における経験から考えても、その延長線上に復活の体を捕らえることはできないのです。しかし、確かなことが一つあります。キリストは死人の中からよみがえられたのです。そして、私たちもまた、キリストに似た者へと変えられるということ。罪と死の力に捕らえられ、滅ぶべき私たちの魂と体が、キリストに結ばれて救われ、上からの命に生かされるのです。だからこそ、復活の体についての問いは、復活の命そのものについての問いへとつながっていきます。
問答の58は、「永遠の命」
の信仰を取り上げます。「永遠」
というのも、案外、分かりにくい言葉であるかもしれません。私たちが死なないで、いつまでも生き続けるということでないことは明らかです。死なない人など一人もいません。信仰問答の答えの中にも、はっきり、「この生涯の後」
という言葉が用いられています。つまり、この命は、死なない命ではなくて、死を超える命なのです。そこに掲げられた聖書の言葉が、この命がどのようなものであるかについて、大事な手がかりを与えてくれます。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。
永遠の命もまた、キリストとの関わりの中でこそ意味をもつのです。第一の問答が明言していたように、私たちがキリストのものとされ、キリストに結ばれているのは、生きている間だけではなくて、死ぬときも揺るがない恵みの事実です。キリストとの間に結ばれた絆は、死によっても断ち切られることはないのです。しかし、死んだ後、どうなるのかは分かりません。信仰問答も、そこは大変正直に記しています。「目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け」
るのです。それでもよく分からないかもしれません。大事なことは、永遠の命を受けて、私たちが何をするのか、ということです。信仰問答ははっきりと告げています。「神を永遠にほめたたえるようになる」
。永遠の命に生きることの究極の目的は、神を永遠に賛美することだ、というのです。
既に、問答の6にこの目的がはっきりと記されていたことを思い起こしてください。愛の戒めに破れてしまっている人間の惨めな現実を暴きながら、信仰問答は間いました。
神の形に、神ご自身にかたどって造られたものが、罪によって損なわれてしまいました。しかし今や、キリストの十字架の贖いによってその罪を取り除かれ、まことの神の形である御子イエス・キリストに結びあわされて、神をただしく知り、神をほめ歌うようになるのです。そのような神との祝福された交わりの中に生きることこそ、永遠の命です。「永遠」という言葉は、確かに、「時間」という言葉と対比されます。私たちは、限られた時間の中に生きており、時間に縛られています。過ぎ去っていく存在なのです。それは造られた存在に固有のあり方です。しかし、造り主である方は、ご自身がお造りになった時間に縛られはしません。その神のあり方こそ「永遠」と呼ばれるのです。
聖書の中で「永遠の命」
と言うとき、「永遠の」
という言葉は、時代とか世を表す「アイオーン」という言葉とつながっています。それは、造られたこの世界ではなく、来たるべき世に属する命なのです。造られた世界とは質的に異なる神に固有なあり方、神に結ばれたものの祝福を意味していると言ってもよいでしょう。それは確かに、将来に約束された命です。しかし、信仰問答はその答えの始めにはっきりと記しています。「わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように」
。私たちは、今既に、キリストのものとされ、神の子とされることによって、神に属する永遠の喜びの始まりを心に感じているのです。終わりの日、救いの完成の時に与えられる永遠の神讃美を先取りするようにして、主の日ごとに集められ、神を讃美する喜びに生きるのです。私たちの主は、御言葉と御霊によって確かに私たちと共におられ、また、聖餐においてそのご臨在を確かなものとして味わわせてくださいます。終わりの日の永遠の祝福に前もってあずかりながら、私たちの体が贖われ、霊の体によみがえって、永遠に神を讃美する日が来るのを、待ち望みつつ生きていくのです。
◆復活の体
15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。